『雪はよごれていた』

9月 10th, 2014

昨日からニュースサイトは軒並み『昭和天皇実録』の話題で賑わっています。
これについてもいずれ、ところどころ読みたいな、と思いますが、多分数年後のことになりそうです。

たまたまなのですが、先週末に図書館に行き、リサイクルコーナー(『図書館では廃棄処分にするのでご自由にお持ち下さい』というコーナー)で、澤地久枝さんの『雪はよごれていた』をみつけて貰ってきました。

これは2.26事件について、検察官をやった匂坂(サキサカ)春平氏が内緒で保存していた裁判資料が昭和62年に出てきて、澤地さんがNHKの協力のもとその資料を読み解いた記録です。

匂坂氏が裁判のために集め、また自ら作成した多数の資料と、その資料に小さな字で付けた厖大な書き込みを一つ一つ読み解いて、2.26事件の本質に迫るというものです。

これを読むと2.26事件が何だったのかが良くわかります。
何人かの青年将校が部下の兵隊を使って、政府の要人を殺したクーデターのようなものですが、青年将校の方には要人を殺した後どうするかという具体的な考えがなく、悪者がいなくなれば世の中が良くなるだろう位の考えしかなく、そこで軍の上層部がクーデターの乗っ取りを謀り、実際に軍の上層部主導のクーデターに仕上げようとしたのを昭和天皇が頑強に抵抗したためにそれができず、軍の上層部はクーデターをあきらめ、一度は手を結ぼうとした青年将校たちを裏切って反逆罪(反乱罪)で処刑してしまい、その際自分達のクーデター乗っ取り計画をごまかすために北一輝等を事件の黒幕に仕立て上げた、という話です。

陸軍の法務官サイドは軍の上層部の裁判まで考えていたのに、青年将校と北一輝等の処刑で裁判は終わってしまい、軍の上層部は生き延び、クーデターは失敗に終わったけれど、その後軍の暴走を止めることはできなくなってしまったという話です。

2.26の直後、昭和天皇の弟で軍にいた秩父宮が任地の弘前から夜行列車で急遽上京するのですが、軍人たちがその秩父宮に決起を促す『進言』という文書も匂坂資料の中から見つかっています。

これも合わせて、第二大戦が終り日本軍が消滅するまでの昭和天皇の孤独と不安は大変なものだったんだろうな、と改めて思いました。

戦前の日本で、軍の暴走が誰にも止められないようになってしまう重大な事件を理解するために重要な一冊です。250頁ほどの本ですが、読みごたえあります。お勧めします。

『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』

9月 3rd, 2014

塩野七生さんの『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』を読みました。去年の12月に出ている本ですから、図書館で予約して7~8ヵ月待った上下合わせて550頁の本を一週間で読んでしまったのはちょっと勿体な
かったかなと思っています。

この本は本の頭の部分の『読者に』によると、塩野さんが処女作を出した頃からいずれは書こうと思っていたもので、45年もたってようやく順番が回ってきた、ということです。

塩野さんは最初イタリアを中心にルネサンスの話をいくつか書き、その後『ローマ人の物語』を15年にわたって毎年1冊ずつ書き続け、それが終わった所で古代ローマが亡びてからルネサンスまでの千年が残っているということで、この千年を埋めるためにまず『ローマ亡き後の地中海世界』を書き、次いで『十字軍物語』を書き、完結編としてこの『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』を書き、ルネサンスにたどり着いた(実際のルネサンスはまだ200年くらい先だけれど、このフリードリッヒ二世(と同時代に生きたアシジのフランシスコ)によってルネサンスは始まったんだ)ということです。

塩野さんは小説家でも歴史家でもなく、『物語り語り(物語を語る人)』という立場でローマ人の物語以後(実はもっと前から)一貫して本を書いています。この本もその物語として素晴らしい作品になっています。

物語である以上、その主人公に惚れるというのが作品を面白くする大きな要素ですが、その意味で『ローマ人の物語』の中でこれだけ2巻にわたって書かれたユリウス・カエサルと、同じくこの2巻にわたる本で書かれたフリードリッヒ二世が塩野さんの惚れた素晴らしい男性だということのようです。

皇帝の息子に生まれてすぐに孤児になり、ある意味放っておかれて大きくなったフリードリッヒ二世が神聖ローマ帝国の皇帝になり、法王から破門になった身でありながら十字軍に行き、戦争もしないでエルサレムを取り返し、十字軍に行っている留守を狙って領地を侵略していた法王の軍を、十字軍から帰ってあっと言う間に取り返すのですが、十字軍については『十字軍物語』に書いてあるので、簡単に書いてあります。

むしろその後シチリア王国の国王としてメルフィ憲章を作り、シチリア王国を法にもとづく立憲君主制の法治国家にしようとした時、対立する法王が異端裁判所を作り、神の法による政治をしようとしたのとの対比が見事です。

皇帝の憲法は現実に合わせて常に改正を繰り返すのに対して、法王の方は神の法は変えてはいけない。皇帝の方は聖書でイエス・キリストの言う『皇帝のものは皇帝に、神のものは神に、』に従って政教分離で行くのに対し、法王の方は『法王は太陽で皇帝は月』で、『皇帝も王も法王が勝手に任命したり首にしたりできる』と考え、神権政治をしようとする。皇帝の方は裁判は有罪が確定するまでは無罪で、有罪を立証することが求められたのに、法王の方は告訴された段階で原則有罪で、被告が無罪を証明する必要があり、それができなければ無条件で有罪、というものです。

この異端裁判所(異端審問所)はその後『教理聖庁』と名前を変えて何と今まで生き残っているという話もびっくりしてしまいます。とはいえ今はこの裁判(審問)の対象となっているのはカトリック教会の聖職者だけということになっているようなので、まあいいか、というものですが。

この憲法や裁判に関する塩野さんの書きぶりを読んで、今の日本の、憲法改正に反対するいわゆる立憲主義の法律家達のことを思い出しました。もしかすると塩野さんもこの立憲主義の法律家達を法王の側の聖職者たちと同じように見ているのかなと思います。もちろん塩野さんはそんなことをあからさまにしてロクでもない議論に巻き込まれるようなスキは見せませんが。

フリードリッヒ二世は法王との長い闘いの中で50歳ちょっとで死んでしまうのですが、その後執念深い法王達(直接対決した法王はフリードリッヒ二世が死んですぐに死んでしまうのですが、その後の法王たちも前の法王にならってフリードリッヒ二世の後継者潰しに全力を上げます)によってフリードリッヒ二世の王国は滅ぼされ、子孫も滅ぼされてしまいます。

その過程で軍隊を持たない法王はフランス王に応援を求め、その結果フランス王の力が強大になり、法王が70年以上もフランス王に拉致・監禁される『アヴィニオンの捕囚』という話につながります。

フリードリッヒ二世はやろうと思えばできたんでしょうが、『皇帝のものは皇帝に、神のものは神に、』の言葉に忠実に、自分の領分については法王の介入を排除しても、法王の領分には手出しをしなかったので、それで生き残った法王にやられてしまったという構図のようです。

この本の最後、塩野さんがフリードリッヒ二世の終焉の地の廃墟を訪れる所は、いつものように感動的な締めくくりになっています。ここは直接読んでもらいたいので、楽しみにしておいてください。

この本で、古代ローマ帝国が滅んでからルネサンスに至る空白の千年が埋まってしまったわけで、さて次は塩野さんは何を書くんだろうと思っています。塩野さんももう80歳近くなり、引退してもおかしくない歳になっています。この本の中でも初めのところに所々『アレッ』と思うような文章の乱れもちょっとありましたが、読み終わってみるとまだまだしっかりした感動的な本になっています。またこの手の人は基本的には『引退』などということを考えない人のはずです。

私としてはルネサンスを超え、絶対王制のあとに再度ローマの再生を目指したナポレオンを書いてくれると嬉しいなと思うのですが、今まで塩野さんの書き物ではこの人はほとんど登場していないので、さてどうなりますか。

とにかく2巻合わせて550頁の大作ですが、面白くて一気に読めます。
興味があったら読んでみて下さい。

植物の本・・・2冊

8月 18th, 2014

しばらく前、植物が雨に濡れる話の本(『作物にとって雨とは何か』)を読みました。

これで改めて『植物』というものが面白くなって、何か読んでみようと思いました。とはいえ専門書みたいなものはちょっと読めないなと思って、そうだ、ブルーバックスという手があるじゃないかと思いつきました。

そこで『植物』と『ブルーバックス』とのキーワードで検索し、面白そうな本を借りて読んだうちの2冊を紹介します。

ひとつは『エンジニアから見た植物のしくみ』というもので、もともとの植物学者でないエンジニアが仕事の関係で植物の勉強をし、感じたこと、わかったことが書いてあります。話題も具体的で、茎と幹の違い、葉の形、根の役割、花、種子、環境(光・乾燥・低温・高温・有害物質・大気汚染またウィルス・外敵・病原菌等)に適応する仕組み、などになっています。このあたり、エンジニアの視点でいろいろ考えたりしているので、わかりやすく面白い本です。

著者は工場の廃棄ガスの窒素酸化物を含む二酸化炭素ガスを与えて水中の藻を増やす仕組みを工業化しようとしており(これで、排気ガス対策と、地球温暖化対策の両方を一度に片付け、さらにバイオの再生可能エネルギーを手に入れようという虫のいい話です)、藻類の話もいろいろ書いてあります。

もう一つの本が『植物はなぜ5000年も生きるのか』というもので、題名からすると植物の本のようですが、サブタイトルが『生物にとって寿命とは何か』になっているように、植物についてだけでなく動物も細菌も全てひっくるめた生物全体の話を『寿命』というテーマでまとめて解説しています。

生物全体の本というのはどうしても動物中心になってしまいがちなのですが、この本は著者が植物生態学の専門家ということもあって、動物と植物の取り上げ方のバランスが絶妙で楽しく読めます。

この本のテーマの『寿命』というのは平均寿命ではなく最長寿命のことです。動物にしても植物にしても最初のうちに圧倒的に多くが死んでしまうので、平均寿命を計算したら数千年生きる屋久杉でもせいぜい1-2年くらいだろうなんて話で、若死するものは除外して、生物は種ごとに最高何年生きられるんだろうという話です。

動物は組織が分化し、その組織の細胞が死ぬと新しい細胞が置き換わっていき、生きている細胞だけでできていて、ある組織の細胞がみんな死んでしまうとその動物自体が死んでしまう。これに対して植物は細胞が死ぬとその抜け殻が残り、生きている細胞と死んだ細胞の抜け殻でその植物が構成され、長寿の樹などではほとんどが死んだ細胞の抜け殻だ(我々か普通、木、だと思っている部分は、そのほとんどが抜け殻の部分のようです)とか、何千年も生きている屋久杉などでもほとんどが死んだ細胞の抜け殻で、生きている部分はせいぜい30年くらいの寿命だ(次々に新しい部分ができていき、古い部分は死んで抜け殻になっていく)なんて話は面白かったです。

寿命に関しては、昔(20世紀の前半頃)は『細胞は適当な環境で培養すれば無限に分裂を繰り返す』という説が一般に信じられていて(それを証明したカレルという学者がノーベル賞を取った大先生だったこともあったようですが)、それをひっくり返したヘイブリックがその間違いを指摘するまで約半世紀もかかったなんて話も出ていて、最近の小保方さんの大騒ぎと合わせて興味深いものでした(このカレル先生の間違いは培養液に生きた細胞が混じっていて、その細胞が生きていることをもともと細胞が生きているものと思い違いしたということのようです。と言ってしまうと簡単ですが、半世紀にわたって学会の常識となっていた大先生の教えをひっくり返すのは大変だっただろうなと思います)。

また『ヒガンバナ』いう植物は、花は咲くけれど種子はできないので、球根で増える。すなわち全て元のもののクローンで、このヒガンバナ、縄文時代に日本に持ち込まれてそれが日本中に広まったものだということで、だとするとヒガンバナは縄文の時代からずっと生き続けている寿命何千年というものだろうかという話、動物の寿命は受精してから数えても卵あるいは親から生まれた時から数えても大した違いはないけれど、植物の場合受精してから数えるのか、種子ができた時から数えるのか、種子が親から離れた時から数えるのか、発芽した時から数えるのか(種子のままで千年も眠っていて発芽するものもある)なんて話もあります。一口に寿命と言っても、なかなか一筋縄にはいきません。

樹木が根から水を吸い上げる仕組みの話もあります。理論的には450mまで吸い上げることができるのに、実際の木の高さはせいぜい200mくらいだとのことです。またヒイラギの葉は若い時はギザギザになっていて棘のようになっているけれど、歳をとると丸くなるなんて話もあります。動物は歳をとると生殖能力がなくなるけれど、植物は歳をとっても生殖能力は変わらない、なんて話もあります。

もともとこの著者は大学院生になった時、先生に『目は良いか』と聞かれ、『良いです』と答えたら『じゃ、年輪でも数えるか』と言われて屋久杉の年輪を数えるようになったようです。樹齢1500年くらいの年輪を数えるのに、切り株の上にうつ伏せになって表面をノミで削りながら数えて、だいたい半日くらいかかるようですが、一つの年輪について、2つの方向から数えてそれが合わないとダメなんだけれど、なかなか合わなくて往生する、なんて話を読むと嬉しくなってしまいます。

面白そうだと思ったら読んでみて下さい。

戦争

7月 29th, 2014

今年は日清戦争がはじまってから120年、日露戦争が始まってから110年、第一次大戦がはじまってから100年の記念の年です。

第一次大戦については、以前『世界恐慌』という本でも読んだし、第一次大戦中のドイツの飢餓については『カブラの冬』という本でも読んでいます。

安倍内閣が集団的自衛権の行使容認の閣議決定をし、国会の閉会中審議で2日にわたって衆参両院で審議が行われ、その様子がテレビで実況中継されていたので会社でもテレビを付けっぱなしにして見ていました(とは言えまじめに聞くほどのものではないので他のことをしながら時々見ていた、位のものですが)。

で、そうしながら戦争についていろいろ考えたことを書いてみます。

まず第一にこの集団的自衛権の行使に反対する人達の意見で良く見られるものが、集団的自衛権の行使容認は即座に日本が戦争できる国になり、日本が戦争する国になり、すぐにでも戦争が始まってしまうかのような意見です。

戦争というのはそんなに単純なものではなく、戦争をしようと思ったからと言って戦争になるわけのものでもなく、戦争をしないようにしようと思っても戦争をしないわけにいかなくなったりするものです。

戦争というのは軍隊がするもので、戦争が始まると真っ先に死ぬのは軍人ですから軍人というのは基本的に戦争に反対です。軍人でない人がいくら戦争をしたがっても、軍人が動かなければ戦争にはなりません。

また逆に、日本が戦争ができない国であれば戦争にならない、というのもまるで無茶な話です。どこかの国が本気で日本と戦争をするつもりで爆弾を打ち込んでくれば、当然戦争になってしまいます。

次に、日本の存在感についての無感覚にもあきれ果ててしまいます。第二次大戦後丸焼け丸裸になった日本列島と無条件降伏させられた日本軍が、そのまま続いているかのような感覚しかないというのは驚くべきことです。

戦後60数年、今や日本は経済大国であると同時に軍事大国でもあり、世界でも有数の強い軍隊を持っているという感覚がまるでない、ということには驚いてしまいます。日本という国を仮に外から見たとすれば、次のように見えるのではないでしょうか。すなわち、その昔ヤクザの出入りで何人か人を殺してしまった男が刑務所から出てきて、『自分はもう改心したから人殺しなど絶対にしません』等と言いながら、気がついたらいつの間にか拳銃とか日本刀とか機関銃とかまで持っていじくり回している。そんな男がいくら『もう絶対に人殺しなどしません』なんて言っても、かえって恐ろしい。それだけの武器を持ってるんだったら『いざとなったら受けて立つぞ』位のことを言った方がよっぽど安心できる。・・・というようなものじゃないでしょうか。

自分は武器を持っていて、必要になったら使うよ、と言えば、周りの国も『じゃ、仲良くしよう』と言うことができますが、武器をいじくり回しながら『絶対に使わない』なんて言っていたら危なっかしくて仲良くしようということができない、ということです。

軍事力を持つ国がそれ相応の存在感を自覚し、周囲にそれを認識させておくことが戦争を回避するのに大いに役立ちます。

第一次大戦でドイツが負けたのは、ロシアとイギリスの出方を見誤ったからです。ロシアとイギリスがあんなに早く戦争に参加するとは思っていなかったので、その前にさっさとフランスを負かして戦争を終わらせてしまえる、とドイツは思ってしまったわけです。

第二次大戦でもドイツはイギリスとアメリカの反応を見誤っています。ドイツが思っていたのより早くイギリスが反ドイツで戦争に参加してしまい、それに引きずられて(日米戦争が始まったこともありますが)アメリカも本気で戦争に参加してしまったので、ドイツは負けてしまったということです。戦争が始まって、チャーチルが一番熱心にやったことが、アメリカを戦争に引っ張り出すことだったようですから。

戦争が始まる前にロシアにしてもイギリス・アメリカにしても、ドイツが戦争を始めたら自分達はどう動くかということを明確にしていたらドイツも負ける戦争を始めることはなかったでしょう。

戦争というのは大きな損害をもたらすものですから、負ける戦争、負けるかもしれない戦争は絶対にしてはならないものです。絶対に勝てるという確信があって初めて戦争を始めることになります。

ドイツの場合は戦争の相手の出方を見誤って、絶対勝てると思って戦争を始めたのですが、例外的に絶対に勝てるわけがないのに戦争を始めてしまう、珍しい国があります。それが第二次大戦の日本です。イギリスやアメリカを相手に戦争を始めてしまったのには訳があります。すなわちその前に2度も、絶対に勝てない戦争に勝ってしまったという経験があるからです。

日清戦争では、日本は中国に勝てるわけはなかったのですが、日本は中国と戦うのでなく李鴻章と戦い、李鴻章に勝った所で日本は中国に勝ったことになってしまって、戦争が終わりました。

日露戦争でも日本はロシアに勝てるわけはなかったのですが、日本海軍がバルチック艦隊をやっつけ、満州でロシア軍に勝った所でアメリカをはじめとした諸外国が止めに入って、日本がロシアに勝ったことになってしまったのです。

このような経験があるので、もしかすると途中で誰かが止めに入ってくれるかも知れないから、その前に部分的に勝っておけば戦争に勝ったことになるかもしれないと始めてしまったのが、太平洋戦争です。

もうひとつ、戦争に反対する人が、『自分は人を殺したくないから戦争に反対する』とか『自分は殺されたくないから戦争に反対する』なんて言っているのを見ると、本当に戦争のことがわかってないんだなと思ってしまいます。戦争というのは、自分が人を殺したり殺されたりということではなく、自分にとって大切な人が理不尽に殺されるということです。

戦争は犯罪ではないので、戦争で誰かが殺されたとしても、犯人を処罰することはできません。自分にとって大切な人が理不尽に殺され、これからも殺され続けるかも知れないという時に、『戦争反対』のプラカードを持って行進するだけで我慢できるか、ということです。

凶悪犯罪で人が何人も殺されたり、お酒や覚せい剤や脱法ハーブで酔っぱらって何人もの人を車ではねてしまったり、そんな時遺族は決まって『犯人を極刑にしてもらいたい』と言い、マスコミもそういう雰囲気をあおり立てます。

『極刑』というのはオブラートに包んだ言い方で、普通の言葉で言えば『犯人を殺してくれ』ということです。このように被害者の遺族が『犯人を殺せ』と言い、周りでマスコミも『犯人をぶっ殺せ』とあおりたてる、こんな状況で『これは戦争だから何人殺しても犯罪にならないよ』なんてことになったら、『警察なんかに任しちゃおけない、犯人は俺がぶっ殺す』という人が当然出てきます。マスコミはそれを英雄だと祭り上げます。このようにして、ついさっきまで反戦だ!と叫んでいた人達が今度は『敵をぶっ殺せ、鬼畜米英』と言って大騒ぎをする。これが戦争です。

太平洋戦争に至る過程で朝日新聞や毎日新聞が率先して戦争を煽り立て、国民を戦争に導いたことを忘れてはいけません。

反戦を主張する人は『自分は人を殺したくない』と言うのではなく、『自分は親・子・兄弟・妻・夫・恋人が理不尽に殺されたとしても、その犯人を殺したくない』と言うことができるのでしようか。その覚悟がない反戦は、単なる言葉遊びのようなものです。

『デフレーション』

7月 29th, 2014

権丈先生のホームページで紹介されていた(学生さんに読めと言っていた)、吉川洋『デフレーション』という本を読みました。

まともな経済学者がいわゆるマネタリストのデフレ対処(退治)案に反論しているもののようなのですが、読んでみました。

私はもともとマネタリストの、『お金を増やしさえすればデフレなんか一挙に解決できる』なんて議論は何の根拠もない空論だと思っていたので、いちいちその議論にクビを突っ込む気持もなかったのですが、この本を読んでみてやはり経済学の専門家としては空理空論と分かっていても、それが世の中に蔓延している以上、まじめにそれを空理空論と証明し否定しないといけないようで、学者というのも大変だなと思いました。

で、その貨幣数量説を否定している所なのですが、やはり空理空論をまっとうな論理で否定するのはなかなか難しいようです。とにかく相手は『理論』ではなく『信仰』で、お金を増やせばデフレはなくなる、そうなるに決まっている、などと言って(信じきって)理論的な根拠を示していないんですから、それを論理的に攻めていって反証する、というのはとてつもなく困難です。
せっかくの反論ですが、これで今までマネタリストだった人が本気で改心するとは思えません。

私にとってはその空理空論を否定する所はどうでも良くて、むしろ吉川さんがデフレをどのように理解していて、どのように対処したら良いと考えているのかの方に興味があります。

その部分については、まず『価格の決定』という所でカウツキの考え方が説明されています。これは一次産品の値段は需要と供給のバランスで決まる、消費材の値段は(原料費を含む)費用+α で決まる、というもののようで、この両方の考え方は別々には知っていたのですが、これを商品の性格によって区分してマクロ経済学を組立てるという話は初めて知ったので、この結果どういう話になるのか、興味がわきました。

このカウツキという人はケインズとは独立に、ケインズの一般理論が出るよりよりちょっと前にほぼ同じような議論をした人で、発表した論文がポーランド語で書かれていたので誰にも読んでもらえなかった、という人のようです。その後イギリスに渡ってケインズやその仲間の人達ともかなり交渉があったようです。

この人の本は2冊日本語になっているので、まずはそれを読んでみることにしました。ケインズの一般理論はケインズ流のわかりにくい言葉で書かれているので、一般理論を理解するにはカウツキの本を読んだ方がわかりやすいという人もいるようですから、楽しみです。

そのあとでいよいよ吉川さんのデフレーション理論ですが、今の日本のデフレーションは賃金が下がったことが原因だ、ということです。欧米では景気が悪くなると賃金が下がるのでなく雇用が減るんだけれど、日本では雇用を維持して賃金を下げるんだ、ということです。このような視点の議論は初めてなので、じっくり考えてみる必要があるなと思いました。

この本の中で、面白い言葉がいくつか紹介されていました。
ひとつは『ブラック』(金融工学で有名な、オプション価格のブラック・ショールズの式の、あのブラックです)の言った、
  【価格の水準そしてインフレーションは、それを決定するものが文字通りない、と私は考えている。それは人々がそうなるだろうと思う水準に決まるのだ。期待によって決まるのだが、期待に合理的なルールがあるわけではない。】
という言葉です。

もうひとつがこの本の最後に引用されているグルーグマンの言葉ですが、彼は過去30年のマクロ経済について
  【spectacularly useless at best, and positively harmful at worst】 すなわち【良くいえばまったく役に立たない、悪く言えば有害なものだった】(これは吉川さんの訳ですが、学者らしい上品な訳です。私が訳すとしたら、【良く言ったとしてもまるっきり何の役にも立たないものだった、悪く言えば実際有害なものでしかなかった】というくらいになると思います。)
と言ったとのことです。

日本のデフレについて『お札を大量に印刷してヘリコプターでばら撒けば良い』と言って大騒ぎを起こしたその張本人が平然とこういうことを言ってしまうんですから、アメリカ人というのは何ともはや・・・という所です。

いずれにしても、こういった、ケインズをちゃんと勉強したまともな経済学者がここにもいたんだ、と嬉しくなりました。

新書版よりちょっとだけ大きな版の、200ページちょっとの本ですし、それほどがちがち理論的な本でもありませんから、もし興味があったら読んでみてください。

集団的自衛権

7月 7th, 2014

集団的自衛権の閣議決定に関してKENさんといつものようにロクでもない議論をしていたら、この集団的自衛権の閣議決定に関する反対にも、いくつものものがあるのではないか、と思いあたりました。

1つは集団的自衛権が行使できるようになる、そのことに対する反対です。集団的自衛権が行使できるようになると外国の戦争に日本も参加するようになり、日本が戦争することになるから反対だ、というものです。

2つ目は集団的自衛権そのものではなく、憲法解釈の変更に反対だ、というものです。これは憲法が変更してはいけないものだから、なおさら憲法解釈の変更で実質的に憲法を変えるなんてことをしてはいけない、というものです。

これと近いのですが、3つ目は内閣の憲法解釈を内閣が勝手に変えることに反対、というものです。国会の承認や裁判所の承認もなく、内閣が勝手に憲法解釈の変更を閣議決定するのはケシカラン、ということです。中には今回の閣議決定を、国会での可決、あるいは国会での強行採決だと思っている人もいるようです。

4番目は何であれ安倍総理大臣、あるいは自民党のやることは全て良くないことだから、集団的自衛権であろうと何であろうと無条件に反対、というものです。

5番目は2つ目とちょっと重複するのですが、自衛権の問題は憲法改正をするのが正しいやり方なので、憲法改正をしないで憲法解釈を変更するのは反対、というものです。2番目との違いは、2番目の反対は憲法の変更に反対だから憲法解釈の変更にも反対ということで、5番目の反対は、さっさと憲法改正をすべきなのにそれをしないで憲法解釈の変更など中途半端なことをしていることに反対、ということです。

6番目、公明党が言っていた反対というのは、憲法解釈の変更をしなくても個別的自衛権という言葉の解釈を変えれば、集団的自衛権もかなりの部分個別的自衛権に含ませてしまうことができ、個別的自衛権という言葉の解釈を変えるのは憲法解釈を変えるわけではないので、それで済むのであれば憲法解釈の変更に反対、というものです。

現行の憲法解釈で個別的自衛権は認められている。その個別的自衛権の言葉の解釈を変更するというのは憲法解釈の変更になるんじゃないのかなという気もしますが、憲法解釈の文言は変えないんだから憲法解釈の変更ではない、と言い張ることもできるのかも知れません。

普通、今回の集団的自衛の閣議決定に反対する人は、上の1~4の反対なのですが、多分そのうちのどれなのか十分明確には意識されていないでゴッチャになってしまっているような気がします。

KENさんは4番目の反対のようで単純明快なのですが、いろいろ理屈を付けたい人は1~4をごっちゃにして反対だ、ということのようです。

落着いて、自分の反対は何番目の反対なんだろうと考えてみると、頭の整理ができるんじゃないかなと思うんですが、残念ながら私の意見など聞く耳持ってくれないでしょうね。

『作物にとって雨とは何か』

7月 7th, 2014

私の良く行く市立の図書館で、本を借りたり返したりするカウンターのすぐ近くに特別の書棚があり新しく入った本が並べられているんですが、その隣に特集コーナーが設けられています。月替わりでテーマを決め、そのテーマに関連する本を本のジャンルにかかわらず何冊か集めて展示するというもので、テーマとしては「太陽」だとか「暦」だとか「江戸時代の生活」だとか、さまざまです。

で、先月のテーマが「雨」だったようで、関連する本が並んでいました。「雨」というテーマですから雨はどうやってできるのかという気象学の本とか、雨をテーマにした詩やエッセイの本が多かったのですが、一冊だけ変わった本を見つけました。
 『作物にとって雨とは何か-「濡れ」の生態学』という本です。要するに雨が降って農作物が濡れることによって何が起きるのか、という話がいろいろ書いてあります。

農学の本ですから、こんなコーナーで見つけない限り自分から農学関係の書棚に行くことはまずないな、と思いながら借りて読みました。

この本はまず雨についてまとめています。大気中にある水蒸気は年に40回回転し(1年間に降る雨の量は大気中にある水の40倍ということ)、地球上に降る雨量は平均して1年に1,000mm、すなわち1mで、日本は比較的雨が多くて平均して1年に2m、これも土地により倍とか半分になるので結局1mから4mくらいの雨や雪が降るということです(この本は昭和62年=1987年に出版されたものですが、今もあまり変わらないと思います)。

次に日本では1mm以上雨の降る日が、これも地方によって違いますが、だいたい年に100日くらい、0.5㎜以上となるとだいたい年に150日位になるので、要するに2日ないし3日に一度は雨(や雪)が降るんだということです。

植物の生育に水分は不可欠なのは分かっているのですが、多くの研究は根から吸収する土の中の水分に注目しているので、このような葉に降る雨、葉が雨にぬれることに関する研究は(少なくともこの当時は)少ないようです。

で、雨に濡れると何が起きるか。まず花の中の栄養分が雨にしみだして流れてしまう。1ヘクタールの畑で作物が1年に10~20トン収穫できるけれど、それに対して雨によって葉から流れ出して地面に落ちる栄養分は1年に1トン位だ、ということです。また葉にはいろんな細菌がついていて、雨に濡れるとそれが1,000倍に増え、乾くとまた1/1,000に減るなど、非常にダイナミックな話です。

さらに雨に濡れるということを、葉が雨に濡れるけれど地面はそのままの場合、葉は濡れないで地面だけ濡れる場合(降った雨が流れてきて地面が濡れる場合)、水浸しになって地面も作物も水の中に入ってしまう場合(水没してしまうくらいの大雨、洪水)などについて、作物(植物)がどう変化するか調べています。

根の所の土地に水分があることは植物にとって大事なことですが、その水分が多過ぎると酸素不足になって根が効率的な有酸素呼吸ができず、非効率な無酸素呼吸をするために根に蓄えた養分の炭水化物やたんぱく質を大量に消費してしまうとか、しばらく雨に濡れたあと雨が止むと、葉の表面を保護していたものが雨で流されてしまって葉の表面から急激に水分がなくなってしまうけれど、根の方が酸素不足で土の中から水分を吸収して葉まで押し上げるエネルギーが不足すると水分が足りなくなって葉がしおれてしまい、ひどい場合には枯れてしまう(長雨のあと、水はたっぷりあるのに葉が枯れる)など、植物のダイナミックな姿が書かれています。

研究書ですから様々に条件を変えて実験し、根・茎・葉の重量を計り、乾燥させた重量を計って栄養分が増えたか減ったか、水分でどこの重さがどれだけ水増しされているか等調べています。多分今ではもっと精緻な研究がいろいろなされているんでしょうが、むしろ原始的な研究な分、素人にはわかりやすく面白いです。作物と雨に関する全体像を見せてくれ、動物と比べてどちらかと言うと静的なイメージのある植物の生態が、実は非常にダイナミックなものなんだと教えてもらいました。

大分古い本ですが、今でも新本で手に入るようです。興味があったら見てみて下さい。

農村漁村文化協会(農文協) 自然と科学技術シリーズ
『作物にとって雨とは何か-「濡れ」の生態学-』
昭和62年7月30日刊 木村和義著

『統計学でリスクと向き合う』

6月 23rd, 2014

ここの所二度ほど統計学に関する本を紹介しました。
どちらも統計学をきちんと学ぶための本ではなかったので、今度は三度目の正直です。
以前小室さんの『数学嫌いな人のための数学』の本を持ってきてくれた友人が他にもいろいろ持ってきてくれて(自分の家の本を整理していて、その中からいくつかみつくろって私の所に持ってくるようです)、その中に『統計学でリスクと向き合う』という本がありました。東洋経済新報社から2003年に出ている本で、著者は宮川公男さんです。
この本はまともに統計のことを知りたい人にはお勧めできます。もちろん教科書ではないので、全般的知識を得るには不十分ですが、統計学とはどういうものかの感覚をつかむには良くできた本だと思います。

特に最初の部分で、『平均とは何か』『比率とは何か』ということについてきちんと説明しているのはとても良いと思います。

ともするとこのあたりは、誰でもわかっているようなつもりで省略してしまい勝ちなのですが、ここの所をきちんと押さえることによってその後の部分が理解しやすくなると思います。

話題はいろいろ飛びますが、具体的に統計の手法・考え方が使われる場面で、統計の立場から何をどのように考えるのかが説明されます。

統計では『第一種の誤り(正しいことを間違っていると判断してしまうこと)』と『第二種の誤り(間違っていることを正しいと判断してしまうこと)』という言葉が使われますが、この第一種の誤りと第二種の誤りにどのように対処していくか、というのがこの本の全体を通したテーマになっています。この考え方を使って著者自身ガンの手術を受けるか受けないか考えて、結局医者の強い勧めにも関わらず手術を拒否して、結果的にその後長く生きることができた、なんて話も入っています。

FPの人達が得意な、金利で元金が倍になるまでの年数と利率の関係を示す『72の法則』というのがありますが、この本では『70のルール』として出ています。70でも72でも同じようなものですが、私も最初70のルールの方で覚えたものですからちょっと懐かしい思いがします。72の方が割り算に便利なので、ちょっと使いやすいですが。

日経平均の話、囲碁のハンデ(同じ力量同士の対戦で、コミをいくつにしたら良いか)の話、統計学という言葉が生まれた時の論争(スタチスチックと読む漢字を作ろうとした話)等もあり、最後には統計で嘘をつくという話で、統計数字の扱いには細心の注意が必要だというのが結びの言葉になっています

この本を読んで興味がわいたら、ちゃんとした教科書で勉強すると良いですが、この本だけ読んでも十分価値があると思います。

『ロシア綿業発展の契機』

6月 18th, 2014

ある集まりでこの本を紹介されました。

『ロシア綿業発展の契機—ロシア更紗とアジア商人』塩谷昌史著、知泉書館

いかにも学術専門書で、250ページくらいの本が4,500円もしますからちょっと普通は買おうとは思いませんが、中味をちょっと見るとソ連になる前のロシアの綿業の発展史が書いてあり、まだ新しい本で、ちょっと読んでみようと思いました。

とは言えちょっと高い本なので図書館で借りようと思って調べたら、さいたま市の図書館にはありません。埼玉県の公立図書館にもなさそうなので、とりあえず東京都立図書館にあることを確認して、図書館に予約を入れました。都立図書館かどっかから借りてくれるのに当分時間がかかるだろうとのんびり待っていたら、何と地元の図書館で買ってくれました。多分こんな専門書を読む人はほとんどいないでしょうから、これでいつでも借りて読むことができます。

で、読んでみた所これが何とも面白い本なので、紹介しようと思います。

この本のしょっぱなに著者の歴史研究に対する姿勢が「視角と方法」としてまとまっています。何とここに柳田國男・渋沢栄一・宮本常一など、日本の民俗学の人々が登場し、日本中世史の網野善彦が出てきたと思ったら、今度は「文明の生態史観」の梅棹忠夫が出てきて、「地中海」のブローデルが出てきたと思ったら、川北稔の「砂糖の世界史」が出てきて、上山春平の「照葉樹林文化」、中尾佐助の「栽培植物の起源」が出てきて川勝平太の「鎖国」の話が出てくるといったあんばいで、普通の歴史の本とはちょっと違います。

この部分、多分この本を読む読者ならだいたい知っているだろうことを想定して大雑把に書いているんですが、これをもう少し敷衍して丁寧に説明したら、これだけでたとえば新書版の1冊くらいの面白い本になるんじゃないかなと思いました。

で、この本のテーマとする、ソ連になる前のロシアの産業史なんですが、私の知っているロシアはナポレオンがモスクワまで攻めて行って、あとちょっとの所で寒さにやられて逃げ帰って(1812年)から、日露戦争で日本が勝って(1905年)、第一次大戦のさ中に革命が起こってソ連ができる(1917年)というくらいのイメージしかなく、あとは点景として屋根の上のバイオリン弾きという話があったな、くらいのものなので、その当時のロシアで産業革命が具体的にどのように進行したのかというのは非常に面白い話でした。

ソ連では1917年の革命で共産主義国になるには、その前は資本主義国でなければならないという共産主義の考え方から、1860年の農奴解放によってそれまでの封建制から資本主義になったということになっていたのですが、この本は1830年頃から1860年頃までを中心に扱っていて、その頃すでにロシアで産業革命が起こり資本主義国になっていたという話になっています。

「綿業」なんていうと綿製品を作る所の話かと思ってしまうのですが、この本はその作る所から、それを流通、特に周辺諸国に輸出する所、輸出された国でそれが消費される所まで、それぞれ章を立てて説明しているのも面白い話でした。

その最初の綿製品を作る所の話も、綿花から綿糸を作り(紡績)それを布にして(織布)それに色模様を付け(捺染・染色)売るということになります。ロシアはもともと綿花なんかできない土地ですから、初めは布を買ってきて染色するだけだったり、糸を買ってきて織るだけだったりするわけですが、そのうち全工程を一貫してしてやりたくなるとか、産業革命でイギリスから安い綿糸・綿布が購入できるようになるとか、アメリカの綿花が大量に輸入できるようになるとかで、この綿工業が大いに栄えることになります。

染色の工程も昔は木版刷りだったのを機械化して銅製のドラムで刷るようにすると、綿布1枚染めるのに2人で6時間かかった仕事が1人で4分でできてしまうようになり、その分染色する布を大量に織らなきゃならない、その分大量の糸を作らなきゃならない…という具合に、芋ずる式に全工程が機械化され、その動力として蒸気機関等が導入されるようになるという話や、染色のための化学知識が必要になり、機械を動かすための工学の知識が必要になり、企業全体の管理をするための経営や会計の知識が必要になって工員や経営者の子弟に教えるための学校ができるとか、産業革命による社会全体の変化がダイナミックに描かれています。

ともすると蒸気機関が発明されて産業革命が起きたなんて具合に思い勝ちですが、そうではなくまず産業革命が起こって、そこで動力が足りなくなって蒸気機関が必要になる、というあたりも具体的に生々しく説明されています。

ロシアの綿製品は西ヨーロッパへの輸出に失敗したため、質が劣るもののように西ヨーロッパでは思われていたけれど、実はロシアは清・中央アジア・西アジア(トルコやペルシャ)に向けて主に輸出していたんだとか、好みの問題で西アジアでは負けたけど中央アジアや中国への輸出に関してはイギリスとも競合して負けてないとか、ロシアは昔は中国・中央アジア・西アジアから綿糸や綿織物を輸入していたのが、大変な思いをして産業革命を起こし、逆にそれらの国に綿製品を輸出するようになったとか、興味深い話がたくさんあります。

これらの研究の元となった資料が実は当時ロシアの政府の刊行物その他で、それはサンクトペテルブルクの図書館に行けば簡単に手に入れることができるとか(この本はそのような統計データにもとづく具体的な生産量や売買高などのグラフがふんだんに付いています。専門書なのでその出所も脚注にいろいろ書いてありますが、ほとんどロシア語ですからその部分は読み飛ばすことができます)、ロシアの歴史研究家は多くがモスクワにいる(サンクトペテルブルクにはいない)ので、日本の研究家も必ずしも不利ではないとかの話も面白いですし、織物の染色は脱色してから染色する、その技術をどのように取得するかとか、綿織物の輸出を始める前、中国との交易では茶の輸入が急増し、毛皮の輸出は頭打ちになって厖大な貿易赤字が生じ、代わりの輸出品がどうしても必要だったんだ(イギリスは茶の輸入が急増し、代わりに輸出するものがなくなってしまったので苦しまぎれにアヘンを売ることにして、それがアヘン戦争につながったわけですが、アヘンより織物の方が良いですねよね)とか、とにかくいろんな話が盛りだくさんに詰め込まれています。

隣国との交易・流通についても、ロシアでは川は冬には凍ってしまうので、冬以外の季節でないと使えないとか、通常陸路の輸送はラクダを使うのだけれど、毛の生え変わる季節は体力が落ちて使いものにならないとか、夏場は猛暑と害虫の発生でキャラバンを使うことができなかったとか、鉄道が敷かれる前は基本的に長距離の物の輸送は1年単位のサイクルだった(海運でもインド洋の貿易風の向きは1年サイクルで東向き・西向きに変わるので、それに合わせて船を動かした)、全ては蒸気機関の発明により蒸気機関車・蒸気船の登場で、「年単位」のサイクルが「いつでも」になってしまったなんてのも、面白い話です。

こんな話に興味があったら、読んでみて下さい。
時には専門書も面白いかも知れません。

『嘘の効用』

6月 4th, 2014

しばらく前、小室直樹さんの『数学嫌いな人のための数学』に関するコメントで、この末弘巌太郎(名前はゲンタロウでなくイズタロウと読むようです)さんの『嘘の効用』という本のことが書かれているので、読んでみよう思う、と書きました。

その後すぐに図書館で予約をしたんですが、岩波文庫の『役人学三則』というものと、冨山房百科文庫の『嘘の効用』上・下とが検索で出てきて、両方借りてみました。結局の所岩波文庫の方は『嘘の効用』以外に『役人学三則』『役人の頭』『小知恵にとらわれた現代の法律学』『新たに法学部に入学された諸君へ』『法学とは何か―特に入門者のために』の6つのエッセイが入っているもので、冨山房の方はこれらを含めて法律の専門書以外の多数のエッセイを集めたものだ、ということがわかりました。

とりあえず手軽に読める岩波文庫の方を読んだのですが、冨山房の方も借りといて良かった、というのは後で書きます。

小室さんの本の中では『日本人は論理的思考が苦手だからその代わりに嘘を活用するんだ』というような説明でしたが、実際に末弘さんが言っているのは大分違います。

要するに法律というのは杓子定規の融通のきかないものなのに、それを適用する人間の方は何ともしまりのない融通無碍のつかみどころのない矛盾だらけの生き物なので、杓子定規に法律を当てはめようとするとどうしてもうまく行かないことが多い。そこで嘘を活用して、杓子定規にうまく嘘を交えて適用するとうまく人間にあてはめることができることがある。そのため法律家はすべからくうまく嘘がつけるようにすることが肝要だ、ということのようです。

この理屈は日本人のことだけを言っているのではなく、世界中どこの国の人でも同様のようです。

末弘さんはどうも大岡越前の守の大岡裁きのようなものを理想としていたようで、うまく法律を使って理想的な裁判をするためには、裁判官はできるだけ人間的になることが重要だと言い、もともと人間というのは神様が自分に似せて作ったものなので(ここの部分はキリスト教の旧約聖書の創世記の話ですから、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教共通の神話です)、人間ができるだけ人間的になるということはそれだけ神に似てくるということで、そのうえで神様になったつもりでうまく嘘をつけば、神様が裁判するのと同じような素晴らしい裁判をすることができるという、あんまり論理的ではないけれど何となく納得できそうな議論をしています。

この末弘さんのエッセイは、この『嘘の効用』の他にも、とりあえず岩波文庫に入っていたものはざっと読んだのですが、法律家にしては珍しく論理的な思考ができる人のようです。ですから上の議論も論理的な話じゃないことを承知で書いているようで、なかなか面白く読めました。

で、この岩波文庫の中の他のエッセイを読んでいて、『小知恵にとらわれた現代の法律学』(現代と言っても大正10年の講演の速記に手を入れて文章にしたものなので、その当時の『現代』です)の中で、『世論』という言葉が何回か出てきました。そこでまずはこの『世論』はセロンなんだろうかヨロンなんだろうか、と思って、念のために冨山房の方を見てみました。するとそちらの方にはちゃんと『輿論』となっていました。これで末弘さんは『輿論』と書いた所を岩波が『世論』に書き換えたんだとわかりました。『輿論』であれば話は分かります。冨山房の方も1988年の出版ですから、『世論』に変えられていても不思議じゃないのですが、『輿論』にしておいてくれたので助かりました。

当用漢字(今では常用漢字になっていますが)の登場で、新漢字・新仮名使いにするというのはなるほどこういうことなんだ、とようやく実感しました。

なおこの岩波文庫の中のエッセイのテーマが法学部とか役人とかになっているのは、末弘さんが法学部の先生であり、大学の法学部というのは法律家の育成もするけれど、国や大企業のお役人を育成することが主な目的だということを反映したもののようです。

私はこの末弘さんのいくつかのエッセイを面白く読んだんですが、今の司法試験受験者の人達はこのような本を読んでいるんでしょうか。多分読む人は少ないんじゃないかなと思います。何とも勿体ない話です。