『ケインズ『一般理論』を読む』

12月 4th, 2014

宇沢弘文さんの本『経済学の考え方』『近代経済学の再検討』の次は、『ケインズ『一般理論』を読む』という本です。今は岩波文庫になっていますが、当初は岩波セミナーブックスというシリーズの一冊でした。はじめ、この岩波文庫の本を図書館で予約したのですが、いつまでたっても借りることができず、ちょっと古いけれどこの岩波セミナーブックスの方を予約したら大正解でした。版が文庫本よりかなり大きく、その分余白がたっぷり取ってあって、読みやすい本でした。

ケインズの『一般理論』はケインズが古典派の経済学を批判して、ケインズの経済学を提案している本です。しかもこの『一般理論』の読者として想定していたのが同業の経済学者、すなわち古典派の経済学者です。で、古典派の経済学を批判するにしても読者は古典派の経済学をしっかり理解している人ばかりです。そのつもりで書かれた本を、私のように経済学を良く知らない者が読むというのはなかなか大変です。古典派の経済学については、ケインズがそれを批判している所を読んで、そこからそんなものなんだろうな、と理解するしかありません。

ところがこの宇沢さんという人は、もともと古典派の経済学のスターとして活躍した人で、その後それを批判し、ついでにケインズの『一般理論』まで批判して『社会的共通資本』という考え方を主張した人ですから、古典派の経済学もケインズの経済学もしっかりわかっている人です。さらにこの本は市民セミナーでケインズの『一般理論』を読もうというものですから、読者として想定しているのは私のような経済学の素人です。私のような素人を読者としてケインズの『一般理論』を読みながら、そこに書かれて古典派の経済学、ケインズの経済学をきちんと解説してくれるという、何ともおあつらえむきの本であることが分かりました。

以前『一般理論』を読み終えた時、しばらくたったらもう一度『一般理論』を読み返そうと思っていたのですが、まさにうってつけのガイドブックがみつかったわけです。ケインズの『一般理論』とこの宇沢さんの本を一緒に読みながら、ケインズが批判している古典派の経済学、そのアンチテーゼとしてのケインズの経済学の両方を理解してみようと思います。

ケインズの『一般理論』でコテンパに批判されたはずの古典派の経済学が、その後もしっかり正統派の経済学の地位を保っているのはどうしてなのか、ケインズの経済学が勝てないのはなぜか、を考えながら読んでみようと思います。

この本の最初の部分に『なぜ『一般理論』を読むか』という章があります。この中で『一般理論』は経済学に大きな影響を与えたが、一方それを読んだ人はほとんどいない、ということが書かれています。ほとんどの人はケインズの経済学のヒックスによる解釈であるIS-LM理論を、ケインズ経済学そのものだと思い込み、あるいはそう教えられ、ケインズの『一般理論』を読むかわりにこのIS-LM理論およびその解説を読んで『一般理論』を読んだつもりになったということのようです。ですからこのIS-LM理論が破綻すると、それはケインズの経済学の破綻だと解釈したということのようです。

さらにケインズの『一般理論』というのは、ケインズとその周辺にいたケインズ・サーカスとよばれる(その当時)若手の経済学者達の議論をケインズが本にまとめたもののようですが、その中の中心的な人物の一人であるリチャード・カーンと宇沢さんが話した時の話として、『自分は昨年(1978年 一般理論の出版は1936年)初めて『一般理論』を読み通したが、一般理論の書き方はまったくひどい。一体何を言い、何を伝えようとしているのか、私にはまったく理解できない』という発言を紹介しています。すなわち『一般理論』の考え方を作った中心人物ですら『一般理論』をまるで読んでなかった、ということです。

何とも唖然とする話ですが、とはいえ、今となっては『一般理論』を読むしかないんですから、今度はじっくり読んでみようと思います。ケインズの書き方がひどいというのはわかっています。宇沢さんも平気で専門用語を使ってきます。このあたり専門家でない立場から、何とか解きほぐしながらじっくり読んでみようと思います。

ということで、古典流の経済学とケインズの経済学の両方の解説書としてお勧めします。

『近代経済学の再検討』

11月 11th, 2014

前回紹介した宇沢弘文さんの『経済学の考え方』は1989年の本ですが、そのちょっと前に書かれた『近代経済学の再検討』(岩波新書)は1977年の本です。

この本も新古典派の経済学の中味を検討し、ケインズによるその批判の内容を紹介し、ケインズの批判し残した部分として、社会的共通資本の理論を説明しています。

いくつも印象的な言葉があるので、順次それを紹介しましょう。

一番最初に『まえがき』のしょっぱなに書いてあるのが
【世界の経済学は今一つの大きな転換点に立っている。現実に起きつつあるさまざまな経済的、社会的問題がもはや、新古典派ケインズ経済学というこれまでの正統派の考え方にもとづいては十分に解明することができなくなり、新しい発想と分析の枠組みとを必要としているからである。】
です。

『新古典派ケインズ経済学』というのはいったい何なんだろう、ケインズは新古典派経済学をやっつけてしまったんじゃなかったんだっけ・・・というのが正直な感想です。この新古典派ケインズ経済学というのは、新古典派の経済学がケインズ理論を取り入れたいわゆる新古典派統合の経済学のことかも知れませんが、私にとっては新古典派の経済学はケインズによって完璧に否定されてしまったと思っていたので、これが正統派の考え方だというのは驚きです。まあこのあたり私が経済学をあまり良く知らないということなんでしょうが。

次に『序章』の最後は
 【正統派の経済学について、その理論的な枠組みをかたちづくっているのは、言うまでもなく、新古典派の経済理論である。しかし新古典派の経済理論について、その基礎的な枠組みを明快に解説した書物はないと言っても良い。新古典派理論の基本的な考え方と中心的な命題とは、すべての経済学者にとって自明のこととして当然知らなければならないこととされてきたからである。本書ではまず、新古典派の経済理論について、その基礎的な考え方にさかのぼって、枝葉末節にとらわれることなく、その前提条件を一つ一つ検討することからはじめよう。】
となっています。この部分、ケインズの『一般理論』を読んでいるような気がします。

この新古典派の経済学について明快な説明がないことについては、『Ⅱ 新古典派理論の基本的枠組み』のはじめの方でも、
【新古典派経済理論の前提条件をどのように理解し、その理論的な枠組みをどのように捉えたらよいか、という問題について、経済学者の間で必ずしも厳密な意味で共通の理解が存在するわけではない。しかし現在大多数の経済学者にとって共通な知的財産として、ほとんど無意識的に前提とされているような基本的な考え方の枠組みが存在するのは否定できない事実であろう。これは、いわゆる近代経済学を専門としている人々にとって自明な考え方の枠組みであり、トマス・キューンの言うパラダイムを形成するものと考えてもよい。したがって、多くの場合に必ずしも明示的に表現されることはなく、研究論文はもちろんのこと、教科書の類いですら、この点に詳しく言及することはまず皆無であると言ってよいだろう。逆に、このような理論の基本的枠組みについては、わたくしたち経済学者が当然熟知していなければならないものであり、ひとつひとつ検討する必要のないほど自明のこととされてきた。そしてこの論理的斉合性を問うたり、基本的な命題に疑問を提起することは、ジョーン・ロビンソン教授がいみじくも指摘したように、近代経済学の研究にさいしての重大なルール違反であるとすらみなされることもあったのである。】

これは何ともはやの話ですね。こんなんで経済学を学問とか科学とか言えるのか、という話です。特に言葉の定義や前提条件を明確にすることがもっとも大事で、すべてをそこから始めることになっている数学をやった人間にとっては、このような状況は耐えられない話でしょうね。

で、このあと新古典派が自明のこととしている前提条件がまるで非現実的なものであり、その一部についてケインズが明確に批判したこと、そしてケインズが批判しなかった部分についても社会的共通資本の考え方を入れなければならないことを指摘して、この本は更なる新古典派の批判をしているんですが、最後の『おわりに』の最後に

 【本書では、経済学が現在置かれている危機的状況、すなわち理論的前提と現実的条件との乖離という現象の特質をできるだけ鮮明に浮彫りにするために、現代経済学(日本では近代経済学と呼ばれている)の基礎をなす新古典派の経済理論の枠組みについて、その皮と肉を剥いで、骨格を露わにするという手段を用いた。このような手法によってはじめて修辞的な糊塗に惑わされることなく新古典派理論の意味とその限界とを誤りなく理解することが可能であるだけでなく、現実的状況に対応することができるような理論的体験の構築もまた可能になると考えたからである。 しかしこの極限的な接近方法は、審美的な観点から感性を害うような反応を感ずるだけでなく、職業的な観点から、往々にして非知的な、そして退嬰的な反発を招く危険性が皆無ではない。とくにわが国では、高度成長期を通じて、いわゆる近代経済学者が、社会的にも政治的にも大きな役割を果たすようになり、政策的提言、社会的発言、アカデミックな地位などにおいて、20年前とは比較にならないような影響力を持つようになってきたのであるが、そのもっとも重要な契機は、新古典派的経済理論という分析手法の効果的な適用という点にあった。したがって、このような形で批判的検討を加えようとすると、多くの経済学者の職業的な既得権益に抵触せざるを得なくなるからである。】
とあります。やはり自分が生まれ育った新古典派を裏切って批判する立場に立つ、というのは覚悟のいることのようです。

その後の『あとがき』には
 【本書の内容は、この数年間にわたるわたくしの思索をまとめたものであるが、ここで取り上げた主題の一つ一つについて、いずれも不完全なまま、このようなかたちで一冊の書物として出版することに対して、大きな心理的抵抗を感じないわけにはゆかない。ただ新古典派の経済学を学んで、自らも研究を行ってきた者の一人として、この新古典派の制約的体系を否定して、新しい思索的な、分析的な枠組みを構築することがいかに困難であるかという苦悩の軌跡を記して読者の参考に資することができたらという、かすかな期待を持ってこの書物をまとめたのである。】
とあります。

ケインズも宇沢さんも新古典派のホープとして活躍した後で新古典派を批判する立場に転じ、新しい経済学(ケインズの経済学、宇沢さんの社会的共通資本の理論)を提案しているわけですが、ケインズが新古典派を一刀両断しているのに対し、宇沢さんは日本人らしくちょっと遠慮勝ちというのも面白いですね。

社会的共通資本については、宇沢さんはそのままのタイトルの本を別途2000年に、これも岩波新書として出版していますが、新古典派経済・ケインズ経済学とのかかわりでそれらを批判する中で宇沢さんが社会的共通資本の考えに至った経緯について理解するには、この本の方が良く分かるかも知れません。

ケインズにも宇沢さんにもこれだけ批判された新古典派経済学ですが、いくら批判されても相変わらず正統派の立場を保っているのも不思議なことですね。

データベースがパンクしました。

11月 11th, 2014

しばらく、この『ブログ版コメント』のページが編集できませんでした。

10日ほどかかってようやく、データベースがパンクしていたことが分かりました。
その理由は、例によってジャンクのコメントがたくさん入ってきたためかと思っていたのですが、データベースの中を見てみたら、なんとこのページの右上の方にあるカウンタの集計のためのレコードが膨大に膨れていた、ということが分かりました。

そこでもちろんそのデータをすべて削除して、カウンタはゼロスタートでやり直しです。

これで何とか無事に動いてくれるといいのですが。

『経済学の考え方』

10月 28th, 2014

別稿で経済学者の小島さんと宇沢さんの話を書きましたが、その宇沢さんの本の話です。

図書館で検索してみると何冊も書いていますが、まずは読みやすそうな新書をいくつか借りてみました。

その中でまず読んだのが、『経済学の考え方』岩波新書 です。この本は
 アダム・スミス
 リカードからマルクス
 ワルラスの一般均衡理論
 ヴェブレンの新古典派批判
 ケインズ
 戦後(第二次大戦後)の経済学
 ジョーン・ロビンソン
 反ケインズ経済学
 現代経済学の展開
という具合に、経済学の歴史に沿ってそれぞれの考え方を説明しています。

特にヴェブレンの新古典派批判の所(その前のワルラスの一般均衡理論の所も同じですが)は、非常に面白いものです。
ケインズの『一般理論』は新古典派の議論を批判して新しい考え方を提案しているものですが、この『一般理論』を読むだけでは新古典派がどんな議論をしているのかが良く分かりません。それがこのヴェブレンの所を見ると良く分かります。

宇沢さんによるとケインズの前に既にこのヴェブレンが新古典派を徹底的に批判しているということですが、歴史的にはケインズの一般理論を受けてヴェブレンが見直され、再発見されたということのようです。

で、宇沢さんによるヴェブレンの新古典派の説明は見事なものです。

普通議論をする時は、言葉の定義を明確にしたりあらかじめ議論の前提条件を明確にしたりしないで議論してしまいます。そこで議論をしながら『なぜ、どうして』なんて質問をするとあまり喜ばれません。『なぜ、どうして』を三回くらい連続でやると、たいていの場合相手は怒って議論をやめるか、あるいは喧嘩になってしまったりします。

しかし数学の世界では言葉の定義は明確にしておかなければならないし、前提条件も明確にしておく必要があります。その上で『なぜ、どうして』と聞かれた時は何度でもきちんと説明しなければならないことになっています。

とはいえ、数学者も時には『そんなの当り前だろう』と言ったりすることもあるんですが、それでも必要となったらいつでも『当たり前だ』ということを証明する必要があります。『当たり前だろう』と言ったことが、実は当り前じゃなかったなんて場合は、大変なことになります。

で、宇沢さんは、ヴェブレンの議論では、まず新古典派の議論の前提条件を明確にした、と言っています。すなわち、新古典派がこのような議論をしているその議論が論理的に正しく展開されているということは、その議論のバックにこのような前提条件がなくてはならないということで、前提条件を一つ一つ明らかにしていったわけです。これはとてつもなくしんどい作業ですが、それをヴェブレンがやったということです。

宇沢さんももともと数学専攻から経済学の方に行った人のようで、ヴェブレンという人も最初は数学をやった人のようですから、そんな思考パターンに慣れているのかも知れません。あるいはそうしないと気持ちが悪いということでしょうか。その気持ちは良く分かります。

で、この整理された前提条件を見ると、確かに新古典派の主張する議論はそれらの前提から論理的に証明できそうな気がします。と同時に、その前提条件は現実とはまるで乖離してしまっている絵空事、というのも良く分かります。

このように説明してもらうと『一般理論』もさらに分かりやすいんでしょうね。宇沢さんには『一般理論』の解説書もありますから、これを読むのが楽しみになりました。

で、後ろの方に『反ケインズ経済学』というのが出てきます。それは、『合理主義の経済学、マネタリズム、合理的期待形成仮説、サプライサイド経済学など多様な形態をとっているが、その共通の特徴として、理論的前提条件の非現実性、政策的偏向性、結論の反社会性を持ち、いずれも市場機構の果たす役割に対する宗教的帰信感を持つものである』と、一刀両断にバッサリやってしまうコメントにはびっくりしました。ここまで言い切ってしまう人はなかなかいません。特に経済学者では。

権丈先生は、右側の経済学、左側の経済学、という言い方をするのですが、この右側の経済学のことを反ケインズ経済学、というんですね。初めて知りました。

最後に『現代経済学の展望』として、反ケインズ経済学が淘汰されて未来に向けて明るい希望を持ち、その中で日本の若年の経済学者たちについても大いに期待しています。この本が1988年に書かれているのでもう四半世紀も前の話で、その後今までについても書いてもらいたかったなと思います。淘汰されたと思った反ケインズ経済学は今も大威張りで生き続けているようですから。しかしそれはまた別の本で読むことにして、宇沢さんの他の本を読むのが楽しみです。

アダム・スミス以降の経済学の流れを(宇沢さん流にではありますが)全体として理解するのにとても良い本だと思います。

お勧めします。

『数学でつまずくのはなぜか』

10月 28th, 2014

先日、経済学者の宇沢弘文さんが亡くなりました。
私も名前くらいは知っていたのですが、長いひげをはやした変わった人だなくらいの興味しかありませんでした。

私のブログで時々参照する権丈先生のホームページに『この宇沢さんの死亡に対する小島寛之さんの追悼文が今ネットで話題になっている』という記事があったので、その追悼文を読んでみました。
http://d.hatena.ne.jp/hiroyukikojima/20140928/1411891840
確かに何とも素晴らしい追悼文ですね。
で、にわかにこの小島さんと宇沢さんに興味がわいてきました。

小島さんは大学で数学を専攻し、卒業してから塾で数学を教えていて、たまたま市民大学で宇沢さんが講師をしているのを知って受講し、宇沢さんの経済学をもっと勉強したいと経済学の大学院に入り、そのまま経済学者になってしまった人のようです。

この追悼文に書かれている宇沢さんと小島さんの師弟関係は感動するほど見事なものです。私のようにそのような師弟関係に縁のない(誰かの師になるような人間じゃないし、誰かの弟子になることもできなさそうだし)者からすると何とも羨ましい話です。

で、この小島さんの書いた本と、宇沢さんの書いた本をいくつか借りてみました。

宇沢さんの方は別に書きますが、この小島さんの書いた本の中に
 『数学でつまづくのはなぜか』 講談社現代新書
というのがあります。塾の先生をしていた時代に数学がなかなか分からない生徒がいて、その生徒にとって数学のどこがどう分からないのか、というのを考えて、分かるように指導した話と、その生徒にとって分からなかったということが数学的にどういうことなのかを検討している本です。

すぐ分からない生徒の分からない話の部分は分かりやすい話ですが、その分からないことの説明の部分は、かなり数学が分かっていないときちんと理解できないような結構本格的な内容です。数学というのは、自然に分かる人にとっては自然に分かってしまう(そのために自然に分からない人がどうして分からないのかなかなか分からない)ものだけれど、どこかで突っかかって分からなくなってしまうというのもそれほど珍しい話じゃないし、おかしな話ではない、ということが良く分かります。

自然に分かる人にとって自然に分からない人がどこで突っかかってしまっているかというのは本気にならないと分からない話ですから、数学の先生がそこまでちゃんとやってくれる人でないと、突っかかったままで『数学は分からない、数学はキライだ』ということになってしまうんだろうな、と思います。

やはり数学を専攻した人だけに説明はきちんとしていますが、その分きちんと説明しようとして、慣れない人にはちょっと面倒くさいかも知れません。

昔数学がわからなかったという経験のある人は、分からなくても当り前の話だったんだということを確認してみるのも面白いかも知れません。

お勧めします。

『防衛大学校で戦争と安全保障をどう学んだか』

10月 23rd, 2014

もうひとつお薦めの新書が「防衛大学校で戦争と安全保障をどう学んだか」という本で、祥伝社新書で出ています。著者は二人の、防衛大学校で優秀論文の表彰を受けている人で、防衛大学校を卒業後、防衛省・自衛隊を退職してこの本を書いたということで、まだ卒業したばかりの人です。

タイトルの通り、自分達がどう考えているかというより、防衛大学校でどのように教えられたかという話になっていて、勉強した内容を一般の人に分かりやすいように整理して本にしたという形のものです。

「戦争」とか「平和」とか気軽に口にする言葉ですが、その内容をきちんと整理して考えるのに良い本だと思います。また防衛大学校で、どのようなことがどのように教えられているのか、というのも興味があります。

防衛大で優秀論文を書いたほどの二人が卒業後すぐに自衛隊をやめてしまうというのは、何とも勿体ないような話です。しかし現職の自衛官が安全保障の話とか自衛権の話とかを一般に向けて話すことは規則上できないので、この本を書いたりいろんな所で話をするために二人とも自衛隊をやめたということです。確かに現職の自衛隊の将校がそんな話をし始めたら大騒ぎになってしまうでしょうから、仕方ないことなのかも知れません。

軍事や戦争について専門的な本になるとなかなか読むのが大変になってしまうんでしょうが、防衛大を出たばかりの、まだ30歳前の著者が学校で学んだことを解説しているんですから、読みやすい本になっています。

軍隊や戦争の話をすると軍国主義者のように思われ、軍隊や戦争のことを考えない、その話をしないのが反戦・平和主義だというような大きな誤解が、まだ大手をふってまかり取っている状況ではなかなか素直に読んでもらえないかも知れませんが、集団的自衛権の話や憲法9条の改正の議論をするのであれば、軍隊や戦争について少なくともこの位の知識を身につけた上で皆が考えるようになったらいいなと思います。

『石油の「埋蔵量」は誰が決めるのか』

10月 22nd, 2014

最近ブログが更新されていないというお叱りを頂いたので、ちょっと新書を2冊ほど紹介します。

1冊目は『石油の「埋蔵量」は誰が決めるのか』 岩瀬昇著 文春新書 という本です。
著者は大学を出て三井物産に入り、ずっと石油や天然ガスの事業にかかわってきた人です。その人が40年の経験を元に素人にもわかるように書いた本で、なかなか面白い本です。

日本が輸入している天然ガスは、欧米と比べて非常に高いということが折に触れてマスコミでも取り上げられますが、日本が輸入する天然ガスとアメリカやヨーロッパでパイプラインで供給される天然ガスというのは商品の性格がまるで違い、単純な値段の違いで比較できるものではない、ということが良く理解できます。

シェールガス・シェールオイルというのがエネルギー革命としてもてはやされていますが、これがうまく行くのはアメリカだけだろうという説明も納得できます。あんなイチかバチかの大勝負に一生をかける人がいて、そんな博打に大金を投資する人がいるというのは、世界でもアメリカくらいだということです。

この本の題にもなっている石油の埋蔵量の話も面白いです。「埋蔵量」に統一された定義はなく、また計算方式も様々で、その計算も時として大幅に間違っていたりする、なんて話も実例で説明されると良くわかります。

三井物産は商社として石油や天然ガスを売ったり買ったりしているわけですが、自分の所でも(子会社で)製産する立場でもあります。で、著者は石油の先物取引のディーラーとしての仕事もするのですが、基本的に差金決済の先物取引の一部として現物を売却することもあり、その立場を利用して現物の売却に伴う税金の節税をするなんて話は非常に面白い(こんなのバラしちゃって良いのかなあという)話です。

多分著者が一番言いたかったことなんだと思いますが、この本の後半でエネルギー問題について触れています。

エネルギー問題というと何となくすぐに電力の話と思い勝ちですが、実は電気にしないまま使っている石油・石炭・天然ガスがたくさんあるということを、資源エネルギー庁の資料で説明しています。

日本で使っているエネルギーの総量が21,147千兆ジュールで、そのうち9割が石油・石炭・天然ガスとなっていること。そのうち最終的に消費されているエネルギーの総量が14,527千兆ジュールで、そのうち電力は家庭用・企業用・産業用合わせて3,299千兆ジュールと、2割ちょっとにしかならないこと。また電力は発電に投入したエネルギーの半分以上が発電ロスとなってしまっていて、電力になるのは4割しかない(投入するのが9,121千兆ジュール、電力になるのが3,731千兆ジュール)ということなどの説明があります。

このような状況のため、いわゆる再生可能エネルギーについては電力の一部をこれで賄うことができたとしても、電力以外の所で使われている石油・石炭・天然ガスを再生可能エネルギーで代替するのは難しいということで、あまり重要視していません。

また日本で期待のメタンハイドレートについても何も触れていません。

いずれにしても石油・石炭・天然ガスを中心とするエネルギー問題について良くまとまっていて、参考になる本です。

本の中身とは別に、作りの方ではいかにも新書らしくいいかげんな作りになっています。縦書きの新書なので、数字も縦書きになってしまい、さすがにグラフについては横書きのグラフをそのまま縦書きの文章の中にはめ込んでいるのですが、表になると数字を縦書きにしてしまうため、たとえが123は数字の1, 2 ,3を縦に並べる、23.456だと23は数字を横に並べて、その下に小数点の「.」、その下に4, 5, 6を縦に並べるという具合で、表としてはもっとも悲惨な安直な段組みとなっています。

とはいえ、本の中の表やグラフは読まない人も多いようですから、それでも良いのかも知れませんが
(私は勿体ないので表もグラフも読むので、こんな所が気になります)。

この本の著者は実はライフネット生命の社長の岩瀬さんのお父さんです。著者が講演のレジュメとして用意していた資料が面白いというので、息子さんが知り合いの編集者に見せて、その結果がこの本になったということのようです。

ライフネット生命の社長の岩瀬さんが、こんな仕事をしている父親の息子として育ったんだという興味もありますが、そんな興味は別として、この本は十分に価値ある本だと思います。

良かったら読んでみて下さい。

GDP速報値

9月 17th, 2014

GDPの速報値の公表がマスコミで大きく取り上げられています。

まずは8月13日に1回目の速報が発表され、4-6月期の対前期(1-3月期)のGDPの落ち込みが年度換算で-6.8%となっていることを捉えて、『アベノミクスはこれまでだ』『消費税引き上げは失敗だ』『来年のさらなる消費税引き上げはできっこない』というような記事がたくさん出ました。

これに対してinswatchという保険業界向けメールマガジンにコメントを載せました(これは以下に『1回目の速報に対するコメント』として付けてあります)。

この後今度は9月8日に2回目の速報が発表され、ここでは1回目の速報で-6.8%だった成長率が-7.1%に下方修正されたのを受け、さらに『アベノミクスはもう駄目だ』という大騒ぎの記事がマスコミから出されています。

いちいち反応してみても仕様がないのですが、念のためにこの2回目の速報値を1回目のものと比べて見た所、マスコミの報道とはまるで違う姿が見えてきたので、改めてそれを『2回目の速報に対するコメント』として最後に付けてあります。

ちょっと長くなりますが、良かったら読んでみて下さい。

『1回目の速報に対するコメント』
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GDP速報値

2014年4-6月期のGNP速報値が発表され(8月13日)、景気の動向に関する議論が大にぎわいです。四半期の実質GDPの前期比の伸びが、1-3月期の+1.5%(年率換算6.1%)から4-6月期は-1.7%(年率換算-6.8%)となってしまったことで、『景気回復ももう終わり、アベノミクスもここまでだ』というような論調です。

で、本当だろうかと思ってよく見てみると、私にはまるで違って見えます。4月からの消費税の引き上げにもかかわらず、景気は順調に回復中だ、という姿が見えます。このあたりについて、書いてみます。

まず、この4-6月期の、-1.7%(年率換算-6.8%)というのは、四半期の季節調整済みの実質GDPの、対前期(1-3月期)増減比が-1.7%だということを意味しています。実質でなく名目ベースでは、-0.1%(年率換算-0.4%)ということも、発表資料には書いてあり、記事によってはこれについて触れているものもいくつかあります。実質ベースの名目ベースというのはインフレ率の調整をしているかどうか、という違いです。この実質ベースのGDPも名目ベースのGDPもどちらも季節調整済みの数字です。季節調整する前の数字については発表資料には書いてありませんから、その元となったデータを見なければなりません。
その、元データには、季節調整前の名目ベースのGDPもちゃんと計算されています。その季節調整前の名目ベースのGDPの対前期伸び率は+0.1%(年率換算+0.5%)です。すなわち、ほんのちょっとですが、前の期より増えている、ということです。

もともとGDPというのは山ほどの統計資料から作り上げるものです。季節調整前のGDPの元となる数値ができたところでインフレ率の調整をした、実質ベースのGDPの計算のための数値を計算します。それを積み上げて季節調整前の名目GDP、実質GDPを計算するのですが、さらに、その元となる数値に対して季節調整をした数値をそれぞれ計算し、それを積み上げたものが季節調整済みの名目GDP、実質GDPとなります。
すなわち、一口にGDPと言っても季節調整前の名目GDP、実質GDP、季節調整済みの名目GDP、実質GDP、と、4種類ある、ということです。
どういうわけか普通はこのうち、季節調整済みの実質GDPが最も重要な意味のあるGDPだ、ということになっているんですが、私はむしろ季節調整前の名目GDPが一番信頼できるデータだと思っています。給料が上がったとか下がったとか、企業の売り上げや利益が上がったとか下がったとか、実質ベースとか季節調整済みとかで考えることはありません。すべて季節調整なしの名目ベースで考えています。であれば、GDPも同様に考えるのが最も自然なやり方です。
季節調整済みの実質GDPと季節調整前の名目GDPの違いは、インフレ率の調整をしているかどうか、ということと、季節調整をしているかどうか、ということです。どちらの調整もしていない季節調整前の名目GDPの方が、両方の調整をしている季節調整済みの実質GDPよりも、調整によるゆがみがない分、信頼できる統計データだと思います。
特に今回のGDPの議論は、4月からの消費税の引き上げによって景気がどうなったか、をどう見るか、ということですから、これを見るには季節調整前の名目GDPを見るしかありません。
1-3月期と4-6月期は状況が大いに異なります。消費税の引き上げにより、1-3月期、あるいはもっと前の2013年の7-9月期、10-12月期には消費税引き上げ前の駆け込みの消費があり、その分4-6月期は消費が減っているはずです。また、Windows XPのサービス終了に伴うパソコン購入も1-3月期以前の消費を押し上げています。
これらの要因のため、3月以前には駆け込みで消費が増え、4月以降は消費が減ることを見越して消費材の値段も3月まではちょっと高め(でも売れるから構わない)、4月以降はちょっと低め(にして、消費税の引き上げの影響を少なくして少しでも売り上げを増やす)、というようになっています。
このような消費の時期のシフト、それに伴う価格の変動がいつ、どの程度起こっていたのかをきちんと分析するにはかなり時間がかかります。
ですから、GDPの実質値への調整、季節調整はどちらも当面は過去の実績に基づいた調整をするしかない、ということになります。それが、実質GDPあるいは季節調整済みのGDPのゆがみになってしまいます。
このGDPの元の数字の系列は見ているととても面白いのですが、一つだけ紹介しましよう。
四半期GDPの実数は、最近では大体120兆円です。2013年の10-12月期は125兆円、2013年の1-9月の3四半期はどの四半期も117-118兆円です。これが、2014年の1-3月期、4-6月期はどちらも120兆円です(4-6月期は1-3月期より0.1兆円多くなっています)。で、面白いことに2013年7-9月期から2014年4-6月期まで、毎期、前年同期と比べて2兆円増加しています(2013年10-12月期は3兆円の増加です)。
このように、前年に比べてGDPは明らかに増加しており、消費税の引き上げ直後で消費が落ち込むと思われていた4-6月期も2兆円の増となっています。
ほかにも在庫の増減など、7月以降の四半期についてもGDPが順調に伸びていきそうな数字がいろいろ見つかります。
期待して見ていきたいと思います。
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『2回目の速報に対するコメント』
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4-6月期の四半期GDPについての2回目の速報で、対前期比伸び率が年率換算で-7.1%になった(1回目では-6.8%だった)ということで、大騒ぎですね。

本当かいなと思ってみてみたら、なかなか面白いことが分かったので報告します。

結論から言うと、1回目の速報に対するコメントと同様、日本経済は順調に回復しているということが言えます。

4-6月期のGDPの季節調整前の名目値は1回目の速報で120兆6,142億円、2回目の速報では120兆6,125億円、17億円だけ減っています。率で言えば、-0.0014%です。

これが同じ期の季節調整後の実質値になると(季節調整後の数字は年率換算するので、四半期の数字の約4倍になります)、1回目の速報が525兆8,017億円、2回目の速報が525兆2,506億円と、5,511億円減少、率で言うと-0.1048%です。

すなわち-0.0014%が-0.1048%に約80倍に膨らんでしまう、あるいは-17億円が-5,511億円に約300倍になってしまう(そのうち、約4倍が四半期ベースから年換算にした影響ですから、残りは70倍程度で、80倍と大体あっています)。これが季節調整と実質化の効果です。

なお季節調整後の実質GDPが季節調整前の名目GDPの4倍より大きくなっているのは、GDPデフレーターによって実質値が水増しされているからです(GDPデフレーターでは未だにデフレの状態が続いています)。

で、この2回目の速報に関するマスコミの記事では、下方修正の主要な要因として、民間企業の設備投資が大幅に減っていることが指摘されています。ところが実はその減った分以上に民間在庫品増加が大幅に増えていることはほとんど報道されていません(これは元数字を見ればすぐわかるのですが、政府の発表資料にはここの所に数字が入っていないので、発表資料だけにもとづいて記事を書くマスコミにはわからないかもしれません)。

1回目と2回目で大きく違うのは、この民間企業の設備投資と民間在庫品増加ですから、これを実数で見てみましょう。季節調整前の名目値では民間企業設備投資が16兆81億円から15兆5,115億円に4,966億円減少、民間在庫品増加が7,839億円から1兆4,456億円に6,617億円増加。合わせて1,651億円増加しているんですが、季節調整後の実質値では民間企業設備投資が72兆7,846億円から70兆7,488億円に2兆358億円の減少、民間在庫品増加がマイナス1兆4,573億円から5,377億円に1兆9,950億円増加、合わせて408億円の減少になっています。

企業の設備投資というのは、ちょっと長期的な消費の見通しにもとづくもので、在庫品増加は短期的な消費の見通しにもとづくものです。1回目と2回目の速報値を比べると、設備投資の方は3.1%とちょっとだけ減って、在庫投資の方は84.4%増と、倍近くに増えています。

これは企業の方は7月以降の景気の動向について、かなり楽観的な見方をしているということを示しています。

結論は同じなのですが、今回の作業を通じて、またもや季節調整や実質値化は経済の実態をわかりにくくする危険な指標だなと実感しました。
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『雪はよごれていた』

9月 10th, 2014

昨日からニュースサイトは軒並み『昭和天皇実録』の話題で賑わっています。
これについてもいずれ、ところどころ読みたいな、と思いますが、多分数年後のことになりそうです。

たまたまなのですが、先週末に図書館に行き、リサイクルコーナー(『図書館では廃棄処分にするのでご自由にお持ち下さい』というコーナー)で、澤地久枝さんの『雪はよごれていた』をみつけて貰ってきました。

これは2.26事件について、検察官をやった匂坂(サキサカ)春平氏が内緒で保存していた裁判資料が昭和62年に出てきて、澤地さんがNHKの協力のもとその資料を読み解いた記録です。

匂坂氏が裁判のために集め、また自ら作成した多数の資料と、その資料に小さな字で付けた厖大な書き込みを一つ一つ読み解いて、2.26事件の本質に迫るというものです。

これを読むと2.26事件が何だったのかが良くわかります。
何人かの青年将校が部下の兵隊を使って、政府の要人を殺したクーデターのようなものですが、青年将校の方には要人を殺した後どうするかという具体的な考えがなく、悪者がいなくなれば世の中が良くなるだろう位の考えしかなく、そこで軍の上層部がクーデターの乗っ取りを謀り、実際に軍の上層部主導のクーデターに仕上げようとしたのを昭和天皇が頑強に抵抗したためにそれができず、軍の上層部はクーデターをあきらめ、一度は手を結ぼうとした青年将校たちを裏切って反逆罪(反乱罪)で処刑してしまい、その際自分達のクーデター乗っ取り計画をごまかすために北一輝等を事件の黒幕に仕立て上げた、という話です。

陸軍の法務官サイドは軍の上層部の裁判まで考えていたのに、青年将校と北一輝等の処刑で裁判は終わってしまい、軍の上層部は生き延び、クーデターは失敗に終わったけれど、その後軍の暴走を止めることはできなくなってしまったという話です。

2.26の直後、昭和天皇の弟で軍にいた秩父宮が任地の弘前から夜行列車で急遽上京するのですが、軍人たちがその秩父宮に決起を促す『進言』という文書も匂坂資料の中から見つかっています。

これも合わせて、第二大戦が終り日本軍が消滅するまでの昭和天皇の孤独と不安は大変なものだったんだろうな、と改めて思いました。

戦前の日本で、軍の暴走が誰にも止められないようになってしまう重大な事件を理解するために重要な一冊です。250頁ほどの本ですが、読みごたえあります。お勧めします。

『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』

9月 3rd, 2014

塩野七生さんの『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』を読みました。去年の12月に出ている本ですから、図書館で予約して7~8ヵ月待った上下合わせて550頁の本を一週間で読んでしまったのはちょっと勿体な
かったかなと思っています。

この本は本の頭の部分の『読者に』によると、塩野さんが処女作を出した頃からいずれは書こうと思っていたもので、45年もたってようやく順番が回ってきた、ということです。

塩野さんは最初イタリアを中心にルネサンスの話をいくつか書き、その後『ローマ人の物語』を15年にわたって毎年1冊ずつ書き続け、それが終わった所で古代ローマが亡びてからルネサンスまでの千年が残っているということで、この千年を埋めるためにまず『ローマ亡き後の地中海世界』を書き、次いで『十字軍物語』を書き、完結編としてこの『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』を書き、ルネサンスにたどり着いた(実際のルネサンスはまだ200年くらい先だけれど、このフリードリッヒ二世(と同時代に生きたアシジのフランシスコ)によってルネサンスは始まったんだ)ということです。

塩野さんは小説家でも歴史家でもなく、『物語り語り(物語を語る人)』という立場でローマ人の物語以後(実はもっと前から)一貫して本を書いています。この本もその物語として素晴らしい作品になっています。

物語である以上、その主人公に惚れるというのが作品を面白くする大きな要素ですが、その意味で『ローマ人の物語』の中でこれだけ2巻にわたって書かれたユリウス・カエサルと、同じくこの2巻にわたる本で書かれたフリードリッヒ二世が塩野さんの惚れた素晴らしい男性だということのようです。

皇帝の息子に生まれてすぐに孤児になり、ある意味放っておかれて大きくなったフリードリッヒ二世が神聖ローマ帝国の皇帝になり、法王から破門になった身でありながら十字軍に行き、戦争もしないでエルサレムを取り返し、十字軍に行っている留守を狙って領地を侵略していた法王の軍を、十字軍から帰ってあっと言う間に取り返すのですが、十字軍については『十字軍物語』に書いてあるので、簡単に書いてあります。

むしろその後シチリア王国の国王としてメルフィ憲章を作り、シチリア王国を法にもとづく立憲君主制の法治国家にしようとした時、対立する法王が異端裁判所を作り、神の法による政治をしようとしたのとの対比が見事です。

皇帝の憲法は現実に合わせて常に改正を繰り返すのに対して、法王の方は神の法は変えてはいけない。皇帝の方は聖書でイエス・キリストの言う『皇帝のものは皇帝に、神のものは神に、』に従って政教分離で行くのに対し、法王の方は『法王は太陽で皇帝は月』で、『皇帝も王も法王が勝手に任命したり首にしたりできる』と考え、神権政治をしようとする。皇帝の方は裁判は有罪が確定するまでは無罪で、有罪を立証することが求められたのに、法王の方は告訴された段階で原則有罪で、被告が無罪を証明する必要があり、それができなければ無条件で有罪、というものです。

この異端裁判所(異端審問所)はその後『教理聖庁』と名前を変えて何と今まで生き残っているという話もびっくりしてしまいます。とはいえ今はこの裁判(審問)の対象となっているのはカトリック教会の聖職者だけということになっているようなので、まあいいか、というものですが。

この憲法や裁判に関する塩野さんの書きぶりを読んで、今の日本の、憲法改正に反対するいわゆる立憲主義の法律家達のことを思い出しました。もしかすると塩野さんもこの立憲主義の法律家達を法王の側の聖職者たちと同じように見ているのかなと思います。もちろん塩野さんはそんなことをあからさまにしてロクでもない議論に巻き込まれるようなスキは見せませんが。

フリードリッヒ二世は法王との長い闘いの中で50歳ちょっとで死んでしまうのですが、その後執念深い法王達(直接対決した法王はフリードリッヒ二世が死んですぐに死んでしまうのですが、その後の法王たちも前の法王にならってフリードリッヒ二世の後継者潰しに全力を上げます)によってフリードリッヒ二世の王国は滅ぼされ、子孫も滅ぼされてしまいます。

その過程で軍隊を持たない法王はフランス王に応援を求め、その結果フランス王の力が強大になり、法王が70年以上もフランス王に拉致・監禁される『アヴィニオンの捕囚』という話につながります。

フリードリッヒ二世はやろうと思えばできたんでしょうが、『皇帝のものは皇帝に、神のものは神に、』の言葉に忠実に、自分の領分については法王の介入を排除しても、法王の領分には手出しをしなかったので、それで生き残った法王にやられてしまったという構図のようです。

この本の最後、塩野さんがフリードリッヒ二世の終焉の地の廃墟を訪れる所は、いつものように感動的な締めくくりになっています。ここは直接読んでもらいたいので、楽しみにしておいてください。

この本で、古代ローマ帝国が滅んでからルネサンスに至る空白の千年が埋まってしまったわけで、さて次は塩野さんは何を書くんだろうと思っています。塩野さんももう80歳近くなり、引退してもおかしくない歳になっています。この本の中でも初めのところに所々『アレッ』と思うような文章の乱れもちょっとありましたが、読み終わってみるとまだまだしっかりした感動的な本になっています。またこの手の人は基本的には『引退』などということを考えない人のはずです。

私としてはルネサンスを超え、絶対王制のあとに再度ローマの再生を目指したナポレオンを書いてくれると嬉しいなと思うのですが、今まで塩野さんの書き物ではこの人はほとんど登場していないので、さてどうなりますか。

とにかく2巻合わせて550頁の大作ですが、面白くて一気に読めます。
興味があったら読んでみて下さい。