『数学でつまずくのはなぜか』

10月 28th, 2014

先日、経済学者の宇沢弘文さんが亡くなりました。
私も名前くらいは知っていたのですが、長いひげをはやした変わった人だなくらいの興味しかありませんでした。

私のブログで時々参照する権丈先生のホームページに『この宇沢さんの死亡に対する小島寛之さんの追悼文が今ネットで話題になっている』という記事があったので、その追悼文を読んでみました。
http://d.hatena.ne.jp/hiroyukikojima/20140928/1411891840
確かに何とも素晴らしい追悼文ですね。
で、にわかにこの小島さんと宇沢さんに興味がわいてきました。

小島さんは大学で数学を専攻し、卒業してから塾で数学を教えていて、たまたま市民大学で宇沢さんが講師をしているのを知って受講し、宇沢さんの経済学をもっと勉強したいと経済学の大学院に入り、そのまま経済学者になってしまった人のようです。

この追悼文に書かれている宇沢さんと小島さんの師弟関係は感動するほど見事なものです。私のようにそのような師弟関係に縁のない(誰かの師になるような人間じゃないし、誰かの弟子になることもできなさそうだし)者からすると何とも羨ましい話です。

で、この小島さんの書いた本と、宇沢さんの書いた本をいくつか借りてみました。

宇沢さんの方は別に書きますが、この小島さんの書いた本の中に
 『数学でつまづくのはなぜか』 講談社現代新書
というのがあります。塾の先生をしていた時代に数学がなかなか分からない生徒がいて、その生徒にとって数学のどこがどう分からないのか、というのを考えて、分かるように指導した話と、その生徒にとって分からなかったということが数学的にどういうことなのかを検討している本です。

すぐ分からない生徒の分からない話の部分は分かりやすい話ですが、その分からないことの説明の部分は、かなり数学が分かっていないときちんと理解できないような結構本格的な内容です。数学というのは、自然に分かる人にとっては自然に分かってしまう(そのために自然に分からない人がどうして分からないのかなかなか分からない)ものだけれど、どこかで突っかかって分からなくなってしまうというのもそれほど珍しい話じゃないし、おかしな話ではない、ということが良く分かります。

自然に分かる人にとって自然に分からない人がどこで突っかかってしまっているかというのは本気にならないと分からない話ですから、数学の先生がそこまでちゃんとやってくれる人でないと、突っかかったままで『数学は分からない、数学はキライだ』ということになってしまうんだろうな、と思います。

やはり数学を専攻した人だけに説明はきちんとしていますが、その分きちんと説明しようとして、慣れない人にはちょっと面倒くさいかも知れません。

昔数学がわからなかったという経験のある人は、分からなくても当り前の話だったんだということを確認してみるのも面白いかも知れません。

お勧めします。

『防衛大学校で戦争と安全保障をどう学んだか』

10月 23rd, 2014

もうひとつお薦めの新書が「防衛大学校で戦争と安全保障をどう学んだか」という本で、祥伝社新書で出ています。著者は二人の、防衛大学校で優秀論文の表彰を受けている人で、防衛大学校を卒業後、防衛省・自衛隊を退職してこの本を書いたということで、まだ卒業したばかりの人です。

タイトルの通り、自分達がどう考えているかというより、防衛大学校でどのように教えられたかという話になっていて、勉強した内容を一般の人に分かりやすいように整理して本にしたという形のものです。

「戦争」とか「平和」とか気軽に口にする言葉ですが、その内容をきちんと整理して考えるのに良い本だと思います。また防衛大学校で、どのようなことがどのように教えられているのか、というのも興味があります。

防衛大で優秀論文を書いたほどの二人が卒業後すぐに自衛隊をやめてしまうというのは、何とも勿体ないような話です。しかし現職の自衛官が安全保障の話とか自衛権の話とかを一般に向けて話すことは規則上できないので、この本を書いたりいろんな所で話をするために二人とも自衛隊をやめたということです。確かに現職の自衛隊の将校がそんな話をし始めたら大騒ぎになってしまうでしょうから、仕方ないことなのかも知れません。

軍事や戦争について専門的な本になるとなかなか読むのが大変になってしまうんでしょうが、防衛大を出たばかりの、まだ30歳前の著者が学校で学んだことを解説しているんですから、読みやすい本になっています。

軍隊や戦争の話をすると軍国主義者のように思われ、軍隊や戦争のことを考えない、その話をしないのが反戦・平和主義だというような大きな誤解が、まだ大手をふってまかり取っている状況ではなかなか素直に読んでもらえないかも知れませんが、集団的自衛権の話や憲法9条の改正の議論をするのであれば、軍隊や戦争について少なくともこの位の知識を身につけた上で皆が考えるようになったらいいなと思います。

『石油の「埋蔵量」は誰が決めるのか』

10月 22nd, 2014

最近ブログが更新されていないというお叱りを頂いたので、ちょっと新書を2冊ほど紹介します。

1冊目は『石油の「埋蔵量」は誰が決めるのか』 岩瀬昇著 文春新書 という本です。
著者は大学を出て三井物産に入り、ずっと石油や天然ガスの事業にかかわってきた人です。その人が40年の経験を元に素人にもわかるように書いた本で、なかなか面白い本です。

日本が輸入している天然ガスは、欧米と比べて非常に高いということが折に触れてマスコミでも取り上げられますが、日本が輸入する天然ガスとアメリカやヨーロッパでパイプラインで供給される天然ガスというのは商品の性格がまるで違い、単純な値段の違いで比較できるものではない、ということが良く理解できます。

シェールガス・シェールオイルというのがエネルギー革命としてもてはやされていますが、これがうまく行くのはアメリカだけだろうという説明も納得できます。あんなイチかバチかの大勝負に一生をかける人がいて、そんな博打に大金を投資する人がいるというのは、世界でもアメリカくらいだということです。

この本の題にもなっている石油の埋蔵量の話も面白いです。「埋蔵量」に統一された定義はなく、また計算方式も様々で、その計算も時として大幅に間違っていたりする、なんて話も実例で説明されると良くわかります。

三井物産は商社として石油や天然ガスを売ったり買ったりしているわけですが、自分の所でも(子会社で)製産する立場でもあります。で、著者は石油の先物取引のディーラーとしての仕事もするのですが、基本的に差金決済の先物取引の一部として現物を売却することもあり、その立場を利用して現物の売却に伴う税金の節税をするなんて話は非常に面白い(こんなのバラしちゃって良いのかなあという)話です。

多分著者が一番言いたかったことなんだと思いますが、この本の後半でエネルギー問題について触れています。

エネルギー問題というと何となくすぐに電力の話と思い勝ちですが、実は電気にしないまま使っている石油・石炭・天然ガスがたくさんあるということを、資源エネルギー庁の資料で説明しています。

日本で使っているエネルギーの総量が21,147千兆ジュールで、そのうち9割が石油・石炭・天然ガスとなっていること。そのうち最終的に消費されているエネルギーの総量が14,527千兆ジュールで、そのうち電力は家庭用・企業用・産業用合わせて3,299千兆ジュールと、2割ちょっとにしかならないこと。また電力は発電に投入したエネルギーの半分以上が発電ロスとなってしまっていて、電力になるのは4割しかない(投入するのが9,121千兆ジュール、電力になるのが3,731千兆ジュール)ということなどの説明があります。

このような状況のため、いわゆる再生可能エネルギーについては電力の一部をこれで賄うことができたとしても、電力以外の所で使われている石油・石炭・天然ガスを再生可能エネルギーで代替するのは難しいということで、あまり重要視していません。

また日本で期待のメタンハイドレートについても何も触れていません。

いずれにしても石油・石炭・天然ガスを中心とするエネルギー問題について良くまとまっていて、参考になる本です。

本の中身とは別に、作りの方ではいかにも新書らしくいいかげんな作りになっています。縦書きの新書なので、数字も縦書きになってしまい、さすがにグラフについては横書きのグラフをそのまま縦書きの文章の中にはめ込んでいるのですが、表になると数字を縦書きにしてしまうため、たとえが123は数字の1, 2 ,3を縦に並べる、23.456だと23は数字を横に並べて、その下に小数点の「.」、その下に4, 5, 6を縦に並べるという具合で、表としてはもっとも悲惨な安直な段組みとなっています。

とはいえ、本の中の表やグラフは読まない人も多いようですから、それでも良いのかも知れませんが
(私は勿体ないので表もグラフも読むので、こんな所が気になります)。

この本の著者は実はライフネット生命の社長の岩瀬さんのお父さんです。著者が講演のレジュメとして用意していた資料が面白いというので、息子さんが知り合いの編集者に見せて、その結果がこの本になったということのようです。

ライフネット生命の社長の岩瀬さんが、こんな仕事をしている父親の息子として育ったんだという興味もありますが、そんな興味は別として、この本は十分に価値ある本だと思います。

良かったら読んでみて下さい。

GDP速報値

9月 17th, 2014

GDPの速報値の公表がマスコミで大きく取り上げられています。

まずは8月13日に1回目の速報が発表され、4-6月期の対前期(1-3月期)のGDPの落ち込みが年度換算で-6.8%となっていることを捉えて、『アベノミクスはこれまでだ』『消費税引き上げは失敗だ』『来年のさらなる消費税引き上げはできっこない』というような記事がたくさん出ました。

これに対してinswatchという保険業界向けメールマガジンにコメントを載せました(これは以下に『1回目の速報に対するコメント』として付けてあります)。

この後今度は9月8日に2回目の速報が発表され、ここでは1回目の速報で-6.8%だった成長率が-7.1%に下方修正されたのを受け、さらに『アベノミクスはもう駄目だ』という大騒ぎの記事がマスコミから出されています。

いちいち反応してみても仕様がないのですが、念のためにこの2回目の速報値を1回目のものと比べて見た所、マスコミの報道とはまるで違う姿が見えてきたので、改めてそれを『2回目の速報に対するコメント』として最後に付けてあります。

ちょっと長くなりますが、良かったら読んでみて下さい。

『1回目の速報に対するコメント』
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GDP速報値

2014年4-6月期のGNP速報値が発表され(8月13日)、景気の動向に関する議論が大にぎわいです。四半期の実質GDPの前期比の伸びが、1-3月期の+1.5%(年率換算6.1%)から4-6月期は-1.7%(年率換算-6.8%)となってしまったことで、『景気回復ももう終わり、アベノミクスもここまでだ』というような論調です。

で、本当だろうかと思ってよく見てみると、私にはまるで違って見えます。4月からの消費税の引き上げにもかかわらず、景気は順調に回復中だ、という姿が見えます。このあたりについて、書いてみます。

まず、この4-6月期の、-1.7%(年率換算-6.8%)というのは、四半期の季節調整済みの実質GDPの、対前期(1-3月期)増減比が-1.7%だということを意味しています。実質でなく名目ベースでは、-0.1%(年率換算-0.4%)ということも、発表資料には書いてあり、記事によってはこれについて触れているものもいくつかあります。実質ベースの名目ベースというのはインフレ率の調整をしているかどうか、という違いです。この実質ベースのGDPも名目ベースのGDPもどちらも季節調整済みの数字です。季節調整する前の数字については発表資料には書いてありませんから、その元となったデータを見なければなりません。
その、元データには、季節調整前の名目ベースのGDPもちゃんと計算されています。その季節調整前の名目ベースのGDPの対前期伸び率は+0.1%(年率換算+0.5%)です。すなわち、ほんのちょっとですが、前の期より増えている、ということです。

もともとGDPというのは山ほどの統計資料から作り上げるものです。季節調整前のGDPの元となる数値ができたところでインフレ率の調整をした、実質ベースのGDPの計算のための数値を計算します。それを積み上げて季節調整前の名目GDP、実質GDPを計算するのですが、さらに、その元となる数値に対して季節調整をした数値をそれぞれ計算し、それを積み上げたものが季節調整済みの名目GDP、実質GDPとなります。
すなわち、一口にGDPと言っても季節調整前の名目GDP、実質GDP、季節調整済みの名目GDP、実質GDP、と、4種類ある、ということです。
どういうわけか普通はこのうち、季節調整済みの実質GDPが最も重要な意味のあるGDPだ、ということになっているんですが、私はむしろ季節調整前の名目GDPが一番信頼できるデータだと思っています。給料が上がったとか下がったとか、企業の売り上げや利益が上がったとか下がったとか、実質ベースとか季節調整済みとかで考えることはありません。すべて季節調整なしの名目ベースで考えています。であれば、GDPも同様に考えるのが最も自然なやり方です。
季節調整済みの実質GDPと季節調整前の名目GDPの違いは、インフレ率の調整をしているかどうか、ということと、季節調整をしているかどうか、ということです。どちらの調整もしていない季節調整前の名目GDPの方が、両方の調整をしている季節調整済みの実質GDPよりも、調整によるゆがみがない分、信頼できる統計データだと思います。
特に今回のGDPの議論は、4月からの消費税の引き上げによって景気がどうなったか、をどう見るか、ということですから、これを見るには季節調整前の名目GDPを見るしかありません。
1-3月期と4-6月期は状況が大いに異なります。消費税の引き上げにより、1-3月期、あるいはもっと前の2013年の7-9月期、10-12月期には消費税引き上げ前の駆け込みの消費があり、その分4-6月期は消費が減っているはずです。また、Windows XPのサービス終了に伴うパソコン購入も1-3月期以前の消費を押し上げています。
これらの要因のため、3月以前には駆け込みで消費が増え、4月以降は消費が減ることを見越して消費材の値段も3月まではちょっと高め(でも売れるから構わない)、4月以降はちょっと低め(にして、消費税の引き上げの影響を少なくして少しでも売り上げを増やす)、というようになっています。
このような消費の時期のシフト、それに伴う価格の変動がいつ、どの程度起こっていたのかをきちんと分析するにはかなり時間がかかります。
ですから、GDPの実質値への調整、季節調整はどちらも当面は過去の実績に基づいた調整をするしかない、ということになります。それが、実質GDPあるいは季節調整済みのGDPのゆがみになってしまいます。
このGDPの元の数字の系列は見ているととても面白いのですが、一つだけ紹介しましよう。
四半期GDPの実数は、最近では大体120兆円です。2013年の10-12月期は125兆円、2013年の1-9月の3四半期はどの四半期も117-118兆円です。これが、2014年の1-3月期、4-6月期はどちらも120兆円です(4-6月期は1-3月期より0.1兆円多くなっています)。で、面白いことに2013年7-9月期から2014年4-6月期まで、毎期、前年同期と比べて2兆円増加しています(2013年10-12月期は3兆円の増加です)。
このように、前年に比べてGDPは明らかに増加しており、消費税の引き上げ直後で消費が落ち込むと思われていた4-6月期も2兆円の増となっています。
ほかにも在庫の増減など、7月以降の四半期についてもGDPが順調に伸びていきそうな数字がいろいろ見つかります。
期待して見ていきたいと思います。
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『2回目の速報に対するコメント』
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4-6月期の四半期GDPについての2回目の速報で、対前期比伸び率が年率換算で-7.1%になった(1回目では-6.8%だった)ということで、大騒ぎですね。

本当かいなと思ってみてみたら、なかなか面白いことが分かったので報告します。

結論から言うと、1回目の速報に対するコメントと同様、日本経済は順調に回復しているということが言えます。

4-6月期のGDPの季節調整前の名目値は1回目の速報で120兆6,142億円、2回目の速報では120兆6,125億円、17億円だけ減っています。率で言えば、-0.0014%です。

これが同じ期の季節調整後の実質値になると(季節調整後の数字は年率換算するので、四半期の数字の約4倍になります)、1回目の速報が525兆8,017億円、2回目の速報が525兆2,506億円と、5,511億円減少、率で言うと-0.1048%です。

すなわち-0.0014%が-0.1048%に約80倍に膨らんでしまう、あるいは-17億円が-5,511億円に約300倍になってしまう(そのうち、約4倍が四半期ベースから年換算にした影響ですから、残りは70倍程度で、80倍と大体あっています)。これが季節調整と実質化の効果です。

なお季節調整後の実質GDPが季節調整前の名目GDPの4倍より大きくなっているのは、GDPデフレーターによって実質値が水増しされているからです(GDPデフレーターでは未だにデフレの状態が続いています)。

で、この2回目の速報に関するマスコミの記事では、下方修正の主要な要因として、民間企業の設備投資が大幅に減っていることが指摘されています。ところが実はその減った分以上に民間在庫品増加が大幅に増えていることはほとんど報道されていません(これは元数字を見ればすぐわかるのですが、政府の発表資料にはここの所に数字が入っていないので、発表資料だけにもとづいて記事を書くマスコミにはわからないかもしれません)。

1回目と2回目で大きく違うのは、この民間企業の設備投資と民間在庫品増加ですから、これを実数で見てみましょう。季節調整前の名目値では民間企業設備投資が16兆81億円から15兆5,115億円に4,966億円減少、民間在庫品増加が7,839億円から1兆4,456億円に6,617億円増加。合わせて1,651億円増加しているんですが、季節調整後の実質値では民間企業設備投資が72兆7,846億円から70兆7,488億円に2兆358億円の減少、民間在庫品増加がマイナス1兆4,573億円から5,377億円に1兆9,950億円増加、合わせて408億円の減少になっています。

企業の設備投資というのは、ちょっと長期的な消費の見通しにもとづくもので、在庫品増加は短期的な消費の見通しにもとづくものです。1回目と2回目の速報値を比べると、設備投資の方は3.1%とちょっとだけ減って、在庫投資の方は84.4%増と、倍近くに増えています。

これは企業の方は7月以降の景気の動向について、かなり楽観的な見方をしているということを示しています。

結論は同じなのですが、今回の作業を通じて、またもや季節調整や実質値化は経済の実態をわかりにくくする危険な指標だなと実感しました。
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『雪はよごれていた』

9月 10th, 2014

昨日からニュースサイトは軒並み『昭和天皇実録』の話題で賑わっています。
これについてもいずれ、ところどころ読みたいな、と思いますが、多分数年後のことになりそうです。

たまたまなのですが、先週末に図書館に行き、リサイクルコーナー(『図書館では廃棄処分にするのでご自由にお持ち下さい』というコーナー)で、澤地久枝さんの『雪はよごれていた』をみつけて貰ってきました。

これは2.26事件について、検察官をやった匂坂(サキサカ)春平氏が内緒で保存していた裁判資料が昭和62年に出てきて、澤地さんがNHKの協力のもとその資料を読み解いた記録です。

匂坂氏が裁判のために集め、また自ら作成した多数の資料と、その資料に小さな字で付けた厖大な書き込みを一つ一つ読み解いて、2.26事件の本質に迫るというものです。

これを読むと2.26事件が何だったのかが良くわかります。
何人かの青年将校が部下の兵隊を使って、政府の要人を殺したクーデターのようなものですが、青年将校の方には要人を殺した後どうするかという具体的な考えがなく、悪者がいなくなれば世の中が良くなるだろう位の考えしかなく、そこで軍の上層部がクーデターの乗っ取りを謀り、実際に軍の上層部主導のクーデターに仕上げようとしたのを昭和天皇が頑強に抵抗したためにそれができず、軍の上層部はクーデターをあきらめ、一度は手を結ぼうとした青年将校たちを裏切って反逆罪(反乱罪)で処刑してしまい、その際自分達のクーデター乗っ取り計画をごまかすために北一輝等を事件の黒幕に仕立て上げた、という話です。

陸軍の法務官サイドは軍の上層部の裁判まで考えていたのに、青年将校と北一輝等の処刑で裁判は終わってしまい、軍の上層部は生き延び、クーデターは失敗に終わったけれど、その後軍の暴走を止めることはできなくなってしまったという話です。

2.26の直後、昭和天皇の弟で軍にいた秩父宮が任地の弘前から夜行列車で急遽上京するのですが、軍人たちがその秩父宮に決起を促す『進言』という文書も匂坂資料の中から見つかっています。

これも合わせて、第二大戦が終り日本軍が消滅するまでの昭和天皇の孤独と不安は大変なものだったんだろうな、と改めて思いました。

戦前の日本で、軍の暴走が誰にも止められないようになってしまう重大な事件を理解するために重要な一冊です。250頁ほどの本ですが、読みごたえあります。お勧めします。

『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』

9月 3rd, 2014

塩野七生さんの『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』を読みました。去年の12月に出ている本ですから、図書館で予約して7~8ヵ月待った上下合わせて550頁の本を一週間で読んでしまったのはちょっと勿体な
かったかなと思っています。

この本は本の頭の部分の『読者に』によると、塩野さんが処女作を出した頃からいずれは書こうと思っていたもので、45年もたってようやく順番が回ってきた、ということです。

塩野さんは最初イタリアを中心にルネサンスの話をいくつか書き、その後『ローマ人の物語』を15年にわたって毎年1冊ずつ書き続け、それが終わった所で古代ローマが亡びてからルネサンスまでの千年が残っているということで、この千年を埋めるためにまず『ローマ亡き後の地中海世界』を書き、次いで『十字軍物語』を書き、完結編としてこの『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』を書き、ルネサンスにたどり着いた(実際のルネサンスはまだ200年くらい先だけれど、このフリードリッヒ二世(と同時代に生きたアシジのフランシスコ)によってルネサンスは始まったんだ)ということです。

塩野さんは小説家でも歴史家でもなく、『物語り語り(物語を語る人)』という立場でローマ人の物語以後(実はもっと前から)一貫して本を書いています。この本もその物語として素晴らしい作品になっています。

物語である以上、その主人公に惚れるというのが作品を面白くする大きな要素ですが、その意味で『ローマ人の物語』の中でこれだけ2巻にわたって書かれたユリウス・カエサルと、同じくこの2巻にわたる本で書かれたフリードリッヒ二世が塩野さんの惚れた素晴らしい男性だということのようです。

皇帝の息子に生まれてすぐに孤児になり、ある意味放っておかれて大きくなったフリードリッヒ二世が神聖ローマ帝国の皇帝になり、法王から破門になった身でありながら十字軍に行き、戦争もしないでエルサレムを取り返し、十字軍に行っている留守を狙って領地を侵略していた法王の軍を、十字軍から帰ってあっと言う間に取り返すのですが、十字軍については『十字軍物語』に書いてあるので、簡単に書いてあります。

むしろその後シチリア王国の国王としてメルフィ憲章を作り、シチリア王国を法にもとづく立憲君主制の法治国家にしようとした時、対立する法王が異端裁判所を作り、神の法による政治をしようとしたのとの対比が見事です。

皇帝の憲法は現実に合わせて常に改正を繰り返すのに対して、法王の方は神の法は変えてはいけない。皇帝の方は聖書でイエス・キリストの言う『皇帝のものは皇帝に、神のものは神に、』に従って政教分離で行くのに対し、法王の方は『法王は太陽で皇帝は月』で、『皇帝も王も法王が勝手に任命したり首にしたりできる』と考え、神権政治をしようとする。皇帝の方は裁判は有罪が確定するまでは無罪で、有罪を立証することが求められたのに、法王の方は告訴された段階で原則有罪で、被告が無罪を証明する必要があり、それができなければ無条件で有罪、というものです。

この異端裁判所(異端審問所)はその後『教理聖庁』と名前を変えて何と今まで生き残っているという話もびっくりしてしまいます。とはいえ今はこの裁判(審問)の対象となっているのはカトリック教会の聖職者だけということになっているようなので、まあいいか、というものですが。

この憲法や裁判に関する塩野さんの書きぶりを読んで、今の日本の、憲法改正に反対するいわゆる立憲主義の法律家達のことを思い出しました。もしかすると塩野さんもこの立憲主義の法律家達を法王の側の聖職者たちと同じように見ているのかなと思います。もちろん塩野さんはそんなことをあからさまにしてロクでもない議論に巻き込まれるようなスキは見せませんが。

フリードリッヒ二世は法王との長い闘いの中で50歳ちょっとで死んでしまうのですが、その後執念深い法王達(直接対決した法王はフリードリッヒ二世が死んですぐに死んでしまうのですが、その後の法王たちも前の法王にならってフリードリッヒ二世の後継者潰しに全力を上げます)によってフリードリッヒ二世の王国は滅ぼされ、子孫も滅ぼされてしまいます。

その過程で軍隊を持たない法王はフランス王に応援を求め、その結果フランス王の力が強大になり、法王が70年以上もフランス王に拉致・監禁される『アヴィニオンの捕囚』という話につながります。

フリードリッヒ二世はやろうと思えばできたんでしょうが、『皇帝のものは皇帝に、神のものは神に、』の言葉に忠実に、自分の領分については法王の介入を排除しても、法王の領分には手出しをしなかったので、それで生き残った法王にやられてしまったという構図のようです。

この本の最後、塩野さんがフリードリッヒ二世の終焉の地の廃墟を訪れる所は、いつものように感動的な締めくくりになっています。ここは直接読んでもらいたいので、楽しみにしておいてください。

この本で、古代ローマ帝国が滅んでからルネサンスに至る空白の千年が埋まってしまったわけで、さて次は塩野さんは何を書くんだろうと思っています。塩野さんももう80歳近くなり、引退してもおかしくない歳になっています。この本の中でも初めのところに所々『アレッ』と思うような文章の乱れもちょっとありましたが、読み終わってみるとまだまだしっかりした感動的な本になっています。またこの手の人は基本的には『引退』などということを考えない人のはずです。

私としてはルネサンスを超え、絶対王制のあとに再度ローマの再生を目指したナポレオンを書いてくれると嬉しいなと思うのですが、今まで塩野さんの書き物ではこの人はほとんど登場していないので、さてどうなりますか。

とにかく2巻合わせて550頁の大作ですが、面白くて一気に読めます。
興味があったら読んでみて下さい。

植物の本・・・2冊

8月 18th, 2014

しばらく前、植物が雨に濡れる話の本(『作物にとって雨とは何か』)を読みました。

これで改めて『植物』というものが面白くなって、何か読んでみようと思いました。とはいえ専門書みたいなものはちょっと読めないなと思って、そうだ、ブルーバックスという手があるじゃないかと思いつきました。

そこで『植物』と『ブルーバックス』とのキーワードで検索し、面白そうな本を借りて読んだうちの2冊を紹介します。

ひとつは『エンジニアから見た植物のしくみ』というもので、もともとの植物学者でないエンジニアが仕事の関係で植物の勉強をし、感じたこと、わかったことが書いてあります。話題も具体的で、茎と幹の違い、葉の形、根の役割、花、種子、環境(光・乾燥・低温・高温・有害物質・大気汚染またウィルス・外敵・病原菌等)に適応する仕組み、などになっています。このあたり、エンジニアの視点でいろいろ考えたりしているので、わかりやすく面白い本です。

著者は工場の廃棄ガスの窒素酸化物を含む二酸化炭素ガスを与えて水中の藻を増やす仕組みを工業化しようとしており(これで、排気ガス対策と、地球温暖化対策の両方を一度に片付け、さらにバイオの再生可能エネルギーを手に入れようという虫のいい話です)、藻類の話もいろいろ書いてあります。

もう一つの本が『植物はなぜ5000年も生きるのか』というもので、題名からすると植物の本のようですが、サブタイトルが『生物にとって寿命とは何か』になっているように、植物についてだけでなく動物も細菌も全てひっくるめた生物全体の話を『寿命』というテーマでまとめて解説しています。

生物全体の本というのはどうしても動物中心になってしまいがちなのですが、この本は著者が植物生態学の専門家ということもあって、動物と植物の取り上げ方のバランスが絶妙で楽しく読めます。

この本のテーマの『寿命』というのは平均寿命ではなく最長寿命のことです。動物にしても植物にしても最初のうちに圧倒的に多くが死んでしまうので、平均寿命を計算したら数千年生きる屋久杉でもせいぜい1-2年くらいだろうなんて話で、若死するものは除外して、生物は種ごとに最高何年生きられるんだろうという話です。

動物は組織が分化し、その組織の細胞が死ぬと新しい細胞が置き換わっていき、生きている細胞だけでできていて、ある組織の細胞がみんな死んでしまうとその動物自体が死んでしまう。これに対して植物は細胞が死ぬとその抜け殻が残り、生きている細胞と死んだ細胞の抜け殻でその植物が構成され、長寿の樹などではほとんどが死んだ細胞の抜け殻だ(我々か普通、木、だと思っている部分は、そのほとんどが抜け殻の部分のようです)とか、何千年も生きている屋久杉などでもほとんどが死んだ細胞の抜け殻で、生きている部分はせいぜい30年くらいの寿命だ(次々に新しい部分ができていき、古い部分は死んで抜け殻になっていく)なんて話は面白かったです。

寿命に関しては、昔(20世紀の前半頃)は『細胞は適当な環境で培養すれば無限に分裂を繰り返す』という説が一般に信じられていて(それを証明したカレルという学者がノーベル賞を取った大先生だったこともあったようですが)、それをひっくり返したヘイブリックがその間違いを指摘するまで約半世紀もかかったなんて話も出ていて、最近の小保方さんの大騒ぎと合わせて興味深いものでした(このカレル先生の間違いは培養液に生きた細胞が混じっていて、その細胞が生きていることをもともと細胞が生きているものと思い違いしたということのようです。と言ってしまうと簡単ですが、半世紀にわたって学会の常識となっていた大先生の教えをひっくり返すのは大変だっただろうなと思います)。

また『ヒガンバナ』いう植物は、花は咲くけれど種子はできないので、球根で増える。すなわち全て元のもののクローンで、このヒガンバナ、縄文時代に日本に持ち込まれてそれが日本中に広まったものだということで、だとするとヒガンバナは縄文の時代からずっと生き続けている寿命何千年というものだろうかという話、動物の寿命は受精してから数えても卵あるいは親から生まれた時から数えても大した違いはないけれど、植物の場合受精してから数えるのか、種子ができた時から数えるのか、種子が親から離れた時から数えるのか、発芽した時から数えるのか(種子のままで千年も眠っていて発芽するものもある)なんて話もあります。一口に寿命と言っても、なかなか一筋縄にはいきません。

樹木が根から水を吸い上げる仕組みの話もあります。理論的には450mまで吸い上げることができるのに、実際の木の高さはせいぜい200mくらいだとのことです。またヒイラギの葉は若い時はギザギザになっていて棘のようになっているけれど、歳をとると丸くなるなんて話もあります。動物は歳をとると生殖能力がなくなるけれど、植物は歳をとっても生殖能力は変わらない、なんて話もあります。

もともとこの著者は大学院生になった時、先生に『目は良いか』と聞かれ、『良いです』と答えたら『じゃ、年輪でも数えるか』と言われて屋久杉の年輪を数えるようになったようです。樹齢1500年くらいの年輪を数えるのに、切り株の上にうつ伏せになって表面をノミで削りながら数えて、だいたい半日くらいかかるようですが、一つの年輪について、2つの方向から数えてそれが合わないとダメなんだけれど、なかなか合わなくて往生する、なんて話を読むと嬉しくなってしまいます。

面白そうだと思ったら読んでみて下さい。

戦争

7月 29th, 2014

今年は日清戦争がはじまってから120年、日露戦争が始まってから110年、第一次大戦がはじまってから100年の記念の年です。

第一次大戦については、以前『世界恐慌』という本でも読んだし、第一次大戦中のドイツの飢餓については『カブラの冬』という本でも読んでいます。

安倍内閣が集団的自衛権の行使容認の閣議決定をし、国会の閉会中審議で2日にわたって衆参両院で審議が行われ、その様子がテレビで実況中継されていたので会社でもテレビを付けっぱなしにして見ていました(とは言えまじめに聞くほどのものではないので他のことをしながら時々見ていた、位のものですが)。

で、そうしながら戦争についていろいろ考えたことを書いてみます。

まず第一にこの集団的自衛権の行使に反対する人達の意見で良く見られるものが、集団的自衛権の行使容認は即座に日本が戦争できる国になり、日本が戦争する国になり、すぐにでも戦争が始まってしまうかのような意見です。

戦争というのはそんなに単純なものではなく、戦争をしようと思ったからと言って戦争になるわけのものでもなく、戦争をしないようにしようと思っても戦争をしないわけにいかなくなったりするものです。

戦争というのは軍隊がするもので、戦争が始まると真っ先に死ぬのは軍人ですから軍人というのは基本的に戦争に反対です。軍人でない人がいくら戦争をしたがっても、軍人が動かなければ戦争にはなりません。

また逆に、日本が戦争ができない国であれば戦争にならない、というのもまるで無茶な話です。どこかの国が本気で日本と戦争をするつもりで爆弾を打ち込んでくれば、当然戦争になってしまいます。

次に、日本の存在感についての無感覚にもあきれ果ててしまいます。第二次大戦後丸焼け丸裸になった日本列島と無条件降伏させられた日本軍が、そのまま続いているかのような感覚しかないというのは驚くべきことです。

戦後60数年、今や日本は経済大国であると同時に軍事大国でもあり、世界でも有数の強い軍隊を持っているという感覚がまるでない、ということには驚いてしまいます。日本という国を仮に外から見たとすれば、次のように見えるのではないでしょうか。すなわち、その昔ヤクザの出入りで何人か人を殺してしまった男が刑務所から出てきて、『自分はもう改心したから人殺しなど絶対にしません』等と言いながら、気がついたらいつの間にか拳銃とか日本刀とか機関銃とかまで持っていじくり回している。そんな男がいくら『もう絶対に人殺しなどしません』なんて言っても、かえって恐ろしい。それだけの武器を持ってるんだったら『いざとなったら受けて立つぞ』位のことを言った方がよっぽど安心できる。・・・というようなものじゃないでしょうか。

自分は武器を持っていて、必要になったら使うよ、と言えば、周りの国も『じゃ、仲良くしよう』と言うことができますが、武器をいじくり回しながら『絶対に使わない』なんて言っていたら危なっかしくて仲良くしようということができない、ということです。

軍事力を持つ国がそれ相応の存在感を自覚し、周囲にそれを認識させておくことが戦争を回避するのに大いに役立ちます。

第一次大戦でドイツが負けたのは、ロシアとイギリスの出方を見誤ったからです。ロシアとイギリスがあんなに早く戦争に参加するとは思っていなかったので、その前にさっさとフランスを負かして戦争を終わらせてしまえる、とドイツは思ってしまったわけです。

第二次大戦でもドイツはイギリスとアメリカの反応を見誤っています。ドイツが思っていたのより早くイギリスが反ドイツで戦争に参加してしまい、それに引きずられて(日米戦争が始まったこともありますが)アメリカも本気で戦争に参加してしまったので、ドイツは負けてしまったということです。戦争が始まって、チャーチルが一番熱心にやったことが、アメリカを戦争に引っ張り出すことだったようですから。

戦争が始まる前にロシアにしてもイギリス・アメリカにしても、ドイツが戦争を始めたら自分達はどう動くかということを明確にしていたらドイツも負ける戦争を始めることはなかったでしょう。

戦争というのは大きな損害をもたらすものですから、負ける戦争、負けるかもしれない戦争は絶対にしてはならないものです。絶対に勝てるという確信があって初めて戦争を始めることになります。

ドイツの場合は戦争の相手の出方を見誤って、絶対勝てると思って戦争を始めたのですが、例外的に絶対に勝てるわけがないのに戦争を始めてしまう、珍しい国があります。それが第二次大戦の日本です。イギリスやアメリカを相手に戦争を始めてしまったのには訳があります。すなわちその前に2度も、絶対に勝てない戦争に勝ってしまったという経験があるからです。

日清戦争では、日本は中国に勝てるわけはなかったのですが、日本は中国と戦うのでなく李鴻章と戦い、李鴻章に勝った所で日本は中国に勝ったことになってしまって、戦争が終わりました。

日露戦争でも日本はロシアに勝てるわけはなかったのですが、日本海軍がバルチック艦隊をやっつけ、満州でロシア軍に勝った所でアメリカをはじめとした諸外国が止めに入って、日本がロシアに勝ったことになってしまったのです。

このような経験があるので、もしかすると途中で誰かが止めに入ってくれるかも知れないから、その前に部分的に勝っておけば戦争に勝ったことになるかもしれないと始めてしまったのが、太平洋戦争です。

もうひとつ、戦争に反対する人が、『自分は人を殺したくないから戦争に反対する』とか『自分は殺されたくないから戦争に反対する』なんて言っているのを見ると、本当に戦争のことがわかってないんだなと思ってしまいます。戦争というのは、自分が人を殺したり殺されたりということではなく、自分にとって大切な人が理不尽に殺されるということです。

戦争は犯罪ではないので、戦争で誰かが殺されたとしても、犯人を処罰することはできません。自分にとって大切な人が理不尽に殺され、これからも殺され続けるかも知れないという時に、『戦争反対』のプラカードを持って行進するだけで我慢できるか、ということです。

凶悪犯罪で人が何人も殺されたり、お酒や覚せい剤や脱法ハーブで酔っぱらって何人もの人を車ではねてしまったり、そんな時遺族は決まって『犯人を極刑にしてもらいたい』と言い、マスコミもそういう雰囲気をあおり立てます。

『極刑』というのはオブラートに包んだ言い方で、普通の言葉で言えば『犯人を殺してくれ』ということです。このように被害者の遺族が『犯人を殺せ』と言い、周りでマスコミも『犯人をぶっ殺せ』とあおりたてる、こんな状況で『これは戦争だから何人殺しても犯罪にならないよ』なんてことになったら、『警察なんかに任しちゃおけない、犯人は俺がぶっ殺す』という人が当然出てきます。マスコミはそれを英雄だと祭り上げます。このようにして、ついさっきまで反戦だ!と叫んでいた人達が今度は『敵をぶっ殺せ、鬼畜米英』と言って大騒ぎをする。これが戦争です。

太平洋戦争に至る過程で朝日新聞や毎日新聞が率先して戦争を煽り立て、国民を戦争に導いたことを忘れてはいけません。

反戦を主張する人は『自分は人を殺したくない』と言うのではなく、『自分は親・子・兄弟・妻・夫・恋人が理不尽に殺されたとしても、その犯人を殺したくない』と言うことができるのでしようか。その覚悟がない反戦は、単なる言葉遊びのようなものです。

『デフレーション』

7月 29th, 2014

権丈先生のホームページで紹介されていた(学生さんに読めと言っていた)、吉川洋『デフレーション』という本を読みました。

まともな経済学者がいわゆるマネタリストのデフレ対処(退治)案に反論しているもののようなのですが、読んでみました。

私はもともとマネタリストの、『お金を増やしさえすればデフレなんか一挙に解決できる』なんて議論は何の根拠もない空論だと思っていたので、いちいちその議論にクビを突っ込む気持もなかったのですが、この本を読んでみてやはり経済学の専門家としては空理空論と分かっていても、それが世の中に蔓延している以上、まじめにそれを空理空論と証明し否定しないといけないようで、学者というのも大変だなと思いました。

で、その貨幣数量説を否定している所なのですが、やはり空理空論をまっとうな論理で否定するのはなかなか難しいようです。とにかく相手は『理論』ではなく『信仰』で、お金を増やせばデフレはなくなる、そうなるに決まっている、などと言って(信じきって)理論的な根拠を示していないんですから、それを論理的に攻めていって反証する、というのはとてつもなく困難です。
せっかくの反論ですが、これで今までマネタリストだった人が本気で改心するとは思えません。

私にとってはその空理空論を否定する所はどうでも良くて、むしろ吉川さんがデフレをどのように理解していて、どのように対処したら良いと考えているのかの方に興味があります。

その部分については、まず『価格の決定』という所でカウツキの考え方が説明されています。これは一次産品の値段は需要と供給のバランスで決まる、消費材の値段は(原料費を含む)費用+α で決まる、というもののようで、この両方の考え方は別々には知っていたのですが、これを商品の性格によって区分してマクロ経済学を組立てるという話は初めて知ったので、この結果どういう話になるのか、興味がわきました。

このカウツキという人はケインズとは独立に、ケインズの一般理論が出るよりよりちょっと前にほぼ同じような議論をした人で、発表した論文がポーランド語で書かれていたので誰にも読んでもらえなかった、という人のようです。その後イギリスに渡ってケインズやその仲間の人達ともかなり交渉があったようです。

この人の本は2冊日本語になっているので、まずはそれを読んでみることにしました。ケインズの一般理論はケインズ流のわかりにくい言葉で書かれているので、一般理論を理解するにはカウツキの本を読んだ方がわかりやすいという人もいるようですから、楽しみです。

そのあとでいよいよ吉川さんのデフレーション理論ですが、今の日本のデフレーションは賃金が下がったことが原因だ、ということです。欧米では景気が悪くなると賃金が下がるのでなく雇用が減るんだけれど、日本では雇用を維持して賃金を下げるんだ、ということです。このような視点の議論は初めてなので、じっくり考えてみる必要があるなと思いました。

この本の中で、面白い言葉がいくつか紹介されていました。
ひとつは『ブラック』(金融工学で有名な、オプション価格のブラック・ショールズの式の、あのブラックです)の言った、
  【価格の水準そしてインフレーションは、それを決定するものが文字通りない、と私は考えている。それは人々がそうなるだろうと思う水準に決まるのだ。期待によって決まるのだが、期待に合理的なルールがあるわけではない。】
という言葉です。

もうひとつがこの本の最後に引用されているグルーグマンの言葉ですが、彼は過去30年のマクロ経済について
  【spectacularly useless at best, and positively harmful at worst】 すなわち【良くいえばまったく役に立たない、悪く言えば有害なものだった】(これは吉川さんの訳ですが、学者らしい上品な訳です。私が訳すとしたら、【良く言ったとしてもまるっきり何の役にも立たないものだった、悪く言えば実際有害なものでしかなかった】というくらいになると思います。)
と言ったとのことです。

日本のデフレについて『お札を大量に印刷してヘリコプターでばら撒けば良い』と言って大騒ぎを起こしたその張本人が平然とこういうことを言ってしまうんですから、アメリカ人というのは何ともはや・・・という所です。

いずれにしても、こういった、ケインズをちゃんと勉強したまともな経済学者がここにもいたんだ、と嬉しくなりました。

新書版よりちょっとだけ大きな版の、200ページちょっとの本ですし、それほどがちがち理論的な本でもありませんから、もし興味があったら読んでみてください。

集団的自衛権

7月 7th, 2014

集団的自衛権の閣議決定に関してKENさんといつものようにロクでもない議論をしていたら、この集団的自衛権の閣議決定に関する反対にも、いくつものものがあるのではないか、と思いあたりました。

1つは集団的自衛権が行使できるようになる、そのことに対する反対です。集団的自衛権が行使できるようになると外国の戦争に日本も参加するようになり、日本が戦争することになるから反対だ、というものです。

2つ目は集団的自衛権そのものではなく、憲法解釈の変更に反対だ、というものです。これは憲法が変更してはいけないものだから、なおさら憲法解釈の変更で実質的に憲法を変えるなんてことをしてはいけない、というものです。

これと近いのですが、3つ目は内閣の憲法解釈を内閣が勝手に変えることに反対、というものです。国会の承認や裁判所の承認もなく、内閣が勝手に憲法解釈の変更を閣議決定するのはケシカラン、ということです。中には今回の閣議決定を、国会での可決、あるいは国会での強行採決だと思っている人もいるようです。

4番目は何であれ安倍総理大臣、あるいは自民党のやることは全て良くないことだから、集団的自衛権であろうと何であろうと無条件に反対、というものです。

5番目は2つ目とちょっと重複するのですが、自衛権の問題は憲法改正をするのが正しいやり方なので、憲法改正をしないで憲法解釈を変更するのは反対、というものです。2番目との違いは、2番目の反対は憲法の変更に反対だから憲法解釈の変更にも反対ということで、5番目の反対は、さっさと憲法改正をすべきなのにそれをしないで憲法解釈の変更など中途半端なことをしていることに反対、ということです。

6番目、公明党が言っていた反対というのは、憲法解釈の変更をしなくても個別的自衛権という言葉の解釈を変えれば、集団的自衛権もかなりの部分個別的自衛権に含ませてしまうことができ、個別的自衛権という言葉の解釈を変えるのは憲法解釈を変えるわけではないので、それで済むのであれば憲法解釈の変更に反対、というものです。

現行の憲法解釈で個別的自衛権は認められている。その個別的自衛権の言葉の解釈を変更するというのは憲法解釈の変更になるんじゃないのかなという気もしますが、憲法解釈の文言は変えないんだから憲法解釈の変更ではない、と言い張ることもできるのかも知れません。

普通、今回の集団的自衛の閣議決定に反対する人は、上の1~4の反対なのですが、多分そのうちのどれなのか十分明確には意識されていないでゴッチャになってしまっているような気がします。

KENさんは4番目の反対のようで単純明快なのですが、いろいろ理屈を付けたい人は1~4をごっちゃにして反対だ、ということのようです。

落着いて、自分の反対は何番目の反対なんだろうと考えてみると、頭の整理ができるんじゃないかなと思うんですが、残念ながら私の意見など聞く耳持ってくれないでしょうね。