『昭和陸軍秘録 軍務局軍事課長の幻の証言』

3月 24th, 2015

しばらく前 『昭和戦争史の証言 - 日本陸軍終焉の真実』 という本を紹介しました。
この本はその本の著者(西浦進)と同じ人の本なのですが、前に紹介した方は著者が終戦後忘れないうちと思って資料もない中記憶を頼りに書き綴ったもので、今度の本の方は戦後20年以上たってから『木戸日記研究会』という所が著者に聴き取り調査(インタビュー)したものをまとめたものです。

口頭での質問に対して口頭で答えているのを書き下ろしているものですから、ちょっと雑駁な所もありますがその分気楽に読めます。

内容的には前に紹介した本と同様、西浦さんが軍人を志したところから始まって、戦前・戦中の軍人(主として陸軍省勤務)としての経験をまとめたものです。

前の本は西浦さんの問題意識にもとづいて書きたい(書いておきたい)事が書かれていたのですが、今度の本は聴き取り調査する方の問題意識にもとづいて質問が用意され、それに答えるという形で進行します。直接自分で書くというのと違って口頭のヒヤリングですから、答え方もかなり気楽に話しています。

聴き取りが行われたのが1967年9月から1968年2月までの期間で、西浦さんは1970年にはもう死んでしまっていますから、その意味でも貴重な記録です。

また本にするとなると省略されてしまうような細々とした話も、おしゃべりでは省略されないで出てきますので、なかなか面白いです。

これを読んで、やはり第二次大戦においても日本の対応については、ロシア(ソ連)の存在感が大きいんだなと良く分かりました。

またアメリカに物資を押さえられ、仕方なくインドネシア(この本では蘭印と言っていますが)に石油を取りに行くのですが、これが実はドイツがオランダに攻め入ったのがきっかけだ、というのも初めて知りました。要するに、ドイツがオランダに攻め入ったので、オランダ領のインドネシアの石油はドイツに押さえられてしまうかも知れない、あるいはオランダの亡命政府がイギリスに逃げたので、イギリスに押さえられてしまうかも知れない、となったら、日本が先に押さえておかなければ・・という話のようです。

その後石油は無事に手に入れたにもかかわらず、船がなくてせっかくの石油を日本に運ぶことができなかったとか、陸軍と海軍で船の取り合いをしてどうにもならなかった・・なんて話もあります。

また太平洋戦争が始まる前、英米不可分論と英米可分論というのがあって、イギリスと戦争してもアメリカと戦争しないで済むだろうか、イギリスと戦争するとアメリカも一緒に敵に回すことになるんだろうか、とかなり議論があったということも分かりました。

この西浦さんは、東条英機が総理大臣になり陸軍大臣を兼任した時に半年間陸軍大臣秘書官になり、その前後も陸軍省の役人として東条英機と仕事をしている人なので、その話もなかなか面白いです。

戦争の話は何となく参謀本部がやりた放題・・みたいな印象がありますが、陸軍省や政府との主導権争いのやり取りなど、そう簡単な話でもないことも分かります。

ちょっと分量はありますが(400頁強で二段組みになっています)、お勧めします。

『一般理論』 再読-その8

3月 20th, 2015

さていよいよケインズの『所得』『貯蓄』『消費』『投資』の定義です。
この中で、投資=貯蓄という等式が証明されます。この等式の意味を理解することが、ケインズの経済学の最重要ポイントの一つです。

企業は物を買い、労働者を雇い、生産をして商品あるいは製品を売って売上高を得ます。その結果としての利益をPとします。
これを
 A:売上高 
 A1:他の企業から買った物やサービスに対する支払い
 F:企業以外から買った物やサービスに対する支払い(たとえば労賃など)
で示そうというわけです。

収支だけ見ると、収入=A 支出=A1+Fですから
 P=A-A1-F
となりそうですが、そこまで簡単になりません。

A1やFは必ずしも売上げに直結するとは限りません。原料を仕入れ、それが仕掛品になり、製品になり、最終的に売上げになるわけですが、それまでの間は原料の在庫・仕掛品の在庫・製品の在庫、となります。商品の仕入れでもまずは商品の在庫となって、そのあとで売上げになります。またA1やFの支払いがなくても商品や製品の在庫を売れば、売り上げになります。

さらに商品を売るためや製品を作るための設備投資のための支出も、A1やFの中に入っています。そこでそのような原材料の在庫・仕掛品の在庫・製品の在庫・設備投資の増減(すなわち期間中に増えたか(+)減ったか(-)した額)を『投資』と言い、Ⅰで表します。

すると今度こそ
 P=A-A1-F+Ⅰ
と式で書くことができます。
これをちょっと書き直すと
 P=(A+Ⅰ)-A1-F
になります。
すなわちA1やFのうち、Ⅰの増加になる分は売上げにならず利益にもならないとか、Ⅰの減少すなわち在庫を取り崩して売上げにすれば、売上高から在庫を取崩した原価を引いたものが利益になる、とかを示しています。

会計の世界では、売上総利益とか営業利益とか経常利益とか純利益とか、利益を何段階かにわたって計算するため、FにしてもA1にしても、原価になる分と原価にならずに直接経費になる分を分け、原価計算し、売上高に対応する売上げ原価を計算し・・となるのですが、上記のように整理してしまうとスッキリします。原価計算と設備投資の現在価値の計算をきちんとやってしまえば、A1やFを分解することなく、利益が計算できてしまいます。

さらにこれは会計の話なので、経済学のように『いずれはこうなる』『最終的にこうなる』『この方向に向かって収れんしていく』『だいたいこうなる』などといういい加減な話ではなく、いつでもどこでもどんな企業でも成立する話になります。一つ一つの会計取引ごとに成立しますし、一つの企業のある期間の取引全体の集計についても成立しますし、ある期間の一つの経済社会の全体の集計についても成立ちます。

この一定の期間の経済社会の全体の集計を取ると、これが『マクロ経済学』ということになるわけです。

Pというのは、企業の利益あるいは所得の合計、Fというのは企業以外の所得の合計ですから、P+Fはその経済社会の全ての所得の合計ということになります。
上の式を書き直すと、
 P+F=A-(A1-Ⅰ)
となります。

Fをケインズは『要素費用(factor cost)』と呼びます。この『要素』というのは生産要素ということで、古典派の経済学では経済的価値の源泉は土地・労働・資本の三つの要素から成っていると考え、これらを生産要素とよんでいます。この要素はさらに土地も資本も、元はと言えば労働によって産み出されたもので、だから全ての価値は労働によって作られるという『労働価値説』にまで行くんですが、とりあえずはそこまで行かず、三要素のレベルでの議論で、特に労働者に支払う労賃がこの要素費用になるわけです。

このFを要素費用と呼んだので、残りの(A1-Ⅰ)をケインズは『使用者費用(user cost)』と呼んでいます。
これをUと書くと
 P=A-U-F
すなわち売上高からUとFとの費用を差し引いたものが企業の利益になるというわけです。

Fが要素費用なので、Uは使用者費用、売上高からその両方の費用を差引くと利益になる、ということです。しかしこのUの方はプラスになることもあるしマイナスになることもあるし、そう簡単に『費用』と言って済ませられるものではありません。というのもU=A1-Ⅰですから、A1が大きかったりⅠがマイナスだったりすればUはプラスになりますが、A1が大きくなくてⅠがそれより大きいとUはマイナスになってしまいます。こうなるのはⅠがプラスになったりマイナスになったりするもので、さらにそれをA1から差し引いているからです。

で、U=A1-Ⅰですからその通りに説明すれば良いものを、ケインズの説明では『Uは生産設備を使用する費用だ』などということをさかんに強調しています。そのため宮崎さん・伊東さんの本でもUを使用者費用ではなく、『使用費用』と訳しています。それに引きずられて宇沢さんの本も間宮さんの訳も『使用費用』を使っています。山形さんの訳はこれとは違う言葉を使おうとしてなのか『利用者費用』としています。

私の解釈は、Fが生産要素に対して直接支払う費用であるのに対して、Uの方は生産要素を使って生産している企業に対する費用なので使用者費用というんだろう、位の話で特に違和感はないのですが、いずれにしてもA1とⅠをそれぞれ別々にしておけば何の問題もないのに、それをU=A1-Ⅰと一緒にしてしまい、A1の方に注目して使用者費用と名付けておきながら、Ⅰの方に注目して『生産設備の使用料だ』などと説明しているケインズが誤解の原因なんだろうと思います。

『所得』の定義はちょっとできましたが、『貯蓄』『消費』『投資』の定義まで行きつきませんでした。
それは続きで。

『一般理論』 再読-その7

3月 15th, 2015

さて『一般理論』、いよいよ『第三章 有効需要の原理』に入ります。ここからケインズの世界が始まります。

しかしこの章はそれ以降の『第四章 単位の選定』『第五章 産出量と雇用の決定因としての期待』『第六章 所得・貯蓄および投資の定義』『付論 使用費用について』『第七章 貯蓄と投資の意味』-続論』の全体のまとめの形でケインズの雇用理論を展開しています。そのためこれらの第四章から第七章の話を先取りしているため、そこの所の話が分からないときちんと理解できないようになっています。

で、『一般理論』とは順番が違ってきますが、この第三章から第七章までをまとめて話します。
とはいえ、第四章と第五章は前置きのような話で、それを受ける第六章、その付論、第七章と第三章が一体の話になっています。

『第四章 単位の選定』では経済活動の量を現す単位をどのように選定するか、要するにお金の単位を何にするか、という話をします。古典派の経済学ではどうも金額というのは実体のないものと考えているようです。すなわち全ての物価が二倍になり、お金の額も二倍になったとしたら、金額の呼び名は変わるけれど、経済の実態は何も変わらないじゃないかということで、いわゆる『名目値は意味がない』、『実質値だけが意味がある』、というように考えているようです。

この名目とか実質とかというのは、名目GDPとか実質GDPとか言うときの名目・実質のことで、名目というのはお金の単位そのままのもの、実質というのはお金の価値がインフレやデフレで変動するのを修正したもの(名目値を物価水準・インフレ率あるいはデフレ率で修正したもの)です。

で、古典派の経済学では『実質値が実際の価値を表す』ということなので、正しいインフレ率あるいはデフレ率というものがある、というように考えます。現実の世界では『消費者物価指数』とか『卸売物価指数』とか『GDPデータ』とか『インフレ率(デフレ率)』を示す指数が何種類もあります。何が正しいものかということも簡単には決められません。

ケインズの立場はそのような状況を踏まえ、まず『様々な物価指数があるけれど、そのほとんどが確固とした根拠がない』と言い、『ただ一つ有効な物価指数は労働力あるいは労賃の指数』だと主張します。そして古典派のように名目値を全く否定するのでなく、名目値と賃金指数で実質化した実質値とその2本建てで議論する、と言っています。

このケインズの賃金指数は、客観的で公正なものだという議論も、私にはそれほど説得力のあるものとは思えません。私はやはり名目値だけで議論するのが正しいやり方だと思うんですが、ケインズとしては名目値を全否定して実質値だけを正しいとした古典派を否定するのに、実質値を全否定して名目値だけを正しいとする、というのはやはり大変過ぎることだったのかも知れません。『全ての経済価値の源泉は労働だ』、という労働価値説もなかなか捨てきれない話のようですから。

次の『第五章の 産出量と雇用の決定因としての期待』、これでケインズは決定的に古典派とは別の世界を作り出します。古典派の世界では人々が利益をもっともっと・・・とトコトンまで追求し、その結果市場での様々の売買が需要・供給の法則により価格・数量ともに決まってしまい、それを市場参加者の全員が知っていて、あとはそれぞれがそのように決まった価格・数量でひたすら売り、あるいは買いをする、というだけのあんまり面白くない世界です。

これに対してケインズは、『物事はそう簡単には決まらない』と言って、【期待】という言葉を導入します。企業がどれだけ生産しいくらで売るか(供給)、というのはそれぞれの企業が企業自体の期待にもとづいて決めます。それと同時にその物がどれだけ・いくらで売れるか(需要)というのも、その企業が【期待】にもとづいて決めます。

企業としては『できるだけ儲けたい』と考えているので、供給と需要がマッチするような方向で企業の行動を決めます。しかしケインズは古典派のように供給と需要が一瞬のうちにマッチしてしまうというようには考えません。価格も数量も、それを生産するために必要な労働者の雇用数も、少しずつしか変わりません。すなわち今日は昨日とほぼ同じだし、明日は今日とほぼ同じだ、というわけです。もっと売るためにもっと生産しようと思ってもすぐには労働者を増やすことができないし、雇った所ですぐに一人前に使いものになるとも考えません。増産のための設備投資もすぐにはできないし、全ては少しずつ変化する将来に向けて企業のかじ取りをしていく、ということです。

ここで【期待】というのはexpectationの訳語です。このexpectationという言葉には『こうなったらいいな』という希望のようなニュアンスも含みますし、『多分こうなるだろうな』という予想とか予測とかのニュアンスもありますし、『こうなるに決まってる、こうなってもらわないと困る』という願望あるいは必然みたいなニュアンスもあります。

日本語は漢字が使えるのでこのようにいくつもの言葉を使い分けることができるのですが、ケインズはイギリス人なので、expectation一本やりです。で、翻訳者は仕方がないので、この言葉を【期待】という言葉に一律に変換します。ですから『一般理論』で【期待】という言葉は上記の様々な意味を含んでいるということを常に意識しておくことが必要です。すなわち、ある時は希望とか願望とかの意味で期待と言い、ある時は冷静で客観的な予測という意味で期待と言う、という塩梅です。

で、各企業がそれぞれの自分の期待にもとづいて需要と供給を想定し、それにもとづいて生産し販売するわけですが、その期待が正しいという保証はどこにもありません。やってみて間違ったら修正するという過程を日々繰り返す。作り過ぎて売れ残りが発生することもあり、いくらでも買い手はいるのに生産が間に合わないということもある、という非常に現実的で生々しいダイナミックな世界です。これがケインズの考える世界です。

ケインズはこの期待を二つに分けます。すなわち『短期の期待』というのは、どれだけ生産して売るか、あるいはどこまで売れるか、という比較的近い将来に関する期待です。

これに対して『長期の期待』というのは、将来的に十分売れそうだからもっと生産するために設備を拡充しておこうか、というようなタイプの期待です。短期の期待は、明日は今日とあまり変わらないのであまり間違えることもありません。長期の期待はあたる保証はどこにもありません。しかし明日の生産量を決めるためには今日までの生産でどれくらい売れ残りがあるかとか、過去の長期の期待の結果としての設備が今、どれ位あるかとか、使える労働者が何人いるかとかが需要な要因となります。

このようにケインズは経済学の世界を、誰かが全て決めてしまって人々はその通りに一生けん命働くだけという世界から、誰もが自分の判断に従って決断し、うまく行ったり失敗したりするというイキイキとした(あるいはナマナマしい)世界に変えてしまったわけです。

ケインズがアメリカに紹介されてから何十年かたってようやくアメリカでも『期待』の重要性に皆が気がつくようになった時、『ケインズの経済学には【期待】が入っていない』と批判された、という有名な話がありますが、どうしてこんな重要な点を見落として、というか除外して、ケインズをアメリカに紹介してしまったんだろうと思います。

次は、第6章で、ケインズの需要と供給を説明するのですが、その事前準備として、『所得』・『消費』・『貯蓄』・『投資』という言葉の説明(あるいは定義)をします。

『一般理論』 再読-その6

3月 4th, 2015

ケインズ『一般理論 第二章 古典派経済学の公準』(古典派の雇用理論)の続きです。
ケインズはこの古典派による労働の需要・供給の法則を否定するのですが、この章で否定するのは、第二の公準の方だけです。第一の公準の方は(実はかなり違ったものになるのですが、似たような姿で)ケインズの雇用理論でも出てきます。これは次の章で古典派の労働の需要・供給の法則に代わって、ケインズによる労働の雇用理論を提示する前置きになっています。

で、現実に失業、すなわち非自発的失業があるのに、古典派の経済学では非自発的失業はあり得ないことになっています。古典派の立場からすると、それはマーケットが間違っているということになるのですが、ケインズの立場は現実のマーケットがそうなっているのであれば、その現実に立った経済学を考えるべきで、現実と合わない経済学は無意味だ、と主張するわけです。

これに付けたりのように、古典派の第二の公準がどうして現実に成り立たないのかということに関して、労働者を雇う側は労働者と賃金交渉するのに失業者と交渉するのでなく、現に雇われている労働者と交渉するんだとか、労働者は名目賃金の引き下げには抵抗するけれど、物価上昇の結果としての実質賃金の引き下げにはそれほど抵抗しないとか、要するに労働者が働くかどうか決める時の行動は、供給曲線の作り方とは違うということをいろいろ言います。

しかしここの所、もう一つの、需要・供給の法則がうまく行くかない原因の一つに、供給者(労働者)側が供給する労働の量が常に一つしかない、ということも考えておいた方が良いと思います。

普通の物の需要供給の法則の場合には、たとえば売り手はある値段では供給曲線の80%しか売ることができないのに、値段をちょっと下げれば供給曲線の100%売ることができる。このような状況があることによってマーケット全体の値段が下がり、需要曲線と供給曲線の交わった所で値段と数量が決まるわけですが、労働の場合、たとえばある失業者が賃金をちょっと下げて働こうと思い、うまく職にありつくことができたとしても、それで仕事を失うのは一人だけで、他の労働者は今まで通りの賃金で働くことができる。これでは他の労働者も賃金を下げてでも働こうという話にはなりません。雇う方もたった一人分の労賃をちょっとだけ下げてみても、大したメリットにはなりません。

しかし昔と違って今では派遣業者というものがあり、多数の労働を一括して供給することができるようになっています。これを使うと何人もまとめて入れ替えることができますから、需要・供給の法則に近いことができるかもしれません。もっとも、いつでも労働者を新規の派遣社員に丸ごと入れ替えるというわけにもいかないし、今は労働者を保護するための法律が色々あってそう簡単には首切りができないので、現実にはなかなか難しいんですが。

今はどうなっているのか良くわかりませんが、昔、山谷や釜ヶ崎のドヤ街では寄せ場という所に日雇い労働者が集まり(立ちんぼう)、手配師が日当を言うと、その日当で働きたい人がトラックに乗り込んで現場に運ばれて行く、なんて風景があったようです。その一日が終わると雇用はすべてチャラになるんですから、これも古典派の世界に近かったのかも知れません。

いずれにしても今は雇う方も雇われる方もいろいろシチメンドクサイことになっているので、なかなか古典派の雇用理論は(もともと非現実的な想定で作られているので、当然といえば当然ですが)成立しません。

宇沢さんの本も宮崎さん・伊東さんの本もいろいろ古典派の雇用理論を説明していますが、ケインズの理論とは別の話なので、まとめて省略します。

で、非現実的な理論の否定ばかりしていても仕方がないので、次はいよいよこれに代わる、ケインズの雇用理論の話になります。

『保険会社のERMに関するブログを始めました。』

2月 27th, 2015

このサイトの『練習帳』掲示板に、久々に投稿がありました。

http://acalax.info/bbs/wforum.cgi?no=3608&reno=no&oya=3608&mode=msg_view&page=0

内容は、
『保険会社のERMに関するブログを始めました。ご意見賜わることができれば幸いです。』
というもので、
http://blogs.yahoo.co.jp/erm_insurance

というリンクが張ってあります。
erm_insuranceという人の投稿のようです。

『ERMの実務者であれば誰もが酒の席で語らうような悩みや疑問への回答に踏み込むようなブログにしていきたいと思っています。』
というコメントで始まっています。

なかなか面白い問題提起かもしれません。
保険会社のERMについて、現実的に、実務的に考えるためのヒントあるいはきっかけになるかもしれません。
興味がある人は見てみてください。
また、よかったらコメントしてください。

『一般理論』 再読-その5

2月 25th, 2015

この二つの公準、面白いので、①原文の英文、②私が読んでいる間宮さんの訳、③宇沢さんの参考書の訳、④宮崎・伊東さんの参考書の訳、⑤読みやすいと評判の、山形さんの訳を並べてみます。

<第一の公準>(需要曲線の作り方)

  1. The wage is equal to the marginal product of labour.
  2. 賃金は労働の限界生産物に等しい。
  3. 労働雇用に対する需要は、労働の限界実質生産額が実質賃金に等しい水準に決まってくる。
  4. 賃金は労働の限界生産物に等しい。
  5. 賃金は労働の限界生産に等しい。

<第二の公準>(供給曲線の作り方)

  1. The utility of the wage when a given volume of labour is employed is equal to the marginal disutility of that amount of employment.
  2. 労働雇用量が与えられた時、その賃金の効用はその雇用量の限界不効用に等しい。
  3. 労働の雇用に伴う限界非効用と実質賃金とが等しくなるような水準に、労働の供給が決まってくる。
  4. 一定の労働量が雇用されている場合、賃金の効用はその雇用量の負の限界効用に等しい。
  5. ある量の労働が雇用された時の賃金の効用は、その量の雇用による限界的な負の効用と等しい。

どうでしょう。かなり違いますね。
間宮さんの訳は一番原文に近い忠実な訳になっています。

宇沢さんの訳は、かなり自由に足したり引いたりして書いているような気がします。
第一の公準では勝手に『実質』という言葉を入れてしまったり、第二の公準では『労働雇用量が与えられた時』『when a given volume of labour is employed』の部分を削ったりしています。

宮崎さん・伊東さんの訳は間宮さんの訳に近い忠実な訳です。

読みやすいと評判の山形さんの訳は、何とかして間宮さんの訳と違うものにしようとしたのか、かえってわかりにくい訳です。

第一の公準では他の訳が『限界生産物』とか『限界生産額』とか言っているのを、『限界生産』と言うというのは、これでは意味不明です。ここでは生産物の価値のことを言っているのに、『生産』だけでは意味が取れません。

第二の公準の方は、『限界効用』とか『限界不効用』とか言うものを勝手に『限界的な』という言葉に直してしまっています。限界○○というのは、経済学では決まりきった言葉使いで、これを『限界的な』などと言い換えると、まるで意味が分からなくなってしまいます。

一般理論を読み始める時、山形さんの訳を選ばずに間宮さんの訳を選んで、正解だったなと思います。

で、この、どちらかといえば原文に忠実に訳していた宮崎さん・伊東さんの本なんですが、何と驚いたことに次にやっているのは、この二つの公準の証明です。

『公準』というのは数学の言葉で、それ自体明らかなので証明することはできず、それを使っていろいろな定理などを証明するものです。それを証明する、と言うんですから、何を考えているんだろうと思ってしまうんですが、次にその証明の所を見ると、最初に前提となる仮定が列挙してあります。これもまるで順序が逆です。

証明するというのは、最初に『これこれの条件がある時にこれこれが成立する』ということを証明するんであって、『これこれが成立するということを証明するために、そのための条件を列挙する』なんてことはあり得ません。

それを宮崎さん・伊東さんの本は大まじめにそんなことをしているんですが、しかし宮崎さん・伊東さんがこのような論法を取った理由も読んでいるとわかります。ここで列挙している仮定を使っていくつもの数式を立て、その数式を使ってその公準を証明する(というより数式に置き換える)ということをしようとしているようです。

数学や数式があまり得意でない人にとっては、このようにして微分方程式まで出されてしまうと、もうそれだけで何にも言えなくなってしまうんでしょうが、数学や数式に抵抗のない人にとっては言葉で言えばすんなりとわかる話を、わざわざこんな大仰な仮定なり数式なりを動員するというのは、何とも大げさな話だなあと思います。

さらにこの宮崎さん・伊東さんの本も宇沢さんの本も、労働の需要曲線・供給曲線を書くとき、横軸の労働の量を『時間』単位に書いています。ケインズは『一般理論』では労働の量については一貫して『人』を単位にしています。すなわち、何人働くかということであって、延べ何時間働くかではない、ということです。

何人働くか、という見方をすれば失業している人が何人かという話になるのですが、何時間という話になると、たとえば1日7時間労働で失業率が20%だったら、1日5.6(7×0.8)時間労働にすれば失業率はゼロになるじゃないか、などというまたまた非現実的なわけの分からない話になってしまいます(とはいえ、ワークシェアリングといって、そのような政策もあるにはあるのですが)。

そんなこんなで参考書として選んだ宇沢さんの本も宮崎さん・伊東さんの本も、ケインズの一般理論のテキストはそっちのけで、かなり好き勝手なことを書いています。

ケインズの本に何が書いてあるのかの参考書としてこれらの本を選んだのですが、どうやらケインズの本に書いてないことを知るのに役立つ参考書のようです。

でもこれらの本が、『高名な経済学者による標準的な解説書』だということになっているんですから、ケインズの『一般理論』が一般にどのように説明されているかを知るには役に立ちそうです。

『一般理論 第二章』の話、もうちょっと続きます。

『一般理論』 再読-その4

2月 20th, 2015

さていよいよ『一般理論』です。

まずはじめの『序文』の所には、この本の読者として想定しているのは経済学者だ、と宣言しています。古典派の経済学者に対して、『これから古典派の経済学は間違いだということを説明しますよ』と宣言しているわけです。

次の『第一章 一般理論』の所では一般理論の『一般』という言葉を使ったわけを説明しています。すなわち古典派の経済学は一般的には現実の世界では成立しないので、その代わりに現実の世界で一般的に成立する経済学をこれから説明します、と宣言します。

さらに、古典派の経済学は非現実的なものなので、それを現実に適用すると悲惨なことになりますよと言って、古典派の経済学者を挑発しています。

それでいよいよ『第二章 古典派の経済学の公準』という所から具体的な議論が始まります。

ケインズの経済学の基本的なテーマの一つは、大恐慌のあとの大量失業の問題ですから、これを踏まえ、この章では労働の需要と供給について古典派はどのように考えているのか、その考えはどのように間違っているのか、という議論をします。これは第三章以下でケインズ自身の労働の需要の理論をする前置きとなっています。

『失業』といっても自発的失業、すなわち『仕事口はあるんだけれど仕事したくない』というような失業は対象とはしません。自分で勝手に失業してるんだから、というような意味です。で、問題にするのは『非自発的失業』、すなわち働きたいのに仕事口がない、という失業がどうして起こるのか、という問題です。

1929年の大恐慌で世界的に失業者が溢れました。これは誰の目にも明らかだったんですが、古典派はこれをどう見たかというと、『労働』というのも他の普通の商品と同じく売り買いされるものだと考え、ここでも需要・供給の法則が成り立っていると考えると、自動的に値段(この場合は労賃)と、売買される数量(ここでは雇用される労働者数)が決まり、そこでは需要と供給が一致しているんだから、失業(すなわち供給過剰・需要不足)は発生するはずがない。にもかかわらず失業者がいるということはマーケットが間違っている、と考えるわけです。

労働の需要曲線と供給曲線を書けば、その交わった所で値段(労賃)が決まり、需要と供給がマッチする。需要不足が発生するというのは、値段が高止まりしていて本来的に下がるはずなのに下がらない、誰かが下がるのに抵抗しているからだということで、労働者が賃下げに反対して抵抗しているから賃金が下がらず、そのため需要不足で失業者が発生してしまうんだ、という理屈です。

この理屈にケインズは反論するんですが、その前に古典派の経済学による労働の需要曲線・供給曲線がどのように作られるかを説明しています。この需要曲線・供給曲線の作り方のことを、ケインズは『公準』と呼んでいるんですが、それは次のようなものです。

<第一の公準>(需要曲線の作り方)
賃金は労働の限界生産物に等しい。

<第二の公準>(供給曲線の作り方)
労働雇用量が与えられた時、その賃金の効用はその雇用量の限界不効用に等しい。

まず第一の公準は需要の方ですから、労働の買い手、すなわち『雇い主がどのように考えて労働を買う(労働者を雇う)か』ということです。

労賃がwの時、企業がN人雇うというのは、N人までは雇う人数が多ければ多いほど儲かるけれど、N+1人目を雇うとかえって儲けが減ってしまうということです。N+1人目を雇うと、労賃が1人分wだけ増えます。N+1人目を雇うことによって生産量がΔqだけ増えて、売り上げがp・Δqだけ増えるとします。その生産のために労賃以外に一個あたりcだけ費用が増えるとすると、儲けの増え方はp・Δq-c・Δq-wとなります。

これがプラスのうちはN人雇うよりN+1人雇う方が儲かるので、Nは増やす方が良いし、これがマイナスになるとNは増やさない方が良い。すなわちそれぞれのwに対してp・Δq-c・Δq=wとなる所、すなわち(p-c)・Δq=wとなる所のNをつないでできるのが、需要曲線になるということです。

この(p-c)・Δqというのは、N+1人目を雇った時の生産量の増加分Δqに対する、(労賃を除いた)儲けの増分です。これを経済学では労働の限界生産物、すなわち労働者を一人増やした時の生産高(売上から費用分のcを引いた分)の増加分だ、というように表現します。そこでw=(p-c)・Δqを言葉で言うと、『労賃は労働の限界生産物に等しい』ということになるわけです。

次に第二の公準は供給曲線ですから、労働の売り手すなわち『労働者がどのように考えて雇われるか』の問題になります。

労働者がN人働いていて、さらにもう一人N+1人目が働くかどうは、そのN+1人目の人にとって、貰う賃金の効用(満足感)が働くことによるマイナスの効用、すなわち『疲れる』とか『時間が自由にならない』とかの不満感を上回るかどうかで決まるということです。

ここで労働者は皆同じだけの、たとえば週5日・1日7時間働くといった、一定の期間(週)あたり一定の時間(35時間)働くことを前提としています。

労賃wが決まった時、その労賃で労働者が働くかどうかは、それぞれの労働者ごとに違います。それぞれの労賃wごとに、それぞれの人ごとに労賃の効用(満足感)と働くことによる不効用(不満感)を比較し、『働く』という結論の出る人数を数えたものが労働の供給曲線となるという仕組みです。

ここで労賃がwの時、N人目までは労賃の効用が労働の不効用を上回っているけれど、N+1人目を雇った時の、雇われた人全体の労働の不効用の合計の増加分、すなわちN+1人目の人の労働の不効用が賃金と等しくなるということです。一人分の労働者の限界不効用というのを、一人分の労働の限界不効用と言っています。

これで労働の需要曲線・供給曲線ができたので、この曲線の交点を求め、その交わった所の労賃と労働者数で実際に取引される(即ち労働者の雇用が行われる)ということになります。

ケインズによればこれが古典派が考える労働者の雇用の決まり方だ、ということです。

この第二章の話、もう少し続きます。

言論の自由と信教(信仰)の自由

2月 20th, 2015

フランスのシャルリー・エブドという風刺画の雑誌社がテロリストの攻撃を受け10数人が殺されてから、『言論の自由を守れ』というキャンペーンがいろんな所で行われています。

しかしこれは実はすり替えであって、問題となっているのは『言論の自由』ではなく『信教の自由』あるいは『信仰の自由』の問題ではないかと思います。

シャルリー・エブドはイスラム教の預言者マホメッドをバカにする風刺画を描いて、それを出版した、それに対してイスラム教徒は、最高・最後の預言者を冒涜するものだとして怒った、その延長線上でテロリストがシャルリー・エブドを襲い、10数人を殺した、というのが事件のあらましです。

これに対して、風刺画を描いて発表するということは言論の自由に関することであり、その雑誌社を襲って人を殺すというのは言論の自由を侵すことだ、というのが一般に行われている説明です。

このテロが行われたのはフランスで、フランス革命の国です。フランス革命というのは絶対王政を倒して民主政(共和制)にする革命だったのですが、実はキリスト教の支配体制を倒す、反キリスト教の革命でもあって、一時はキリスト教を否定して人工的に神様を作って山車を出してお祭りをした、という話もあります。

その後フランスは帝政になったり王政に戻ったりまた革命を起こして共和制になったりと色々変わっていますが、共和制(今も何回目かの共和制です)である時はフランス革命を引き継いでキリスト教を否定し(明確には言わないものの)、無神論を国の政治の方針としています。

『無神論』というのは日本では『特に宗教に入ってないよ』とか『神も仏もあるものか』とか、『別にどんな神様でも良いんじゃね』とかの感覚で無宗教と混同されることも多いのですが、本来的にはまるで違うものです。

すなわち(キリスト教社会の中)の無神論というのは、むしろ積極的に神を否定するもので、とはいえ存在しない神を否定してもしようがないので、存在しない神を信仰している人に対して、その人が信仰している神は存在しないんだということを分からせて目を覚まさせてあげることを目的としている宗教です。

ですからいろんな神様の神殿を壊したり・焼き払ったり、神様の像をたたき壊したり・教典を破ったり・焼いたりすることが、無神論では正しい宗教活動ということになります。

ヨーロッパのキリスト教国は、キリスト教にはひどい目にあっています。異端だといって迫害したり、新教と旧教に分かれて国民同士が殺し合ったりしたりして、国民の1/3とか1/2とかを殺したりという経験をしています。ドイツなんかは新教・旧教の戦いのために外国の軍隊まで乗り込んできて国土が荒らされ国民が殺されたという経験をしています。

そのため殺し合いが終わった後は、一応『もう殺し合いはやめよう』という合意ができています。

宗教が違う相手の宗教を認めることはできなくても、そのために『相手の宗教を否定して相手の宗教の信者に改宗を迫ったり殺したり、なんてことはやめて、自分の宗教を信じ、それを実践していくだけにしよう』という合意ができています。

これでほとんどの宗教はなんとか収まりがつくんですが、収まりがつかないのが『無神論』という過激な宗教です。この宗教の場合、宗教活動というのは神を殺すことですから、神を信じている他の宗教の信者の所へ行って、その神を壊すことだけが正しい宗教の実践です。それをしないということは正しい宗教活動をしていない、ということになってしまいます。

で、フランスは無神論の国で、政教分離の建前からいろんな宗教は認めてはいるんですが、特定の宗教を優遇したり差別したりはしません。そのため無神論という宗教も同様に認めているわけです。

で、認められている無神論の信者達は、その教義に従って他の宗教の神を殺そうとするのですが、教会やモスクやシナゴーグを焼き打ちしたりすると、これは宗教活動ではなく犯罪だ、ということになってしまいます。

そのためその代わりに、神や教祖や信徒を誹謗あるいは冒涜するような行為をするわけです。それを文書や画像等で行えば、それは『他の宗教に対する誹謗中傷だ、冒涜だ』という批判に対して『表現の自由だ』ということで正当化できるからです。

キリスト教徒が多い社会では、さすがにフランスであっても正面きって無神論者を名乗るのは危険なことです。それは無政府主義者を名乗るようなもので、社会的に危険人物と見なされてしまいます。しかし、風刺画を描いているだけだ、ということであれば、まだ何とか受け入れてもらえるようです。それに反対する人は風刺画のユーモアを解さない朴念仁だ、というわけです。

このようにして『表現の自由』を隠れ蓑に無神論の『信仰の自由』を実践しているのがシャルリー・エブドという雑誌社です。

そういうわけで、今回のシャルリー・エブドのテロは表現の自由の問題というより、無神論とイスラム教の宗教戦争と捉える方が正しいようです。

フランスは政治的には無神論を奉じているわけですから、当然シャルリー・エブドの側に立ちますが、それを正面からそのように言うと、他の国は基本的に無神論には警戒感・嫌悪感を持っていますから、他の国を味方に付けることができなくなります。で、信仰の自由の代わりに表現の自由を持ち出して来るわけです。

他の国も宗教問題となったらできるだけ触らぬ神に祟りなし・・ということになるのですが、表現の自由と言われれば、フランス政府の仲間になってテロリストに抗議するデモに参加することができる、というわけです。

もちろん欧米の人は無神論がいかに危険なものかは分かっていますから、表現の自由なんて言葉に騙されないで、これは無神論の話だとわかっている人も多いと思いますが、日本人はどちらかといえば宗教問題にはあまり感度が良くないし、特に無神論については良くわかってない人も多い、と思います。

その意味で今回の事件が一体何だったのか、もう一度良く考えてみることが必要ではないかと思います。すなわち、無神論の信教の自由(信仰の自由)は、どこまで許されるのか、ということです。

「一般理論」 再読-その3

2月 13th, 2015

前回需要曲線と供給曲線の話をした時、供給曲線の決め方として、もう一個売るとかえって儲けが減ってしまうギリギリの数、という話をしました。需要曲線の方はもう一個余分に買うと、買った満足感よりお金を多く使ってしまった不満足感の方が大きくなってしまうギリギリの数、という話です。

このギリギリの基準となる『儲け』とか『満足感』というのを、経済学では『効用』(Utility)と言います。企業の場合は儲けることだけが目的だということになっているので、効用=儲けとなります。

消費者の場合は、お金を使って何かを買って、それで儲かったということではないので、何かを買った満足感と、お金を使った不満足感の差し引き合計の満足感が『効用』です。

で、古典派の経済学では企業も消費者も労働者も、全ての参加者が極大の効用を目指すということになっています。極大というのはもっともっと・・・の行き着く先ということです。

現実的には誰でももっと儲けたい、もっと満足したいと考えるのは普通ですが、もっともっと・・・のトコトンの儲け、トコトンの満足感を求めるというのはあまりありません。適当な所で「この位儲ければ良いや」とか、「この位の満足感で良いや」ということになります。もちろんそうは言っても、その次には更にもっとということになるので最終的にはもっともっともっと・・・ということになるのですが、とはいえ一度にもっともっともっと・・・のトコトンの所までは求めないものです。

古典派の経済学は、最初から全員がその「トコトンのもっともっともっと」を求めてそれを実行に移すという所で、まるで違ってきます。

これがわかった所で、需要・供給の法則の仕組みをもう少し詳しく考えておきましょう。これは今後ケインズの一般理論を理解するのに非常に役に立ちます。

需要・供給の法則の説明図

普通、需要・供給の法則の図は、上の図のように書かれています。

たとえば価格がp1だとすると、買い手はd1までは買えば買うだけ満足感が高くなり、売り手はs1まで売れば売るだけ儲けが大きくなります。結果としてd1までは売り買いが成立するのですが、それ以上は買い手が絶対に買わないので売り手も売ることができない、すなわち供給過剰・需要不足という状況になります。
価格がp2だとすると、買い手はd2までは買えば買うだけ満足感が高くなり、売り手はs2までは売れば売るほど儲けが大きくなりますから、結果としてs2までは売り買いが成立するのですが、それ以上は売り手が絶対に売らないので買い手も買うことができない、すなわち供給不足・需要過剰ということになります。

さてこのp1の所で、売り手がちょっとだけ値段を下げたとします。他の売り手がp1で売る時にその売り手だけちょっと安売りするのですから、買い手はまずその売り手の所に殺到し、その売り手は売りたいだけ売ることができます。ちょっと値段を下げたとはいえ、売りたいだけ売ることができなかったのが今度は売りたいだけ売れるんですから、この方が儲かります。

他の売り手は買い手をその売り手に奪われてしまうんですから、その分売れる量が減ってしまい儲けが少なくなります。で、他の売り手もそれなら・・ということで値段をちょっとだけ下げて売り出します。こんなことをやっていると、結局値段を下げても需要不足が解消できない所、すなわちp0の所まで値段が下がってしまいます。ここまで来るともうどの売り手も売りたいだけ売っていて、値段を下げると売りたい数量が減ってしまうので、その分損してしまうということになります。

p2の方も同様です。買い手の方がちょっと値段を上げて買おうとすると、売り手はまずその買い手に売ろうとするので、その買い手は買いたいだけ買えるようになり、その分他の買い手はさらに買える量が減ってしまいます。そこで他の買い手もちょっと値段を上げて買う・・ということをやると、結局全体的に値段が上がってきて、p0の所まで値段が上がってしまうということになります。

ここまで来るともう全ての買い手は買いたいだけ買ってしまっていますから、さらに値段を上げると買う数量が減ってしまい、満足感は減ってしまいます。

このようなプロセスは値段が少しずつ下がったり上がったりしながらp0に近づくというものですが、古典派の経済学ではこのプロセスが一瞬のうちに終わってしまって、始まった途端に買い手も売り手も値段はp0、売り買いの数量はd0=s0だということがわかる、ということになります。

これが需要・供給の法則です。
どうでしょう、皆さんが考えていた需要・供給の法則と、この説明の内容は同じだったでしょうか。

私はここまで来るとアキレハテテしまいます。
良くもまぁこんな非現実的な人工的な世界を作ったものだなぁと思います。

で、次はいよいよ一般理論の話に戻ります。一般理論の最初の議論は労働の需要・供給の話です。

これに限らずこの古典派の需要・供給の法則は、常に陰に陽に姿を現します。できるだけその都度コメントしようと思います。

もう一度念を押したい点があるのですが、需要曲線・供給曲線を作る時、まず値段を決めてその値段の時の需要量・供給量を決める、ということです。この逆に需要量・供給量から値段を決めるわけではないことに注意して下さい。

ここの所が時としてかなりいい加減になってしまって、議論が訳が分からなくなってしまうことが良くあるようですから。

『一般理論』 再読-その2

2月 10th, 2015

『一般理論』再読を始めるにあたり、その準備段階としていわゆる『需要・供給の法則』をしっかり押さえておく必要がありそうです。で、まずは『一般理論』に入る前に『需要供給の法則』の中味を確認したいと思っています。

というのも、古典派の経済学ではありとあらゆる場面でこの考えが登場し、需要曲線と供給曲線が交わった所で価格と売買される数量が決まる、というのがごく当たり前の話として認められているからです。

『一般理論』の最初に出てくる古典派の雇用理論の二つの公準というのも、労働の需要・供給と価格について需要曲線と供給曲線がどのように決まるか、という議論から始まるわけですから。

で、この需要供給の法則ですが、その中味については普通の経済学の教科書ではほとんどきちんとした説明がされていません。

そのことをまずお話したいと思います。

私が最初に疑問に思ったのは、需要と供給がマッチして値段と売買の数量が決まったとして、その次はどうなるのだろうということです。普通に考えれば需要と供給がうまくマッチしてめでたしめでたし、両方とも消えてしまうとそれでおしまいになってしまう、ということですが、どうもそうではなく、需要曲線も供給曲線もそのまま残るようです。だとすると、この需要供給の法則で言っている需要も供給も一旦マッチして終りということではなく、その後も継続的に発生する需要と供給のことのようです。

そのつもりでいくつか経済学の教科書を読んでみると、そのことがちゃんと書いてある本もありました。サムエルソンの経済学では、本文の中には書いてありませんが、需要曲線や供給曲線のグラフの所で『1年あたりの』需要なり供給なりの数量と書いてありました。
スティグリッツの経済学では、需要曲線や供給曲線の所には単に数量の単位しか書いてありませんが、本文の説明の一部に『週あたりの』という言葉があります。
それ以外ではこの需要・供給が一定期間の需要・供給のことを言っていて、継続的にほぼ同じ位の需要・供給が発生する物について議論しているんだということがまるで書いてありません。

ともかくサムエルソンの教科書で、この需要・供給というのが一定期間の需要・供給を意味するんだということが確認できたので、次に進むことにします。

で、この需要曲線あるいは供給曲線ですが、その意味は、ある商品に関してある値段が決まった時、その値段で買いたいあるいは売りたいという数量を(が)それぞれの買い手あるいは売り手ごとに決め(決まり)、値段を縦軸に、買いあるいは売りの数量を横軸に取ったグラフにし(これを個別の需要曲線あるいは供給曲線といいます)、これを全ての買い手・売り手について集計して値段ごとに市場全体の買いあるいは売りの合計の数量を横軸に取ったグラフを作ります(これが全体の需要曲線あるいは供給曲線になります)。

そこで、需要曲線は左上から右下に向かった曲線(値段が安くなると需要が増える)になり、供給曲線は左下から右上に向かった曲線(値段が高くなると供給が増える)になるので、その二つの曲線が交わった所で需要量と供給量が同じになり、そこの値段でそれだけの数量の売り買いが成立する、というわけです。

この需要曲線・供給曲線の作り方で、需要側が『買いたい』、供給側が『売りたい』数量を集計して、という説明が普通されるのですが、古典派の考えはそんなものとはまるで違います。『買いたい』とか『売りたい』とかいういい加減な話ではありません。『買いたい』ではなく『買います』、『売りたい』ではなく『売ります』ということです。

値段が100円の時1,000個売る、となったらそれだけ(1,000個分)の需要があったら何が何でも1,000個売らなければいけません。売りたいと思ったけどやっぱりやめた、なんてことは許されません。需要の方も同様で、値段が100円の時1,000個買うとなったらそれだけ供給してくれる売り手がいたら何がなんでも1,000個買う、ということです。

これだけでも大変なのに、古典派の経済学というのはもっとすごいものです。すなわち値段100円の時に1,000個売るという時の1,000個というのは、取りあえず1,000個売れると嬉しいなとか、前期が800個位だから今期は1,000個にしておこうか、とかいう話ではありません。1,000個までなら売上原価と販売経費を足して売値100円でしっかり儲かるけれど、1,001個にすると逆にその1,001個目について売上原価と販売経費を足すと売値の100円を上回ってしまい、儲けが少なくなってしまう。そのようなギリギリの数が1,000個だというものです。

買い手の方も、たとえば10個買うというのは、10個分のお金を払ってでも10個買う方が満足度が大きいけれど、11個買うとなると11個買った満足度から11個分のお金を払ってしまった不満感を差し引いたものが10個の場合より小さくなってしまう、というギリギリの個数です。

売り手も買い手もこのようなギリギリの個数をそれぞれの値段ごとに決めることができるとして、それを値段ごとに瞬時に集計してその集計結果にもとづいて値段と売り買いの数量が瞬時に決まる、そしてその値段と数量で売り買いが成立する、というのが、古典派の経済学の需要・供給の法則です。

現実にはもちろん、値段が100円だったらどれだけの数量売るか買うかなんてことは、その時にならなければ分かりません。しかも上に書いたようなギリギリの数量なんてものは普通考えません。考えたとしても、実際にそのギリギリの数量まで売ったり買ったりなんてことはしません。でも古典派の世界では全ての売り買いの参加者全員について、それぞれの値段について売り買いの数量がわかり、それを集計したそれぞれの値段ごとの全体の売りの数量・買いの数量が瞬時に分かり、その需要曲線と供給曲線の交わった所の値段がいくらになるか全員が分かり、その時その値段で自分が売りあるいは買う数量がいくつなのかも自動的にわかり、その値段・数量で売買が成立してめでたしめでたし、という、とても常識では考えられないような話です。

誰がどう考えても非常識な話なんですが、古典派の経済学はこのように考えることになっています。このように考えるのはもちろん理由があります。

すなわち、そのように考えることによって売買の値段と数量がきっちり決まる、ということです。これによって色々な問題が解けることになるからです。

学者にとって、現実的だけれどきちんとした結論を出すことができない(即ち解けない)問題と、現実的じゃないけれど論理的にきちんとした結論を出せる(解ける)問題と、どちらが良いかということになったら、答が出る方が良いのははっきりしています。

たとえ前提とするものがまるで現実的でなくても、論理的にきちっとした答えが出せればそれは業績として評価されます。現実的な問題を設定していくら頑張ってもしっかりした答えを出せなければ、それは業績とは認めてもらえません。

そんなわけで、この古典派の経済学がこれほど現実離れしているにも関わらずずっと正統派の主流の経済学の地位を保っている、ということになるわけです。

需要・供給の話、まだしばらく続きます。