二・二六事件関係の本

5月 7th, 2015

先日紹介した末松太平著『私の昭和史』を読んで、またぞろ二・二六事件関係の本を読みたくなってしまいました。で、読んだのが
(1) 保坂正康さんの『秩父宮と昭和天皇』
(2) 原秀男さんの『二・二六事件軍法会議』
(3) 北博昭さんの『二・二六事件全検証』
(4) 『真崎甚三郎日記 昭和10年3月~昭和11年3月』
(5) 香椎浩平さんの『秘録二・二六事件 香椎戒厳司令官』
(6) 『文芸春秋に見る昭和史』第1巻
(7) 伊藤隆・北博昭編 『新訂二・二六事件判決と証拠』
の7冊です。

(1)は二・二六事件、青年将校の希望の星だった秩父宮の関わりについて確認するため。
(2)は二・二六事件軍法会議の裁判資料を60年がかりで探し出した法律家による説明。
(3)は『私の昭和史』の解説の部分に、末松太平の最後の戦いが、澤地さんの『雪は汚れていた』に書かれた将軍達の事前陰謀説を否定するためだったのだけれど、その陰謀説はこの本で学問的に完全に否定された、と書いてあるけれどそれが本当かどうか確かめるため。
(4)はその陰謀説の中心人物の真崎甚三郎大将の事件当時の日記。
(5)はその陰謀説のもう一人の中心人物の香椎浩平東京警備司令官・戒厳司令官の二・二六事件に関する手記と東京警備司令部・戒厳司令部の資料をまとめたもの。
(6)はその中に真崎甚三郎と柳家小さん(たまたま徴兵検査で入隊した途端に二・二六事件の反乱軍の一兵卒になってしまった)の思い出話、その他2,3の二・二六事件関係の話が入っています。
(7)は(3)の著者とその先生の二人による、60年ぶりに見つかった二・二六事件の判決文です。

(1)については以前読んでいたものですが、二・二六事件のくだりだけを読み直したものです。
(2)については改めて別途ちゃんとコメントしますが、とびきりお勧めです。
(3)について、この『私の昭和史』の解説にあった『事前陰謀説が学問的に否定された』に該当する部分について確認してみましたが、確かにこの(3)の著者はそう言っています。しかしその著者の議論は澤地さんの『雪は汚れていた』などと比べてはるかに杜撰なもので、『完全に否定された』などと言えるようなものではないことを確認しました。むしろ(2)によると、事前陰謀説が正しいことが明らかになっているようです。

澤地さんは『もしかすると全員が嘘つきだったかも知れない』という前提で資料を読んでいるのに対し(もちろんその前に匂坂法務官もそういう立場で取り調べをしているわけですが)、この(3)の著者の北さんという人は、『誰がこう言っているからこうだ』『誰がこう言っているからこれが正しい』という話しかしていません。まるで話にならないいい加減な議論です。

二・二六事件の『将軍たちの陰謀説』は青年将校達が自分達で革命政府を作ろうとしないで、自分達以外の大将を担ごうとした所から始まっていて、その青年将校達が担ごうとしたのが真崎大将という人で、この人は二・二六事件が起きた直後自ら青年将校達に担がれようとして、青年将校達が集まっていた陸軍大臣官邸に乗り込んだ人です。

もう一人の重要人物が香椎浩平という人で、二・二六事件の時、まずは反乱軍を鎮圧しなければならない立場の東京警備司令官という職にあり、その翌日にはさらに反乱を鎮圧して東京の治安を回復しなければならない戒厳司令官になった人なんですが、この人は反乱軍を鎮圧しようなんてことをまるっきり考えず、反乱軍も天皇の軍隊、それを鎮圧するのも天皇の軍隊、天皇の軍隊同士を殺し合いさせることだけは避けなければいけない、ということで、まずは反乱軍を自分の配下にして鎮圧する側の軍隊と一緒に警備に当たらせるなんてことをし(即ち反乱軍を正規軍としてしまったということです)、その後も反乱を反乱ではないことにしようと頑張った人です。そんな人が警備司令官、さらには戒厳司令官になったということですから、トンデモないことです。

二・二六事件がとりあえず鎮圧され、軍法会議(軍の裁判)が開かれる時、戒厳司令官が軍法会議のトップになるのが普通だったのですが、この時は陸軍大臣がトップになり、この香椎さんは反乱軍を助け協力したのではないかと逆に取り調べを受ける立場になった人です。香椎さんは結局不起訴で裁判にならずに終わっていますが、真崎さんは裁判になり、何とも不思議な判決で無罪になっています。

いずれにしてもこのようなことになったのは、二・二六事件を起こした青年将校達が、せっかくテロで政府の高官を殺しておきながらそれで政府を乗っ取ろうとしないで、あとは誰かがやってくれるだろうなどといういい加減なクーデターをやってしまったため、それではというわけで真崎さんなどいわゆる皇道派の大将達がクーデターの乗っ取りを企んでしまったためです。

で、(4)はその真崎さんの日記ですが、実は二・二六事件の前日、真崎さんはその前の年に相沢中佐が永田軍務局長を殺した件で軍法会議に証人として呼び出され、『天皇の裁可がないから』などと言って実質的に証言拒否している人です。

また二・二六事件の青年将校達とは二・二六事件の前年の暮あたりから1月、2月にかけて何度か会い、資金援助の相談なんかもしています。そのあたりの日記が入っています。面白いことに二・二六事件の当時のこと(2月26日~29日分)は事件が決着した3月10日以降にまとめて記載されています。さすがにその当時は日記など書く余裕がなかったのか、あるいは決着がついてから問題とならないように考えて書いたのか分かりませんが。また4月1日以降は軍法会議に収監される7月6日まで日記が途絶えて(あるいは行方不明になって)います。

(5)はもう一人の重要人物の香椎さんの手記と、その当時の香椎さんがトップだった東京警備司令部・戒厳司令部の二・二六事件の進行状況に関する日々の報告書・その他の資料がまとまっています。もちろん事件が終わってから整理されたものですから、都合の良いように作り直されているのはほぼ確実ですが、面白い資料です。

この手記によると香椎さんは事件の発生の通報を受け、東京整備司令部に出勤するに際し、勝海舟の氷川清話を風呂敷に入れて持って行ったと自慢げに書いています。勝海舟が薩摩の西郷さんと話をして決めた江戸城無血開城にならって二・二六事件を軍隊同士の殺し合いにしないために、と勝海舟気取りです。

(6)も、先の真崎さんが『自分は不当に弾圧された、裁判は暗黒裁判だ』と批判している話や小さんさんの話の他にももう2,3、最初に首相官邸に乗り込んで取材した記者の話や『兵に告ぐ』のアナウンサーの話など、二・二六事件の話が出ています。

(7)は二・二六事件の裁判の判決の主文とその理由、特にどの証拠をどのように裁判官が判断したか、の全てです。

これだけで480ページにもなる大部なもので、とてつもなく歯ごたえがあります。なにしろ二・二六事件の裁判は全部で23のグループに分けて、計165人の被告の裁判ですから。とりあえず全部読む前に、一番最初の主な青年将校らの分と一番最後の真崎さんの無罪判決だけを読みましたが、これもとてつもなく面白いものです。真崎さんは『反乱者を利す罪』で起訴されたのですが、判決をえいやっとまとめると、『被告はいろいろ否認している所もあるけれど、他の証拠などからこれこれこのように反乱者を利したことは間違いない。しかしその行為が反乱者を利そうとしてやったことだと言う証拠は十分ではないので無実とする』というものです。

おかしな判決だなと思ったのですが、根拠となる陸軍刑法を見ると、『反乱者を利す罪』というのは反乱者を利すことが犯罪だということにはなっていないで、反乱者を利すためにこれこれをしたら犯罪だという規定になっているので、この判決はむしろ妥当なのかも知れません。
(続く)

『一般理論』再読-その10

4月 7th, 2015

さて、ここまで来ていよいよケインズ『一般理論』の全体構想が明らかになります。中心となるのは、前回説明したように、
P+F です。ここで、
  P : 企業の所得(利益)
  F : 労働者の所得(労賃)
です。
これの経済社会全体の合計を考えるのですが、まずは個々の企業についての合計を考えます。
即ち、企業の所得と、その企業に雇われている労働者の所得の合計です。
これは企業の所得と労働者の所得ですから、仮に【総所得】ということにします。
ケインズの見方は、企業が労働者をN人雇った時に、それを使って生産活動をして、その結果として売上高が上がったとして、その時のP+Fを労働者N人の時の売上高に対するP+Fと考えるということです。その意味で、私はこれを【売上総所得】と言うことにします。

なお、会計の世界では売上総利益という言葉を使います。これは売上高から売上原価を差し引いたものですから、ここで言う売上総所得とはまるで別のものです。

ところがケインズは、このP+Fについて、proceedsという単語を使ったために日本語訳の世界ではまたまた大混乱が生じてしまいます。まず間宮さんの訳ではこのproceedを『売上収入』などと訳してしまいます。山形さんの訳では『収益』などと訳しています。宇沢さんの本では『収入』などと訳し、宮崎さん・伊東さんの本では『売上金額』などと訳しています。こんな訳し方では収入あるいは収益と利益あるいは所得がゴッチャになっていて、何がなんだか訳が分からなくなります。

こんな本でケインズの『一般理論』を理解しようとする読者はトンデモナクいい迷惑ですね。

で、混乱を避けるため、以後では【売上げ総所得】という言葉で統一しようと思います。

全企業が生産活動をし、売上げを上げて売上げ総所得を獲得して、それを企業と労働者で山分けするわけですが、企業は企業の所得をより大きくしようとしてがんばる。労働者は労働者の所得をより大きくしようとして頑張る。だけど経済社会全体で考えるなら、この売上げ総所得を全企業について合計した、経済社会全体の売上げ総所得が大きくなることが大事で、それを企業と労働者でどう分けるかはそのあとの話、ということです。

ここまで来たら、いよいよケインズの需要・供給の法則が登場します。古典派の需要・供給の法則は、物の値段に対して需要あるいは供給の数量を決める曲線ないしは関数を決める話でした。ケインズの方は、雇用される労働者の数に対して、需要あるいは供給される売上げに対する売上げ総所得を決める曲線ないしは関数を決める話になります。

このやり方の良い所は、労働者の数も売上げ総所得の金額も、どちらも足し算ができる。すなわち合計が計算できる、ということです。そこで物の種類が何であろうと業種が何であろうと全部合計することができ、経済社会全体の合計を計算すれば、それが全体の需要・供給の曲線ないしは関数となる、ということです(古典派の世界では物の数量ですから、自動車の台数とミカンの数を合計する、なんてわけにはいきません)。

ちょっと急ぎ過ぎたので、もう少しちゃんと説明します。
企業が労働者を雇って生産活動をする時、まず何人雇ってどれだけの生産をするかを考え、その結果として売上高を考え、売上げ総所得を計算します。ここで古典派では皆がもっともっと・・・とトコトン利益を求める結果として、需要曲線も供給曲線もいつの間にか決まってしまい、その交わったところで取引が行われることになります。

ケインズの経済学ではまるで違います。企業の雇用者数に対する売上げ総所得は、企業自体が決めます。N人の労働者を雇うんだったら、これだけの売上げ総所得が得られるよな、それだけの売上げ総所得が得られるんだったらN人の労働者を雇っても良いよな、という、商品を供給する側の期待で見た、労働者の数と売上げ総所得の関係を【総供給関数(それをグラフに書けば総供給曲線)】と言います。

またN人の労働者を雇って生産した場合、その生産物はいくらでこれ位売れるから売上げ総所得はこれくらいになるよな、という(その企業の期待する)需要サイドから見た売上げ総所得と労働者数との関係を、【総需要関数(それをグラフに書けば総需要曲線)】と言います。すなわち企業が生産する製品あるいは商品の需要と供給のそれぞれを、その企業がどのように見る(期待する)か、という関数(曲線)です。

もちろん古典派の世界とは違って、ケインズの世界ではこの総需要曲線と総供給曲線の交わる所はそう簡単には実現しないのですが、でも総供給曲線より総需要曲線の方が上になる場合(すなわち供給より需要の方が大きい場合)は、企業からするともっと金をかけもっと労働者を増やしても、値段を上げて売上げを増やし、売上げ総所得を増やすことができそうだ、ということで、少しずつその交わる所に向かって現実が動き出す、すなわち雇用する労働者数を増やして売上げ総所得が増える方向に動いていくということになります。

このような動きの目標となる、総需要曲線と総供給曲線の交わった所の売上げ総所得のことを、【有効需要】と言います。これはケインズが『一般理論』で定義している有効需要ですから、一般に使われている有効需要とは別物です。注意して下さい。特に、総需要曲線も総供給曲線も、元となっているのは各企業の期待すなわち各企業がどのように見ているか、ということで、誰かがいつのまにか決めている、あるいは決まってしまう、というものではないことに注意して下さい。

ケインズはこのように有効需要あるいは総需要曲線と総供給曲線を定義しておいて、その上でその総需要曲線あるいは総供給曲線を決めるのは何か、と考えます。

  所得=消費+投資
です。消費は消費者が勝手に決めて実行することができるもの、投資は企業が勝手に決めて実行できるものです。もちろん社会全体の投資がこれで決まるわけではないのですが、ある企業が投資をすると社会全体としての投資が増え、所得も増える。ある消費者が消費すると社会全体の投資は減るかもしれないけれど社会全体の所得は増える、ということになるので、次のステップとして『消費はどうやってきまるのか』『投資はどうやって決まるのか』、あるいは『どうやったら消費を増やせるのか』『どうやったら投資を増やせるのか』、という議論になるわけです。

次回はその前にもう1回、これまでの議論をまとめることにします。

『一般理論』再読-その9

3月 30th, 2015

前回は所得の定義をした所で終わってしまいました。
この続きで、『消費』『貯蓄』『投資』の定義をし、貯蓄=投資の話をしましょう。

その前にまず、ケインズは物事を簡単にするため経済社会を『企業』と『労働者』と『労働者を含む消費者』に分けます。もちろん現実的にはこれ以外にもいろんな存在があるのですが、それは必要な都度追加して考えれば良いということです。企業は利益を増やすことだけ考えるので、消費はしません。企業家が消費するのは、企業と企業家を分けて考えて、企業家が消費するんであって企業が消費するんじゃない、と考えます。

前回の
  P : 企業の利益(=企業の所得)
  A : 企業の売上げ
  A1 :他の企業からの仕入れ(他の企業に対する支払い)
  F : 企業以外からの仕入れ(企業以外への支払い)
  I : 企業の投資
にさらに
  C : 消費(労働者を含む消費者のみ 企業は消費しない)
  S : 貯蓄(所得から消費を引いた残り 企業の場合は所得と同じ)
の2つの記号を追加して説明します。

経済社会全体の所得は
  ΣP+ΣF
となります。ここでΣは全ての企業、全ての労働者(あるいは消費者)の合計の意味です。

経済社会全体の消費は
  ΣC
です。

『貯蓄』というのは、所得から消費を引いたものですから、
  ΣS=ΣP+ΣF-ΣC
  貯蓄=所得-消費
となります。

投資は
  ΣI
です。投資は企業の設備投資・在庫投資の増分ですから、消費者の投資はありません。

さてここで
  P=A-A1-F+I
という式に戻って考えると、
 ΣP+ΣF=ΣA-ΣA1+ΣI
となります。

ここでΣAは全企業の売上げの合計、ΣA1は全企業が企業に支払った額の合計、言い変えると全企業の企業に対する売上げの合計になります。ですからΣA-ΣA1は全企業の企業以外に対する売上げの合計、すなわち消費の合計、ということになります。
売上げ(A)は企業に対する売上げ(A1)か、企業以外に対する売上げ(C)かどちらかだ、ということです。

 ΣA-ΣA1=ΣC
これから
  ΣP+ΣF=ΣA-ΣA1+ΣI=ΣC+ΣI
   所得=消費+投資
ということです。

これと
  貯蓄=所得-消費
を合わせると
  投資=貯蓄
ということが分かります。

もちろんこれは投資と貯蓄が同じものだということではなく、結果的に投資と貯蓄の額が等しくなる、ということです。このあたりは例を使って計算してみると良く分かります。

たとえば消費者のAさんが100円消費する(何か買い物する)とします。それはBという企業が売るもので、Bは原価70円の品物の在庫を取崩して100円の売上げになるものとします。

まずAさんの方は、貯蓄100円取崩して消費を100円にするのですから、
  所得=0円  消費=100円  貯蓄=-100円  投資=0円
となります。
B企業の方は原価70円のものを100円で売るので、利益が30円。これが所得および貯蓄になります。
在庫を70円取崩すので、投資は-70円になります。
すなわち
  所得=30円  消費=0円  貯蓄=30円  投資=-70円
となります。AさんとB企業を合わせると
  所得=30円  消費=100円  貯蓄=-70円  投資=-70円
となり、
  所得=消費+投資
  貯蓄=所得-消費
  投資=貯蓄
となっているのが分かります。

もう一つ、今度は企業Cが設備投資なり在庫投資なりを100円するとします。この投資のために労働者Dに労賃を30円払い、企業Eに70円払うとします。

企業Eではこの70円の売り上げを在庫50円の取崩しで立てるとします。

企業Cでは
  所得=0円  消費=0円  貯蓄=0円  投資=100円
労働者Dでは
  所得=30円  消費=0円  貯蓄=30円  投資=0円
企業Eでは
  所得=20円  消費=0円  貯蓄=20円  投資=-50円
三者合計すると
  所得=50円  消費=0円  貯蓄=50円  投資=50円
で、ここでも
  所得=消費+投資
  貯蓄=所得-消費
  投資=貯蓄
となっているのが分かります。

経済活動の個々の当事者個別ではこの 投資=貯蓄 の等式は成立たないんですが、取引の当事者全部を合計するとこの等式が成立ち、取引の全てを合計すると経済社会全体でこの等式が成り立つ、ということです。

最初の例ではAさんが100円の買い物をしただけで、社会全体の所得が30円増えてしまうということ。2番目の例では企業Cが100円の投資をしただけで社会全体の所得が50円も増えてしまう、ということです。

これは逆に言えばAさんが100円の買い物をしようとして思いとどまったら、それだけで社会全体の所得が30円増えるはずが増えなくなってしまう。企業Cが100円の投資をする所、思いとどまってしまうだけで社会全体の所得が50円増えるはずが増えなくなってしまう、ということです。

念のため確認しておきますが、投資とか貯蓄と言っているのは通常の投資や貯蓄の残高のことではなく、その増減のことを表しています。

さてこのように整理した所で、企業はそれぞれの利益=所得(P)を大きくすることだけを考え、労働者はそれぞれ自分の所得(F)を大きくすることだけを考えている状況で、皆が幸福になるためにケインズは
ΣP+ΣF
に注目します。ΣP+ΣFが大きくなればほとんど自動的にPもFも大きくなって、企業も労働者もHappyということです。
(つづく)

『経済と人間の旅』 宇沢弘文

3月 30th, 2015

この本は宇沢さんが日経新聞に連載した『私の履歴書』を第一部とし、第二部としてそれ以外に宇沢さんが日経新聞あるいは日経産業新聞(1つだけ)に寄稿した文をまとめたものです。

『私の履歴書』は1ヵ月毎日の連載なので読んでいる時はかなり長いような気がしますが、本にすると1回分本文3ページ・写真1ページとして4ページ、31日分で124ページにしかならないので、これだけだとちょっと少ないということになり、他の文章と合わせて1冊にする、というのは良くある話です。

宇沢さんの『私の履歴書』は2002年3月の連載だということですから、10年以上もそのままになっていたのが、昨年宇沢さんが亡くなってちょっとブームになったのをきっかけに本にしたようです。私も図書館で数ヵ月待って、借りて読みました。

第二部についている文章はほとんどが日経新聞の『経済教室』というページに掲載されていたものです。私はサラリーマンになってから毎日日経新聞を読んでいて、この『経済教室』というページは初めのうちはまるで歯が立たなかったんですが、何年かしてからは好きなページになっていたので、多分ここに載っている文はほとんど読んでいると思います。もちろん『私の履歴書』の部分もちゃんと読んでいます。

しかし、今のようにケインズの経済学や古典派の経済学に興味がなかったので、その内容はほとんど覚えていませんでした。

改めて読んでみると、特に第二部の部分は非常に面白く、経済学の変遷の歴史がうまくまとめられているなと思います。特に古典派の経済学がケインズの一般理論により否定された後様々な形で復活して、ケインズの経済学を圧倒してしまうあたりは非常に面白いです。

お勧めします。

『私の昭和史』 末松太平著

3月 24th, 2015

この本の著者の末松太平さんという人は、戦前のいわゆる青年将校と呼ばれる人の、いわばリーダー格の一人で、5.15事件の前から2.26事件にかけての様々な場面を経験しているのですが、たまたま幸か不幸か直接的にテロには参加する機会に恵まれず、2.26事件で青森から中央に対して意見を言ったり電報を打ったりしたことを咎められ、有罪になって陸軍を追い出されている人です。

いわば2.26の生き残りの一人が、昭和38年になってその当時の青年将校を取り巻く上官や兵隊たちの生きざまを活き活きと書いています。

2.26事件のいわば神がかり的な青年将校たちとは違って、いたって冷静に状況を見て行動したことを記録したものです。

著者が幼年学校(陸軍士官学校に入る前に中学2年生位で入る学校)に入る所から始まり、満州事変・5.15事件・相沢事件から2.26事件、最後は著者と同じく青年将校のリーダーだった大岸さんという人が戦後変な宗教にはまって、ついには死に至るのを見届けるまでが書かれています。

登場する青年将校達が生き生きとした青年として描かれています。彼らが何を考え、何をしようとしていたかが良く分かります。

この本は三島由紀夫が激賞したということですが、文学としても十分読み応えのある本です。

文庫本で上下合わせて本文だけで500ページ強の本ですが、楽しく読めます。
2.26事件の青年将校たちについて興味がある人には是非ともお勧めです。

『地獄である』

3月 24th, 2015

昨日(3月23日)の日経新聞朝刊の40ページに全面広告でバカでかい活字で『地獄である』なんてのがありました。一体何だろうと思ったら、『一人一票実現国民会議』という名前で、弁護士の升永英俊という人が出している広告のようでした。

いわゆる一票の格差の問題について主張しているもののようなんですが、何ともはやの論理展開で、やはり弁護士さんは論理的思考ができないんだなと思ったのですが、面白いので紹介します。

  1. 最高裁の裁判官のうちの何人かは、参議院選での一票の格差の問題で、選挙は違憲状態にあると判断しており、違憲状態にある選挙で選ばれた国会議員には正当性がない、と言っている。
  2. 最高裁の判決では衆議院選は違憲状態にあり、選出された議員は正当性がなく、その議員を含む内閣には正当性がない。
  3. 裁判官はその正当性のない内閣により任命されているので、裁判官も正当性がない。
  4. 正当性のない裁判官が死刑の判決をするのは、人の道に背く。自分が仮にその正当性のない裁判官であったら、たとえ自分が殺されても実刑判決はしない。
  5. 正当性のない裁判官が死刑判決を言い渡し続けているのは地獄である。
  6. この地獄を止める唯一の方法は(一票の格差に関して)違憲無効判決を言い渡すことである。
  7. アメリカでも州議会選挙で972倍もの一票の格差があったのを、連邦最高裁判所の判決で一人一票になった。

ということのようです。
何ともはや、ツッコミどころ満載の支離滅裂の議論ですね。

正当性のない最高裁判所の裁判官が違憲無効判決をすれば全て解決する、というのはどういう理屈によるんだろうと思います。こんな訳の分からない人が裁判官でなくて良かったな、と思いました。

それにしても日経新聞の1ページ全部の広告ですから、結構お金がかかったんじゃないかなと思います。

この弁護士さんが、今全国で行われている一票の格差問題の選挙違憲裁判の中心人物のようです。
よっぽどお金と暇がある人なんでしょうね。

『昭和陸軍秘録 軍務局軍事課長の幻の証言』

3月 24th, 2015

しばらく前 『昭和戦争史の証言 - 日本陸軍終焉の真実』 という本を紹介しました。
この本はその本の著者(西浦進)と同じ人の本なのですが、前に紹介した方は著者が終戦後忘れないうちと思って資料もない中記憶を頼りに書き綴ったもので、今度の本の方は戦後20年以上たってから『木戸日記研究会』という所が著者に聴き取り調査(インタビュー)したものをまとめたものです。

口頭での質問に対して口頭で答えているのを書き下ろしているものですから、ちょっと雑駁な所もありますがその分気楽に読めます。

内容的には前に紹介した本と同様、西浦さんが軍人を志したところから始まって、戦前・戦中の軍人(主として陸軍省勤務)としての経験をまとめたものです。

前の本は西浦さんの問題意識にもとづいて書きたい(書いておきたい)事が書かれていたのですが、今度の本は聴き取り調査する方の問題意識にもとづいて質問が用意され、それに答えるという形で進行します。直接自分で書くというのと違って口頭のヒヤリングですから、答え方もかなり気楽に話しています。

聴き取りが行われたのが1967年9月から1968年2月までの期間で、西浦さんは1970年にはもう死んでしまっていますから、その意味でも貴重な記録です。

また本にするとなると省略されてしまうような細々とした話も、おしゃべりでは省略されないで出てきますので、なかなか面白いです。

これを読んで、やはり第二次大戦においても日本の対応については、ロシア(ソ連)の存在感が大きいんだなと良く分かりました。

またアメリカに物資を押さえられ、仕方なくインドネシア(この本では蘭印と言っていますが)に石油を取りに行くのですが、これが実はドイツがオランダに攻め入ったのがきっかけだ、というのも初めて知りました。要するに、ドイツがオランダに攻め入ったので、オランダ領のインドネシアの石油はドイツに押さえられてしまうかも知れない、あるいはオランダの亡命政府がイギリスに逃げたので、イギリスに押さえられてしまうかも知れない、となったら、日本が先に押さえておかなければ・・という話のようです。

その後石油は無事に手に入れたにもかかわらず、船がなくてせっかくの石油を日本に運ぶことができなかったとか、陸軍と海軍で船の取り合いをしてどうにもならなかった・・なんて話もあります。

また太平洋戦争が始まる前、英米不可分論と英米可分論というのがあって、イギリスと戦争してもアメリカと戦争しないで済むだろうか、イギリスと戦争するとアメリカも一緒に敵に回すことになるんだろうか、とかなり議論があったということも分かりました。

この西浦さんは、東条英機が総理大臣になり陸軍大臣を兼任した時に半年間陸軍大臣秘書官になり、その前後も陸軍省の役人として東条英機と仕事をしている人なので、その話もなかなか面白いです。

戦争の話は何となく参謀本部がやりた放題・・みたいな印象がありますが、陸軍省や政府との主導権争いのやり取りなど、そう簡単な話でもないことも分かります。

ちょっと分量はありますが(400頁強で二段組みになっています)、お勧めします。

『一般理論』 再読-その8

3月 20th, 2015

さていよいよケインズの『所得』『貯蓄』『消費』『投資』の定義です。
この中で、投資=貯蓄という等式が証明されます。この等式の意味を理解することが、ケインズの経済学の最重要ポイントの一つです。

企業は物を買い、労働者を雇い、生産をして商品あるいは製品を売って売上高を得ます。その結果としての利益をPとします。
これを
 A:売上高 
 A1:他の企業から買った物やサービスに対する支払い
 F:企業以外から買った物やサービスに対する支払い(たとえば労賃など)
で示そうというわけです。

収支だけ見ると、収入=A 支出=A1+Fですから
 P=A-A1-F
となりそうですが、そこまで簡単になりません。

A1やFは必ずしも売上げに直結するとは限りません。原料を仕入れ、それが仕掛品になり、製品になり、最終的に売上げになるわけですが、それまでの間は原料の在庫・仕掛品の在庫・製品の在庫、となります。商品の仕入れでもまずは商品の在庫となって、そのあとで売上げになります。またA1やFの支払いがなくても商品や製品の在庫を売れば、売り上げになります。

さらに商品を売るためや製品を作るための設備投資のための支出も、A1やFの中に入っています。そこでそのような原材料の在庫・仕掛品の在庫・製品の在庫・設備投資の増減(すなわち期間中に増えたか(+)減ったか(-)した額)を『投資』と言い、Ⅰで表します。

すると今度こそ
 P=A-A1-F+Ⅰ
と式で書くことができます。
これをちょっと書き直すと
 P=(A+Ⅰ)-A1-F
になります。
すなわちA1やFのうち、Ⅰの増加になる分は売上げにならず利益にもならないとか、Ⅰの減少すなわち在庫を取り崩して売上げにすれば、売上高から在庫を取崩した原価を引いたものが利益になる、とかを示しています。

会計の世界では、売上総利益とか営業利益とか経常利益とか純利益とか、利益を何段階かにわたって計算するため、FにしてもA1にしても、原価になる分と原価にならずに直接経費になる分を分け、原価計算し、売上高に対応する売上げ原価を計算し・・となるのですが、上記のように整理してしまうとスッキリします。原価計算と設備投資の現在価値の計算をきちんとやってしまえば、A1やFを分解することなく、利益が計算できてしまいます。

さらにこれは会計の話なので、経済学のように『いずれはこうなる』『最終的にこうなる』『この方向に向かって収れんしていく』『だいたいこうなる』などといういい加減な話ではなく、いつでもどこでもどんな企業でも成立する話になります。一つ一つの会計取引ごとに成立しますし、一つの企業のある期間の取引全体の集計についても成立しますし、ある期間の一つの経済社会の全体の集計についても成立ちます。

この一定の期間の経済社会の全体の集計を取ると、これが『マクロ経済学』ということになるわけです。

Pというのは、企業の利益あるいは所得の合計、Fというのは企業以外の所得の合計ですから、P+Fはその経済社会の全ての所得の合計ということになります。
上の式を書き直すと、
 P+F=A-(A1-Ⅰ)
となります。

Fをケインズは『要素費用(factor cost)』と呼びます。この『要素』というのは生産要素ということで、古典派の経済学では経済的価値の源泉は土地・労働・資本の三つの要素から成っていると考え、これらを生産要素とよんでいます。この要素はさらに土地も資本も、元はと言えば労働によって産み出されたもので、だから全ての価値は労働によって作られるという『労働価値説』にまで行くんですが、とりあえずはそこまで行かず、三要素のレベルでの議論で、特に労働者に支払う労賃がこの要素費用になるわけです。

このFを要素費用と呼んだので、残りの(A1-Ⅰ)をケインズは『使用者費用(user cost)』と呼んでいます。
これをUと書くと
 P=A-U-F
すなわち売上高からUとFとの費用を差し引いたものが企業の利益になるというわけです。

Fが要素費用なので、Uは使用者費用、売上高からその両方の費用を差引くと利益になる、ということです。しかしこのUの方はプラスになることもあるしマイナスになることもあるし、そう簡単に『費用』と言って済ませられるものではありません。というのもU=A1-Ⅰですから、A1が大きかったりⅠがマイナスだったりすればUはプラスになりますが、A1が大きくなくてⅠがそれより大きいとUはマイナスになってしまいます。こうなるのはⅠがプラスになったりマイナスになったりするもので、さらにそれをA1から差し引いているからです。

で、U=A1-Ⅰですからその通りに説明すれば良いものを、ケインズの説明では『Uは生産設備を使用する費用だ』などということをさかんに強調しています。そのため宮崎さん・伊東さんの本でもUを使用者費用ではなく、『使用費用』と訳しています。それに引きずられて宇沢さんの本も間宮さんの訳も『使用費用』を使っています。山形さんの訳はこれとは違う言葉を使おうとしてなのか『利用者費用』としています。

私の解釈は、Fが生産要素に対して直接支払う費用であるのに対して、Uの方は生産要素を使って生産している企業に対する費用なので使用者費用というんだろう、位の話で特に違和感はないのですが、いずれにしてもA1とⅠをそれぞれ別々にしておけば何の問題もないのに、それをU=A1-Ⅰと一緒にしてしまい、A1の方に注目して使用者費用と名付けておきながら、Ⅰの方に注目して『生産設備の使用料だ』などと説明しているケインズが誤解の原因なんだろうと思います。

『所得』の定義はちょっとできましたが、『貯蓄』『消費』『投資』の定義まで行きつきませんでした。
それは続きで。

『一般理論』 再読-その7

3月 15th, 2015

さて『一般理論』、いよいよ『第三章 有効需要の原理』に入ります。ここからケインズの世界が始まります。

しかしこの章はそれ以降の『第四章 単位の選定』『第五章 産出量と雇用の決定因としての期待』『第六章 所得・貯蓄および投資の定義』『付論 使用費用について』『第七章 貯蓄と投資の意味』-続論』の全体のまとめの形でケインズの雇用理論を展開しています。そのためこれらの第四章から第七章の話を先取りしているため、そこの所の話が分からないときちんと理解できないようになっています。

で、『一般理論』とは順番が違ってきますが、この第三章から第七章までをまとめて話します。
とはいえ、第四章と第五章は前置きのような話で、それを受ける第六章、その付論、第七章と第三章が一体の話になっています。

『第四章 単位の選定』では経済活動の量を現す単位をどのように選定するか、要するにお金の単位を何にするか、という話をします。古典派の経済学ではどうも金額というのは実体のないものと考えているようです。すなわち全ての物価が二倍になり、お金の額も二倍になったとしたら、金額の呼び名は変わるけれど、経済の実態は何も変わらないじゃないかということで、いわゆる『名目値は意味がない』、『実質値だけが意味がある』、というように考えているようです。

この名目とか実質とかというのは、名目GDPとか実質GDPとか言うときの名目・実質のことで、名目というのはお金の単位そのままのもの、実質というのはお金の価値がインフレやデフレで変動するのを修正したもの(名目値を物価水準・インフレ率あるいはデフレ率で修正したもの)です。

で、古典派の経済学では『実質値が実際の価値を表す』ということなので、正しいインフレ率あるいはデフレ率というものがある、というように考えます。現実の世界では『消費者物価指数』とか『卸売物価指数』とか『GDPデータ』とか『インフレ率(デフレ率)』を示す指数が何種類もあります。何が正しいものかということも簡単には決められません。

ケインズの立場はそのような状況を踏まえ、まず『様々な物価指数があるけれど、そのほとんどが確固とした根拠がない』と言い、『ただ一つ有効な物価指数は労働力あるいは労賃の指数』だと主張します。そして古典派のように名目値を全く否定するのでなく、名目値と賃金指数で実質化した実質値とその2本建てで議論する、と言っています。

このケインズの賃金指数は、客観的で公正なものだという議論も、私にはそれほど説得力のあるものとは思えません。私はやはり名目値だけで議論するのが正しいやり方だと思うんですが、ケインズとしては名目値を全否定して実質値だけを正しいとした古典派を否定するのに、実質値を全否定して名目値だけを正しいとする、というのはやはり大変過ぎることだったのかも知れません。『全ての経済価値の源泉は労働だ』、という労働価値説もなかなか捨てきれない話のようですから。

次の『第五章の 産出量と雇用の決定因としての期待』、これでケインズは決定的に古典派とは別の世界を作り出します。古典派の世界では人々が利益をもっともっと・・・とトコトンまで追求し、その結果市場での様々の売買が需要・供給の法則により価格・数量ともに決まってしまい、それを市場参加者の全員が知っていて、あとはそれぞれがそのように決まった価格・数量でひたすら売り、あるいは買いをする、というだけのあんまり面白くない世界です。

これに対してケインズは、『物事はそう簡単には決まらない』と言って、【期待】という言葉を導入します。企業がどれだけ生産しいくらで売るか(供給)、というのはそれぞれの企業が企業自体の期待にもとづいて決めます。それと同時にその物がどれだけ・いくらで売れるか(需要)というのも、その企業が【期待】にもとづいて決めます。

企業としては『できるだけ儲けたい』と考えているので、供給と需要がマッチするような方向で企業の行動を決めます。しかしケインズは古典派のように供給と需要が一瞬のうちにマッチしてしまうというようには考えません。価格も数量も、それを生産するために必要な労働者の雇用数も、少しずつしか変わりません。すなわち今日は昨日とほぼ同じだし、明日は今日とほぼ同じだ、というわけです。もっと売るためにもっと生産しようと思ってもすぐには労働者を増やすことができないし、雇った所ですぐに一人前に使いものになるとも考えません。増産のための設備投資もすぐにはできないし、全ては少しずつ変化する将来に向けて企業のかじ取りをしていく、ということです。

ここで【期待】というのはexpectationの訳語です。このexpectationという言葉には『こうなったらいいな』という希望のようなニュアンスも含みますし、『多分こうなるだろうな』という予想とか予測とかのニュアンスもありますし、『こうなるに決まってる、こうなってもらわないと困る』という願望あるいは必然みたいなニュアンスもあります。

日本語は漢字が使えるのでこのようにいくつもの言葉を使い分けることができるのですが、ケインズはイギリス人なので、expectation一本やりです。で、翻訳者は仕方がないので、この言葉を【期待】という言葉に一律に変換します。ですから『一般理論』で【期待】という言葉は上記の様々な意味を含んでいるということを常に意識しておくことが必要です。すなわち、ある時は希望とか願望とかの意味で期待と言い、ある時は冷静で客観的な予測という意味で期待と言う、という塩梅です。

で、各企業がそれぞれの自分の期待にもとづいて需要と供給を想定し、それにもとづいて生産し販売するわけですが、その期待が正しいという保証はどこにもありません。やってみて間違ったら修正するという過程を日々繰り返す。作り過ぎて売れ残りが発生することもあり、いくらでも買い手はいるのに生産が間に合わないということもある、という非常に現実的で生々しいダイナミックな世界です。これがケインズの考える世界です。

ケインズはこの期待を二つに分けます。すなわち『短期の期待』というのは、どれだけ生産して売るか、あるいはどこまで売れるか、という比較的近い将来に関する期待です。

これに対して『長期の期待』というのは、将来的に十分売れそうだからもっと生産するために設備を拡充しておこうか、というようなタイプの期待です。短期の期待は、明日は今日とあまり変わらないのであまり間違えることもありません。長期の期待はあたる保証はどこにもありません。しかし明日の生産量を決めるためには今日までの生産でどれくらい売れ残りがあるかとか、過去の長期の期待の結果としての設備が今、どれ位あるかとか、使える労働者が何人いるかとかが需要な要因となります。

このようにケインズは経済学の世界を、誰かが全て決めてしまって人々はその通りに一生けん命働くだけという世界から、誰もが自分の判断に従って決断し、うまく行ったり失敗したりするというイキイキとした(あるいはナマナマしい)世界に変えてしまったわけです。

ケインズがアメリカに紹介されてから何十年かたってようやくアメリカでも『期待』の重要性に皆が気がつくようになった時、『ケインズの経済学には【期待】が入っていない』と批判された、という有名な話がありますが、どうしてこんな重要な点を見落として、というか除外して、ケインズをアメリカに紹介してしまったんだろうと思います。

次は、第6章で、ケインズの需要と供給を説明するのですが、その事前準備として、『所得』・『消費』・『貯蓄』・『投資』という言葉の説明(あるいは定義)をします。

『一般理論』 再読-その6

3月 4th, 2015

ケインズ『一般理論 第二章 古典派経済学の公準』(古典派の雇用理論)の続きです。
ケインズはこの古典派による労働の需要・供給の法則を否定するのですが、この章で否定するのは、第二の公準の方だけです。第一の公準の方は(実はかなり違ったものになるのですが、似たような姿で)ケインズの雇用理論でも出てきます。これは次の章で古典派の労働の需要・供給の法則に代わって、ケインズによる労働の雇用理論を提示する前置きになっています。

で、現実に失業、すなわち非自発的失業があるのに、古典派の経済学では非自発的失業はあり得ないことになっています。古典派の立場からすると、それはマーケットが間違っているということになるのですが、ケインズの立場は現実のマーケットがそうなっているのであれば、その現実に立った経済学を考えるべきで、現実と合わない経済学は無意味だ、と主張するわけです。

これに付けたりのように、古典派の第二の公準がどうして現実に成り立たないのかということに関して、労働者を雇う側は労働者と賃金交渉するのに失業者と交渉するのでなく、現に雇われている労働者と交渉するんだとか、労働者は名目賃金の引き下げには抵抗するけれど、物価上昇の結果としての実質賃金の引き下げにはそれほど抵抗しないとか、要するに労働者が働くかどうか決める時の行動は、供給曲線の作り方とは違うということをいろいろ言います。

しかしここの所、もう一つの、需要・供給の法則がうまく行くかない原因の一つに、供給者(労働者)側が供給する労働の量が常に一つしかない、ということも考えておいた方が良いと思います。

普通の物の需要供給の法則の場合には、たとえば売り手はある値段では供給曲線の80%しか売ることができないのに、値段をちょっと下げれば供給曲線の100%売ることができる。このような状況があることによってマーケット全体の値段が下がり、需要曲線と供給曲線の交わった所で値段と数量が決まるわけですが、労働の場合、たとえばある失業者が賃金をちょっと下げて働こうと思い、うまく職にありつくことができたとしても、それで仕事を失うのは一人だけで、他の労働者は今まで通りの賃金で働くことができる。これでは他の労働者も賃金を下げてでも働こうという話にはなりません。雇う方もたった一人分の労賃をちょっとだけ下げてみても、大したメリットにはなりません。

しかし昔と違って今では派遣業者というものがあり、多数の労働を一括して供給することができるようになっています。これを使うと何人もまとめて入れ替えることができますから、需要・供給の法則に近いことができるかもしれません。もっとも、いつでも労働者を新規の派遣社員に丸ごと入れ替えるというわけにもいかないし、今は労働者を保護するための法律が色々あってそう簡単には首切りができないので、現実にはなかなか難しいんですが。

今はどうなっているのか良くわかりませんが、昔、山谷や釜ヶ崎のドヤ街では寄せ場という所に日雇い労働者が集まり(立ちんぼう)、手配師が日当を言うと、その日当で働きたい人がトラックに乗り込んで現場に運ばれて行く、なんて風景があったようです。その一日が終わると雇用はすべてチャラになるんですから、これも古典派の世界に近かったのかも知れません。

いずれにしても今は雇う方も雇われる方もいろいろシチメンドクサイことになっているので、なかなか古典派の雇用理論は(もともと非現実的な想定で作られているので、当然といえば当然ですが)成立しません。

宇沢さんの本も宮崎さん・伊東さんの本もいろいろ古典派の雇用理論を説明していますが、ケインズの理論とは別の話なので、まとめて省略します。

で、非現実的な理論の否定ばかりしていても仕方がないので、次はいよいよこれに代わる、ケインズの雇用理論の話になります。