スパムコメント

10月 29th, 2013

WordPressには、スパムコメントを見つけてスパムコメントとして分類してくれるプラグイン(小道具のようなものです)があります。

今まではこれでスパムコメントとして分類されたコメントを一つ一つ確認して削除していたのですが、最近ちょっとスパムコメントが増えていて、一つ一つ確認して削除するのが苦痛になってきました。

その為、数日前からスパムコメントとして分類されたコメントを一括して無条件で削除するようにしてしまいました。

こうすると、まともなコメントで間違ってスパムコメントとして分類されたものもそのまま削除されてしまいます。

その為、お手数ですがコメントを入れていただいて、いつまでたってもそれがコメントとして表示されない場合にはメールでお知らせください。
アドレスは
sakamoto.y@acalax.info
にお願いします。

芦部さんの憲法 その10

10月 18th, 2013

いよいよ憲法も基本的人権に入ります。

この「基本的人権」は「日本国憲法」では全103条中、10条から40条までの31条。全体の3割を占め、芦部さんの教科書でも本分389ページのうち73ページから274ページまでの202ページ、半分強を占めています。

で、この基本的人権、「人類共通の」とか言うわりには実は必ずしも共通ではないように思います。たとえば日本では基本的人権のうちの生存権にもとづいて健康保険制度が国民全体に適用されるのに対して、アメリカでは自由権にもとづいて国民皆保険に反対する意見がまだかなり強いようですし、日本では誰も自衛のために銃を持とうとはしないのに、アメリカでは自衛のために銃を持つことは基本的人権の一つだ、という考えのようです。

で、議論を始めると際限がなさそうなので簡単に済ませようと思ったのですが、芦部さんの教科書を読むとちょっとそういうわけにはいかなそうです。基本的人権の本筋から離れる話も多いのですが、ちょっとコメントします。

まず基本的人権をいろいろ分類している中で、「社会権」というものが登場します。これは社会的・経済的弱者が人間に値する生活を営むことができるように、国家の積極的な配慮を求めることができる権利だ、と言うんですが、これについて【憲法の規定だけを根拠として権利の実現を裁判所に請求することのできる具体的権利ではない(即ち、その為の法律がないとその権利を求めて裁判することができない、ということ)】(84ページ)と、この部分、わざわざ傍点までつけて書いてあるのですが、その次のページには何と【社会権にも具体的権利制が認められる】などという文章があり、こんなんで勉強する人は大変だなと思ってしまいます。

また「制度的保障」という言葉が登場します。これは何かというと、たとえば言論の自由を守るため大学という制度に保護を加え、その制度を守ることによって基本的人権である言論の自由を守る、というようなことのようです。この芦部さんの本では(多分他の法律の本でもそうだろうと思うのですが)「保障」という言葉を「保護する」という意味で使っているようです。

そんなわけでこの制度的保障というのは、制度を保障(保護)すること、という意味のようです。「的」と言う言葉を「を」の代わりに使うというのは、普通の日本語にはないと思います。中国語では「的」というのは日本語の「の」のように使います。私の本とかあなたの恋人とかの「の」です。その意味で制度を保障(保護)することを制度の保障と言い換えて、これを制度的保障と言うのかも知れませんが、このような「的」の使い方は中国語の話であって、日本語の話じゃないと思います。

また、「前国家的」とか「前憲法的」とかの言葉が登場します。これは一体何だろうと思って読んでいくと、どうやらこれらは「国家ができる前からの」とか「憲法ができる前からの」という意味のようです。「前」という言葉は「前近代的」のように「○○になる前(から)の」という意味で使うのはよく見ますが、「○○ができる前(から)の」という意味で使うのは今まで見たことがありません。多分、勝手に自分流の日本語を作ったんじゃないかなと思います。

このように言葉のことを問題視するのは、言葉の正しい使い方というのは論理的思考のそもそもの前提となるものだと思うからです。私は日本語というのは、少なくとも私の知っている範囲では、世界で最も論理的な表現・思考ができる言語だと思っています。にもかかわらずこのようないい加減な言葉の使い方をすると、論理的思考ができるわけがないと思うからです。

一般には(憲法を含めて)法律というのは論理的に書かれていて、法律家というのは論理的に考えていると思われているんだと思いますが、このような事情を見るとガッカリしてしまいますね。

さて、基本的人権にはいろんなものがありますから、複数の基本的人権がお互いにぶつかり合った時にどうするか、というのが大きな問題になります。

まず最初に個別の人権ではなく社会全体との関係では、「公共の福祉に反しない限り」という限定付で基本的人権が認められるのが普通です。自民党の改正草案ではこの「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」と言い換えているんですが、その言い換えをケシカラン反対している意見があるようです。私には「公共の福祉」などというわけのわからない言葉よりよっぽど良いと思うのですが。

反対する人達は「益」とか「秩序」が嫌なんでしょうか。民法では憲法の「公共の福祉」を「公序良俗」という言葉で表しています。この三つの言葉を並べて比べてみると、「公益及び公の秩序」が一番わかりやすいと思うのですが、どうでしょう。

次に、今度は具体的にある基本的人権と、もう一つの基本的人権がぶつかった時にどうするか、ということになります。これにはいくつかの考え方があるようです。

まず最初に出てくるのが「比較衡量論」というもので、「それを制限することによってもたらされる利益」と「それを制限しない場合に維持される利益」を比較して、制限した時の利益の方が大きい時はその基本的人権を制限しても良い、という考え方です。誰がその「利益」を評価するのかという点を含め、こんなんでいいのかな、こんなんで「侵すことのできない永久の権利」(第11条)と言えるのかな、と思ってしまいます。要するに、基本的人権であってもそれを制限する方が利益が大きいのであれば制限することができる、ということですから。

次に出てくるのが「二重の基準論」というものです。二重の基準と言うと何のことか良くわかりませんが、英語で書くと良くわかります。すなわちdouble standard、ダブルスタンダードのことです。

ダブルスタンダードというのは、普通はそういうことじゃ駄目じゃないか、と非難される対象となるのですが、憲法の議論ではダブルスタンダードにすべきだ、という話になっています。

普通のダブルスタンダードというのは、あっちにはああ言い、こっちにはこう言うというような、相手によって話を変えることなのですが、この憲法のダブルスタンダードというのは、憲法の中のいろんな基本的人権は横並びで皆同じ重みがあるのでなく、重要なものと比較的重要でないものがあって、その重要性の度合いを付けることによって、たとえば二つの基本的人権がぶつかった時、どっちの基本的人権をもう一方の基本的人権より優先するか決める、というような話です。

とは言え、あらかじめ全ての基本的人権に順位を付けるなんて話じゃなくて、実際に基本的人権のぶつかり合いが起こったときに「さてどっちを優先しようか」と考えるというような話ですから、その時その時の都合でどうにでもなるような話でもあります。

こんなんで本当に基本的人権を「人類普遍の原理であり」「侵すことのできない永久の権利」なんて言えるんだろうか、と思ってしまいます。

沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史

10月 10th, 2013

きっかけは何だったか覚えていないのですが、インターネットでたまたま沖縄県人の奄美大島出身者に対するひどい差別の話を読みました。かなり長い記事だったのですが、読み終わった最後に、これが佐野眞一著「沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史」という本の一部だということがわかりました。

で、さっそくその本を借りて読みました。
2011年に文庫になったもので、上下それぞれ500ページ弱のかなりのボリュームのある本です。

これが面白く、一気に読んでしまいました。
沖縄の戦後史を構成する多数の人(数十人あるいは3桁になる人数)を取上げ、その人がどのように沖縄の戦後を生きたかを書くため、さらに多数の人に取材して書かれたものです。

はじめに出てくるのは警察官とヤクザで、沖縄の暴力団がどのように生まれ、成長し、数次にわたる殺し合いを経験したかを書いています。次に経済界の大物や女性実業家達、そして沖縄出身のアイドル達とそれを育てた人達が登場し、その間に知事の仲井眞さんが登場したり、また琉球王朝の尚氏の、明治維新で琉球が併合されてから、戦後貴族でもなくなり財宝も多く行方不明になってしまった話とか、尖閣諸島がどのようにして個人の所有となり、その後どのように所有者が変ったかなんてことも書いてあります。

それら登場人物が皆精一杯イキイキと生きて、またその後生き残ったり死んだり殺されたり、そういう話がたっぷり入っています。

沖縄というと、とかくありがちな青い空・青い海というような話でもなく、また本土の犠牲となった沖縄に対してスミマセンなどという余計な思い入れもなく、単刀直入に著者が遠慮なしの質問をし、質問された方はあっけらかんと素直に回答する。そのようなインタビューと、その他取材によって集めた材料で登場人物を生き生きと描き出していますが、これだけで何十本ものテレビドラマや映画ができても不思議ではないような気がする、そんな読み物です。

もともと『月間プレイボーイ』に『沖縄コンフィデンシャル』というタイトルで連載していたものを編集し直し、加筆修正して単行本にしたものに、文庫版にするにあたりさらに大幅に書き足し、鳩山さんの『最低でも県外』発言とその後の3.11の大震災なども取り入れて本にしているものです。最近の尖閣諸島国有化までは入っていません。

著者の思い入れは、タイトルの『だれにも書かれたくなかった』の部分に現れているようで、沖縄は一方的に本土から差別されるだけでなく、奄美大島出身者に対する差別する側としての沖縄もしっかり書いてますし、また都道府県別平均所得が一番低く、若者の失業率が日本一高い沖縄がそれでも豊かに見えるのはやはり米軍基地があるためではないか(沖縄の暴力団のルーツの一つは米国基地からの軍需物資の窃盗団だったということも含めて)とか、軍用地主の一番大きな人は地代だけで年間20億円もの収入になり、どうやっても会ってもらえなかったとか、面白い話満載です。

青い空・青い海の沖縄というイメージや、明治以来(あるいはその前薩摩藩に征服されて以来)常に本土の犠牲になって、特に太平洋戦争の沖縄戦でも多くの犠牲を出し、戦後日本とは切り離されて米軍の軍政下で多大な苦労をさせられてきた沖縄に対して申し訳ない、というような定番の沖縄にうんざりしている人にお勧めです。

芦部さんの憲法 その9

10月 10th, 2013

さて憲法、天皇の次は「戦争放棄」です。第一章「天皇」は条が8つもあるのに、第二章「戦争の放棄」は、9条1つだけです。

この9条、第1項が戦争放棄、第2項が戦力を保持しない、交戦権を認めないということを書いてあります。日本国憲法の最大の特徴である平和主義が全103条のうち、たった1条だけなので、この9条1つについては山ほど議論がなされています。

まず第1項の戦争放棄ですが、単に「戦争放棄」と書けば良いのに、いろいろ条件を付けるのでわからなくなってしまいます。すなわち
 【(国権の発動たる)戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は(国際紛争を解決する手段としては)永久にこれを放棄する。】
という具合です。こうなると何が放棄されている戦争で、何が放棄されていない戦争か、ということになります。

次の第2項は短いけれど、さらにやっかいです。すなわち
 【(前項の目的を達するため)陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。】
となっているんですが、この「前項の目的を達するため」というのは、何を意味するのか、またこれは『軍その他の戦力を保持しない」だけにかかるのか、『交戦権』の方にもかかるのかというのがさらに面倒な議論になります。

さらにこの第1項と第2項が憲法案作成の際、途中で順番が逆になり、それがまた元に戻ったなんて事情があるので、なおさらいろんな議論が可能になっています。

1項と2項が逆になっていると、まず最初に「軍隊は持たない」と言って、その結果として戦争を放棄するという、わかりやすい話になるのですが、今のような順番であるため、どのような軍隊は良くてどのような軍隊は駄目なのかという議論になってしまいます。

更にこのような憲法ができた時代背景が、もう一つ重要なファクターとなっているようです。

第二次世界大戦は、連合国側(アメリカ・イギリスなど)と枢軸国側(イタリア・ドイツ・日本など)が戦ったのですが、戦争が終わり、連合国は国連となり(日本語ではまるで違う言葉ですが、英語ではどちらもUnited Nationsのままです)、その頃第一次大戦・第二次大戦であまりにも多くの兵士、非戦闘員が死んだことを踏まえ、世界的に戦争をやめさせるために、軍隊を持つのは今の国連安保理の常任理事国の5ヵ国だけにし、その5カ国の軍隊で国連軍(あるいは連合国軍)を構成し、それ以外の国は全て(第二次大戦に負けた国は当然のこととして、その他の戦争に参加しなかった国も含めて)軍隊を持たないようにしようという崇高な理想があったようです。もちろんその考えは米ソの対立と常任理事国になれなかった国の反対ですぐに撤回されてしまったのですが、日本の平和憲法はその時の理想の名残りが9条にそのまま残っているということのようです。

もちろん日本占領軍のトップとして憲法改正を指示したマッカーサーも最初は完全な戦争放棄を考えていたようですが、日本を離れる時は既に朝鮮戦争を背景に、日本が軍隊を保持することは当然のことだ、という解釈に変わっていたようです。

以前「憲法の法源」という話をしました。憲法は「日本国憲法」というタイトルの文書だけでなく、その他多くの法律・規則・条約等もその憲法の一部をなしているということです。その中には軍隊を保持して必要な場合には戦争することを当然の前提としている国連憲章や、日米安保条約も入っています(国連憲章というのは軍事同盟であった連合国を引き継いで国際連合(国連)としていますから、何かあったら皆で協力して軍事行動しようという、基本的に「軍事同盟」ですし、日米安保条約も日本の近くを対象として限定しているものの、日米の軍事同盟であることは明らかです)。さらに憲法慣習も(憲法規範に明らかに違反する慣習であっても)憲法の一部をなす、ということになっています。

こうなると、国の組織として自衛隊という軍隊が存在する。それももう半世紀上にわたって存在し続けているという事実自体がこの憲法慣習になっている、ということになりそうです。国連に加盟し、日米安保条約を結んで二つの軍事同盟に参加している、ということも同様です。

このような状況では「日本国憲法」の条文からすると自衛隊の存在は違憲であるように判断でき、また自衛隊が半世紀以上存在し続けていることからすると、「日本国憲法」の条文が違憲であるように判断できるということになります。

こんな状況は困るじゃないか、と普通は思うはずなのですが、憲法学者は平気なようです。憲法の中味が相互に矛盾していてもそのままで、矛盾を解消するために憲法を改正しようとは考えないようです。『憲法を改正しない』という重大な目標に比べれば憲法の不備や矛盾なんかどうでも良い、ということのようです。

もちろん憲法の中には、憲法の規定が矛盾している時にそれをどのように調整し、どのように解釈するか、なんてことは書いてありません。ですからAという規定あるいは事象と、Bという規定あるいは事象とが矛盾している時、ある人はAという規定あるいは事象があるのだからBは憲法違反だと主張し、またある人はBという規定あるいは事象があるんだからAは憲法違反だと主張することができるわけです。

さらに憲法学者には「憲法の変遷」という奥の手があって、憲法の文言は変化がないのに解釈が変ることによってその意味が変る、ということを平然と主張します。すなわち「言葉の上ではそう書いてあるけれど、その意味はそうじゃないんだよ」と言うことです。

言ってみれば『ここには鹿って書いてあるけど実はこれは馬のことなんだから、そう読んでね』みたいなものです。ヤレヤレ・・・

なお蛇足ですが、この憲法についての勉強でポツダム宣言を読んだついでに、ミズーリ号で調印された日本の連合国に対する降伏文書を読みました。そこで「大本営」というのがJapanese Imperial General Headquartersと書いてあるのを知ってびっくりしました。

GHQというのは戦後アメリカ占領軍の司令部としてマッカーサーの下に組織されたもので、正式にはGeneral Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers(連合国最高司令官総司令部)の頭の部分から来ているのですが、日本の大本営もJapanese Imperial General Headquarters(大日本帝国総司令部)ということになり、これもGHQなんだ!!というわけです。

私はこれまでGHQは日本に命令する占領軍のもの、大本営は第日本帝国陸海軍を指揮するためのもの、とまるで別に考えていたのですが、大本営もGHQなんだ、GHQは占領軍の大本営なんだ、となったら、これは改めて考え直す必要があるかも知れません。

もちろん吉田(茂)さんをはじめ英語に堪能な人たちは大本営はGHQだというのはわかっていたのでしょうが、一般の人はどうだったんでしょう。改めて戦中・戦後のいろんな話を読み返す必要があるかも知れません。

いずれにしても憲法9条はいくらでも議論のあるところですから、私のコメントもこれくらいにしておきます。

芦部さんの憲法 その8

9月 30th, 2013

さて日本国憲法、いよいよ本文に入りますが、前回書いたように本文には「国民主権」の規定がありませんので、まずは「天皇」から始まります。

この天皇については、憲法の本など読むずっと以前から一つ疑問がありました。それは「天皇は日本国民なんだろうか」「日本国民じゃないんだろうか」、ということです。

芦部さんは基本的人権の所の最初に、いとも簡単に「天皇も皇族も日本国民だ」と書いていますが、もちろん何を根拠にこういう結論が出るのかなんてことは書いてありません。

私には、天皇には基本的人権がないと思われるので、日本国民全員に与えられているはずの基本的人権が与えられていない以上、それは日本国民じゃないということじゃないかと考えていたわけです。

「基本的人権がない」というのは、たとえば天皇には選挙権も被選挙権もなさそうです。もし被選挙権があるとすれば、是非立候補してくれと頼みに来る政党はいくらでもありそうです。選挙権があるなら、投票日になって「天皇陛下も投票に行きました」なんてニュースが流れないわけありません。まぁこれについては憲法4条に「天皇はこの憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」という所に関連するのかも知れません。
天皇には言論の自由も思想・信条の自由もなさそうです。巨人軍が好きか嫌いかとか相撲の贔屓の力士は誰か、なんてことも言ってはいけないことになっているようです。

天皇が日本国民だとして、その天皇の基本的人権が侵害されているのは憲法違反だ、なんてことにもなりそうもありません。日本では実際その人権侵害されている人が裁判を起こさない限り、裁判所は違憲判決を出さないことになっているようですし、天皇が自ら自分は日本国憲法で保障されているはずの基本的人権を侵害されている、なんて裁判を起こすとも思えません。結果的に天皇の基本的人権が侵害されているのは憲法違反だ、などという判決が出る気遣いはありません。

憲法では第10条で「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」と規定しています。でその法律に「天皇も皇族も日本国民である」なんて書いていてくれると嬉しいんですが、そうはなっていません。どうもその法律というのは「国籍法」という法律のようで、第1条に「日本国民たる要件は、この法律の定める所による。」と、憲法の規定と同じようになっています。

この法律は面白い法律で、第2条で日本国民の子として生まれたら日本国民だ、という規定があるのですが、第3条以下では日本国民という言葉がなくなってしまいます。代りに日本国籍を取得するとか、日本国籍を失うという言葉になってしまいます。日本国籍を取得した者が日本国民で、日本国籍を失った者が日本国民でなくなる、と言おうとしているんでしょうが、一番肝心なその規定はどこにもありません。まあ、このような非論理的ないい加減な書き方の方が法律家にはしっくりくるんでしょうが。

日本国民ということでなく日本国籍ということで考えれば、天皇や皇族に日本以外の国の国籍をもたせるわけにもいかないし、無国籍というわけにもいかないので、日本国籍とするしかないんでしょうが、だからといって日本国籍であれば日本国民だということにはならないような気がします。天皇・皇族以外の日本国籍の人が日本国民だ、としたとしても何の矛盾も生じなさそうですから。

この憲法の勉強の一番最初に読んだ「終戦の詔書」という本には、昭和20年8月15日の終戦の詔書・昭和16年12月8日の開戦の詔書・昭和21年1月1日の年頭の詔書(いわゆる「天皇の人間宣言」と言われているものです)が入っているのですが、これらの詔書で天皇が国民に対して語りかけているその言葉が、開戦の詔書では「汝有衆(ナンジユウシュウ)」(衆は正確には別の字体の字『眾』のようです)、終戦の詔書では「爾臣民(ナンジシンミン)」、年頭の詔書では「爾等國民(ナンジラコクミン)」となっています。全て天皇主権の体制で、天皇から国民に対する呼びかけの言葉です。これがいつの間に天皇も国民のうちということになってしまったのか、何とも不思議です。

憲法の天皇に関しては「象徴というわけのわからない言葉の意味」とか「天皇制の是非」とか、他にも山ほどの議論があるようですが、そんな話は当面どうでも良い話なので(なんて言うと右からも左からも山ほど文句を言われそうですが)、天皇についてはここまでとします。

Under Control

9月 27th, 2013

2020年オリンピック東京招致の安倍さんのスピーチの原発事故のUnder Controlについて、反原発派の人は未だに安倍さんの大嘘だ!と騒いでいるようです。
私にとってはUnder Controlという表現について何の違和感もないのですが、色々考えていたらどうもこのUnder Controlという言葉の解釈の問題が大きいような気がしてきました。

たとえばデコボコ道で自動車を運転して走る時、車輪が穴に入って右に振れたり左に振れたりするのを、ハンドルをしっかり握って何とか進行方向に向けて走らせ続けるという状況を、私はUnder Controlと言うんだと思うのですが、反原発の人の解釈ではそんなふらふらした運転はUnder Controlではない、ということのようです。

あるいは飼犬が何かに興奮して大声で鳴き声を出し、今にも紐を引きちぎって行きそうであっても、しっかり紐を握って犬を放さないというのを私はUnder Controlと言うのだと思うのですが、反原発の人の解釈は、犬に対して「おとなしくしろ」と命じたら鳴くのをやめてお座りをするという状況がUnder Controlということのようです。

Under Controlの反対語はOut of Control、日本語で言えば「制御不能」ということになり、それはデコボコ道の例で言えば車が揺れて運転手が放り出されて誰もハンドルを握っていないとか、犬の話で言えばついに引き綱を振り切って犬がどこかにふっ飛んで行ってしまって、もう呼んでも帰ってこないという状況です。

福島の原発の事故では、一時はもうどうしようもなくなって全員逃げるしかないか、というような話もありましたが、実際は現場の人達が踏ん張って事故対応に当たり、今でも全ての問題が解決したわけではないけれど、また次々に思いがけない事故が出ては来ているものの、その都度十分対応することはできていますから、そういう意味では今までもずっとUnder Controlだったし、事故発生当時と比べると、今は遥かに確実にUnder Controlと言えると思います。

普通話をする時、自分の使っているこの言葉の意味はこれこれだ!なんてことはあまり言わないんですが、だからといってその話を聞く人が、自分にとってはその言葉の意味はこれこれだからあんたの言ってるのは嘘だ、なんて言ってみてもあまり実のある議論にはならないのになあ、と思います。

北越雪譜

9月 27th, 2013

先日高校時代からの友人に誘われて、越後湯沢の、川端康成が「雪国」を書いた宿に泊まってきました。

900年続く宿で、今のおかみさんは53代目ということでへぇ~と思ったのですが、集まったのは高校時代からの友人4人(私を含めて)と奥さん2人。翌日は新潟在の友人の案内で「味噌舐めたかの関興寺」「北越雪譜の牧之記念館」「土踏んだかの雲洞庵」を見物しました。

「味噌舐めたか」は臨済宗のお寺、「土踏んだか」は曹洞宗のお寺で、どちらも見事なものでしたが、鈴木牧之記念館も非常に面白く、そういえば「北越雪譜」はまだちゃんと読んでなかったなと思い、早速図書館で借りてきました。

「北越雪譜」というのは江戸時代の鈴木牧之(スズキボクシ)という人の書いた随筆集のようなもので、雪の結晶の絵が描いてあるので有名です。で、私はてっきりその雪の結晶の絵は牧之が自分で見て描いたものだと思い込んでいたんですが、何とそうではなく他の人の本からその一部を書き写したものだと書いてあり、唖然としてしまいました。

北越雪譜というのはその名の通り牧之の住む越後の国、魚沼郡塩沢のあたりの雪の季節のあれこれを書いた本で、非常に面白い本でした。

越後縮みの話や熊を獲る話、雪崩・吹雪の話・鮭の話等盛りだくさんで、たとえば鹿を獲る時、大雪の中では鹿より人の方が歩くのが早いので追いかけて行けば簡単に捕まえられるとか、羽根つきは子供の遊びではなく、大の大人が雪かき用のシャベルのようなもので力一杯打ち上げ合う遊びだとか、雪の中で時として雪のために洪水が起きて逃げ場がなくて大変だとかいろんな話があるんですが、中に狐を獲る話があり、これが落語に出てくる鴨を獲る話に良く似ているのでちょっと紹介しましょう。

落語の話というのは、寒い国では鴨は田んぼで刈り取って捕まえることができるという話で、餌をあさるために鴨が田んぼに降りている時寒風が吹くと田の水が凍りついてしまい、その氷で鴨の足は動かせなくなってしまうので、そこで稲刈りの鎌で鴨の足を刈っていけば簡単に鴨が何羽でも手に入る、という話です。

「北越雪譜」に出ている狐を捕まえる話は、こんな具合です。
雪が深く積もっている時、杵で(といっても普通良く見る金槌の大きいような棒の柄の付いているものでなく、多分まん中がちょっと細くなっている長い棒のタイプだろうと思いますが)雪の中に適当な大きさ・深さの穴を開けておきます。その近くに狐の好きな油粕を撒いておき、ついでにその穴の中にも撒いておきます。夜になってそこへやって来た狐は雪の上の油粕を食べ、調子に乗って穴の中に入っている油粕も食べようとして穴にもぐり込みます。穴は冬の寒さで凍っているので、ちょっとやそっとでは崩れません。穴はそれ程大きくないので、頭から突っ込んだ狐は身動きができなくなります。夜が明けてから見に来た人は、穴の上から狐の尻尾が動いているので、狐がかかっているのがわかります。そこで水を汲んできて穴の中に入れると、雪が凍っているのでそうすぐには水がもれてはしまいません。狐が溺れて死ぬ最後におならをするので、それをかぶらないように少し離れた所で見ていて、尻尾が動かなくなったら狐は溺れ死んだということなので、あとは大根を抜くように尻尾を持って引っ張れば簡単に狐が手に入るという按配です。

本当かな、という気もしますが、牧之は真面目な話としてこれを書いているようなので本当のことかも知れません。あまり詮索しない方が楽しそうな話です。

これ以外にも雪国ならではの楽しみ・苦労が淡々と書かれています。

江戸時代の漢文調の文語体の文章ですが、それほど難しくもないので、原文でも充分楽しめます。
出版に至るまでの経緯には、十返舎一九だとか山東京伝とかそうそうたる名前が出てくるのも興味深いです。

雪国の宿への小旅行の思いがけないお土産でした。

芦部さんの憲法 その7

9月 19th, 2013

芦部さんの憲法、いよいよ日本国憲法の中味に入ります。

日本国憲法は
前文
第一章 天皇
第二章 戦争の放棄
第三章 国民の権利及び義務
第四章 国会
第五章 内閣
第六章 司法
第七章 財政
第八章 地方自治
第九章 改正
第十章 最高法規
第十一章 補則
という構成になっているので、芦部さんの憲法もこの順に従ってひとつひとつ解説しています。

まずは前文から。

改めて前文をしっかり読んでみると、ビックリすることだらけです。

日本国憲法は、国民主権・平和主義・基本的人権の尊重が三本柱だ、と良く言われます。前文というのは総まとめみたいなものなので、その一番大事な事だけ書いてあるのかな、と思っていたら、何と国民主権については書いてあるけれど、平和主義と基本的人権については前文に書いてありません。その代り平和主義については本文『第二章 戦争放棄』の所に書いてあり、基本的人権については本文『第三章 国民の権利及び義務』の所にしっかり書いてあります。逆に国民主権については前文には書いてあるものの、本文には書いてありません。

この、本文に書いてないということを確認しようと思ってネットで調べたら、1条に書いてあるとか、96条がそれだ、とかいう解説がみつかりました。

1条というのは、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」という文章です。確かに「主権の存する日本国民」という言葉があるので、国民主権を言っているとも言えなくもないですが、この条は天皇についての規定で、その中でついでに国民主権を言っているだけのことです。国民主権が重要なら、こんなついでに言うんじゃなく、正面からきちんと言ってもらいたいものです。

あるいはこの条は、「天皇が象徴だ」と言うことによって「天皇主権でない」と言っているのであって、天皇主権でなければ国民主権に決まっているから、天皇主権を否定することによって国民主権と言っているんだ、という話もあります。
主権者が天皇と国民と二者択一だというならその理屈も成立ちますが、主権者となりうるものは他にもいくらでもいますので、この理屈は成立ちません。

96条は憲法改正の規定で、ここに憲法改正には国民投票が必要だと書いてあるので国民主権なんだ、という話です。でもこの96条で言っているのは、憲法改正の手続きは衆参両院での2/3以上の賛成、さらに国民投票での過半数の賛成ということで、これだけのことで国民主権のことを言っているんだというのは、ちょっと無理があるような気がします。

そもそも前文に書くのと本文に書くのと、どれ位の違いがあるかというと、芦部さんは
【前文は憲法の一部をなし、本文と同じ法的性質を持つと解される。】
と言っています。と同時にその3行先には
【しかしながら、これは前文に裁判規範としての性格まで認められることを意味しない。】
と言っています。
何ともはや不可解な文章です。
「裁判規範としての性格」は法的性質ではないと言っているんでしょうか。この「性格」と「性質」の言葉を使い分けている意味もよくわかりません。こんなわけのわからない教科書を一生懸命勉強していたら、法律の専門家が論理的思考が不得意になるのも理解できる気がします。

で、平和主義と基本的人権については、前文にはちょっとそれを匂わせているような文言はあるのですがきちんと書いてはないので、上では「前文には書いてない」と書きました。

ここで平和主義というのは「戦争放棄」という意味で使っています。単に平和が望ましいというだけでは、三本柱になるほどのものではないでしょうから。

前文はじっくり読んでみるとなかなか面白く、2番目のパラグラフには
【われらは、平和を維持し、専制と隷従(レイジュウ)、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。】
という文があります。そんな国際社会がどこにあるんだろう、と思ってしまいます。現時点で見ればまるで見当違いの国際社会に対する理解の仕方なのですが、その当時日本国憲法を作ろうとしていた日本側担当者・アメリカの担当者の目には、多分すぐにでもそのような国際社会が実現するだろうという、希望というか期待というか夢というかがあって、そのために9条の戦争放棄がすんなり入ってきた、ということのようですね。

現時点でこんな絵空事のような国際社会に対する認識を憲法に残しているというのは、戦後の憲法改正時の雰囲気を後世に伝えるためなんでしょうか。まさか嫌味で残している、ということでもないでしょうが。

基本的人権については
【われらは全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。】
と言って、日本国民だけじゃなく全世界の国民についての権利を謳っています。これは、シリアの内戦で殺されている市民や、北朝鮮で苦しんでいる人民の生存権をどう考えるのかなあと思ってしまいます。

で、国民主権ですが、明治憲法では天皇主権だったので「天皇」の所で天皇主権を書けば良かったのですが、それを日本国憲法にする時、「天皇」の前に国民主権を定める条を1つ、たとえば「日本国の主権者は国民である」とか入れておけば良かったのに、それをしないで「天皇」の所で「天皇は主権者でない」としただけなので、憲法の本文の中で主権者が誰だか書いてないということになってしまったわけです。

国民主権ということについては今となっては特に反対する人もいなさそうなので、この際その条を追加する憲法改正だけでもすれば良いのにと思うのですが、憲法・法律の専門家はあくまで憲法を改正すること自体が嫌なようです。

自民党の憲法改正案にもこの国民主権の条立てはないのですが、産経新聞の改正案にはこの条が入っています。

で、この国民主権が本文に入っていないことが理由、というわけでもないのでしょうが、どうもこの国民主権という認識は日本では一般的にあまりないようで、どちらかと言うと政権与党が主権者であるとか、政府が主権者であるとか、場合によっては最高裁判所が主権者であるという理解の方が一般的のようです。

そのため何かある度に与党に文句を言ったりおねだりしたり、政府の悪口を言ったり頼んだり、最高裁の判決に一喜一憂したり、基本的に他人依存で、自分で何とかしようという意識が少ないようです。

まあ国民主権といっても、アメリカやフランスのように国民が血を流して死にもの狂いで獲得したものでないから、ということなのかも知れませんが、終戦後半世紀以上経って、もうそろそろ意識改革が必要なのかも知れません。

そのためにも憲法を法律家の玩具にしておかないで、一度自分達の手で何でも良いから憲法改正をしてみれば良いと思うのですが、法律家は憲法が国民のものになってしまうと自分達が自由にいじくりまわすことができなくなってしまうので、嫌がるんでしょうね。

オバマさんのスピーチ

9月 17th, 2013

先週9月10日にアメリカのオバマ大統領はアメリカ国民に向けて、テレビでシリア問題についてスピーチしました。

この中にはロシアによるシリア政府の化学兵器廃棄のための話し合いに乗ることとか、シリアに対する軍事介入に関する議会の決議を延期することとかいろいろな内容があり、多くのマスコミはその方に焦点を当てて報道していましたが、毎日新聞は【米大統領「世界の警察官」否定】というタイトルで、

【オバマ米大統領はシリア問題に関する10日のテレビ演説で、「米国は世界の警察官ではないとの考えに同意する」と述べ、米国の歴代政権が担ってきた世界の安全保障に責任を負う役割は担わない考えを明確にした。】

と報道しました。
このオバマさんの発言について、いくらなんでもそんなことはないだろうと思って、直接そのスピーチを読んでみようと思いました。15分程度のスピーチだったようですがそれを聞いて全部理解するほどの英語力はないので、スピーチを文章に書き直したものを見つけて読んでみました。

私にとってオバマさんの演説を読むというのは、多分2回目のことだと思います。一度目は大統領になってすぐ、例の核兵器削減についてプラハでスピーチしたときのもので、核兵器をなくすためにアメリカ以外の国の核兵器を全部廃棄しアメリカが独占するという内容のもので、何という独善的な演説だろうと思っていたら、何とその内容が全世界的に支持され、ついにはノーベル平和賞まで貰うことになったのにはビックリしました。

で、このスピーチを読んでみると毎日新聞の報道がまるで逆だ、ということはすぐわかったのですが、それがわかった上で改めてもう一度読んでみると、何とも素晴らしいスピーチになっているなと思いました。しかしその後の報道を見ていると、どうも私が読んだのとはまるで違う解釈で報道されているようなので、私の解釈についてちょっとコメントしてみようと思いました。

まずは毎日新聞の間違いについてコメントします。
毎日新聞に書いてある「世界の警察官」という言葉は、このスピーチでは2箇所出てきます。

最初に出てくるのは2/3くらいの所、シリア問題に関していろんな人からいろんな質問や意見が寄せられていて、それに対して1つ1つ回答している所ですが、この「世界の警察官」の所は原文はこんな具合になっています。

 【何人かの人は私に手紙を寄越し、「我々は世界の警察官などになるべきではない」と言ってきた。その通りだ。私は今まで常に平和的な解決を重視してきた。それで過去2年半、私の政府は外交・制裁・警告・交渉を続けてきた。にも拘わらずアサド政権は化学兵器を使った。】

だからもう我慢できない・・・という文脈につながる文章です。世界の警察官なんかもうヤーメタ、なんていうのとはまるで違います。

もう1箇所「世界の警察官」が出てくるのは、スピーチの最後、締めくくりの部分です。この部分はこんな具合になっています。
【アメリカは世界の警察官ではない。世界ではひどいことが起きている。全部の悪を正すなんてことは我々の能力を超える。しかし多少の努力とリスクで子供達を毒ガスで殺されることから救い、それによって長い目で見て我々の子供達をより安全にすることができるのであれば、我々は行動すべきだ、と私は思う。それこそアメリカと他国との違いだ。それでこそアメリカは特別な国なのだ。】

というわけで、「世界の警察官をやめる」なんてことはまるで逆の「やるときはやるぞ」という、むしろ恫喝のようなスピーチです。

これが毎日新聞の記事に関連して確認した内容です。

ここで改めて、このオバマさんのスピーチ全体を見て、マスコミの記事との違いをコメントします。

まずは、ロシアが化学兵器をシリアに廃棄させると言い出して、アメリカはロシアにイニシアチブを取られた、ということですが、私の理解はまるで違います。ロシアは今まで表舞台には出てこないで安保理の陰に隠れ、必要なら常任理事国として拒否権を使う、という行動を取っていましたが、今回はいつのまにか表舞台に引っ張りだされ、自分がシリアを説得しなければならなくなってしまいました。そう簡単には引っ込みがつかないところに来てしまった、ということです。これでシリア説得に失敗して表舞台から引っ込むときは、ロシアがアサド政権を見捨てたということになりますから、身動きが取れなくなってしまいます。従来アメリカが常に表舞台をリードしてきてロシアや中国の反対で身動きが取れなくなった。それを今度はロシアが身をもって経験することになるわけです。

次に、オバマさんはアメリカ議会の承認を求めたため、賛成が得られそうもなく軍事行動に移れない、という話がありますが、これも私の解釈とは違います。

今回の演説で、オバマさんはアメリカ国民に直接語りかけています。そのアメリカ国民の声によって議会を動かそうとしているようです。演説を聞いた国民の声が国会議員に届いて、国会での議決に反映するまではチョット時間がかかるので、議会の裁決をすこし延期してくれと言ったのだと思います。

オバマさんは国民を動かすための仕掛けをいくつも演説の中に仕込んでいます。

毒ガスについて話すときは、第一次大戦で使われ大勢の兵士が殺されたが、その中にはアメリカの兵士も含まれていること(第一次大戦は主にヨーロッパで戦われたので、改めて「アメリカの兵士も殺された」と言うことに意味がある)、第二次大戦ではナチスによる大量殺戮に使われたこと(これによりユダヤ系のアメリカ人の怒りを喚起している)、子供の犠牲を強調していること、等がそれです。

議会について語る時、オバマさんは『大統領は軍のトップだから議会の承認がなくても戦争を始めることはできる。だけどあえて議会の承認を得ようとした。それは大統領と議会が一体となって戦争した方が有効だからだ』と言い、そこで自分は『世界でもっとも古い立憲的な民主主義国家の大統領だ』と言っています。アメリカはあまり歴史がなく、ヨーロッパの国々に対して劣等感を持っているようですが、確かに人権主義にもとづく憲法を作って民主主義の政治をしている国としては、世界で最初の国です。フランス革命でさえ、アメリカの独立戦争より後のことですから、こういう話を聞くとアメリカ国民は嬉しくなってしまうのかも知れません。

さらにオバマさんは、この10年、戦争をするという重大な決定は大統領に集中し、戦争による負担は実際に戦争をする国民の肩にかかっているにもかかわらず、国会の議員は安全な所で無責任な立場で好き勝手なことを言っている、と言っています。これはかなり効き目がありそうです。

さらに「世界の警察官」の所で、全ての悪人をとっつかまえるようなことはしないけれど極悪人は許さないぞと言い、それでこそアメリカが世界でも特別な国なんだ、ということで、アメリカの正義を強調しています。アメリカ人は『アメリカの正義』が大好きですから、これは効果的だと思います。

一般にはオバマさんが戦争をしようとしたのになかなか戦争を始めることができないでいるとか、かなり小規模な介入しかできないとか、否定的に報道されていることに関しては、オバマさんは次のように言っています。
【アメリカが全面的に前に出て他国の政権を倒した場合、その後の政権作りやその政権が安定するまでのサポートもしなくちゃならなくなる。だからアメリカはもはや政権を倒すような介入はしない(すなわち政権を弱らせる位の介入をして、政権を倒し、新しい体制を作るのはその国の反体制派に任せる、ということ)。】

また介入が遅れることに関しては、それで別に「アメリカが困ることは何もない」と言って、現実的にはアサド政権がロシアと化学兵器の廃棄のために振り回されている間、アメリカは反体制派に武器供与を本格化しているようです。ロシアは今までシリア政府に散々武器供与をしてきていますから、今更アメリカの反体制派に対する武器供与に反対もできないでしょう。アメリカの戦略が、自分でアサド政権を倒すのではなく、単にちょっと弱らせて、後は反体制派に任せる、ということである以上、介入が多少遅れても、また介入の規模があまり大きくなくても、大きな影響はない、ということになります。

さらにアメリカがシリアの外から介入して、シリアが直接アメリカを攻撃できないとなると、代りにアメリカの同盟国が攻撃されることになるかも知れませんが、それに対しては『イスラエルは強いぞ、倍返しされるぞ』、とシリアを脅しています。

要するに、アメリカは安全な所からいつでもシリアに対してダメージを与えることができるのだから、その規模が小さくてもアサドは充分思い知るはずだ、ということのようです。

こんなことを言われると、アサドさんの方はたまったもんじゃないですが、アメリカ人は嬉しいでしょうね。

反体制派を支援することはアルカイダに加担することになるぞ、という指摘に対しては、『確かに反体制派の中にはアルカイダもいるけれど、シリアの人々が毒ガスでやられているのに国際社会が何もしないで放置している、という、より混乱した状況こそ、アルカイダがより強くなる環境だ。シリア人の大半、反体制派の大半はアルカイダなんかじゃない。』といって、むしろ早期に内戦を終わらせ、社会を安定化させることによりアルカイダを排除したい、と言っています。

さて、今後、どうなるんでしょうか。当分の間、注目ですね。

婚外子の相続分の違憲判決

9月 11th, 2013

先日、婚外子の相続分を嫡出子の1/2とする民法の規定が憲法違反だという最高裁の決定が出ました。
「芦部さんの憲法」の番外編として、この裁判についてコメントしてみたいと思います。

ちなみに「決定」というのは「判決」と同じようなものですが、口頭弁論を必ずしも必要としないものを言うようです。
でも決定というと何となく一般的な意味での決定のような気がするので、厳密にはちょっと違いますが、以下この決定のことを「判決」と言うことにします。

でこの判決文は、最高裁のホームページから、
トップ → 最近の裁判例 → 最高裁判所判例集
最高裁判所判例 平成24(ク)984遺産分割審判に対する抗告棄却決定に対する特別抗告事件
の所にあります。あるいはhttp://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20130904154932.pdf で、pdfファイルが取れます。

この事件は、死亡したAさんの遺産について嫡出子側が婚外子側に遺産の分割を求めて審判の申立てをした事件のようです。
で争点は、民法900条4号ただし書にある、嫡出でない子の相続分を、嫡出子の1/2とする規定が合憲かどうかということになったようです。東京高裁ではこれを憲法14条1項に違反しないと判断し、その規定によって遺産の分割を命じたのですが、最高裁ではその決定(判決)をくつ返し、この民法900条4号ただし書は憲法14条1項に違反しているから無効であるとし、その上でもう一度裁判をやり直すように東京高裁に差し戻すというものです。

ここで憲法14条1項というのは、「法の下の平等」という規定です。すなわち今回の判決が言っているのは、民法900条4号ただし書が、合理的な根拠のない差別的取扱にあたるので、法の下の平等を定めた憲法に違反する。そのためこの規定は無効だ、ということです。

民法900条4号ただし書というのは大昔からある規定ですから、これが憲法違反で無効だということになったら、どうして無効なのか、いつから無効なのかということに当然なります。それについてこの決定では、家族制度・相続制度・諸外国の変化・国連の勧告等、また住民票・戸籍・国籍法の取扱の変化をあげて、最終的にこれらの変化のどれか一つを取って民法900条4号ただし書が不合理だと言うことはできないけれど、全体としての変化からこのAさんが死亡した平成13年7月頃には、もう民法900条4号ただし書は不合理なものになっていたんだ、と言っています。
「いつから」に対しては明確な答えを出さずに、「遅くともAさんが死んだ時には」ということです。

で、こうなると少なくともその平成13年7月以降に死んだ人の相続については全て民法900条4号ただし書が無効になるのかということになるのですが、この決定では、既に決着がついてしまっている相続についてこれをひっくり返してはならず、まだ争いが続いているものについてだけ、民法900条4号ただし書を無効として考え直せと言っています。

言い換えれば、民法900条4号ただし書を法律だからと尊重して相続に決着をつけた婚外子の人は損をして、法律にさからって争いを続けていた婚外子の人は得をするということになったわけです。
これはそれこそ憲法14条1項に定める法の下の平等に違反するということになるのですが、そこの所この判決では「法的安定性の確保」という言葉を持ち出し、既に決着のついたことをひっくり返すと混乱が生じてしまうので、それを避けるために既に決着がついたことを蒸し返さない、ということのようです。

法の下の平等を実現しようとして、かえって新たな法の下の不平等を作り出してしまったということになります。

もちろんこの「法的安定性の確保」というのは憲法にもとづくものでも何でもありません。これを憲法の基本的人権の尊重より重視するというのはどうなんでしょうね。

この判決文には、最後に3人の裁判官による補足意見がついています。このうち最初の金築誠志さんという裁判官の補足意見がなかなか面白いもので、日本の裁判制度について参考になります。そこでは「付随的違憲審査制」という言葉と「個別的効力説」という言葉を使って意見を言っています。

「付随的違憲審査制」というのは、日本には憲法裁判所という制度がなく、法律そのものが違憲がどうかを判断するという制度がなく、あるのは具体的な事件があって、その裁判の中でその個別的事件に関連して法律が違憲かどうかの判断をするだけだということです。
「個別的効力説」というのは、裁判で違憲判決が出たからといってその法律が常に違憲で無効になるわけではなく、あくまで「個別事件についてだけ違憲だ」ということです。もちろん違憲判決は先例としての拘束力は持つけれど、あくまで先例であって、別の事件で同じ法律が違憲かどうかは個々の事件ごとに判断しなければならない、ということです。

とはいえ先例は先例ですから、違憲判決が出れば、通常は同様の裁判では同様の判断がなされることになるので、当然過去にさかのぼって違憲の判断がなされることになります。

今回の判決では過去にさかのぼっての違憲の判断により、既に決着している話をひっくり返してはいけないと言っているのですが、裁判所にそんなことを決めることができるのか、という話になってきます。
特定の日時を決めて、いついつまではこのように取扱う、いつ・いつからはこれとは別にこのように取扱う、というような規定は法律ではごく当たり前の話ですが、憲法や裁判ではそのような決めは普通しません。にも拘わらず今回の判決で、すでに決着している話はひっくり返さないと言っているのは、裁判で法律を作ってしまっていることになります。これは憲法41条 国会の立法権を侵害していることになります。

この金築裁判官の補足意見はそのあたりを意識して、今回の判決は、憲法違反になるかも知れないけれど、とはいえそれを言わないで、決着済みの話が次々にひっくり返されて混乱が起きるのがわかっていながらそれを放置して、単に違憲の判断を出すだけではいけないのではないか、という観点からなされたものだ、と言っています。

いずれにしても今回の違憲判決はあくまで個別事件に関してのものなので、今後どのような形で関連する紛争が生ずるか予測しきれない、とも言っています。確かに違憲判決を出す判決が違憲なんですから、どんな争いが発生しても不思議じゃないですね。

以前、生命保険の死亡保険金の年金受取に対する課税が二重課税にあたって違法だ、という最高裁の判決があり、それに対して私はその判決は憲法違反だという意見を書いたことがあります。その判決では所得税法の規定を違法だと言うだけで、既に決着済みの話も含めて、その税法の規定ができた時から違法だ、という判決だったので、過去何十年にもわたって違法な徴税が行なわれたことになってしまいました。

仕方がないので国税庁は急遽「所得税法施行令」を改正し、過去にさかのぼって税金を取り戻すために、いつまで過去にさかのぼれるか、取り戻せる税金はどのように計算するか、どのように手続きしたら良いかを規定しました。

すなわちこの時は、最高裁の判決は、法律ができた時から違法だから、決着がついたことでも全てひっくり返せということになったわけですが、今回の判決では、民法の規定はいつのまにか違憲になったので、この件については民法の規定を無効として裁判をやり直すけれど、既に決着のついた話は蒸し返さないと言っているわけです。

前回の所得税法の話は、最高裁の三人の裁判官による判決で、たった三人で憲法違反の判決が出せるんだ!と言ったのですが、今回の判決は大法廷の判決ですから、最高裁の裁判官全員(この判決では14人)による憲法違反の判決です。

最高裁の裁判官がたった三人で憲法違反できるというのと、裁判官全員で憲法違反するというのと、どっちが問題が大きいか良くわかりませんが、いずれにしてもビックリですね。