芦部さんの憲法 その13

12月 10th, 2013

芦部さんの憲法、統治機構の所についてはあまり問題がないだろうと思っていたら、しょっぱなから問題のコメントがありました。

まず
 【民主主義ないし民主政(国民主権)は人権の保障を終極の目的とする原理ないし制度と解すべきであるから・・・】
という文章があります。「民主主義は人権を守るためのものだ」ということです。政治学をやっている人が聞いたら泣いて喜ぶだろうような話です。
この芦部さんを初めとする立憲派の憲法学者さんというのは、本当に人権が好きなんですね。民主主義というのも人権を守るための単なる道具になってしまいます。

統治機構の所で最初に議論するのは三権分立の話ですが、これも世界共通ということではなく、国によって三権分立の形が違うという話は初めて知りました。すなわち、アメリカでは立法権不信の思想が強く、そのため三権は平等だけれど、フランスでは司法不信で三権の中でも立法権が中心的地位にあるということで、同じ三権分立がフランスでは裁判所の違憲審査権を否定するための理論的根拠であり、アメリカではそれを支えるための根拠だというんですが、何のこっちゃという感じです。

で、「国会」ですが、憲法では「国会は国権の最高機関である」としているのですが、これについて芦部さんは「最高機関とは政治的美称である」と言って、何となく司法より立法が上になるのは嬉しくないようです。もう一つ「国会は国の唯一の立法機関である」という条もあります。ともすると司法の裁判所が立法したがるのを防止しているようです。

次は内閣ですが、
 【行政権は、内閣に属する】という行政権は、【すべての国家作用のうちから立法作用と司法作用を除いた残り(すべて)の作用である。】と言っています。
このように言いながら、内閣から独立して活動する独立行政委員会について
 【内閣から独立した行政作用であっても特に政治的な中立性の要求される行政については、例外的に内閣の指揮監督から独立している機関が担当するのは、最終的にそれに対して国会のコントロールが直接に及ぶのであれば合憲であると解して良い】
と言っています。

一体憲法のどこからこんな理屈が出てくるのかさっぱりわかりません。別にこのような制度に異論があるわけではないんですが、憲法に何も書いてないことを「合憲とする」というくらいなら、憲法にそのように書き加えれば良いのに・・と思うのですが。

内閣に関しては
 【日本国憲法には内閣の解散権を明示した規定はない】
という説明があります。天皇の所で、天皇の国事行為としてはっきり「衆議院の解散」と書いてあり、「国事行為は内閣の助言と承認により、また内閣がその責任を負う」と書いてあるので、私はこれで十分だと思うのですが、芦部さんは「書いてない」と言い、だからと言って憲法を直そうともしないで
 【現在では7条によって内閣に実質的な解散決定権が存するという慣習が成立している。】
としています。芦部さんは何を考えているんだろうと思います。

さらに芦部さんは、注として「解散権の限界」として、解散できるのはいくつかの限定されたケースだけだと言っています。もちろん憲法にはそんな限定等どこにもないですから(芦部さんによると解散権自体が書いてないわけですし)、芦部さんが勝手に考えたことを「自分の考え」と言わないで断定してしまっています。何ともはやです。

で、次にくるのが裁判所です。
 【すべて司法権は最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する】
で、この「司法」という言葉ですが、私は法律の適用あるいは解釈に関する争いの全てを対象とすると思っていたのですが、どうも違うようです。

芦部さんによると、司法とは
 【具体的な争訟について、法を適用し宣言することによってこれを裁定する国家の作用】
と言い、さらに細かく
 【当事者間に具体的事件に関する紛争がある場合において、当事者からの訴訟の提起を前提として独立の裁判所が統治権にもとづき一定の争訟手続きによって紛争解決のために、何が法であるかの判断をなし、正しい法の適用を保障する作用】
と言っています。

要するに、何か具体的に事件があって、当事者間の争いがあり、裁判になって、はじめて司法が動き出すということのようです。
裁判所ができるのはこの司法だけですから、違憲判決もこの司法の範囲内でしかできないことになりますね。
すなわち具体的な事件があり争いがあって、裁判になって初めて違憲審査が始まるということですね。

だとすると、こんなしばりなしで法律を作ることができ、憲法改正の発議もできる国会の方がやはり上に来るのも当然ですね。

このあと財政・地方自治がありますが、そこもスッ飛ばして、次回はいよいよ憲法改正の議論です。

芦部さんの憲法 その12

11月 28th, 2013

さて前回は、憲法は国民の基本的人権の誰による侵害を規制するのか、という話をしました。

規制する相手が国だけであれば、基本的人権を侵害する国が悪いということで簡単なのですが、規制する相手に国民も入っているとなるとちょっと面倒です。

すなわちある国民の基本的人権が別のある国民の基本的人権を侵害する時どうしたら良いか、という話になるからです。

このような時にどうしたら良いかなんてことは憲法には書いてありませんから、ここは法律家が頑張ってあーでもないこーでもないという議論を展開することになるわけです。要は「常識的判断で決める」ということになるのですが、そう言ってしまっては有難味がないので、いかにも論理的にみえるように様々な言葉を作り出して論理的な結論であるかのように結論を持ち出します。

このあたりについては、前々回の「芦部さんの憲法 その10」で書いたとおりです。

このようなケースについて、国民の基本的人権は憲法だけではなく法律によっても守られているため、時としてこの国民の基本的人権同士の衝突が、その衝突を引き起こしている法律の憲法違反という問題になります。すなわちある人の基本的人権がある法律によって守られている。しかしそれが別のある人の基本的人権を侵害している時は、その法律が憲法違反ではないか、という議論になるわけです。別のある人の基本的人権も、別のある法律で守られているとすると、その法律どうしがぶつかり合うわけなので、どっちの法律が憲法違反なのか、という議論になります。

このあたり、常識的判断がいくらでも幅があり得るので、具体的な話となるといくらでも議論のもとになります。

このあたりでもうメンドクサイので全て端折って、次回からはもう少し現実的な「国の統治機構の話」に入ろうと思います。すなわち、国会・内閣・裁判所、といった話です。

婚外子の法定相続分に関する民法改正

11月 22nd, 2013

婚外子の相続分を巡る最高裁の判決(決定)を受けて、民法改正案が国会に提出されています。

閣議決定を受けて国会には改正案が11月12日に出ていますが、一昨日(11月20日)ようやくその法案の中味が衆議院のホームページに掲載されました。

昨日(11月21日)は衆議院本会議で可決されたようです。

この法案を見たいと思っていたのは、最高裁で違憲判決を受けた婚外子の法定相続分を嫡出子の1/2にするという但し書きの他にどのような改正がなされるのかを確認しようと思ったからです。

この法案の閣議決定のマスコミのニュースにはそこまでちゃんと報道しているものが見当たらないのも困ったものです。

結局この法案では、民法900条第4項の但し書きのうち「、嫡出子でない子の相続分は、嫡出子である子の相続分の二分の一とし」を削るというだけで、それ以外は一切改正しないという案になっていて、「この規定は平成25年9月5日以降に開始した相続について適用する」という経過措置の規定が付いています。

今日(11月22日)見ると、この改正案には修正案が提案され、その修正案ではこの民法の改正に合わせて戸籍法も改正し、出生届及び死産の届出の際に嫡出子、非嫡出子の別を記載することをやめることが提案されていたようですが、この修正案の方は否決されています。

すなわち政府と国会は最高裁の判決(決定)に必要最小限の対応をした、ということになります。

政府および与党としては最高裁の憲法違反に正面から対決することを避けながら、与党の反発にも配慮した改正案ということになります。

これを受けて与党の民法改正の議論が今後どうなっていくか、注目ですね。

ニュース

11月 14th, 2013

私は多分かなりニュースを見ている方だと思いますが、時折報道されないことについて報道してくれないかなあと思うことがあります。近頃では以下の2つです。

今年の春、キプロスの銀行危機でマスコミは大騒ぎしました。その後キプロスの日々の生活ではお金がほとんど使えなくなってしまったので、人々はどのように生活しているんだろうと思い、ずっと待っているのですが、そのあたりを報道してくれるニュースやドキュメントを見ていません。お金が使えなくなるというのは、日本の戦後の新円切り替えとかドイツの第一次大戦後のインフレとかいろいろあるのですが、現代の時代で具体的にどのようなことが起こっているのか、報道してもらいたいなぁと思っています。

もう一つは、シリアの情勢です。内戦が始まってからほぼ毎日のように、平均して1日に100人くらいが爆撃などで死んだというニュースが流れていたのが、化学兵器の問題で米ロが協議したり国連の調査団がシリア入りしたあたりからぱったり目にすることがなくなってしまいました。シリアではあいかわらず爆撃で人が死んでいるんだろうか、あるいは実質的にある意味休戦状態になっているんだろうか、と思っています。政府側と反政府側との戦闘より反政府側同士の戦闘のニュースも流れたりして、大分反政府側にゆとりが出ているのかなとも思いますが、いかんせん何もわかりません。

ほとんどのニュースは、思ってもないことを知らされてヘェーとなるのですが、時にはこのようにいつ知らされるんだろうと待っているニュースも楽しみです。

芦部さんの憲法  その11

11月 13th, 2013

基本的人権は日本国憲法の三つの柱の一つですがその中でも最も重要なもので、そのため憲法の中で条数でも一番大きな部分を占めています。そして11条に
  【国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。】
となっており、さらにダメ押しで97条に
  【この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。】
と書いてあります。いかにも理想主義的な言明ですが、格好良い言葉だとも言えます。

これを素直に読めば、基本的人権は誰にも侵すことができない、すなわち誰も誰かの基本的人権を侵してはならない、と読めます。ところがこれと異なる解釈をする人達がいます。それも一部の憲法学者といわれる人達です。

この人達の言い分はこうです。
  『憲法は国が国民の人権を侵害するのを防ぐためにある。だから憲法は国を規制するためのもので、国民を規制するものではない。だから国民は憲法なんか守らなくても良い。』

私がこの芦部さんの憲法を読むようになったのは、司法試験のカリスマ講師で憲法学者の伊藤真さんの憲法の本を読んで、この「国民は憲法を守らなくても良い」なんてことが書いてあるのを知り、それはないだろう、と思ったことがきっかけです。

もし本当に憲法が国を規制するだけのものだとすると、せっかくの格調高い憲法の人権の規定が何ともチッポケなものになってしまいます。

もちろん憲法自体には、憲法が対象として規制するのは国だけだなんてことは書いてありません。書いてないことを憲法学者が勝手に解釈するのは、歴史的に憲法が国民を主権から守るために作られたものなので、その後の憲法も自動的に国家権力から国民を守るために作られていると思い込もうとしているからです。

憲法の規定は確かに国に関する規定がほとんどで、戦争放棄の所は国として軍隊を持たない、国として戦争をしないと書いてあり、またその他天皇・国会・内閣・裁判所・財政・地方自治は全て国の機関としてのそれぞれのあり方を規定しているものです。基本的人権の所だけちょっと例外的になっています。

これを国による国民の基本的人権侵害に関する規定と考えるのか、国以外のいろんな機関や人による国民の基本的人権侵害に関するものを含むと考えるのか、様々な立場があるようです。

一つの極端な立場は、憲法は国と国民との間の基本的人権についてだけ規定しているので、その他は全て法律(民法や刑法やその他)の規定にまかせる、というものです。

もうひとつの考え方は、素直に憲法の規定がそのまま国民同士の基本的人権にも直接適用され、それを具体化したのがいろんな法律になるという考えです。

これ以外にもいろんな考え方があり、憲法は国の国民に対する人権侵害を防ぐ規定だけれど、その内容を法律に反映させて国以外の者が人権侵害するのも防ぐようにしているんだと言うために四苦八苦しているように思えます。

また国の国民に対する人権侵害を大幅に広く解釈して、国が直接人権侵害するのはもちろん、誰かが人権侵害するのを放置すること自体、間接的に人権侵害していることになるので、それをさせないように法律を整備するのが憲法が国に課している義務だ、という考え方もあるようです。

確かに憲法というのは仮にそれに反したからと言って別に何も起こりませんが、法律になると内容が具体的になり、違反したら刑罰の対象となったり賠償の対象となったりの強制力を持つことになります。こうなると確かに人権侵害を防ぐのには憲法より法律で規定する方が良いのかも知れません。しかしだからと言って国の基本方針としての基本的人権の尊重が憲法にないというのも寂しいものです。

ということで憲法の規定は国の行動だけを規制するなんて了見の狭いことを言わずに、国民全般が等しく憲法に従うと考える方が良いんじゃないかなと思います。

芦部さんはここのところ・・・
  『人権は、戦後の憲法では、個人尊厳の原理を軸に自然権思想を背景として実定化されたもので、その価値は実定法秩序の最高の価値であり、公法・私法を包括した全法秩序の基本原則であって、すべての法領域に妥当すべきものであるから、憲法の人権規定は私人による人権侵害に対しても何らかの形で適用されなければならない。』
としています。すなわち憲法は全ての法律の基本だから国家権力だけを規制するものではない、国民もその他すべての団体もちゃんと憲法を守らなければいけない、ということです。

メデタシメデタシです。

「世界恐慌 - 経済を破綻させた4人の中央銀行総裁」

11月 6th, 2013

もう一つ、私が図書館の新しい本コーナーで見つけたのは、「世界恐慌 - 経済を破綻させた4人の中央銀行総裁」という本です。ライアカット・アハメドという人の本で、筑摩書房から上下2巻で出ています。

最初図書館でみつけたのは(上)だけだったのですが、ちょっと読んでみてすぐに(下)の方も予約を入れて、両方とも読み終わりました。

私は昔中学生・高校生の頃それほどお金持ちでもなかったので、本屋さんで良く立ち読みをしました。1~2時間くらいの立ち読みは珍しくなく、そのように立ち読みして全部読み終わった後で買って帰るということも何回もありました。

今回は図書館で借りたのですが、読み終わってさっそく買うことにして上巻はすでに手に入り、下巻の方は近くのセブンイレブンに届くのを待っている状態です。

この本は2010年のピュ-リッツアー賞の受賞作ということで、「世界恐慌」とは1929年の大恐慌のことです。

元々のタイトルは日本語のタイトルとかなり違っていて、Lords of Finance – the Bankers who Broke the World (金融の王様達-世界をぶっ壊した銀行家達)となっています。

私は今まで1929年の大恐慌というのは、ニューヨークの株式市場の暴落に始まる株式市場の問題と、それによって起こった経済恐慌と社会恐慌のことだと思っていましたが、実は本当の問題はそれに合わせて起こった、特に1930年代の各国の為替危機と金融危機の方がよっぽども大きな問題だったんだ、ということをこの本で知りました。アメリカ・ヨーロッパの各国で銀行がバタバタと倒れ、とんでもない事態になったようです。

それを説明するために、この本は第一次大戦の起きるところから話が始まります。誰もが戦争にまではならないと思い、たとえ戦争になったとしてもあっという間に片がつくと思っていたのがヨーロッパ全体を巻き込む大戦争になり、4年もかかってようやく終わるということになり、さらにその結果としてドイツはイギリス・フランスに対し払いきれない額の賠償金を払わなければならなくなり、イギリス・フランスは戦争を継続するためにアメリカから借りた多額の借金を返さなくてはならなくなり、この問題が常にヨーロッパ・アメリカの金融を大きく揺り動かし、さらにその当時誰もが当たり前に思っていた金本位制がさらに問題の解決を難しくし、それが1929年のニューヨークの株式市場の大暴落を引き起こし、その後1930年代の金融危機につながり、結局第二次世界大戦につながった、というストーリーを、金融の立場から、アメリカ・イギリス・フランス・ドイツの中央銀行の総裁達を中心に、政府のトップ達・金融大臣達・大銀行家達も参加し、さらに重要な登場人物としてケインズを配して、この流れの中でそれぞれが何を考え、何をしたか、を書いています。

ケインズの一般理論はこの流れの中から生まれたものですから、一般理論をきちんと理解するためにもこの流れをしっかり理解することが必要だなと思い、久しぶりに本を買いました。

この本ではケインズを紹介する所で、ケインズの最初の著作である「確率論」について、
 「何も確実に知ることができず将来が予測できない時には、何が合理的な行動かを決定することは難しく、そのような環境では行動の究極のベースは分析よりも直感である」というのがこの本のテーマだ、なんて魅力的な紹介が書いてあります。
それでついウカウカとこの「確率論」を図書館で借りてみたら、何と500ページを超える大冊で、「ケインズ全集」のうちの1冊だからたくさんの注釈が付いているんだろうと思ったらほとんど本文で、いろんな数式も入った結構しっかりした確率論の教科書です。とはいえ、普通我々が読む確率論の教科書に参考文献としてこの本が登場したという覚えはありませんが。これも読むとなったら結構本気でとりかかる必要がありそうで、さてどうしたものか、と考え中です。

第一次大戦が終わってドイツがイギリス・フランスに払う賠償金について、最初ドイツの負担能力を超える額が決まり、それに対しケインズはそんな多額を負担させると払えなくて問題になると批判し、実際払えないことがわかって、その後延々とその額を引下げる交渉が行なわれ、ドイツはとんでもないインフレになり、1兆分の1のデノミをすることになり、その後ヒトラーが登場して第二次大戦に突入するのですが、結局賠償金はどうなったんだろうかというのは長い間私には疑問でした。それについてもこの本にはちゃんと書いてあります。

1930年代の金融危機にしてもその前の様々な危機にしても、要は国境をまたいだ壮大な貸し渋り・貸し剥がしで、基本的な構造はしばらく前のアジア危機にしても最近のユーロ危機にしても同じです。このあたりをきちんと理解するためにもこの上下2冊を買って、今度はじっくり読み直すつもりです。

また、私にはまだよく理解できていない金本位制、というものについてもこの本を読みながらじっくり考えることができると期待しています。

金融の話ですが、それにかかわった人の話を中心に書いてありますので、楽しく読めると思います。
お金の話も基本的にドル表示に統一して書いてあるので、フラン、マルク、ポンドの為替レートをいちいち気にしなくてもいいようになっています。

1930年代のアメリカの銀行危機のあたりはスリリングで、息もつかせぬ迫力があります。

興味がある人は是非読んでみて下さい。

「実証・仮設住宅-東日本大震災の現場から」

11月 5th, 2013

また図書館の新しく出た本のコーナーで、面白い本を二つも見つけてしまいました。

その一つが「実証・仮設住宅-東日本大震災の現場から」という、学芸出版社から出ている本です。
大震災の時、岩手県の建築住宅課総括課長という立場で、岩手県の仮設住宅の建築全般を指揮した大水敏弘さんの書いたものです。

もともとこの人は建設省のお役人のようで、大震災時たまたま岩手県の課長だったので仮設工事を担当し、震災の1年後に国土交通省に戻って本省で復興事業の担当官となり、その1年後に今度は大槌町に副町長として赴任していて、自分が建てた仮設住宅に自ら住みながら大槌町の復興のために仕事をしているという人です。

実際に住んでみて、間仕切りのアコーディオンカーテンの下の隙間から冷気が入ってくるので毛布を丸めて置いてあるとか、壁の色が灰色なのがせめてアイボリーだったらとか、それでも空気が綺麗で満天の星だとか、楽しみながら大変な仕事をしているようです。

お役人らしく様々な法律をきちんと確認し、時には必要に応じてその法律を無視したり、意識的に法律違反をしたりしながらできるだけ早く仮設住宅を必要な数準備して避難所にいる人達に落着く場所を用意しようという、大車輪で動きまわった経緯を淡々と詳細に書いています。

大量の仮設住宅を早期に建てるために、プレハブ建築の協会に頼んで建ててもらうのですが、仮設住宅を用意する災害救助法の所轄は厚生労働省なのに建てる方の所轄は国土交通省だったり、本来的には市町村が建てる責任者なのにそんな余裕もないので、県が県内の仮設住宅の建築や国交省、建築業者との交渉の窓口になるとか、県と市町村の役割分担の話とか、プレハブ建築に限定しないで地場の建築業者にできるだけ建築を依頼するとか、普通、県で発注する建築は請負契約なのに仮設住宅はリース契約あるいは買取の契約なので仕事のやり方がまるで違うとか、仮設住宅の新設が難しいので民間の賃貸住宅をみなし仮設住宅とすることにより何とか2011年中には仮設住宅の工事は一段落したとか、仮設住宅には家電6点セットが日本赤十字から提供されたが、当初それがうまくタイミングが合わずせっかくできた住宅に入居ができなかったとか、みなし仮設住宅は県が一括して借り上げたものを入居者に割り振っていくならまだ良いんだけれど、実際は入居者が直接みつけて借りたものをあとから県が借りる形で契約をし直すので、6万戸のみなし仮設住宅に対して個々に家主と契約しなければならないので大変だったとか、当初2年の予定だった仮設住宅の期間を3年にしたので、また個別に更新の手続きをしなければいけないとか、普段公営住宅の家賃を収納するのは慣れているけれど家賃を払うのは慣れてないので、何と1‐2ヵ月の家賃の不払いを発生させてしまったとか、手間を考えれば、みなし仮設住宅として県が賃貸契約をする代わりに家賃分現金給付する方が面倒がないんだけれど、災害救助法では現物給付が原則なのでそれができないとか、言われてみればもっともだけれど言われないとなかなか気がつかない話が満載です。

普段、県のお役人というのは何をやっているのか良くわからないんですが、国全体の方向性を決める国のお役人、住民と直接向き合う市町村のお役人の陰で、都道府県のお役人もいろんな仕事をしっかりやっているんだ、ということが何となくわかってきます。

大震災の復興工事の一部であっても、具体的に知るには格好の一冊です。お勧めします。

こども保険の和解

10月 30th, 2013

こども保険の元本割れについて、裁判で和解が成立した、というニュースが出ています。これについて、久しぶりに掲示板の『アクチュアリーの練習帳』に投稿がありました。

私もコメントを追加しています。

http://www.acalax.info/bbs/wforum.cgi?mode=all_read&no=3557&page=0

もしよかったら見てみてください。

スパムコメント

10月 29th, 2013

WordPressには、スパムコメントを見つけてスパムコメントとして分類してくれるプラグイン(小道具のようなものです)があります。

今まではこれでスパムコメントとして分類されたコメントを一つ一つ確認して削除していたのですが、最近ちょっとスパムコメントが増えていて、一つ一つ確認して削除するのが苦痛になってきました。

その為、数日前からスパムコメントとして分類されたコメントを一括して無条件で削除するようにしてしまいました。

こうすると、まともなコメントで間違ってスパムコメントとして分類されたものもそのまま削除されてしまいます。

その為、お手数ですがコメントを入れていただいて、いつまでたってもそれがコメントとして表示されない場合にはメールでお知らせください。
アドレスは
sakamoto.y@acalax.info
にお願いします。

芦部さんの憲法 その10

10月 18th, 2013

いよいよ憲法も基本的人権に入ります。

この「基本的人権」は「日本国憲法」では全103条中、10条から40条までの31条。全体の3割を占め、芦部さんの教科書でも本分389ページのうち73ページから274ページまでの202ページ、半分強を占めています。

で、この基本的人権、「人類共通の」とか言うわりには実は必ずしも共通ではないように思います。たとえば日本では基本的人権のうちの生存権にもとづいて健康保険制度が国民全体に適用されるのに対して、アメリカでは自由権にもとづいて国民皆保険に反対する意見がまだかなり強いようですし、日本では誰も自衛のために銃を持とうとはしないのに、アメリカでは自衛のために銃を持つことは基本的人権の一つだ、という考えのようです。

で、議論を始めると際限がなさそうなので簡単に済ませようと思ったのですが、芦部さんの教科書を読むとちょっとそういうわけにはいかなそうです。基本的人権の本筋から離れる話も多いのですが、ちょっとコメントします。

まず基本的人権をいろいろ分類している中で、「社会権」というものが登場します。これは社会的・経済的弱者が人間に値する生活を営むことができるように、国家の積極的な配慮を求めることができる権利だ、と言うんですが、これについて【憲法の規定だけを根拠として権利の実現を裁判所に請求することのできる具体的権利ではない(即ち、その為の法律がないとその権利を求めて裁判することができない、ということ)】(84ページ)と、この部分、わざわざ傍点までつけて書いてあるのですが、その次のページには何と【社会権にも具体的権利制が認められる】などという文章があり、こんなんで勉強する人は大変だなと思ってしまいます。

また「制度的保障」という言葉が登場します。これは何かというと、たとえば言論の自由を守るため大学という制度に保護を加え、その制度を守ることによって基本的人権である言論の自由を守る、というようなことのようです。この芦部さんの本では(多分他の法律の本でもそうだろうと思うのですが)「保障」という言葉を「保護する」という意味で使っているようです。

そんなわけでこの制度的保障というのは、制度を保障(保護)すること、という意味のようです。「的」と言う言葉を「を」の代わりに使うというのは、普通の日本語にはないと思います。中国語では「的」というのは日本語の「の」のように使います。私の本とかあなたの恋人とかの「の」です。その意味で制度を保障(保護)することを制度の保障と言い換えて、これを制度的保障と言うのかも知れませんが、このような「的」の使い方は中国語の話であって、日本語の話じゃないと思います。

また、「前国家的」とか「前憲法的」とかの言葉が登場します。これは一体何だろうと思って読んでいくと、どうやらこれらは「国家ができる前からの」とか「憲法ができる前からの」という意味のようです。「前」という言葉は「前近代的」のように「○○になる前(から)の」という意味で使うのはよく見ますが、「○○ができる前(から)の」という意味で使うのは今まで見たことがありません。多分、勝手に自分流の日本語を作ったんじゃないかなと思います。

このように言葉のことを問題視するのは、言葉の正しい使い方というのは論理的思考のそもそもの前提となるものだと思うからです。私は日本語というのは、少なくとも私の知っている範囲では、世界で最も論理的な表現・思考ができる言語だと思っています。にもかかわらずこのようないい加減な言葉の使い方をすると、論理的思考ができるわけがないと思うからです。

一般には(憲法を含めて)法律というのは論理的に書かれていて、法律家というのは論理的に考えていると思われているんだと思いますが、このような事情を見るとガッカリしてしまいますね。

さて、基本的人権にはいろんなものがありますから、複数の基本的人権がお互いにぶつかり合った時にどうするか、というのが大きな問題になります。

まず最初に個別の人権ではなく社会全体との関係では、「公共の福祉に反しない限り」という限定付で基本的人権が認められるのが普通です。自民党の改正草案ではこの「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」と言い換えているんですが、その言い換えをケシカラン反対している意見があるようです。私には「公共の福祉」などというわけのわからない言葉よりよっぽど良いと思うのですが。

反対する人達は「益」とか「秩序」が嫌なんでしょうか。民法では憲法の「公共の福祉」を「公序良俗」という言葉で表しています。この三つの言葉を並べて比べてみると、「公益及び公の秩序」が一番わかりやすいと思うのですが、どうでしょう。

次に、今度は具体的にある基本的人権と、もう一つの基本的人権がぶつかった時にどうするか、ということになります。これにはいくつかの考え方があるようです。

まず最初に出てくるのが「比較衡量論」というもので、「それを制限することによってもたらされる利益」と「それを制限しない場合に維持される利益」を比較して、制限した時の利益の方が大きい時はその基本的人権を制限しても良い、という考え方です。誰がその「利益」を評価するのかという点を含め、こんなんでいいのかな、こんなんで「侵すことのできない永久の権利」(第11条)と言えるのかな、と思ってしまいます。要するに、基本的人権であってもそれを制限する方が利益が大きいのであれば制限することができる、ということですから。

次に出てくるのが「二重の基準論」というものです。二重の基準と言うと何のことか良くわかりませんが、英語で書くと良くわかります。すなわちdouble standard、ダブルスタンダードのことです。

ダブルスタンダードというのは、普通はそういうことじゃ駄目じゃないか、と非難される対象となるのですが、憲法の議論ではダブルスタンダードにすべきだ、という話になっています。

普通のダブルスタンダードというのは、あっちにはああ言い、こっちにはこう言うというような、相手によって話を変えることなのですが、この憲法のダブルスタンダードというのは、憲法の中のいろんな基本的人権は横並びで皆同じ重みがあるのでなく、重要なものと比較的重要でないものがあって、その重要性の度合いを付けることによって、たとえば二つの基本的人権がぶつかった時、どっちの基本的人権をもう一方の基本的人権より優先するか決める、というような話です。

とは言え、あらかじめ全ての基本的人権に順位を付けるなんて話じゃなくて、実際に基本的人権のぶつかり合いが起こったときに「さてどっちを優先しようか」と考えるというような話ですから、その時その時の都合でどうにでもなるような話でもあります。

こんなんで本当に基本的人権を「人類普遍の原理であり」「侵すことのできない永久の権利」なんて言えるんだろうか、と思ってしまいます。