芦部さんの憲法  その11

11月 13th, 2013

基本的人権は日本国憲法の三つの柱の一つですがその中でも最も重要なもので、そのため憲法の中で条数でも一番大きな部分を占めています。そして11条に
  【国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。】
となっており、さらにダメ押しで97条に
  【この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。】
と書いてあります。いかにも理想主義的な言明ですが、格好良い言葉だとも言えます。

これを素直に読めば、基本的人権は誰にも侵すことができない、すなわち誰も誰かの基本的人権を侵してはならない、と読めます。ところがこれと異なる解釈をする人達がいます。それも一部の憲法学者といわれる人達です。

この人達の言い分はこうです。
  『憲法は国が国民の人権を侵害するのを防ぐためにある。だから憲法は国を規制するためのもので、国民を規制するものではない。だから国民は憲法なんか守らなくても良い。』

私がこの芦部さんの憲法を読むようになったのは、司法試験のカリスマ講師で憲法学者の伊藤真さんの憲法の本を読んで、この「国民は憲法を守らなくても良い」なんてことが書いてあるのを知り、それはないだろう、と思ったことがきっかけです。

もし本当に憲法が国を規制するだけのものだとすると、せっかくの格調高い憲法の人権の規定が何ともチッポケなものになってしまいます。

もちろん憲法自体には、憲法が対象として規制するのは国だけだなんてことは書いてありません。書いてないことを憲法学者が勝手に解釈するのは、歴史的に憲法が国民を主権から守るために作られたものなので、その後の憲法も自動的に国家権力から国民を守るために作られていると思い込もうとしているからです。

憲法の規定は確かに国に関する規定がほとんどで、戦争放棄の所は国として軍隊を持たない、国として戦争をしないと書いてあり、またその他天皇・国会・内閣・裁判所・財政・地方自治は全て国の機関としてのそれぞれのあり方を規定しているものです。基本的人権の所だけちょっと例外的になっています。

これを国による国民の基本的人権侵害に関する規定と考えるのか、国以外のいろんな機関や人による国民の基本的人権侵害に関するものを含むと考えるのか、様々な立場があるようです。

一つの極端な立場は、憲法は国と国民との間の基本的人権についてだけ規定しているので、その他は全て法律(民法や刑法やその他)の規定にまかせる、というものです。

もうひとつの考え方は、素直に憲法の規定がそのまま国民同士の基本的人権にも直接適用され、それを具体化したのがいろんな法律になるという考えです。

これ以外にもいろんな考え方があり、憲法は国の国民に対する人権侵害を防ぐ規定だけれど、その内容を法律に反映させて国以外の者が人権侵害するのも防ぐようにしているんだと言うために四苦八苦しているように思えます。

また国の国民に対する人権侵害を大幅に広く解釈して、国が直接人権侵害するのはもちろん、誰かが人権侵害するのを放置すること自体、間接的に人権侵害していることになるので、それをさせないように法律を整備するのが憲法が国に課している義務だ、という考え方もあるようです。

確かに憲法というのは仮にそれに反したからと言って別に何も起こりませんが、法律になると内容が具体的になり、違反したら刑罰の対象となったり賠償の対象となったりの強制力を持つことになります。こうなると確かに人権侵害を防ぐのには憲法より法律で規定する方が良いのかも知れません。しかしだからと言って国の基本方針としての基本的人権の尊重が憲法にないというのも寂しいものです。

ということで憲法の規定は国の行動だけを規制するなんて了見の狭いことを言わずに、国民全般が等しく憲法に従うと考える方が良いんじゃないかなと思います。

芦部さんはここのところ・・・
  『人権は、戦後の憲法では、個人尊厳の原理を軸に自然権思想を背景として実定化されたもので、その価値は実定法秩序の最高の価値であり、公法・私法を包括した全法秩序の基本原則であって、すべての法領域に妥当すべきものであるから、憲法の人権規定は私人による人権侵害に対しても何らかの形で適用されなければならない。』
としています。すなわち憲法は全ての法律の基本だから国家権力だけを規制するものではない、国民もその他すべての団体もちゃんと憲法を守らなければいけない、ということです。

メデタシメデタシです。

「世界恐慌 - 経済を破綻させた4人の中央銀行総裁」

11月 6th, 2013

もう一つ、私が図書館の新しい本コーナーで見つけたのは、「世界恐慌 - 経済を破綻させた4人の中央銀行総裁」という本です。ライアカット・アハメドという人の本で、筑摩書房から上下2巻で出ています。

最初図書館でみつけたのは(上)だけだったのですが、ちょっと読んでみてすぐに(下)の方も予約を入れて、両方とも読み終わりました。

私は昔中学生・高校生の頃それほどお金持ちでもなかったので、本屋さんで良く立ち読みをしました。1~2時間くらいの立ち読みは珍しくなく、そのように立ち読みして全部読み終わった後で買って帰るということも何回もありました。

今回は図書館で借りたのですが、読み終わってさっそく買うことにして上巻はすでに手に入り、下巻の方は近くのセブンイレブンに届くのを待っている状態です。

この本は2010年のピュ-リッツアー賞の受賞作ということで、「世界恐慌」とは1929年の大恐慌のことです。

元々のタイトルは日本語のタイトルとかなり違っていて、Lords of Finance – the Bankers who Broke the World (金融の王様達-世界をぶっ壊した銀行家達)となっています。

私は今まで1929年の大恐慌というのは、ニューヨークの株式市場の暴落に始まる株式市場の問題と、それによって起こった経済恐慌と社会恐慌のことだと思っていましたが、実は本当の問題はそれに合わせて起こった、特に1930年代の各国の為替危機と金融危機の方がよっぽども大きな問題だったんだ、ということをこの本で知りました。アメリカ・ヨーロッパの各国で銀行がバタバタと倒れ、とんでもない事態になったようです。

それを説明するために、この本は第一次大戦の起きるところから話が始まります。誰もが戦争にまではならないと思い、たとえ戦争になったとしてもあっという間に片がつくと思っていたのがヨーロッパ全体を巻き込む大戦争になり、4年もかかってようやく終わるということになり、さらにその結果としてドイツはイギリス・フランスに対し払いきれない額の賠償金を払わなければならなくなり、イギリス・フランスは戦争を継続するためにアメリカから借りた多額の借金を返さなくてはならなくなり、この問題が常にヨーロッパ・アメリカの金融を大きく揺り動かし、さらにその当時誰もが当たり前に思っていた金本位制がさらに問題の解決を難しくし、それが1929年のニューヨークの株式市場の大暴落を引き起こし、その後1930年代の金融危機につながり、結局第二次世界大戦につながった、というストーリーを、金融の立場から、アメリカ・イギリス・フランス・ドイツの中央銀行の総裁達を中心に、政府のトップ達・金融大臣達・大銀行家達も参加し、さらに重要な登場人物としてケインズを配して、この流れの中でそれぞれが何を考え、何をしたか、を書いています。

ケインズの一般理論はこの流れの中から生まれたものですから、一般理論をきちんと理解するためにもこの流れをしっかり理解することが必要だなと思い、久しぶりに本を買いました。

この本ではケインズを紹介する所で、ケインズの最初の著作である「確率論」について、
 「何も確実に知ることができず将来が予測できない時には、何が合理的な行動かを決定することは難しく、そのような環境では行動の究極のベースは分析よりも直感である」というのがこの本のテーマだ、なんて魅力的な紹介が書いてあります。
それでついウカウカとこの「確率論」を図書館で借りてみたら、何と500ページを超える大冊で、「ケインズ全集」のうちの1冊だからたくさんの注釈が付いているんだろうと思ったらほとんど本文で、いろんな数式も入った結構しっかりした確率論の教科書です。とはいえ、普通我々が読む確率論の教科書に参考文献としてこの本が登場したという覚えはありませんが。これも読むとなったら結構本気でとりかかる必要がありそうで、さてどうしたものか、と考え中です。

第一次大戦が終わってドイツがイギリス・フランスに払う賠償金について、最初ドイツの負担能力を超える額が決まり、それに対しケインズはそんな多額を負担させると払えなくて問題になると批判し、実際払えないことがわかって、その後延々とその額を引下げる交渉が行なわれ、ドイツはとんでもないインフレになり、1兆分の1のデノミをすることになり、その後ヒトラーが登場して第二次大戦に突入するのですが、結局賠償金はどうなったんだろうかというのは長い間私には疑問でした。それについてもこの本にはちゃんと書いてあります。

1930年代の金融危機にしてもその前の様々な危機にしても、要は国境をまたいだ壮大な貸し渋り・貸し剥がしで、基本的な構造はしばらく前のアジア危機にしても最近のユーロ危機にしても同じです。このあたりをきちんと理解するためにもこの上下2冊を買って、今度はじっくり読み直すつもりです。

また、私にはまだよく理解できていない金本位制、というものについてもこの本を読みながらじっくり考えることができると期待しています。

金融の話ですが、それにかかわった人の話を中心に書いてありますので、楽しく読めると思います。
お金の話も基本的にドル表示に統一して書いてあるので、フラン、マルク、ポンドの為替レートをいちいち気にしなくてもいいようになっています。

1930年代のアメリカの銀行危機のあたりはスリリングで、息もつかせぬ迫力があります。

興味がある人は是非読んでみて下さい。

「実証・仮設住宅-東日本大震災の現場から」

11月 5th, 2013

また図書館の新しく出た本のコーナーで、面白い本を二つも見つけてしまいました。

その一つが「実証・仮設住宅-東日本大震災の現場から」という、学芸出版社から出ている本です。
大震災の時、岩手県の建築住宅課総括課長という立場で、岩手県の仮設住宅の建築全般を指揮した大水敏弘さんの書いたものです。

もともとこの人は建設省のお役人のようで、大震災時たまたま岩手県の課長だったので仮設工事を担当し、震災の1年後に国土交通省に戻って本省で復興事業の担当官となり、その1年後に今度は大槌町に副町長として赴任していて、自分が建てた仮設住宅に自ら住みながら大槌町の復興のために仕事をしているという人です。

実際に住んでみて、間仕切りのアコーディオンカーテンの下の隙間から冷気が入ってくるので毛布を丸めて置いてあるとか、壁の色が灰色なのがせめてアイボリーだったらとか、それでも空気が綺麗で満天の星だとか、楽しみながら大変な仕事をしているようです。

お役人らしく様々な法律をきちんと確認し、時には必要に応じてその法律を無視したり、意識的に法律違反をしたりしながらできるだけ早く仮設住宅を必要な数準備して避難所にいる人達に落着く場所を用意しようという、大車輪で動きまわった経緯を淡々と詳細に書いています。

大量の仮設住宅を早期に建てるために、プレハブ建築の協会に頼んで建ててもらうのですが、仮設住宅を用意する災害救助法の所轄は厚生労働省なのに建てる方の所轄は国土交通省だったり、本来的には市町村が建てる責任者なのにそんな余裕もないので、県が県内の仮設住宅の建築や国交省、建築業者との交渉の窓口になるとか、県と市町村の役割分担の話とか、プレハブ建築に限定しないで地場の建築業者にできるだけ建築を依頼するとか、普通、県で発注する建築は請負契約なのに仮設住宅はリース契約あるいは買取の契約なので仕事のやり方がまるで違うとか、仮設住宅の新設が難しいので民間の賃貸住宅をみなし仮設住宅とすることにより何とか2011年中には仮設住宅の工事は一段落したとか、仮設住宅には家電6点セットが日本赤十字から提供されたが、当初それがうまくタイミングが合わずせっかくできた住宅に入居ができなかったとか、みなし仮設住宅は県が一括して借り上げたものを入居者に割り振っていくならまだ良いんだけれど、実際は入居者が直接みつけて借りたものをあとから県が借りる形で契約をし直すので、6万戸のみなし仮設住宅に対して個々に家主と契約しなければならないので大変だったとか、当初2年の予定だった仮設住宅の期間を3年にしたので、また個別に更新の手続きをしなければいけないとか、普段公営住宅の家賃を収納するのは慣れているけれど家賃を払うのは慣れてないので、何と1‐2ヵ月の家賃の不払いを発生させてしまったとか、手間を考えれば、みなし仮設住宅として県が賃貸契約をする代わりに家賃分現金給付する方が面倒がないんだけれど、災害救助法では現物給付が原則なのでそれができないとか、言われてみればもっともだけれど言われないとなかなか気がつかない話が満載です。

普段、県のお役人というのは何をやっているのか良くわからないんですが、国全体の方向性を決める国のお役人、住民と直接向き合う市町村のお役人の陰で、都道府県のお役人もいろんな仕事をしっかりやっているんだ、ということが何となくわかってきます。

大震災の復興工事の一部であっても、具体的に知るには格好の一冊です。お勧めします。

こども保険の和解

10月 30th, 2013

こども保険の元本割れについて、裁判で和解が成立した、というニュースが出ています。これについて、久しぶりに掲示板の『アクチュアリーの練習帳』に投稿がありました。

私もコメントを追加しています。

http://www.acalax.info/bbs/wforum.cgi?mode=all_read&no=3557&page=0

もしよかったら見てみてください。

スパムコメント

10月 29th, 2013

WordPressには、スパムコメントを見つけてスパムコメントとして分類してくれるプラグイン(小道具のようなものです)があります。

今まではこれでスパムコメントとして分類されたコメントを一つ一つ確認して削除していたのですが、最近ちょっとスパムコメントが増えていて、一つ一つ確認して削除するのが苦痛になってきました。

その為、数日前からスパムコメントとして分類されたコメントを一括して無条件で削除するようにしてしまいました。

こうすると、まともなコメントで間違ってスパムコメントとして分類されたものもそのまま削除されてしまいます。

その為、お手数ですがコメントを入れていただいて、いつまでたってもそれがコメントとして表示されない場合にはメールでお知らせください。
アドレスは
sakamoto.y@acalax.info
にお願いします。

芦部さんの憲法 その10

10月 18th, 2013

いよいよ憲法も基本的人権に入ります。

この「基本的人権」は「日本国憲法」では全103条中、10条から40条までの31条。全体の3割を占め、芦部さんの教科書でも本分389ページのうち73ページから274ページまでの202ページ、半分強を占めています。

で、この基本的人権、「人類共通の」とか言うわりには実は必ずしも共通ではないように思います。たとえば日本では基本的人権のうちの生存権にもとづいて健康保険制度が国民全体に適用されるのに対して、アメリカでは自由権にもとづいて国民皆保険に反対する意見がまだかなり強いようですし、日本では誰も自衛のために銃を持とうとはしないのに、アメリカでは自衛のために銃を持つことは基本的人権の一つだ、という考えのようです。

で、議論を始めると際限がなさそうなので簡単に済ませようと思ったのですが、芦部さんの教科書を読むとちょっとそういうわけにはいかなそうです。基本的人権の本筋から離れる話も多いのですが、ちょっとコメントします。

まず基本的人権をいろいろ分類している中で、「社会権」というものが登場します。これは社会的・経済的弱者が人間に値する生活を営むことができるように、国家の積極的な配慮を求めることができる権利だ、と言うんですが、これについて【憲法の規定だけを根拠として権利の実現を裁判所に請求することのできる具体的権利ではない(即ち、その為の法律がないとその権利を求めて裁判することができない、ということ)】(84ページ)と、この部分、わざわざ傍点までつけて書いてあるのですが、その次のページには何と【社会権にも具体的権利制が認められる】などという文章があり、こんなんで勉強する人は大変だなと思ってしまいます。

また「制度的保障」という言葉が登場します。これは何かというと、たとえば言論の自由を守るため大学という制度に保護を加え、その制度を守ることによって基本的人権である言論の自由を守る、というようなことのようです。この芦部さんの本では(多分他の法律の本でもそうだろうと思うのですが)「保障」という言葉を「保護する」という意味で使っているようです。

そんなわけでこの制度的保障というのは、制度を保障(保護)すること、という意味のようです。「的」と言う言葉を「を」の代わりに使うというのは、普通の日本語にはないと思います。中国語では「的」というのは日本語の「の」のように使います。私の本とかあなたの恋人とかの「の」です。その意味で制度を保障(保護)することを制度の保障と言い換えて、これを制度的保障と言うのかも知れませんが、このような「的」の使い方は中国語の話であって、日本語の話じゃないと思います。

また、「前国家的」とか「前憲法的」とかの言葉が登場します。これは一体何だろうと思って読んでいくと、どうやらこれらは「国家ができる前からの」とか「憲法ができる前からの」という意味のようです。「前」という言葉は「前近代的」のように「○○になる前(から)の」という意味で使うのはよく見ますが、「○○ができる前(から)の」という意味で使うのは今まで見たことがありません。多分、勝手に自分流の日本語を作ったんじゃないかなと思います。

このように言葉のことを問題視するのは、言葉の正しい使い方というのは論理的思考のそもそもの前提となるものだと思うからです。私は日本語というのは、少なくとも私の知っている範囲では、世界で最も論理的な表現・思考ができる言語だと思っています。にもかかわらずこのようないい加減な言葉の使い方をすると、論理的思考ができるわけがないと思うからです。

一般には(憲法を含めて)法律というのは論理的に書かれていて、法律家というのは論理的に考えていると思われているんだと思いますが、このような事情を見るとガッカリしてしまいますね。

さて、基本的人権にはいろんなものがありますから、複数の基本的人権がお互いにぶつかり合った時にどうするか、というのが大きな問題になります。

まず最初に個別の人権ではなく社会全体との関係では、「公共の福祉に反しない限り」という限定付で基本的人権が認められるのが普通です。自民党の改正草案ではこの「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」と言い換えているんですが、その言い換えをケシカラン反対している意見があるようです。私には「公共の福祉」などというわけのわからない言葉よりよっぽど良いと思うのですが。

反対する人達は「益」とか「秩序」が嫌なんでしょうか。民法では憲法の「公共の福祉」を「公序良俗」という言葉で表しています。この三つの言葉を並べて比べてみると、「公益及び公の秩序」が一番わかりやすいと思うのですが、どうでしょう。

次に、今度は具体的にある基本的人権と、もう一つの基本的人権がぶつかった時にどうするか、ということになります。これにはいくつかの考え方があるようです。

まず最初に出てくるのが「比較衡量論」というもので、「それを制限することによってもたらされる利益」と「それを制限しない場合に維持される利益」を比較して、制限した時の利益の方が大きい時はその基本的人権を制限しても良い、という考え方です。誰がその「利益」を評価するのかという点を含め、こんなんでいいのかな、こんなんで「侵すことのできない永久の権利」(第11条)と言えるのかな、と思ってしまいます。要するに、基本的人権であってもそれを制限する方が利益が大きいのであれば制限することができる、ということですから。

次に出てくるのが「二重の基準論」というものです。二重の基準と言うと何のことか良くわかりませんが、英語で書くと良くわかります。すなわちdouble standard、ダブルスタンダードのことです。

ダブルスタンダードというのは、普通はそういうことじゃ駄目じゃないか、と非難される対象となるのですが、憲法の議論ではダブルスタンダードにすべきだ、という話になっています。

普通のダブルスタンダードというのは、あっちにはああ言い、こっちにはこう言うというような、相手によって話を変えることなのですが、この憲法のダブルスタンダードというのは、憲法の中のいろんな基本的人権は横並びで皆同じ重みがあるのでなく、重要なものと比較的重要でないものがあって、その重要性の度合いを付けることによって、たとえば二つの基本的人権がぶつかった時、どっちの基本的人権をもう一方の基本的人権より優先するか決める、というような話です。

とは言え、あらかじめ全ての基本的人権に順位を付けるなんて話じゃなくて、実際に基本的人権のぶつかり合いが起こったときに「さてどっちを優先しようか」と考えるというような話ですから、その時その時の都合でどうにでもなるような話でもあります。

こんなんで本当に基本的人権を「人類普遍の原理であり」「侵すことのできない永久の権利」なんて言えるんだろうか、と思ってしまいます。

沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史

10月 10th, 2013

きっかけは何だったか覚えていないのですが、インターネットでたまたま沖縄県人の奄美大島出身者に対するひどい差別の話を読みました。かなり長い記事だったのですが、読み終わった最後に、これが佐野眞一著「沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史」という本の一部だということがわかりました。

で、さっそくその本を借りて読みました。
2011年に文庫になったもので、上下それぞれ500ページ弱のかなりのボリュームのある本です。

これが面白く、一気に読んでしまいました。
沖縄の戦後史を構成する多数の人(数十人あるいは3桁になる人数)を取上げ、その人がどのように沖縄の戦後を生きたかを書くため、さらに多数の人に取材して書かれたものです。

はじめに出てくるのは警察官とヤクザで、沖縄の暴力団がどのように生まれ、成長し、数次にわたる殺し合いを経験したかを書いています。次に経済界の大物や女性実業家達、そして沖縄出身のアイドル達とそれを育てた人達が登場し、その間に知事の仲井眞さんが登場したり、また琉球王朝の尚氏の、明治維新で琉球が併合されてから、戦後貴族でもなくなり財宝も多く行方不明になってしまった話とか、尖閣諸島がどのようにして個人の所有となり、その後どのように所有者が変ったかなんてことも書いてあります。

それら登場人物が皆精一杯イキイキと生きて、またその後生き残ったり死んだり殺されたり、そういう話がたっぷり入っています。

沖縄というと、とかくありがちな青い空・青い海というような話でもなく、また本土の犠牲となった沖縄に対してスミマセンなどという余計な思い入れもなく、単刀直入に著者が遠慮なしの質問をし、質問された方はあっけらかんと素直に回答する。そのようなインタビューと、その他取材によって集めた材料で登場人物を生き生きと描き出していますが、これだけで何十本ものテレビドラマや映画ができても不思議ではないような気がする、そんな読み物です。

もともと『月間プレイボーイ』に『沖縄コンフィデンシャル』というタイトルで連載していたものを編集し直し、加筆修正して単行本にしたものに、文庫版にするにあたりさらに大幅に書き足し、鳩山さんの『最低でも県外』発言とその後の3.11の大震災なども取り入れて本にしているものです。最近の尖閣諸島国有化までは入っていません。

著者の思い入れは、タイトルの『だれにも書かれたくなかった』の部分に現れているようで、沖縄は一方的に本土から差別されるだけでなく、奄美大島出身者に対する差別する側としての沖縄もしっかり書いてますし、また都道府県別平均所得が一番低く、若者の失業率が日本一高い沖縄がそれでも豊かに見えるのはやはり米軍基地があるためではないか(沖縄の暴力団のルーツの一つは米国基地からの軍需物資の窃盗団だったということも含めて)とか、軍用地主の一番大きな人は地代だけで年間20億円もの収入になり、どうやっても会ってもらえなかったとか、面白い話満載です。

青い空・青い海の沖縄というイメージや、明治以来(あるいはその前薩摩藩に征服されて以来)常に本土の犠牲になって、特に太平洋戦争の沖縄戦でも多くの犠牲を出し、戦後日本とは切り離されて米軍の軍政下で多大な苦労をさせられてきた沖縄に対して申し訳ない、というような定番の沖縄にうんざりしている人にお勧めです。

芦部さんの憲法 その9

10月 10th, 2013

さて憲法、天皇の次は「戦争放棄」です。第一章「天皇」は条が8つもあるのに、第二章「戦争の放棄」は、9条1つだけです。

この9条、第1項が戦争放棄、第2項が戦力を保持しない、交戦権を認めないということを書いてあります。日本国憲法の最大の特徴である平和主義が全103条のうち、たった1条だけなので、この9条1つについては山ほど議論がなされています。

まず第1項の戦争放棄ですが、単に「戦争放棄」と書けば良いのに、いろいろ条件を付けるのでわからなくなってしまいます。すなわち
 【(国権の発動たる)戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は(国際紛争を解決する手段としては)永久にこれを放棄する。】
という具合です。こうなると何が放棄されている戦争で、何が放棄されていない戦争か、ということになります。

次の第2項は短いけれど、さらにやっかいです。すなわち
 【(前項の目的を達するため)陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。】
となっているんですが、この「前項の目的を達するため」というのは、何を意味するのか、またこれは『軍その他の戦力を保持しない」だけにかかるのか、『交戦権』の方にもかかるのかというのがさらに面倒な議論になります。

さらにこの第1項と第2項が憲法案作成の際、途中で順番が逆になり、それがまた元に戻ったなんて事情があるので、なおさらいろんな議論が可能になっています。

1項と2項が逆になっていると、まず最初に「軍隊は持たない」と言って、その結果として戦争を放棄するという、わかりやすい話になるのですが、今のような順番であるため、どのような軍隊は良くてどのような軍隊は駄目なのかという議論になってしまいます。

更にこのような憲法ができた時代背景が、もう一つ重要なファクターとなっているようです。

第二次世界大戦は、連合国側(アメリカ・イギリスなど)と枢軸国側(イタリア・ドイツ・日本など)が戦ったのですが、戦争が終わり、連合国は国連となり(日本語ではまるで違う言葉ですが、英語ではどちらもUnited Nationsのままです)、その頃第一次大戦・第二次大戦であまりにも多くの兵士、非戦闘員が死んだことを踏まえ、世界的に戦争をやめさせるために、軍隊を持つのは今の国連安保理の常任理事国の5ヵ国だけにし、その5カ国の軍隊で国連軍(あるいは連合国軍)を構成し、それ以外の国は全て(第二次大戦に負けた国は当然のこととして、その他の戦争に参加しなかった国も含めて)軍隊を持たないようにしようという崇高な理想があったようです。もちろんその考えは米ソの対立と常任理事国になれなかった国の反対ですぐに撤回されてしまったのですが、日本の平和憲法はその時の理想の名残りが9条にそのまま残っているということのようです。

もちろん日本占領軍のトップとして憲法改正を指示したマッカーサーも最初は完全な戦争放棄を考えていたようですが、日本を離れる時は既に朝鮮戦争を背景に、日本が軍隊を保持することは当然のことだ、という解釈に変わっていたようです。

以前「憲法の法源」という話をしました。憲法は「日本国憲法」というタイトルの文書だけでなく、その他多くの法律・規則・条約等もその憲法の一部をなしているということです。その中には軍隊を保持して必要な場合には戦争することを当然の前提としている国連憲章や、日米安保条約も入っています(国連憲章というのは軍事同盟であった連合国を引き継いで国際連合(国連)としていますから、何かあったら皆で協力して軍事行動しようという、基本的に「軍事同盟」ですし、日米安保条約も日本の近くを対象として限定しているものの、日米の軍事同盟であることは明らかです)。さらに憲法慣習も(憲法規範に明らかに違反する慣習であっても)憲法の一部をなす、ということになっています。

こうなると、国の組織として自衛隊という軍隊が存在する。それももう半世紀上にわたって存在し続けているという事実自体がこの憲法慣習になっている、ということになりそうです。国連に加盟し、日米安保条約を結んで二つの軍事同盟に参加している、ということも同様です。

このような状況では「日本国憲法」の条文からすると自衛隊の存在は違憲であるように判断でき、また自衛隊が半世紀以上存在し続けていることからすると、「日本国憲法」の条文が違憲であるように判断できるということになります。

こんな状況は困るじゃないか、と普通は思うはずなのですが、憲法学者は平気なようです。憲法の中味が相互に矛盾していてもそのままで、矛盾を解消するために憲法を改正しようとは考えないようです。『憲法を改正しない』という重大な目標に比べれば憲法の不備や矛盾なんかどうでも良い、ということのようです。

もちろん憲法の中には、憲法の規定が矛盾している時にそれをどのように調整し、どのように解釈するか、なんてことは書いてありません。ですからAという規定あるいは事象と、Bという規定あるいは事象とが矛盾している時、ある人はAという規定あるいは事象があるのだからBは憲法違反だと主張し、またある人はBという規定あるいは事象があるんだからAは憲法違反だと主張することができるわけです。

さらに憲法学者には「憲法の変遷」という奥の手があって、憲法の文言は変化がないのに解釈が変ることによってその意味が変る、ということを平然と主張します。すなわち「言葉の上ではそう書いてあるけれど、その意味はそうじゃないんだよ」と言うことです。

言ってみれば『ここには鹿って書いてあるけど実はこれは馬のことなんだから、そう読んでね』みたいなものです。ヤレヤレ・・・

なお蛇足ですが、この憲法についての勉強でポツダム宣言を読んだついでに、ミズーリ号で調印された日本の連合国に対する降伏文書を読みました。そこで「大本営」というのがJapanese Imperial General Headquartersと書いてあるのを知ってびっくりしました。

GHQというのは戦後アメリカ占領軍の司令部としてマッカーサーの下に組織されたもので、正式にはGeneral Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers(連合国最高司令官総司令部)の頭の部分から来ているのですが、日本の大本営もJapanese Imperial General Headquarters(大日本帝国総司令部)ということになり、これもGHQなんだ!!というわけです。

私はこれまでGHQは日本に命令する占領軍のもの、大本営は第日本帝国陸海軍を指揮するためのもの、とまるで別に考えていたのですが、大本営もGHQなんだ、GHQは占領軍の大本営なんだ、となったら、これは改めて考え直す必要があるかも知れません。

もちろん吉田(茂)さんをはじめ英語に堪能な人たちは大本営はGHQだというのはわかっていたのでしょうが、一般の人はどうだったんでしょう。改めて戦中・戦後のいろんな話を読み返す必要があるかも知れません。

いずれにしても憲法9条はいくらでも議論のあるところですから、私のコメントもこれくらいにしておきます。

芦部さんの憲法 その8

9月 30th, 2013

さて日本国憲法、いよいよ本文に入りますが、前回書いたように本文には「国民主権」の規定がありませんので、まずは「天皇」から始まります。

この天皇については、憲法の本など読むずっと以前から一つ疑問がありました。それは「天皇は日本国民なんだろうか」「日本国民じゃないんだろうか」、ということです。

芦部さんは基本的人権の所の最初に、いとも簡単に「天皇も皇族も日本国民だ」と書いていますが、もちろん何を根拠にこういう結論が出るのかなんてことは書いてありません。

私には、天皇には基本的人権がないと思われるので、日本国民全員に与えられているはずの基本的人権が与えられていない以上、それは日本国民じゃないということじゃないかと考えていたわけです。

「基本的人権がない」というのは、たとえば天皇には選挙権も被選挙権もなさそうです。もし被選挙権があるとすれば、是非立候補してくれと頼みに来る政党はいくらでもありそうです。選挙権があるなら、投票日になって「天皇陛下も投票に行きました」なんてニュースが流れないわけありません。まぁこれについては憲法4条に「天皇はこの憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」という所に関連するのかも知れません。
天皇には言論の自由も思想・信条の自由もなさそうです。巨人軍が好きか嫌いかとか相撲の贔屓の力士は誰か、なんてことも言ってはいけないことになっているようです。

天皇が日本国民だとして、その天皇の基本的人権が侵害されているのは憲法違反だ、なんてことにもなりそうもありません。日本では実際その人権侵害されている人が裁判を起こさない限り、裁判所は違憲判決を出さないことになっているようですし、天皇が自ら自分は日本国憲法で保障されているはずの基本的人権を侵害されている、なんて裁判を起こすとも思えません。結果的に天皇の基本的人権が侵害されているのは憲法違反だ、などという判決が出る気遣いはありません。

憲法では第10条で「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」と規定しています。でその法律に「天皇も皇族も日本国民である」なんて書いていてくれると嬉しいんですが、そうはなっていません。どうもその法律というのは「国籍法」という法律のようで、第1条に「日本国民たる要件は、この法律の定める所による。」と、憲法の規定と同じようになっています。

この法律は面白い法律で、第2条で日本国民の子として生まれたら日本国民だ、という規定があるのですが、第3条以下では日本国民という言葉がなくなってしまいます。代りに日本国籍を取得するとか、日本国籍を失うという言葉になってしまいます。日本国籍を取得した者が日本国民で、日本国籍を失った者が日本国民でなくなる、と言おうとしているんでしょうが、一番肝心なその規定はどこにもありません。まあ、このような非論理的ないい加減な書き方の方が法律家にはしっくりくるんでしょうが。

日本国民ということでなく日本国籍ということで考えれば、天皇や皇族に日本以外の国の国籍をもたせるわけにもいかないし、無国籍というわけにもいかないので、日本国籍とするしかないんでしょうが、だからといって日本国籍であれば日本国民だということにはならないような気がします。天皇・皇族以外の日本国籍の人が日本国民だ、としたとしても何の矛盾も生じなさそうですから。

この憲法の勉強の一番最初に読んだ「終戦の詔書」という本には、昭和20年8月15日の終戦の詔書・昭和16年12月8日の開戦の詔書・昭和21年1月1日の年頭の詔書(いわゆる「天皇の人間宣言」と言われているものです)が入っているのですが、これらの詔書で天皇が国民に対して語りかけているその言葉が、開戦の詔書では「汝有衆(ナンジユウシュウ)」(衆は正確には別の字体の字『眾』のようです)、終戦の詔書では「爾臣民(ナンジシンミン)」、年頭の詔書では「爾等國民(ナンジラコクミン)」となっています。全て天皇主権の体制で、天皇から国民に対する呼びかけの言葉です。これがいつの間に天皇も国民のうちということになってしまったのか、何とも不思議です。

憲法の天皇に関しては「象徴というわけのわからない言葉の意味」とか「天皇制の是非」とか、他にも山ほどの議論があるようですが、そんな話は当面どうでも良い話なので(なんて言うと右からも左からも山ほど文句を言われそうですが)、天皇についてはここまでとします。

Under Control

9月 27th, 2013

2020年オリンピック東京招致の安倍さんのスピーチの原発事故のUnder Controlについて、反原発派の人は未だに安倍さんの大嘘だ!と騒いでいるようです。
私にとってはUnder Controlという表現について何の違和感もないのですが、色々考えていたらどうもこのUnder Controlという言葉の解釈の問題が大きいような気がしてきました。

たとえばデコボコ道で自動車を運転して走る時、車輪が穴に入って右に振れたり左に振れたりするのを、ハンドルをしっかり握って何とか進行方向に向けて走らせ続けるという状況を、私はUnder Controlと言うんだと思うのですが、反原発の人の解釈ではそんなふらふらした運転はUnder Controlではない、ということのようです。

あるいは飼犬が何かに興奮して大声で鳴き声を出し、今にも紐を引きちぎって行きそうであっても、しっかり紐を握って犬を放さないというのを私はUnder Controlと言うのだと思うのですが、反原発の人の解釈は、犬に対して「おとなしくしろ」と命じたら鳴くのをやめてお座りをするという状況がUnder Controlということのようです。

Under Controlの反対語はOut of Control、日本語で言えば「制御不能」ということになり、それはデコボコ道の例で言えば車が揺れて運転手が放り出されて誰もハンドルを握っていないとか、犬の話で言えばついに引き綱を振り切って犬がどこかにふっ飛んで行ってしまって、もう呼んでも帰ってこないという状況です。

福島の原発の事故では、一時はもうどうしようもなくなって全員逃げるしかないか、というような話もありましたが、実際は現場の人達が踏ん張って事故対応に当たり、今でも全ての問題が解決したわけではないけれど、また次々に思いがけない事故が出ては来ているものの、その都度十分対応することはできていますから、そういう意味では今までもずっとUnder Controlだったし、事故発生当時と比べると、今は遥かに確実にUnder Controlと言えると思います。

普通話をする時、自分の使っているこの言葉の意味はこれこれだ!なんてことはあまり言わないんですが、だからといってその話を聞く人が、自分にとってはその言葉の意味はこれこれだからあんたの言ってるのは嘘だ、なんて言ってみてもあまり実のある議論にはならないのになあ、と思います。