芦部さんの憲法 その6

9月 5th, 2013

ここでいよいよ日本国憲法に入るところですが、その前にもう少しこの日本国憲法ができた時の話をします。

GHQがやってきて日本の憲法を国民主権の立憲主義の憲法に変えるようにと言ったとき、あの天皇機関説で有名な美濃部達吉という憲法学者は、『明治憲法を一言一句変える必要はない。そのままで国民主権の立憲主義の憲法になる』と言ったようです。これは明治憲法を変えたくないということではなく、明治憲法の解釈次第で、その中味は自由に変えられるということを言ったようです。

前回、八月革命説の所でも書きましたが、この説では実際明治憲法を一言一句変えることなく、その中味が国民主権の立憲主義の憲法に変ったんだと主張しているわけです。美濃部さんの天皇機関説が戦前大きな問題となり、貴族院から追い出されてしまったのも、見るからに立憲君主制の立憲主義とは思えないような明治憲法を、解釈によって立憲主義の憲法にしようとして、それが神権主義的な明治憲法を守ろうとする人達に攻撃されたということのようです。

この解釈というのは非常に強力で、文言としては書いてないことまで「言外に書いてあるんだ。それがわからないのは勉強が足りないからだ」なんて言い方もできるし、明らかに書いてあることでも「これはこう書いてあるけれど、書いてある通りの意味ではない」と言って、憲法の文面に書いてあることまで否定してしまうなんてこともできてしまうんです。

もちろん単にそんな主張をしただけじゃぁ皆を納得させることができないので、あーでもない、こーでもない、そーでもない、どーでもない、と山程の言葉を使い、あっちではこう言ってる、こっちではあー言ってると、憲法自体の文章を読まないで他の文献を山程引用する。そしてそのあげく「だからここはこうでなければならない」などと結論らしきものを持ち出せば、その前後に論理的な関係が存在しなくとも、何となく論理的に立証されたかのように聞く人は思ってしまうようです。

ですから憲法の本を読むときは、見たことのないような言葉が出てきたりいつも使っている言葉をいつもと違う意味で使ったりしていたら、これは怪しいなと思って眉に唾を付けながら読んでいかなければ、簡単に足をすくわれてしまいそうです。

で、芦部さんの本、日本国憲法ができる所の章の最後に「法源」という言葉が出てきます。『法源とは多義的な概念であるが、』と書いてありますが、これは私なんかは「法源というのは非常に曖昧な言葉なので、使い様によっては(相手を言いくるめたりする時に)非常に便利に使える」という風に読んでしまいます。
で、先の言葉の後に芦部さんは続けて『ここに法源とは最も一般的に用いられる「法の存在形式」という意味の法源を言う』と言っています。
「法の存在形式」なんて言っても何のことかわかりませんが、とりあえずそれはそれとして先を読んでみると、法源には成文法源と不文法源があって、日本国憲法の成文法源は「日本憲法」の他「皇室典範」「国籍法」「生活保護法」「国会法」等かなりたくさんの法律が列挙してあり、さらに「議員規則」「最高裁判所規則」などの規則、「日米安保条約」「国連憲章」などのいくつもの条約・公安条例等の条例までが書いてあります。要するにこれらは形式的には法律だったり規則だったり条約だったり条例だったりするんだけれど、その中味は憲法だ、ということです。

こうなると『日本国憲法は』と言ったとき、それは日本国憲法と表題がついて、前文から103条まで規定されている日本国憲法のことを示しているのか、それ以外のこれらの法律・規則・条約等も含んだ日本国憲法のことを言っているのかはっきりしなくなります。
もちろん通常は「どっちの意味で言っているのか」なんてことはいちいち書いてありません。その分、議論が次第にいい加減になってくるわけです。

さてここまでは成文法源なのですが、これ以外にさらに不文法源というものがあります。これについては芦部さんは
『有権解釈(国会・内閣など最高の権威を有する機関が行なった解釈)によって現に国民を拘束している憲法制度から不文法源が形成され、成文法源を補充する役割を果たす。広く憲法慣習または憲法慣習法と呼ばれるものが、それである。』
と書いてあります。

ここでまた意味不明の「憲法制度」という言葉が出てきていますが、何やら憲法制度というものがあって、それが国民を拘束していて、その拘束の根拠となるのが国会や内閣などが行なった解釈だということのようです。

そのような国会や内閣による解釈が行なわれることによって不文法源ができる。すなわちそのような解釈が不文法源として憲法の一部になる、ということです。
言い換えれば国会や内閣(ここには書いてありませんが、多分最高裁判所も)が、そのような解釈をすることによって、正式の憲法改正の手続きを経ることなく憲法を作るあるいは変えることができる、ということです。

で、『このような解釈によって憲法の一部になるものを憲法慣習と言う』ということですが、芦部さんはそれには3つの類型があると言います。
すなわち
① 憲法に基きその本来の意味を発展させる慣習
② 憲法上の明文の規定が存在しない場合にその空白を埋める慣習
③ 憲法規範に明らかに違反する慣習
の3つです。
芦部さん、さすがですね。ちゃんと③の、憲法規範に明らかに違反する慣習というのもしっかり不文法源として憲法の一部となる、としているわけです。

となると、憲法の中に憲法規範の中に書いてある規範と、それに明らかに違反する憲法慣習としての規範が併存するということになります。
芦部さんはその両者の関係について
  『③は憲法習律としての法的性格を認めることはできるが、それ以上の、慣習と矛盾する憲法規範を改廃する法的効力を求めることは、硬性憲法の原則に反し、許されないと解すべきであろう。』
としています。
すなわち③の憲法慣習によって既存の憲法の規定が変更されたり廃止されたりすると、憲法改正の手続きによらないで憲法を変えることができることになり、硬性憲法の「できるだけ憲法改正をしにくくする」という考え方に反してしまうので、既存の憲法の規定は変更されたり廃止されたりしないでそのまま残る、ということです。
その結果、一つの憲法の中に相矛盾する規定が並存するということになります。

素晴らしい論理的な解決法ですね(言うまでもなく、これは反語です。「論理的とは正反対だ」と言っているんです。反語の表現をわざわざ反語と言うというのも味気ない話ですが、前回の麻生さんのワイマール憲法の話を、反語を反語としないで解釈して大騒ぎした人達が多かったので、わざわざ「反語だ」と書いてみました。もっとも私が何を書いても大騒ぎする人もいないでしょうが)。

論理学では、矛盾する二つの命題を前提とすれば、どのような命題でも証明することができる、ということが明らかになっています。すなわち矛盾する規範を併存させることにより、法律家はどんな主張も正しいと論証することができるわけです。もちろんその主張の反対も同様に正しいと論証することができるわけで、こうなったら論理的もへったくれもなくなってしまいます。

何ともあきれた話です。まぁそこがまた良いのかも知れませんが。結局、法律家というのは論理によってではなく自分の信仰あるいは信念に従って、自分が正しいと思っている(あるいは正しいとしたいと思っている)結論だけを、いかにも論理的に当然の結論であるかのように主張したい人たちなんですから。

両班(ヤンバン) の話-尹学準の本

9月 4th, 2013

先日、中公新書の「両班(ヤンバン) – 李朝社会の特権階層」という本を読んだ話を書きました。

その本を読みながら何となくその昔中公新書で別の両班の本を読んだような気がしていて、図書館でみつけて借りてきました。それが尹学準著「オンドル夜話-現代両班考」という本です。多分昔読んだのは確かだと思いながらほとんど全く覚えてなくて、新しい本を読むように楽しめました。多分以前読んだときは機が熟していなかったということでしょうね。

で、この本があまりに面白かったので、ついでに同じ著者の本をさらに3冊借りて読みました。(ちなみにこの著者の尹学準さん、日本語の音読みではインガクジュン、韓国語のカタカナ表記ではユンハクジュンとなるようです。)

この人は今の韓国のいなか(だけど周り中に両班がいくらでもいる地域)で生まれ育った人で、太平洋戦争の時韓国で国民学校に通い(その当時、韓国は日本ですから日本と同じく国民学校です)、終戦の翌年に中学に進学し、大学に入学した年に朝鮮戦争が始まり、南北両軍にはさまれて右往左往して何度も殺されそうになり、朝鮮戦争が終わるころ徴兵令状が来たのを無視して韓国を密出国し日本に密入国。別の名前の外国人登録証を手に入れて日本で暮らし、法政大学を卒業し、共産主義革命を夢見て朝鮮総連系の組織で働いたけれど北朝鮮の言いなりにならないで勝手なことを言っていたので総連から追い出され、いろんな仕事を転々とし、いろんな大学で語学の教師などしながらいろいろな書き物をしていた人です。

その人が韓国の両班の現実の姿について、自分の幼児からの実体験をベースに語っているのがこの「オンドル夜話-現代両班考」という本です。

彼は一級の両班の家系の宗孫に生まれ、子供の頃から両班とはどのようなものか、どのような生活をするか、身をもって経験しています。にもかかわらず、厳密に言えば自分は両班とは言えない、なんてことを平気で言ってしまう人です。

宗孫というのは何代か前の祖先から長男の長男の長男の・・・という形の子孫のことを言い、一族を率いてその祖先の祭祀をする立場にあるので、両班の中でも特別な存在です。で、その宗孫として子供の頃からある意味特別扱いで育ってきた人で、子供の頃から漢文を読まされて、日本の素読とはちょっと違うやり方を説明してくれたり、両班が大騒ぎする風水の話とか、両班同士の格の上下を巡る壮烈な争いの話とか、韓国のお墓は土葬で一人一基だから山の上はお墓だらけになる話とか、とにかく面白い話満載です。

この人は日本に密入国してから日本で結婚し子供もできて、この本を書くまで30年も日本で生活していますから、韓国の話、両班の話をするにも日本人がわかりやすいように書いてくれます。国民学校で勉強しているので、日本語も子供の頃からしゃべれたようです。

読んだ本は

オンドル夜話 現代両班考 中公新書 尹 学準/著 中央公論社
歴史まみれの韓国 現代両班紀行 尹 学準/著 亜紀書房
タヒャンサリの歌 わたしの中の日韓歳時記 丸善ライブラリー 尹 学準/著 丸善
韓国両班騒動記 ”血統主義”が巻き起こす悲喜劇 尹 学準/著 亜紀書房

の4冊です。
そのうち「オンドル夜話-現代両班考」と「歴史まみれの韓国 現代両班紀行」が韓国でも話題になり、日本語の読める人はコピーを回し読みしているけれど日本語を読めない若い人から頼まれてそれを韓国語に直して出版しようとした所大騒ぎになり、出版を差し止めるため両班の大物がやってきたり親友から絶縁状が送られてきたりという顛末を第1章に書いて、第2章以降に「オンドル夜話-現代両班考」を手直しして含めているのが「韓国両班騒動記 ”血統主義”が巻き起こす悲喜劇」です。
「タヒャンサリの歌 わたしの中の日韓歳時記」は、歳時記ということで前半はそれこそ春や秋の様々な話題について書きながら(歳時記という以上四季折々をバランスよく書く必要があるんでしょうが、この人はバランスよく書くことができないようで春の話題ばかり続いて、気を取り直していきなり秋の話題に飛んだかと思うといつの間にかまた春の話題になってしまう、という具合です)、最後の方はいつのまにか太平洋戦争が終わって(日本では終戦ですが、韓国では開放というようです)国民が左翼と右翼に分かれて血みどろで争う時代が始まり、それが終わってちょっと落着いたと思ったら朝鮮戦争が始まり、北の勢力と南の勢力の間で振り回されながらこの人もムチャクチャをやり、最後は日本に逃げるため命がけで釜山の近くの港まで行くまでの波乱万丈の顛末が書いてあります。

太平洋戦争が終わった時、両班の村は左翼側につき常民の村は反共の右翼になったとか、その前、戦時中に日帝を倒して独立し、韓国を立て直すには共産主義革命をして一気に先進国にキャッチアップするしかない、と両班の若者が革命運動に夢中になったとか、そのような歴史は北朝鮮によって全く抹殺され、反日独立運動、革命運動は全て金日成の祖先がリードしたなどと歴史が書き変えられたとかの話もありました。

これらの本を読んでようやくわかってきたのは、歴史的事実の書き換え、というのは韓国の両班の文化のようなものだということと、家(一族)の格を上げるため(相手の家系より自分の方が格が上だとするため)には、一銭にもならないことで本気になって命がけで争う、そのためには歴史的事実の書き換えも辞さない、ということです。

そういう観点から、最近の歴史的認識の議論を振り返ってみると、新しい発見がありました(とはいえ私が「そうだったのか!」と思った、というだけのことで確認したわけではないのですが)。すなわち従軍慰安婦の問題や日韓併合の話などで韓国は日本に対して常にギクシャクした関係にあるのですが、本当はそれとは違う所に問題があるのではないか。韓国人にとって日本人は未開の野蛮人だったのを、千年二千年にわたって継続的に進歩した中国の文明・韓国の文明を供給し続けてあげた相手で、そのお陰で日本はようやく文明国になることができたにも拘わらず、それに対して一言の感謝の挨拶もなく、自分で勝手に文明国になったような顔をして、日本は明治維新で西洋化にもちょっと早くスタートしただけなのに、スタートに遅れた韓国を併合したりして、それは日本の敗戦で終わったけれど、日本人はアメリカに負けたのは認めたけれど韓国の反日独立運動に負けたなんて考えてもいない、その後の朝鮮戦争では韓国は戦争で全国土が破壊されたのに、日本は朝鮮特需で大儲けしてその後の経済の高度成長の足がかりとしたりして、韓国の犠牲の上に経済発展を享受しており、とにかく日本は韓国よりはるかに格下の国であるにも拘わらずそのことに気付こうともしないでエバリくさっている・・・というような話ではないでしょうか。

とはいえ、千年二千年昔の話を持ち出してみてもヨーロッパやアメリカの人には理解してもらえそうもないので最近の具体的な従軍慰安婦の問題を持ち出している、ということではないでしょうか。

日本が韓国の千年二千年にわたる文明の指導役としての役割に感謝し、日本が韓国よりはるかに格下であることを素直に認めれば、韓国人の気持も少しは柔らぐんでしょうが、日本人というのは忘れっぽい人種ですから、『今更千年二千年前の話をされてもなぁ』てなもんで、韓国の期待するような反応は期待できそうもありません。韓国とくらべて格が上だの下だの、という意識もあまりなさそうです。

従軍慰安婦のことだったら、たかだか70年位前の話ですからもう100年もすれば解決は可能かと思っていたのですが、これが千年二千年の恨み、ということになると、解決にもう少し時間がかかるかも知れませんね。

芦部さんの憲法 その5

9月 4th, 2013

大分寄り道をしてしまいましたが、「芦部さんの憲法」、立憲主義が終わったところでいよいよ具体的に日本の憲法、日本国憲法の話になります。その前に日本国憲法の前の明治憲法(大日本帝国憲法)の話から始まります。

明治憲法は立憲君主制の憲法ですが、フランス革命、アメリカの独立戦争のあとで、人権思想もちゃんと取り入れてあります。芦部さんはこの憲法を立憲主義の憲法だと言っています。

立憲主義の憲法というのは、前にも書いたように、

憲法というのは基本的人権をもとに作られたもので大事なものだから簡単に変更できるようなものであってはならない。特に基本的人権に関する部分は 絶対に変えてはならない。そのためには多数決原理に基く民主主義であっても否定しなければならない。これが「立憲主義」という考え方だ。 そして「立憲主義」に基かない憲法は、たとえ憲法という名前がついていてもそれは憲法ではない。

ということですが、明治憲法がこの立憲主義の定義で立憲主義の憲法だと言えるのかなあ、と思います。

もちろん明治憲法には基本的人権などという言葉はないし、天皇主権だし、基本的人権を中心にした憲法というより天皇を中心とした憲法だという気がします。ただし硬性憲法、すなわち変更しにくいという点では、天皇が変えようとしなければ変えられないということで、硬性憲法といえるのかも知れません。天皇が変更を国会に付議した場合、衆議院と貴族院の両方で2/3以上の賛成がなければならないという点は、今の憲法と同様ですが、その後の国民投票の手続きはありません。

明治憲法を持ってきたのは、今の憲法が明治憲法の改正の手続きによって作られたあたりを議論する必要があるからです。

今の日本国憲法は、日本がポツダム宣言を受諾して戦争に負けたことを受け、GHQから憲法改正を求められたことにより、国民主権・平和主義・基本的人権尊重の新しい憲法案が作られ、それが明治憲法の憲法改正手続きに従って天皇の名前で衆議院・貴族院に付議され、どちらでも圧倒的多数によって可決され成立した、ということです。

とはいえ、今の憲法は前文で「この憲法は国民が作った」と言っています。すなわち国民が作った憲法を天皇が議会にかけ、成立させたということです。また明治憲法は立憲君主制の天皇主権の憲法ですが、日本国憲法は国民主権の憲法です。
私にとっては特にどうということのない「そういうことだ」というだけのことですが、このあたりが憲法の専門家にとっては大問題のようです。

まず日本国憲法が欽定憲法なのか民定憲法なのか、という議論です。天皇が作ったなら欽定憲法、国民が作ったなら民定憲法。では、国民が作ったものを天皇が議会にかけたのはどっちになるのか?ということです。

次に立憲君主制の明治憲法が自らを否定する国民主権の憲法を作ることができるのか、という問題になります。明治憲法の頭の方には「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す。」とか「天皇は神聖にして侵すべからず」などという言葉が並んでいます。これをまるっきり削除して明治憲法そのものを全否定するような改正を、この憲法の改正手続きで行なって良いのか、ということです。

私はそれでも別にいいじゃん、と思うのですが、多くの憲法学者は「それは立憲君主制憲法の自殺のようなものだからそれはできない」という理屈を立てます。そこで無理矢理「八月革命説」というのをデッチ上げます。すなわち日本はポツダム宣言の受諾によって昭和20年8月に革命が起きて、立憲君主制の国から国民主権の国になったんだというものです。その結果明治憲法はその改正の手続きをしたわけでもなく、文言も一字一句変わっていないけれど、その革命によって国民主権の憲法に変更されており、国民主権に反する規定は無効になったんだ、という主張です。

で、この八月革命によって国民主権になった明治憲法により、その改正手続きを踏まえて改正されたのが今の日本国憲法だから、これは民定憲法だということになるという理屈です(この八月革命説のバリエーションとして六月革命という説もあって、これによると昭和20年8月の敗戦時には革命があったわけではないけれど、憲法の改正案が国会に付議されて審議が始まった昭和21年6月に、その国会での審議の過程で革命があった、ということです)。
立憲君主制の明治憲法は八月革命で殺されてしまい、その代わりに文言はそのままだけど国民主権に変身した明治憲法が生まれ、その国民主権の明治憲法の改正手続きによって今の日本国憲法ができた、ということです。

何ともメンドクサイ理屈ですが、憲法学者にしてみれば革命でもない限り憲法は変えられない(変えてはならない)と思っているようで、立憲君主制の憲法を国民主権の憲法に改正するための手続きを明治憲法の規定に従って行ったことを正当化するためにはこのような屁理屈が必要なようです。ご苦労様な話です。

いずれにしても無事、日本国憲法ができました。ようやくこれ以降、その具体的な内容の話になります。

芦部さんの憲法 その4

8月 28th, 2013

この「芦部さんの憲法」の2回目に、KENさんが「そもそも憲法は国家権力の暴走から国民を守る唯一の法律ですから・・・」というコメントを入れてくれました。今回はこれについてちょっと書いてみます。

日本国憲法の三本柱は、国民主権・平和主義、そして基本的人権の尊重ということになっています。基本的人権の尊重なんていうと、私なんかには基本的人権というのは大切なものなので、お互いにお互いの人権を大切にして仲良く暮しましょうなんてことかなと思うのですが、法律家の考えているのは、これとはまるで違うようです。

法律家が考えているのは、国家は国民の基本的人権を侵害し兼ねないから、そのような国家から国民の基本的人権を守らなければならないということのようです。

ここで「国家」というのはまずは政府ですが、それだけじゃなく三権分立の国会や裁判所も「国家」になります。また政府の手先である地方公共団体・政府や地方公共団体の手下である国家公務員・地方公務員等も全て国家のうち、ということになります。

この国家による基本的人権の侵害を防ぐことが憲法の役目ということになりますから、国家あるいはその手先・手下以外の者による基本的人権の侵害は、原則として憲法の守備範囲外ということになるようです。すなわち、誰か個人による他の誰か個人の基本的人権の侵害・大会社による個人の基本的人権の侵害・上司による部下の基本的人権の侵害、これらは憲法の対象ではない、ということのようです。

とはいえ、これを放置して国民が誰かに人権侵害されっぱなしというわけには行かないので、その部分については憲法ではなく法律で対応するというのが法律家の考え方のようです。

それでは法律でどう書いてあるかというと、たとえば民法90条(公序良俗)という所に
 「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は無効とする。」
と書いてありますので、要は誰かの基本的人権を侵害することは公序良俗に反するから、してはならないということのようです。基本的人権の尊重が公序良俗でくくられてしまうというのも何だかなあという感じです。

民法がこうなっているんであれば刑法の方はどうなんだろうと思って調べたところ(これは芦部さんの本に書いてなかったので、自分で調べたので、もしかすると法律家の解釈とは違うかも知れません)、刑法ではいくつかの条で「生命・身体・自由・名誉又は財産に害を加える」という表現がありますので、基本的人権の侵害はこの「生命・身体・自由・名誉又は財産に害を加える」行為として刑法の対象としている、ということのようです。もちろん民法にも刑法にも「基本的人権」などという言葉は一度も登場しません。

(余談ですが、コンピュータというのは偉大ですね。この「一度も登場しません」なんていうのを目で確かめようと思ったらとんでもないことですが、民法なり刑法なりのテキストをパソコンで開いて検索をかければ、一発で「一度も使われていない」ことがわかってしまうんですから、こんな楽なことはありません。)

基本的人権の尊重と言いますが、憲法では基本的人権についてはいろいろ書いてあるので何となくわかるのですが、「尊重」というのがどういう意味なのか、イマイチ良くわかりません。

今の憲法の中には、残念ながら「基本的人権の尊重」という言葉は出てこないんです(これも検索のお陰です)。仕方がないから「尊重」という言葉で検索すると、13条と99条で使われています。
99条は
 「天皇または摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員はこの憲法を尊重し擁護する義務を負う。」ということですから、要するに、国は基本的人権を侵害してはならないということになりますね。天皇以下ここに列挙されている人達が具体的に「国」の構成員ですから。

もう一つの13条は
 「すべて国民は、個人として尊重される。生命・自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」
ということですから、法律を作ったり行政をしたりする所で人権を尊重するということで、やはりお互い同士の人権尊重は書いてなさそうですね。

以前にも書きましたが、最初に憲法の本を読んだのが伊藤真さんの本で、その中で「国は憲法に従わなきゃならないけれど、国民は憲法に従う必要なんかないんだ」というような言葉に出会ってビックリしたんですが、要するに芦部さんの憲法も同じで、憲法に従わなければいけないのは国であって、国民は憲法に従わなくても良いということなんですね。ということは、自分の人権を侵害されるのは許せないけれど他人の人権なんぞ知ったこっちゃない、というのが法律家の考える憲法の考え方のようです。

でも私はやはり「皆で憲法を守って、お互いの人権を尊重して仲良く」という方が良さそうに思うのですが。

芦部さんなんかが考える憲法というのは、国民から国に対する指令書みたいな性格のものなんですが、自民党の憲法改正案は、どちらかといえば国民同士の約束のような性格のものになっています。その中では明確に「国民は基本的人権を尊重する」とか「全て国民はこの憲法を尊重しなければならない」と書いてあります。

一方的に国だけが責任を負わされる法律家の憲法と、国民全員が責任を負って一緒に国を作っていこうとする自民党の憲法改正案、「憲法」の意味がまるで違います。法律家にとって9条の改正より、96条の改正より、この「憲法」の意味の改正(変更)の方が認めることのできない、許すことのできない暴挙ということなんでしょうね。

今の憲法の前の「大日本帝国憲法」には、第3条に「天皇は神聖にして侵すべからず」という文言がありました。その条文は現行の日本国憲法にはなくなっていますが、法律の専門家は一般人には見えない「憲法は神聖にして侵すべからず」という条文をはっきり見ているようです。

芦部さんの憲法 その3

8月 20th, 2013

前回のコメントで、現行の憲法の97条について、置き場所を間違えたんだとか、97条に置くことによりこの部分は変えてはいけないということを表しているんだとか書きました。そのコメントをアップした後、念のためにどこに書いてあったか確かめておこうと思ったのですが、芦部さんの本にそれを書いてある場所がみつかりませんでした。

まさか私のこのコメントを読んで、芦部さんの憲法を実際に読んでみよう、なんて酔狂な人はいないと思いますが、万が一そんな人がいてあの97条の話はどこに書いてあるんだなんて言われたら困ってしまうので、念のために確認しておこうと思ったのが、予想外の展開になってしまいました。

何度か確かめて、みつからないので「これはチョット困ったことになったな」と思ったのですが、ハタと思いだしたのが、この芦部さんの本を読んでわからない所を質問したときに、この本を持って来てくれた弁護士さんが送ってくれた「四人組憲法」の一部分のファックスのことです。

「四人組」なんていうと、つい毛沢東の「四人組」を連想してしまいますが、この「四人組」というのは芦部さんのお弟子さんの憲法学者が四人で書いた憲法の教科書のことで、4人の名前をいちいち挙げるのが面倒なので「四人組」と言っていて、憲法を勉強する人なら「四人組」というだけで通じるくらいに有名な本のようです。

四人とも芦部さんのお弟子さんで、芦部さんの考えをそのまま引き継いでいる人達なので、この本の中味も「芦部さんの憲法」と言っても良いということのようです。

で、ファックスしてもらった「四人組憲法」の最後の部分に、この97条の話が書いてありました。そこにはわざわざ芦部さんもそう考えているということも書いてあったので、これで私の書いたのは間違いなかった、と安心しました。

で、この「四人組」の97条の話のちょっと前に、憲法が最高規範だという話が出ていて、
『憲法が軟性憲法(変えやすい憲法)であれば、その憲法は最高規範だとはいえない。これに対して憲法が硬性憲法(変えにくい憲法)であれば、その憲法は形式的効力の点で最高規範としての性格を持つ』
と書いてあります。

この中味はこの前書いた芦部さんの本の
『憲法が硬性憲法であれば、その憲法は最高法規である』
というのと何となく似ているんですが、同じようでもあり違うようでもあり、どうも良くわかりません。

芦部さんの本は「最高法規」、四人組の方は「最高規範」という言葉が出てきています。芦部さんの本には「最高規範」という言葉は(索引で調べる限り)出てきません。四人組の方は「最高法規」という言葉は(少なくなくともファックスしてもらった範囲内では)使われていません。

またその意味も、「最高法規」というのは「これに反する法律は全て無効だ」というような意味で、「最高規範」というのは「全ての法律を根拠付けるものだ」というくらいの意味で、同じようでもあり別物のようでもあります。

また四人組の『憲法が軟性憲法(変えやすい憲法)であれば、その憲法は最高規範だとはいえない。これに対して憲法が硬性憲法(変えにくい憲法)であれば、その憲法は形式的効力の点で最高規範としての性格を持つ』も、なんとなく『AならばBでない。だからAでないならBだ』と言っているようで、この言い方は論理的には間違いなんですが、その論理的な間違いを主張しているようでもあり、そうでないようでもあり、何ともすっきりしません。

論理的に書かれていない本を論理的に読もうとすると、何ともヤッカイです。
とはいえ、このあたりはそれほど本質的な話ではないので、とりあえず保留として先に進みます。

GDPの成長率と消費税

8月 20th, 2013

先週、GDP(国内総生産)の成長率の速報値が発表されました。マスコミでは相変わらず実質の成長率しかみていないようですが、私はこの低金利・低インフレあるいはデフレの環境では実質値というのは殆ど無意味だと思っているので、名目値の方を見ようとして内閣府の発表資料を見てみました。

四半期ベースの名目GDP成長率は季節調整済の値で前期比0.7%の伸びで、1年前の四半期からの四半期毎の伸びは△0.8%・△0.9%・0.1%・0.6%・0.7%と順調に増えています(マスコミ流に実質ベースで見てみると、△0.2%・△0.9%・0.3%・0.9%・0.6%とギクシャクしていますが、それでも概ね増えています)。

このGDPに海外からの所得を加えたGNI(国民総所得)で見ると(当然名目で見ます)、四半期ベースの成長率は△0.7%・△0.9%・0.2%・0.6%・1.4%と、景気が良くなっているのが一層わかります。

これらの伸び率、四半期ベースを年率に直すと名目GDPの伸びは2.9%、名目GNIの伸びは5.9%となっています。

ここまで来ていれば、消費税引き上げは問題なさそうです。

景気が良くなりつつあるようだけれど給料の方はまだ上がらないという話については、雇用者報酬の方を見ると、これも四半期ベースの名目の雇用者報酬の前期比が△0.7%・0.2%・△0.2%・0.6%・0.3%となっており、前年同期比で見ても1%(実質ベースだと1.4%)と、すでに増加が見えてきています。

景気が回復する、というのは、最初に生産が増え、その為に雇用が増え、そのあとにようやく給料が上がる、という順番になっています。雇用者報酬が遅行性の指標だ(すなわち他の指標より遅れて景気回復の姿を示す性格がある)ということを考えれば、とりあえず当面の景気回復は確実なようです。

消費税引き上げがはっきりすれば、景気回復もさらに一層はっきりするんでしょうね。

芦部さんの憲法 その2

8月 16th, 2013

憲法の本を読むようになってしまったキッカケはこの前の参議院の選挙だったのですが、あの時9党の党首の討論会などでも憲法改正が大きなテーマの一つでした。

その憲法改正について、9条の戦争放棄を国防軍に変えるというのが議論になる、というのは良くわかるのですが、野党の福島さんや谷岡さんが96条の憲法改正手続きや97条の基本的人権の所の改正について大騒ぎをしていたのはこの本を読むまでわけがわかりませんでした。この本を読んでようやく何が問題にされていたのかが良くわかりました。

96条の憲法改正の手続きですが、現行の憲法は衆参両院のそれぞれで2/3以上の賛成で発議され国民投票の過半数で改正されるとなっているものを、自民党案は衆参両院の2/3を過半数に変更しようとしています。当時私は憲法は国民のものだから国民の意思を反映しやすくするために自民党の方が良いに決まっていると思っていたのですが、前回お話した立憲主義の立場からするとまるで違ってきます。

憲法の特徴づけの言葉に「硬性憲法」と「軟性憲法」という言葉があります。硬性は(rigid)の訳、軟性は(flexible)の訳のようで、要するに変更しやすい憲法と変更しにくい憲法ということです。で、立憲主義の立場からすると、憲法は変更しにくければしにくい程良い憲法だ、という評価があります。

芦部さんの本には
『憲法が最高法規であることは、憲法の改正に法律の改正の場合よりも困難な手続きが要求されている硬性憲法であれば、論理上当然である。』という文章があります。すなわち、憲法が変更しにくい、ということから、憲法が他の法律の上位に位置することが論理的に当然になるということです。私の論理的という言葉使いからすると、こんなものどう頑張ってみても論理的に当然にはならないんですが、多分法律家には何か特別な考え方があるんでしょうね。

で、そのようなわけでせっかく今の憲法が2/3以上の賛成がないと改正できないようになっているのを1/2以上に引下げて改正しやすくする、などというのは憲法の格を下げることになるので、これは絶対に阻止しなければならないということになるわけです。

私が考えていた「国民投票がしやすくなる方が良いじゃないか」という議論も、前回書いたように多数決の民主主義に対立するのが立憲主義だ、と言われてしまえばまるっきり逆の話になってしまいます。

これで96条改正に猛反対してた訳がわかりました。

もう一つ97条の基本的人権の条が自民党の改正案では削除されていることに対する猛反対ですが、これも何が問題だったか、良くわかりました。もともと今の憲法にも11条から40条まで基本的人権についてはしっかりと書いてあり、その上で最後の97条にダメ押しのような形でもう一度基本的人権が大切だということが書いてあります。一説によるとこの97条は入れる場所が間違っていたのであって、本当は11条の前に持ってこなきゃいけなかったのを、たまたま間違って97条のところに入れてしまったということのようです。

でもむしろ主流の考え方はこの97条の前後には96条に憲法改正の手続きが書いてあり、98条には憲法が最高の法規であってこれに反する法律は無効だ、ということが書いてあり、これらをセットして読むことにより97条は基本的人権については変更してはいけないという意味でここに書いてあるんだということのようです。

外国の憲法には、「○条の規定は大切なので変更してはいけない」なんて条文があるものがあるようですが、日本国憲法ではそのような条文はありません。そのため形式的にはどの条文も改正してよいような形なのですが、立憲主義の立場からするとそんなわけには行かなくて、変えてはいけないと書いてないとしても変えてはいけない条文がたくさんあるようです。

で、そのような日本国憲法でも、念押しのために実質的に変えてはいけないと書いてあるつもりの97条の規定を自民党案ではアッサリ削除してしまったんですから、これは見過ごすことはできません。変えてはいけない規定を変えてはいけないと書いてあるつもりの規定を削除したということは、変えてはいけない規定を変えようとしているんだろう。さらに言えば、変えてはいけない規定を削除しようとしているかもしれない、ということで、猛烈に反対したんだなということがようやくわかりました。

これらの議論はこれから憲法改正の議論が本格化する中でまた取上げられることになるはずですから、その際の議論をきちんと理解するためにもこの本を読んで良かったなと思います。

福島さんは東大法学部出の弁護士さんですから、立憲主義のことはよくわかっているはずです。谷岡さんの方はどこまでわかっているのか良くわかりません。

でも改憲反対派の人達も、もう少しこの反対の理由をきちんと説明してくれればわかりやすいのですが、理由をはっきり言わないで反対となると、運よくこの本を読むことができて、その理由がわかったのはラッキーでした。

芦部さんの憲法 その1

8月 15th, 2013

この前の前の『無条件降伏』という記事で書いたように、ひょんなことから憲法の教科書を読むことになってしまいました。

で、何とか400ページ位の本を読み終わったので、せっかくですからこれからしばらくその本についてコメントしたいと思います。

ケインズほどは長くはならないと思いますが、やはり2-3回では書き切れないほどコメントしなければならないいろんなことがあります。

自民党が衆院選・参院選とも勝って、憲法改正の話が当然のように出てきますが、この憲法改正に正面から反対するのは法律家の人達です。ですから法律家の人達がどのように考え、どのような言葉を使うか(あるいは一般的にも良く使われる言葉をどのような特別な意味に使うか)知っておかないと、議論がまるで噛み合わないということになってしまいます。そのためにもここでコメントしておくと役に立つのではないかと思います。

この本を読んで、読む前に漠然と思っていた憲法と、法律の専門家が考える憲法とは、まるで違ったものだということがわかりました。最初はわけがわからなくてちょっと大変だったのですが、慣れてくると面白い発見がたくさんあって楽しく読めました。

で、私が読んだのは芦部信喜という大先生の書いた「憲法―第5版」(岩波書店)という本なのですが、これが司法試験その他の標準的な教科書になっていて、専門家の間でも標準的な憲法論あるいは憲法学の本だということになっているようなので、私としては学者になるつもりも法律家になるつもりもないので憲法についてはとりあえずこの本だけで良いかなと思い、特に必要のない限り他の憲法に関する教科書や専門書を読まなくても良いかなと思っています。

そのため私のコメントもタイトルとして、「芦部さんの憲法」ということにします。

まずこの本を読むにあたり最初に思ったのは、法律家の専門家は法律の勉強を一生懸命にする分、日本語の勉強はあまりしないんだろうな、ということです。かなり不思議な日本語を平気で使うんですが、それはそんなもんだとわかってしまえばどうということはありません。言葉の意味は普通とは違うけれど文の構造は普通の日本語と同じなので、一つ一つの言葉の意味を「この言葉はどんな意味で使っているんだろう」と考えながら読んでいけば良いだけですから。

ケインズを読んだ時の、古典派の経済学者(ケインズの後の経済学者も同じようなもののようですが)が、言葉の定義をしないで議論するという厄介さは、芦部憲法ではそれほどありません。一応ある程度は言葉の意味を説明しようとはしているようですから。とはいえ、突き詰めた所では言葉の意味は不明になってしまいますが。

次にわかったのは、法律の専門家は論理的思考の訓練を受けていないようで、芦部さんの本を論理的に読もうとしてもうまくいかない、ということです。しかし困ったことに法律の専門家自身は自分達のやっているのを論理的思考だと思い、書いているのを論理的な文章だ、と思っているのでちょっと面倒です。

で、論理的な体裁の論理的でない文章をしばらく読んでいてわかったのが、これは「信仰の書」だということです。そのように考えれば全てが納得できます。信仰の書だからこそ、そこから「・・・すべきだ」とか「・・・でなければならない」という行動規範のようなものが出てくる、というわけです。

ここまでわかればその前提で読んでいけば良いので、かなりスムースに読むことができます。もちろん私はその信仰を受け入れているわけではないので所々これはおかしいなと思う所は出てくるのですが、そのおかしな所もその信仰を前提とすればこういう結論になるのは理解できる、ということになります。

で、この憲法の本で最初に出てくる重要な言葉が「立憲主義」という言葉です。

私などは「立憲君主制」なんて言葉からの連想で、この「立憲主義」というのは、国の基本的なありようとかルールとかを憲法という形で明確にし、それにもとづいて法律を作ったり国の組織を作ったり国政を運営していく、という考え方のことだと思ったのですが、これが全く違いました。

芦部憲法によると「立憲主義」というのは次のような意味です。すなわち憲法というのは基本的人権をもとに作られたもので大事なものだから簡単に変更できるようなものであってはならない。特に基本的人権に関する部分は絶対に変えてはならない。そのためには多数決原理に基く民主主義であっても否定しなければならない。これが「立憲主義」という考え方だ、ということです。そして「立憲主義」に基かない憲法は、たとえ憲法という名前がついていてもそれは憲法ではない、ということです。

「立憲主義」という言葉でこんな意味を表すなんてことは想像もできないことなのでビックリしますが、憲法の世界ではこれが当然のことで、法律家の世界は憲法がその大元となっているので、法律家もみんなこのような考え方を受け入れているということになります。

憲法の中に民主主義を否定する考え方が正々堂々と登場するというのはびっくりしました。

以下、しばらく連載が続きます。

時事雑感

8月 8th, 2013

ユーロ危機は今は夏休み中でしょうか。夏休みが終わったら一気にどっと来そうな気がします。そうなると中国にも韓国にもかなりのダメージになりそうですね。EUと中国・韓国がどこまで大変になるか、ちょっと心配ですね。

国内では参院選が終わり臨時国会も終わって、いよいよ自民党が本格的に動き出したようですね。

野党の方は壊滅への道を着実に進んでいるようですから、自民党の方はもはや野党に邪魔されることなく好きなように政治を進めることができます。

福島の原発の事故対応も東電任せにするのではなし、いよいよ国が前面に出てきて直接工事をするようになるようですから、ようやくお金が動き出すんでしょう。

電気料金も原発の廃炉費用をあらかじめ減価償却して料金に上乗せできるようになったので、さらに値上げが確定です。電気料金の値上げは全ての産業の値上げにつながります。

ガソリンやら食料品やら次第に値上げが進行中、ファーストフードも値上げが進行中のようです。

これでもう消費税引き上げもあり、インフレはほぼ確実になりそうです。

社会保障の方も、民主党が自分から三党会議から身を引くと言い出したので、余計なことを考える必要がなくなり、与党が自由にやることができます。

衆参のねじれもなくなって、国会では何でもすんなりと可決することができますから、必要な法案はどんどん成立するんでしょうね。

野党が多少いちゃもんをつけても鎧袖一触で簡単に振り払われてしまうのは、国会最後の三委員長解任騒ぎや麻生さん発言問題でも明らかですね。

憲法改正の準備も着々と進んでいるようです。

これからの数年、自民党の舵取りは注目ですね。

無条件降伏

8月 5th, 2013

はじまりは、昔からの知り合いの弁護士さん(弁護士になったのはそんなに昔の話じゃないんですが)と参院選の9党党首の討論会での改憲問題に関する議論について、電話で話したことでした。

話の中で「伊藤さん」という名前が出てきて、これが伊藤真さんという、司法試験受験のカリスマ講師だということは知っていたのですが、それと同時にかなり以前から憲法問題で発言していた人(自民党の改憲案に反対している人)のようです。で、早速読みやすそうな
 「中高生のための憲法教室」(岩波ジュニア新書)
 「憲法が教えてくれたこと-その女子高生の日々が輝きだした理由」(幻冬舎ルネッサンス)
の2冊を図書館で借りて読んでみました。

この「女子高生の・・・」というのは感動的なお話ではありますが、その中の憲法に関するコメントというか、解説の部分はどうもなぁという感じでした。

そのことを先の弁護士さんに話した所、そんな伊藤さんの本なんぞを読まないで芦部先生とか樋口先生とか、ちゃんとした本を読むように、と言われてしまいました。この先生方の本は私の読んだ伊藤さんの軽い読み物とは違って格調高い憲法の教科書のようなので、何となく気が進まないなあと思っていたら、この弁護士さん、芦部先生の本『憲法-第五版(岩波書店)』をわざわざ買ってきてくれて、読むように、と言われてしまいました。

で、読んでみると、これが確かに格調高い教科書ではあるものの、なかなか読みやすく非常に面白いということがわかりました。

「読みやすい」というのは、この本がもともと芦部先生が放送大学で憲法の講義をした時のテキストが土台となっているからかも知れません。「面白い」というのは、この場合「ツッコミどころ満載」というくらいの意味です。

とはいえこの本は司法試験や公務員試験などの憲法の標準的な教科書のようで、ということは弁護士さんや裁判官などはほとんどがこの本で勉強して、この本の理論を自分のものとして司法試験に合格しているようですから、下手にツッコムとそういった弁護士さんや裁判官の殆どを向こうに回すことにもなり兼ねないので、ちょっと厄介だなと思っています。

いずれにしてもこの芦部さんの本を読み終わったら改めてまたコメントしようと思いますが、今回のコメントはこれとは別の話です。

この芦部さんの本を読んでいて、日本国憲法ができた時の話を読んでいたら、ポツダム宣言の話が出てきました。

「ポツダム宣言」というのは何となく知っているような気がしますが、そういえばまだきちんと読んだことはなかったなと思い、この機会にちゃんと読んでみようと思いました。たまたま週末で図書館に行ったので、このポツダム宣言の載っている本を探してみました。

最初法律の棚の憲法のあたりを見ていて見つけたのが、「日本国憲法資料」という三省堂から出ている本です。これが何とも内容豊富で、A5版の本を縦書き3段組にして小さな字でびっしり書いてあるので、読むのも大変です。残念ながらポツダム宣言自体は入っていないで、それを【条件付で受入れる】という日本からの申入れに対して、【そんな条件を付けないで受入れよ】という連合国側からの回答だけが載っていました。

この文書自体、「subject to」という言葉の訳を巡って軍部と外務省が大喧嘩をした(外務省はこれを「制限の下に置かれる」と訳し、軍はこれを「隷属する」と訳したようです。普通に訳すなら、「従う」というくらいの訳になりますから、どちらもかなり政治的な訳になっています。)興味深いものなのですが、欲しいのはポツダム宣言そのものですから、とりあえずこの本も借りることにして、次に日本史の棚の戦中から戦後にかけてのあたりを見に行きました。ここで見つけたのが「終戦の詔書」という文芸春秋からでている本です。確かに薄い本ですが、いくらなんでも「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び」だけで本1冊にはならないだろうと思って中を見てみると
 「終戦の詔書」(「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び」が入っているもの)の他に
 「開戦の詔書」(米英に対して宣戦布告した時の詔書)
 「年頭の詔書」(昭和21年元旦の年頭のお言葉で、いわゆる天皇の人間宣言と言われているもの)
 「ポツダム宣言」英文と日本語訳
の4つが入っていました。

さすがに3つの詔書は普段使われてない漢文の熟語がありますのでその熟語の意味を簡単に脚注に付けていますが、それ以外は余計なコメントも解説もありません。ただし漢字とカタカナ書きで、漢字は全てふりがな付きです。

で、どの文書も短いものだしせっかくだから全部読みました。そして最後にポツダム宣言ですが、全13項の最後の第13項の所で大変な発見をしてしまいました。といっても誰も知らない何か新しいことを発見したというのではなく、私がいままで間違って理解していたことを発見した、ということですが。

このポツダム宣言の第13項は日本軍の無条件降伏を求めているのですが、ということは、日本国の無条件降伏を求めているものではない、ということになります。ポツダム宣言を受け入れて日本が降伏したのは無条件降伏した、ということではなく、単に日本軍を無条件降伏させる、という条件を受け入れて降伏した、ということです。実際このポツダム宣言自体、日本が降伏する場合の条件を列挙してあるものですから、当然無条件ではありません。

にもかかわらず今まで私が、太平洋戦争に負けて日本は無条件降伏した、と思っていたのは一体何だったんでしょうか。

多分私はこの太平洋戦争終結のあたりを書いた本は何十冊も読んでいますから、無条件降伏についても百回以上は読んでいるはずです。にもかかわらず『日本軍の』無条件降伏と思わず、『日本の』無条件降伏と思っていたのは何故なんでしょうか。

実際は『日本軍の無条件降伏』と書いてある所を無意識的に『日本の無条件降伏』と間違って読んでいた、ということでしょうか。それとも私の読んだ本に『日本が無条件降伏した』と書いてあったのでしょうか。

これがわかったとして、もちろんそれによって歴史的事実が変るわけではありませんが、その事実に対する私の理解が違ってきます。日本にいろいろな指示をした進駐軍の将校は日本が無条件降伏したと思っていたのか、その指示を受けた日本の政治家や役人は日本が無条件降伏したと思っていたのか、それを報道したマスコミ・それを読んだ国民は日本が無条件降伏したと思っていたのか、それとも単に日本軍が無条件降伏したのであって日本は無条件降伏していない、と思っていたのか。

この、日本が無条件降伏したのかしていないのか、というのはもちろん既にいろいろ議論されていることのようですが、私は今まで知りませんでした。もしかすると同じように知らない人がいるかもしれません。で、自分の無知をさらけ出すようですが、コメントしてみました。

ちょっと時間はかかりそうですが、改めてこの視点から以前読んだ本を読み直す必要がありそうです。
また、本を読む楽しみが増えてしまいました。