Archive for the ‘本を読む楽しみ’ Category

『一般理論』 再読 その12

火曜日, 2月 16th, 2016

一般理論、いよいよ消費性向の話になるのですが、その前に、この前までの所、宮崎さん・伊東さんの本、宇沢さんの本がどんなことを書いているのか、紹介しましょう。

宮崎さん・伊東さんの本は何ともあきれ果てた内容です。
まず最初に、『利子費用はなぜ要素費用に入らないのか』なんてことを議論しています。そもそもこの問題の立て方自体、宮崎さん・伊東さんが一般理論をまともに読んでいないことを明らかに示しています。

私の理解では、利子収入を所得にするのであれば利子の支払いは費用になるけれど、利子収入が所得にならないのであれば利子の支払いは費用にならない、というだけの話です。

一般理論、ここまでの所登場するのは企業と労働者・消費者だけで、金利生活者・年金生活者はまだ登場していませんから、所得の方でも費用の方でも金利が登場しない、というだけの話です。これをケインズが利子についてちゃんと扱っていないと非難するのは、まるで筋違いの話です。

その次は、総供給曲線が右肩上がりの増加曲線になるのですが、その上がり方が上に凸なのか下に凸なのか、などという、どうでも良い話を延々としています。そのために訳のわからない式を立て、式を変形し、といろいろやってます。あげくの果てに『ケインズの誤り』などと見出しを付けて、『ケインズが総供給曲線は直線だと言っているのは間違いだ』などと言って得々としています。

ケインズが総供給曲線は直線だと言っているのはその通りなのですが、それは本文の中ではなく、注の文章の中で、『これこれの場合、これこれだと仮定すると総供給曲線は直線になる』と総供給曲線の性格を説明している部分です。

宮崎さん・伊東さんはその部分の結論だけ取り出して、『ケインズは収穫逓減を認めていたはずだからそれと矛盾するので誤りだ』などと主張しています。ケインズは別に収穫逓減を積極的に主張しているわけではなく、単に明確に否定しないというだけのことなのにそれを無視し、さらにはいくつもの前提条件を全く無視して『ケインズの誤りを見つけた』などと喜んでいるというのは、もう読むには堪えない話です。

また費用の説明をするのに、企業の費用(というか支出)を具体的に原料費とか給料とか原価償却費とかに分け、どれが使用費用でどれが要素費用かなどという区分をしています。ところが一番重要な売上原価の計算あるいは原価計算の部分が反映されていないために、まるで訳の分からない説明になっています。要するに、支出と費用の違いが分かっていない、ということです。困ったことにはこの説明図がそのまま間宮さんの訳の訳者注に引用されているので、この訳の分からない説明が訳の分からないまま拡散されてしまっています。このような本を参考にケインズの一般理論を理解しようとするのは難しいな、と思います。

どうも宮崎さんも伊東さんも、古典派の経済学の立場に立って一般理論を批判することを目的としているようで、一般理論の理解もケインズのいう事を聞こうとするより古典派の立場からの解釈を主張し、その解釈でケインズ批判をしているようです。ケインズの理解には役に立ちそうもありません。

一方宇沢さんの方は、ケインズの【貯蓄=投資】を、所得のうち消費されない分は金融資産の購入という形で貯蓄される、と考えます。その金融資産の購入ということで投資につながる、という風に考えるようです。

また(あるいはそれだから、でしょうか)、ケインズの【貯蓄=投資】というのはいつでも成り立つ関係なのですが、宇沢さんはどういうわけかこれは『均衡状態の下では』【貯蓄=投資】となる、と考え、均衡状態の下でのみこの式が成り立つと考えているようです。
これも古典派の経済学の名残りなんでしょうか。

宇沢さんの本も、宮崎さん・伊東さんの本ほどではありませんが、かなりいろんな式を使って説明しようとしています。

やはり古典派の経済学を勉強してしまうとケインズの本を素直に読むのが難しく、すぐに式に書き直して理解したくなってしまうのかも知れません。しかし式を書くことによってケインズの言葉から離れて式が勝手に動き出し、訳の分からない議論が展開されてしまうようです。

こうなった原因の一部は、ケインズが余計なことをいろいろ書いて読者を混乱させている、ということもあるのですが、困ったことです。

いずれにしても、宮崎さん・伊東さん・宇沢さんの悪口ばかり言っていても仕方ないので、『一般理論』、先に進むことにします。

講談社ブルーバックス『地盤の科学』

水曜日, 1月 20th, 2016

この本を読んでみようと思ったきっかけは、例のマンションのくい打ちの不正の件です。

考えてみれば、建物の基礎工事のことなんか何も知らないなと思って、ちょっと読んでみようと思いました。

で、読んでみると、何とも盛りだくさんの面白い本です。
350頁位の本なんですが、最初の250頁くらいまでは建築の基礎工事の話なんかは何もなく、地殻の話・プレートテクトニクスの話・海面が上がったり下がったりして日本列島ができる話・街道は近くの断層を走る話・地中からの出土品を保存する技術の話・古墳の作りかた・地球の歴史・ゴミの話・地下水の話・地震のメカニズム・液状化の話・神戸地震その他の地震の話・地滑りの話・火砕流、土石流の話・地盤沈下の話・大阪や東京の地下の地層の話・堤防の話・土の固さをどう測るか、地中を探るための人工地震・CTやMRIと同様な方法・身体検査の超音波検査と同様の方法、鉱山跡の陥没の話・人工衛星で空から地中を探る方法、と盛りだくさんです。

その後ようやく地盤の話になるかと思えば、建物の基礎だけでなく橋の基礎をどうするかとか、ダムをどうやって作るかとか、海上の人工島の作り方とかトンネルの掘り方・地下鉄の作り方・地下ダムの作り方・地下に居住空間を作る話など、さらに盛りだくさんです。

で、読んでいて面白かったのは、普通の一戸建ての場合敷地面積当たりの建物の重さは1平方メートルあたり2トンで、これは大人が立った時の足の裏にかかる体重の荷重と同じ位だという話とか、土や砂や粘土やコンクリートの重さは1立法メートルあたりだいたい2トンくらいだ(水は1立法メートルで1トンですから、水の2倍の重さ)ということです(砂が2トン、粘土が1.6トン。良く締め固めた土で2.2トン、コンクリートで2.4トン)。

とにかく話題盛りだくさんで、ふんだんに楽しめます。
いろんなことに興味のある人におススメします。

『一般理論』 再読 その11

木曜日, 1月 14th, 2016

さて久しぶりに『一般理論』の続きです。
昨年は途中まで行った所で、例の安保法制の大騒ぎで憲法学者があまりにも支離滅裂な話をするのでアキレハテてコメントしていたら、いつのまにかピケティの本を借りる順番が来てしまい、そっちの方を優先してしまいました。

結局思った通りピケティは読むほどの意味はなかったのですが、600頁もの本を2週間で読むというのはそれなりにシンドイ作業で、終わった後はこんな変な本を読んだ口直しに真っ当な経済学の本を読みたくなりました。

ちょっとだけ『共産党宣言』に寄り道しましたが、『一般理論』に戻って、やはりこの本は本物だ、と再確認しました。

で、前回までどこまでコメントしたのか読み直してみると、所得・消費・貯蓄・投資の関係式と、有効需要の話の所で、一般理論の最初の山の所でした。

で、この話のまとめの所から『一般理論』のコメントを再開します。

とりあえず当面登場するのは、企業と労働者+消費者の二つだけです。
企業は他の企業からの仕入れと労働者を使って生産活動をし、他の企業には代金を払い、労働者には労賃を払い、できた製品を他の企業あるいは消費者に販売し、売上げを上げます。

労働者は企業で働いて労賃を得ます。これが労働者の所得です。労働者はその所得の中から買い物をすると、それが消費です。所得から消費を差引いたものが貯蓄です。

企業は売上げから費用を引くと企業の利益となります。これをもう少し詳しく言うと、売上げに設備投資・在庫投資の増分を加えて、労働者に対する支払い・その他企業に対する支払いを差引いたものが企業の利益・企業の所得になります。

設備投資・在庫投資の増分を投資と言います。また企業の所得は企業の貯蓄となります。企業には消費はありません。

このように所得・消費・投資・貯蓄を定義すると、
経済社会全体の合計の所得・消費・投資・貯蓄について
  所得=消費+投資
  貯蓄=所得-消費
  投資=貯蓄
となる、ということがわります。

ここで、
貯蓄=所得-消費
は定義のようなものですから、経済社会全体でなくても個々の経済主体すなわち一人の労働者、一つの企業でも成立するのですが、それ以外の
  所得=消費+投資
  投資=貯蓄
は経済社会全体の合計について成立つ式で、個々の経済主体では成立しないし、労働者全体でも企業全体でも成立しないものです。

で、この式の簡単な例として
ある消費者が100円の消費をした場合、経済社会全体では
所得=30円、消費=100円、貯蓄=-70円、投資=-70円
となる、とか
ある企業が100円の投資をした場合、経済社会全体では
所得=50円、消費=0円、貯蓄=50円、投資=50円
となる、という例を紹介しました。

このような例で説明すると、上記の所得・消費・貯蓄・投資の式もかなり良く分かると思うのですが、経済学ではこのような説明はあまり(あるいは全く)ないようです。

会計の方ではこのような簡単な例で説明するというのは良くある話なのですが、経済学では例の代わりに訳の分からない式を作って訳の分からない議論をすることになっているようです。その結果として自他共に訳の分からない議論をする、ということのようです。

また上記の『貯蓄』というのは定義通り【所得-消費】ということですから、銀行預金とか国債や社債など債券を買うとかとは全く関係のない話です。宇沢弘文さん、宮崎義一さん、伊東光晴さんの本を読むと、どうもここの所、消費者が所得の一部を消費しないでとっておくと、それが銀行預金や債券の購入を通じて企業に流れていって、企業の投資になる。それが【投資=貯蓄】の意味だ、と思っているようです。

これではまるで話が違ってしまいます。ケインズの世界(あるいは現実の世界)では消費者が余ったお金をタンス預金にしてもカメの中に入れて庭に埋めておいても、話は変わりません。また企業の方も余ったお金をすぐに投資に使わないで、そのまま現金で持っていても話は変わりません。それらの場合でも【投資=貯蓄】は成立ちます。

確かに古典派の世界では労働者も企業もトコトン利益を追求するので、せっかく持っているお金を全く活用しないで寝かせておくというのはあり得ない話なんですが、もちろん現実は全く活用しないで寝かせておくお金というのは、労働者・消費者でも企業でもごく当たり前に良くある話です。

で、ケインズは私が【売上げ総所得】と呼ぶことにした、各企業についてはその企業の所得(利益)とその企業に雇われている労働者の所得(労賃)の合計、経済社会全体ではその中の全企業の売上げ総所得の合計、即ち全企業の所得と全労働者の所得の合計、即ち全ての所得の合計を中心に議論を進めようとしています。

企業はその企業の所得(利益)を増やすことだけを考えます。するとその企業の売上げ総所得(企業の利益とその企業に雇われている労働者の所得の合計)が決まった時、労働者に払う労賃を減らせば企業の利益をもっと増やせるので、その方が有利なように思えます。

しかし、そうなると労働者の所得が減ってしまい、労働者の消費が減ってしまい、結局経済社会全体の所得が減ってしまい、回り回ってその企業の所得も減ってしまう。そのため企業としては労賃を減らすことを考えるのではなく、売上げ総所得を増やすことを考えることが大事だ、と考えるわけです。

労働者の方は自分の所得を増やすことだけを目的とします。すると企業の売上げ総所得が決まった時、企業の取り分を少なくして、その分労働者の取り分を増やすことができればその方が有利のように思えます。

しかしそうすると企業の利益が減ってしまい、投資に回すお金が減って、企業は生産活動を縮小しなければならなくなり、経済社会全体の売上げ総所得が減ってしまうことになり、回り回ってその企業の売上げ総所得も減ってしまい、結局その企業の労働者の労賃も減ってしまうということになります。それより労働者としても企業の売上げ総所得、そして経済社会全体の売上げ総所得を増やす方が良いということになります。

そこで次はどうやって企業の売上げ総所得を増やすのか、あるいは経済社会全体の所得を増やすのか、という話になります。

企業が売上げ総所得を大きくしようとしても、できることは投資を増やし、生産活動を増やすことだけです。ですからまずは企業がどのように投資を決めるのか、考える必要があります。

一方消費者が経済社会全体の総得を大きくしようとしても、できることは消費を増やすことだけです。一般理論はこのため消費者はどれだけ消費するかをどのように決めるのか、企業はどれだけ投資するかをどのように決めるのか、ということをテーマとして議論します。

その前に有効需要について考えておく必要があります。
有効需要というのは『その10』で簡単にコメントしましたが、次のようなものです。

需要曲線(需要関数)を次のように考えます。
ある企業がN人の労働者を雇うとすると、その労働者の生産力で、これだけの売上げ総所得が得られるだろうという、雇用する労働者の数と売上げ総所得の関係を表す曲線(あるいは関数)。
供給曲線(供給関数)は次のように考えます。
ある企業がN人の労働者を雇うんだったら、これだけの売上げ総所得が得られないと困るよな、という、雇用する労働者の数と売上げ総所得の関係を表す曲線(あるいは関数)。

で、この需要曲線と供給曲線の交わる所で、企業の期待する売上総所得は極大になり、その点での雇用する労働者の数と売上げ総所得が決まるという具合です。
その交わった所の売上げ総所得のことをその企業の有効需要といい、全ての企業の有効需要の合計を経済社会全体の有効需要という、ということです。

この有効需要に関して、いくつか重要なポイントがあります。

  1. 有効需要というのは、生産量で量るのでもなく、売上げ高で量るのでもなく、売上げ総所得で計る。
  2. 有効需要を決める需要関数(曲線)・供給関数(曲線)は、いずれも企業あるいは供給者がそれぞれの期待(見通し・希望・見込み)にもとづいて決めたものだ。
  3. 有効需要の売上げ総所得が実現する保証はない。現実の経済社会の所得の合計が、有効需要の合計とは必ずしも一致しない。

ということで、古典派の需要供給の法則とは似ているけれどまるで別のものです。

このあたり、一番大事な確認ポイントだと思うのですが、宇沢弘文さん、宮崎義一さん、伊東光晴さんの本も、あまり明確にはこのへんを解説していません。

上記のうち特に2番目の、全ては企業の期待にもとづくものであり、有効需要とは言っても需要側の考え方も、あくまで供給側の考えを通して間接的に反映されるだけだ(すなわち、買い手の意向(需要)は売り手が、買い手はこう考えているだろう、という期待で決まってしまうということ)、というのははっきりさせておく必要があります。

また3番目についても古典派の需要供給の法則では値段と数量が明確に決まってしまって、市場の関係者全員にそれが即時にはっきりわかる、ということになるのですが、ここではそれぞれの企業がどのような期待を持っているか明確には分かりませんから、有効需要は概念的にははっきりしていますが、それがいくらになるかについては明確にはならない、という性格のものです。

もちろん何もなければ日々の企業の期待の見直し、あるいは実際の生産活動の修正の結果、現実の経済社会全体の所得の合計は有効需要の合計に近くなっていくのでしょうが、その過程で状況の変化、環境の変化でどちらも変化を余儀なくされるため、いつまでたっても不一致のままということになります(とはいえ、現実には経済社会全体の所得の合計というのも計算するのはそう簡単ではありませんし、有効需要の方はなおさら集計の方法がありませんから、一致も不一致も確認のしようがないことなんですが)。

で、このように有効需要が決まり、それと合わせて雇用される労働者の数が決まると、経済社会全体で雇用される労働者の数(の期待値)も決まります。その数が労働者の総数より小さければ必然的に失業者が出て来るというあんばいです。

何らかの形で有効需要を増やすことができれば、それに対応する雇用される労働者の数も増やすことができ、社会全体の所得も増やすことができますから、メデタシメデタシとなるわけです。

これで一般理論の議論は、この有効需要を増やすために消費者についてはどうやって消費を増やすことができるのか、そもそも消費者がどれだけ消費するかというのはどのように決めているのか。企業についてはどうやって投資を増やすことができるのか、そもそも企業がどれだけ投資するかということをどのように決めているのか、という議論になるのですが、その話をする前に、ここで説明したあたりを宮崎さん・伊東さんの本や宇沢さんの本がどんな紹介の仕方をしているのか、次回ちょっとコメントしましょう。

『共産党宣言』

火曜日, 1月 5th, 2016

ピケティの『21世紀の資本』の中でピケティは、『マルクスは若くして共産党宣言を書き、その後生涯をかけてそれを正当化するために資本論を書き続けた』と書いてあります。

マルクスの資本論は何度か読もうとしたことがありますが、あまりにも非論理的・非科学的な内容で読み続けることができなかったのですが、このピケティのコメントを読んでシメタ!と思いました。

すなわちピケティの言っていることが正しいとすれば、マルクスが資本論で正当化しようとしていた共産党宣言を読んで、その内容が間違いだと確認することができれば、それで自動的に資本論の中味が間違いだということになりますので、資本論自体を読む必要がなくなるこということですから(どんなに立派な証明でも、結論が間違っていれば自動的にその証明も間違っているということです)。

資本論は岩波文庫で9冊になり、全部で3,600頁にもなりますが、共産党宣言の方はせいぜい文庫本で50ページ位のものですから、簡単に読めます。

実は資本論を読み始めた頃、友人から『資本論というのは経済学の本というより政治的文書だ』と教えてもらったことがあり、その時はその意味があまり良くわからなかったのですが、上記のピケティの言葉でその意味が良く分かりました。

で、共産党宣言ですが、歴史に関するコメントであれ、経済に関するコメントであれ、明らかに間違っていることのオンパレードですから、ごく簡単に目的を達してしまったということです。
マルクスが最初に共産党宣言を書いたのが1848年、その後の170年の歴史の知識の蓄積やその後の世界の変化を見るだけで、この共産党宣言の間違いは明らかです。

もうこれで、いつか時間をみつけて資本論を読んでみようなんてことは考えないで済みます。その意味でピケティの600頁もの本を読んだ価値は十分にあったなと思います。

この『共産党宣言』というタイトルですが、実は直訳すると『共産主義者の集まりのマニフェスト』、1872年に再販した時のタイトルが『共産主義者のマニフェスト』というものです。マニフェストというのは例の民主党が大好きな、あのマニフェストです。このタイトルを『共産党宣言』と訳したのは確かに格調高いと言えば言えそうですが、むしろコケオドシと言った方が良いのかも知れません。

いずれにしてもこれだけ間違いだらけのちっぽけな本が歴史的にあれだけ大きな影響を与えた、ということでも一読の価値はあると思います。

たかだか文庫本50ページくらいのもので、いたるところ間違い(独断と偏見)だらけの本ですが、その間違いを数え上げるのも面白いかも知れません。

お勧めはしませんが、興味があったら読んでみてもいいかも知れません。

ピケティ 『21世紀の資本』

金曜日, 12月 18th, 2015

約1年待って、ようやく借りる順番が回ってきました。
まだ600人近く順番待ちなので、2週間で読まなくちゃなりません。
本文600頁を2週間というのは、ちょっと大変です。

このピケティさんというのは若くして優秀な経済学者でアメリカでも嘱望されていたんですが、データもなしで数式だけヒネクリ回すアメリカ流の経済学に嫌気がさして(高給取りの経済学者にも嫌気がさしていたようで、『一部の経済学者たちは自分の私的利益を擁護しつつそれが一般の利益を守る行動なのだというありえない主張を平気で行うという不幸な傾向を持っている』なんて言ってます)、フランスに戻ってきて、実際のデータにもとづく経済学をやろうとしたようです。

とはいえそう簡単にデータがあるわけではないので、まずはそのデータ作りを一大プロジェクトとしてやっているようです。

で、そのデータにもとづいて書かれているのがこの本だ、ということなんですが、データの信頼性は恐ろしく低いものです。ピケティ自身この本で『データの信頼性は高くない』と何度も繰り返しています。とはいえ信頼性が低くてもデータはデータだから、データなしで議論するよりよっぽどましだ、というのがピケティの考えのようです。(国民経済計算(いわゆるGDPの統計)ができていればそれを使うことができるのですが、それ以前では所得税と相続税の申告書くらいしかデータがなく、フランスはそのような資料が一番ちゃんとしている、と自慢していますが、いずれにしてもそれは所得税や相続税ができてからの話なので、せいぜい100年~200年くらい前までしか遡れません。)

この本は4部構成になっていて、第1部は国民所得について、第2部は資本について、第3部は所得と資本(財産)の格差について、第4部は格差の問題にどう対処するか、ということについて書いてあります。

この本、世の中であまりにも【r>g】という式が評判になっているので、この式について書いてある本なのかと思ったら、まるで違いました。この本でピケティが言いたいことは(全部挙げると大変なことになるほどいろんなことを言っているんですが、一番言いたいことは)格差の問題です。格差というのはどうやらたとえば、所得が多い人・少ない人で、必ずしも同じではない。財産も大金持ちから殆ど何も持ってない人まで様々だというバラツキ・不公平・不平等のことを言うようです。

で、たとえば所得であれば国民全体のうちの所得の多い人上位10%が国民全体の所得の50%をとっていて、下位50%が全体の10%、残りの真ん中の40%が残りの所得の40%を取っているという状態は、上位10%が30%、下位50%が20%、中間の40%が50%取る状態より格差が大きいという具合です。

で、ピケティによると収入の面でも資産の面でも現在はその格差がどんどんひどくなる構造になっているため、このままにしておくとそのうちとんでもないこと(ピケティ自身は具体的に言ってませんが、暴動とか革命とか戦争とか)が起きることになる。それを防ぐために格差を大きくしないようにする手段として、超過累進課税の相続税、超過累進課税の所得税、超過累進課税の資産税の3本建てが望ましいということです。
これが第4部の内容なんですが、そこにたどり着くまで500ページも読んでいかなければなりません。

格差が大きくなる要因は、1つには相続で膨大な相続財産を貰った人は働かなくてもその財産からの収入が使いきれないほどあり、それで財産が自動的に増加するのでどんどん金持ちになるということ。

もう一つはスーパー経営者・・・・といってもこれはスーパーマーケットの経営者ということではなく、とんでもない高給をとる経営者のこと・・・・そんな人の使いきれないくらいの所得はどんどん溜まって財産が厖大に膨らむということです。

この二つの影響をなくすためにまず超過累進課税の相続税で相続される財産を減らすこと、また超過累進課税の所得税で高額所得者はその高額部分のほとんどを税金で取られるようにして給料を高くしようという気を起こさせないこと。そのためには今の最高税率30-40%を、1940年から1980年の間にアメリカやイギリスでやっていたように80-90%に引き上げることが必要だということです。

さらにそれでも既存の財産で財産自体が大きくなることを防ぐために、超過累進課税の世界ベースの資産税を取ることを提案しています。財産は高額になるとごく簡単に国境を越えてしまうので、これは世界中に散らばっている財産を洗い出して年に一度『あなたの財産はどこにどのように・いくらいくら・全部でいくらいくらあります。その結果資産税はこれこれの額ですからこの計算に間違いがなければ納めて下さい、間違いがあったら訂正して下さい。』という形で支払いを求めるということです。

一般に所得税や相続税は申告納付なので税金の計算は納税者がしなくてはならないんですが、この資産税は財産のありかと額が全部政府にわかっていることを前提に、政府が財産のリストアップから税金の計算まで全てやってくれるので楽ちんです。実際この方式は現在でも固定資産税で使われている方法なのですが、これを国境をまたぎ、また不動産だけじゃなく全ての資産について行おうということです。

で、ここまで二重三重にしないと格差が広がってしまう理由として出てくるのが【r>g】です。【r】は資産収益率、【g】は経済成長率です。資産からの所得が大きいので、その一部を消費に使ってもまだ余りが生じ、その分資産が増え、それが何年も続くととんでもない資産が積み上がるということです。

ではどうして【r>g】になるのか、という話になると、何とピケティは一転して【r>g】になる、という理論的根拠はない、これは理論的必然ではなく歴史的事実だ、と言っています。それではこれが本当に歴史的事実なのかというと、過去2000年にわたって【r】と【g】の推移のグラフを持ち出します。もっと正確に言えば、西暦の0年から2100年までのグラフです。

前にも書きましたが、西暦の0年というのは実は存在しません。西暦1年の前の年は紀元前1年で、0年とはなりません。ただし天文学ではこれでは不便なので、1年の前が0年、その前が-1年という具合にカウントします。天文学以外では1年の前が-1年、その前が-2年ということになります。とはいえこのグラフの0年というのは、0年から1000年をまとめてその間の平均を出すだけですから、これが1年から1000年の平均でも-1年から1000年の平均でも同じようなものですが。

で、この2100年にわたるグラフでほとんどの期間【r>g】となっています。例外となるのが1913年-1950年の期間と1950年-2012年の2つの期間だけです。で、この2つの期間【r>g】にならないのは、1914年-1945年の第一次大戦から第二次大戦までの期間が(この期間だけが)異常だったからで、これを除けば常に【r>g】になると言って、そのグラフを2100年まで延長して書いているわけです。

しかしピケティが実際に使える信頼できるデータは、最近100年ないしせいぜい200年の期間です。

この100年ないし200年の間に異常な30年があっただけで、それ以外の1900年ないし2000年の間には異常な期間はなかったと言い切ってしまう、いうのも凄い度胸ですが、ピケティは絶対の自信を持ってそう断言しています。そこで【r>g】を前提として、データのない所でも【r】と【g】を計算してその推移のグラフを描き、今度はこのグラフから異常な年を除けば常に【r>g】となっている、と立証してみせているわけです。

さらに【r>g】で、【g】は経済成長率、【r】は資本収益率です。この本の第1部・第2部はマクロ経済の話で、【g】も【r】もマクロ経済学の世界の話をしています。

【r】は次のように計算します。マクロベースの国民所得をまず労働による所得と資本による所得に分けます(これは理屈の上では説明できますが、実際にやるとなるとかなり困難です)。それで資本による所得が計算できたとして、今度は分母となる資本の計算です。国の財産の計算・国富の計算としてこの資本を計算します。この計算もそう簡単にできるものではありませんが、その計算ができたところで、この資本で、先に計算した資本による所得を割ると、資本収益率【r】が計算できた、ということになります。

ところが第3部に入り格差の話になると、今度はミクロ経済の話です。国民の一人一人がどれだけの所得があり、どれだけの財産を持っているかという話です。ここでまた資産収益率【r】が登場します。ここでの【r】は実は個人の保有資産からどれだけの収益が得られたかという意味の資産収益率で、マクロレベルの上記の資産収益率とはまるで意味が違います。でも同じ言葉を使い同じ記号を使っていると、いつの間にか同じもののような気がしてきます。ピケティははなから同じものであるかのように、何の説明もなしにこの二つを混同しています。うまいものです。

で、こんなムチャクチャな非論理的なやり方にあきれ果てながら本の最初に戻って『はじめに』の部分を読み直していたら、ピケティはここでマルクスの資本論についてコメントしています。すなわちマルクスは『共産党宣言』を書き、その後の生涯をかけてこれを正当化するために『資本論』を書き続けた、ということです。これで『資本論』が論理的でなく、科学的でもない理由が納得できます。最初に結論ありきで、それを立証するためにはどんなムチャクチャな屁理屈も厭わないということです。ピケティのこの本も多分同じことなんだろうと思います。

所得の格差・資本(財産)の格差が今すでに大きく、今後さらに大きくなる。その問題を何とかするために超過累進課税の所得税・相続税・資産税の必要性を訴えるために【r>g】などという話を作り、2000年にわたる【r】と【g】の推移をデッチ上げ・・・ということなんだと思います。

いずれにしても本文600頁の本で前振りが500頁もあると、本題にたどりつくのは大変です。
多分、この本をそこまで読んだ人はあまりいないんじゃないでしょうか。私はそこまで読んで、これがこの本の主題だったのか、と気づいて唖然としました。

この本を読む前に確認ポイントを4つ設定しました。すなわち

  1. r(資本の収益率)やg(経済成長率)がこの本の中で『きちんと定義されているか』どうか。
  2. このrやgを、数百年前、あるいは2千年前から計算してグラフにしているようですが、『その計算方法がきちんと説明されているか』どうか。
  3. この『r>gとなる』ということが本当に説明されているのかどうか。
  4. r>gから格差が拡大するという結論が『どのようにして導かれるか、ちゃんと説明されているか』どうか。

これについて
1.はきちんと定義されているといえば、います。ただし定義できても計算は難しいと思います。さらに【r】については同じ言葉を2つの異なる意味で使っているので、その区分けをはっきりさせないと議論が成立しないことになります。その意味では定義していないのと同じことだと言えます。
2.はまるでダメです。何の説明もなしにグラフが出てきます。
3.は理論的に【r>g】になるわけではない、とはっきり言っています。その代わりにグラフを使って『これは歴史的事実だ』とムリヤリ主張しています。
4.については、何となく説明らしきものはできていますが、あまり説得力のある説明ではありません。

で、最後の確認ポイントとして『この本がこれほど評判になりこれほどたくさん売れたのはなぜか』ということに関しては、
多分この本は600頁にわたっていろんな事がしっかり書いてあり、最後まできちんと読んだ人はあまりいないんだろうと思います。
そして【r>g】という不思議な式がキャッチフレーズのように使われているので、何となく気になり買ってしまうということになったんだろうと思います。その際600頁という本の厚さ・6,000円という値段の高さも評判になり、ベストセラーになる原因の一つにもなっていると思います。

第3部の格差の議論のところで、人口のうち資産が多い人上位10%の持っている資産の割合はほっておけばどんどん増えて、下位50%の持っている資産の割合はほっておけばどんどん減る、という議論をしているのですが、ここのところ、上位10%の人はほとんどずっとそのまま上位10%にとどまり、下位50%の人はほとんどずっとそのまま下位50%にとどまる、というような前提があるような議論をしています。実際に年々の上位10%の人、下位50%の人が同じ人だ、という保証はありません。
われわれ日本人にとっては『驕る平家は久しからず』で、上がったり下がったりは当たり前の話だと思っているんですが、フランスなどヨーロッパの階級社会ではあまり上下の入れ替えはないのかもしれません。
現実に日本では明治維新、第1次世界大戦、第2次世界大戦と、上位10%と下位50%が入れ替わる話はいくらでもありそうです。上下の入れ替えが常時おこる、という前提を入れるとピケティの格差の議論もかなり変わってくるような気がします。

私など、アメリカやイギリスについては何となくわかっているような気がしますが、フランスの、フランス革命以降の社会・経済の歴史についてはほとんどよく知りません(例えば、1945年から1975年までの高度成長を『栄光の30年』と呼び、その後の30年から40年を『みじめな時代』と呼んでいることなど)。そのあたりを知るには参考になる本かもしれません。とはいえ、そのために600ページも読む、というのはちょっと考えものですが。

ということで、いろんな意味でなかなか面白い本でしたが、お勧めはしません。

『イスラームから考える』 師岡カリーマ・エルサムニー著

水曜日, 12月 9th, 2015

この本も、例のイモヅル式に読むことになった本なんですが、面白かったので紹介します。

テレビで海外のニュースなどを見ていると、アルジャジーラのニュースなど、画面の下の方に例のミミズののたくったようなアラビア文字が猛烈な勢いで左から右に流れています。こんなもん、どうやって読んでいるんだろうと、いつも不思議に思っています。

一方中東の国々の都市の様子の写真などを見ると、いろんな看板がアラビア語で書いてあるんですが、何とも不思議な形をしていて、あのミミズののたくったような形ともちょっと違います。

そんなこんなでアラビア文字の読み方や書き方に興味を持って何度かトライしているんですが、最近もまたトライして、できるだけ簡単な本を借りてみました。そのうちの1冊がこの本の著者のカリーマさんの本でした。

なかなか面白かったのでさらにもう1冊読んでみようと思って、図書館の著者の索引で他の本を探したら、アラビア語の入門書何冊かとこの『イスラームから考える』という本がみつかりました。

この本はアラビア語やアラビア文字の本ではなく、むしろ著者がエジプト人の父と日本人の母との間に生まれ、エジプトで大学を出て日本で生活している、日本語も不自由なくこなせ、アラビア語も分かるイスラム教徒の女性だということで、ごく普通のイスラム教徒がどのように考え、感じているかを日本人に良く分かるように書いてある読み物です。

イスラム教徒が別に特殊な人達ではなく、ごく普通の人達で、イスラム教というのもそれほど極端な宗教ではなく、むしろかなり柔軟な宗教だ、ということが良く分かります。

イスラム教の女性がベールをかぶることも別にイスラム教の指導によるものではなく、これがどのような意味を持つのかということも、一般に考えられていることとまるで違うということも良く分かります。

イスラム教のモハメットが女性を尊重していたことも、その他コーランの中には通常何となく思っていることとまるで違ったことも書いてあることも良く分かります。

普通のアラブ人、イスラム教徒の本当の姿が分かると思います。

お勧めです。

井上ひさし、樋口陽一『「日本国憲法」を読み直す』

金曜日, 12月 4th, 2015

前回『「日本国憲法」まっとうに議論するために』という本を紹介しました。この著者の樋口陽一さんが面白かったのでついでに他の本も読んでみようと思って、図書館で借りてきました。

そのうちの一番読みやすそうな『「日本国憲法」を読み直す』という本を読みました。この本は小説家、劇作家、放送作家の井上ひさしさんとの対談で、憲法について話をするというものです。

井上ひさしさんと樋口陽一さんは、昔仙台一高の同期生だ、ということで、なかなか楽しい対談になっています。

ところがその内容はというと、樋口さんの発言が何とそこらの立憲主義の憲法学者の発言と同じになっています。

ちなみにこの『立憲主義』という言葉、調べてみると憲法を”the Constitution”というのに対する“constitutionalism”という言葉のようです。直訳すると『憲法主義』です。

“constitution”という言葉も『仕組み』とか『構成』とか言う位の普通の言葉で、これに定冠詞の“the”を付けると『憲法』になるというもので、これも直訳するのであれば司馬遼太郎さんの言葉でいう『(国の)かたち』という位の意味です。

ですから『立憲主義』というのは、言い直せば『(国の)かたち主義』ということになります。

これだけじゃ何のことか分からなくなってしまうので、いろいろ意味づけをしていくことになるのですが、それにしても立憲主義などと言う言葉の代りに憲法主義あるいは(国の)かたち主義という言葉を使うようにするだけで、いわゆる立憲主義の憲法学者の先生方の頭の固さがかなり緩和されるんじゃないか、と思います。

日本語は漢字を使って漢語を作ることができるので、いろんな言葉が作れます。それだけ言葉が豊かだというのは素晴らしいことなんですが、一方厄介なことにもつながります。

たとえば『ナショナリズム』という言葉、もともとの意味は『国民主義』という位の意味なのですが、これが『民族主義』とか『国家主義』『愛国主義』『国粋主義』とかいう言葉に翻訳されると、それだけでそれぞれ別々の意味を持ってしまいます。

英語を使っている人は”nationalism”という一つの言葉で議論しているのに、日本語を使う人はそれを訳した『民族主義』とか『国家主義』とか『国粋主義』とかいう言葉で議論するんですから、議論がおかしくなってしまうのも不思議じゃありません。

このあたり、外国語を翻訳した言葉を使うときは要注意です。

で、本題に戻ってこの本に登場する樋口さんの発言が、前に読んだ『「日本国憲法」まっとうに議論するために』の話とあまりにも違うので、その理由は何だろうと考え、次の3つの仮説を立ててみました。

  1. 『「日本国憲法」まっとうに議論するために』を読んだ時の私の読み方が間違っていて、実は樋口さんはずっとそこらのいわゆる立憲主義の憲法学者と同じ考えの人なんだ。
  2. この対談をした時、古くからの友人である井上ひさしさんを立てるために(井上ひさしさんというのは、いわゆる赤旗文化人の代表みたいな人ですから)井上さんが喜ぶように、樋口さんはいわゆる立憲主義の憲法学者のような発言をした。
  3. この対談をした時、樋口さんはまだ60歳になる前の若年で(この本は1993年の対談を本にしたもので、樋口さんはまだ60歳にもなっていません。私も65歳になると60歳位の人を若者よばわりしてしまいます)、その当時はいわゆる立憲主義の憲法学者と同じように考えていたんだけれど、その後20年も経って80歳を超えると、樋口さんもようやく本質がわかってきて、まっとうな憲法学者になった。

仮説1.が正しいとすると、私の本の読み方は何だったんだということになります。私としては仮説3.が正しくて、いわゆる立憲主義の憲法学者もその後勉強を続けていけばいつかは考えを改めて真っ当な憲法学者になるかも知れない、というふうに思いたいのですが、どうなるでしょうか。
そのように考えると何か希望が持てそうな気がしませんか。

うまく答にたどり着けるかどうか分かりませんが、もうしばらくいろいろこの人の本を読んでみるつもりです。

「日本国憲法」まっとうに議論するために

水曜日, 11月 25th, 2015

この本は樋口陽一さんという、本物の憲法学者が書いたものです。2006年に出版された本を、今年の安保法制に関連する憲法ブームに乗って大幅に書き足して、2015年9月に改訂新版として出版されたものです。

この本の内容は、神がかり的な憲法学者の書いたものと違って、真っ当なものだと思います。普通の憲法学者の言うことにはどうしても悪口を言いたくなりますが、この本に関しては意見は異なりますが、悪口を言うような所は見当たりません。

今年の安保法制をきっかけとする憲法ブームで新版を出しているように、著者は基本的に安保法制反対の立場で、自民党の改憲案にも閣議決定による憲法解釈の変更も反対なのですが、にもかかわらず、憲法の本質を勉強するには良い本だと思います。

司法試験や公務員試験のために憲法を勉強するということであれば、芦部さんの憲法あたりを勉強するしかないんでしょうが、そんな試験とは無関係に憲法について勉強してみたい、考えてみたいという人には、是非ともお勧めの本です。

憲法の本質を説明するために、イギリス・フランス・アメリカ・ドイツ・スイス等いくつもの国の歴史と実例をもとに憲法の基本的な考え方をきちんと説明してくれるので、とても良く分かります。

今回の安保法制でも、立憲主義の憲法学者や反対派の政治家などは、立憲主義の憲法というのは権力、すなわち政府に勝手なことをさせないためのものだ、という主張をしていますが、この本では違います。この本の立場は国民主権の憲法では主権者である国民に勝手なことをさせないのが立憲主義の憲法だ、ということです。

国民主権の憲法の主権者としての国民の責任を明確にしています。『自分のことは自分で決める』という生き方は『そんな面倒なことはご免だ、誰かに決めてもらった生き方に合わせてやっていく方が気楽だ』という生き方に比べて、はるかにしんどいものです。そして国民が皆様々な組織から切り離され『個人』という存在になるというのは、その個人となった淋しさに耐えることを強制することになります。この主権者としての辛さと、人権を保障される個人としての淋しさについてちゃんと書いている本は、私はこの本が初めてです。

明治憲法についても、5.15事件・2.26事件のあとの軍主導体制下だけを見た天皇主権憲法というそこらの憲法の教科書の記述と違って、明治憲法のできる前の伊藤博文と森有礼との人権に関する議論や、できたあと天皇機関説の話、それが天皇機関説事件でまるっきり別物に変えられてしまい、それが日本国憲法により復活したというあたりまできちんと説明してあります。

この本では『4つの89年』ということを言っていて、1689年『権利章典』、1789年フランス革命の『人権宣言』、1889年『大日本国帝国憲法』、1989年『旧ソ連・東欧諸国の共産党一党支配の崩壊』を並べています。ここでも憲法の流れの中で明治憲法の重要性を説明しています。

立憲主義の学者はとにかく『憲法を変えてはいけない』一点張りですが、憲法改正についても憲法改正限界論と憲法改正無限論について説明しています。『憲法改正限界論』というのは、憲法を改正する場合にも限界があり、『変えてはいけない』と書いてなくても、どうしても変えてはいけないものがあるんだ、という立場です。

『憲法改正無限論』というのは憲法改正には制限がなく、仮に憲法にこれこれは変えてはいけないと書いてあったとしても、その変えてはいけないとう部分を変えることにより何でも変えることができるという立場です。

この本ではどっちが正しいと言って一方の議論を押し付けるのではなく、二つの説を紹介して読者自身が考えるようにしています。

1973年に改正される前のスイスの憲法には『出血前に麻痺させることなく動物を殺すことは、一切の屠殺方法および一切の種類の家畜について例外なくこれを禁止する』という規定があり、動物愛護の規定のように見えるけれど、実はこの規定はユダヤ教徒の宗教上の慣行を禁止するために設けられ、信教の自由を阻害するためのものだったという話とか、憲法改正の国民投票は国民が一時の熱狂で暴走してしまう恐れがあり、ナチスの経験を踏まえてドイツの憲法の憲法改正の規定では意識的に国民投票を除いているなどという、私は聞いたことのない、なかなか面白い話も盛りだくさんに入っています。

本のサイズはB6版の小さな本で、本文が160頁位で日本国憲法の全文が後ろの方についています。5回に分けた講義形式になっているので読みやすい本です。簡単に読めます。

お勧めです。

ファインマンの物理学

火曜日, 11月 17th, 2015

学生の頃(多分高校生の頃)から夢だったファインマンの物理学、ついにこの9月に入手し、読んでいます。ちょっと高い本ですが、この年になればこの程度の贅沢は許してもらえるかな、と考えて、amazonの古本を1冊ずつ買うことにしています。

とりあえず第1巻『力学』の本文を読み終わった所でちょっと報告です。
本文を読み終わったとはいえ、このあと巻末に演習問題がなんと145問もあり、しかもその最初の部分に『優秀な学生でもこれをすっかり解くことができるとは思われない。』なんて書いてありますからこれを終えてから次に進もうなんて考えていると第2巻に進むのがいつになるか分かりません。次の第2巻にかかってしまって、同時並行的にじっくり時間をかけて問題を解いて行こうと思います。

読んでみて改めて良くわかったのですが、これは決して標準的な教科書ではなく、これを勉強したからと言って物理学の全体を勉強したということにならないだろうな、ということと、とはいえこれは素晴らしい本で、物理学の本質的な所を勉強するには良い本だなということです。

物理学の問題に対して本物の物理学者がどのようにアプローチするのかという、ふつう物理学の教科書には書いていないことが書いてあるので、楽しんで読めます。

第1巻はいわゆる『力学』なのですが、ごく当然の話のように特殊相対性理論を中心に話をし、ニュートン力学の世界はその特殊なケースという位置づけで話をしています。

この本は大学の新入生向けの教科書という位置づけなので、物理学で使う数学(ベクトル、ベクトルの内積・外積)も必要になる都度解説してあります。

で、この本で一番驚いたのが、第22章になるのですが、『代数』というタイトルの章で、複素数と対数の話をしているんですが、(この時代ですから筆算だと思いますが)数の平方根の計算はできるものとして、まずは対数の底を10とする常用対数を具体的にどのように計算するかという話をしていたかと思うと、いつのまにか自然対数の話になり、次には自然対数の底を(e)、べき乗を(^)、虚数√-1を(i)で表して、例の
e^(iθ)=cosθ+i・sinθ
という式があれよあれよという間に説明(証明)されてしまいます。

それも数学の教科書ではまず決してお目にかかれないような、いかにも物理学者というか物理屋さん(それも数学が得意な物理屋さん)らしい話の展開です。これをたったの15ページかそこらでやってしまうんですから何ともアッケに取られてしまいます。

第2巻は、『光・熱・波動』がタイトルになっています。
日本語版は全5巻ですから、まだまだ当分楽しめそうです。演習問題まで含めると何年がかりの読書になるか、楽しみです。

杉山茂丸『俗戦国策』

水曜日, 10月 21st, 2015

以前紹介した『百魔』と並んで、杉山茂丸の代表作です。
『百魔』が杉山茂丸の知人のそれぞれが主人公となる物語なのに対して、この『俗戦国策』は多数の知人が登場するんですが、杉山茂丸自身が主人公となっての話です。

市の図書館には在庫がなかったので県立図書館から借りてもらいましたが、昭和4年大日本雄弁会講談社から定価2円50銭で出ているものを読みました。この『大日本雄弁会講談社』というのは今の講談社の元々の名前です。講談社の名の通り、講談本のように、目次と見出しを除いて本文は全ての漢字に振り仮名が付いています。昭和4年の本ですから仮名使いは昔のものですが、内容が面白いので全く気になりません。結構やっかいな漢字も振り仮名付きなので安心して読めます。

明治10年、著者が14歳の頃の話から始まって昭和4年、この本が出版される頃までの話が677頁にわたって書いてあります。とはいえ、所々に挿絵が入っていて、それを見るのも楽しみで、あまり苦労しないで読むことができます。

登場人物は多岐に渡りますが、主として日本の政治・経済の話が多いので、伊藤博文・山県有朋・大隈重信・板垣退助・後藤新平・児玉源太郎などの人が良く出てきます。

この杉山茂丸という人は政・財界の裏で活躍した人なので、この本にしか出てこない話もたくさんあり、私の知らなかった話も多く、面白く読めました。とは言、この茂丸という人は別名『ホラ丸』とも呼ばれていた人なので、話の真偽のほどは分かりませんが。

日露戦争の時伊藤博文を人身御供にして日英同盟ができたとか、イギリスは実はフランス経由でロシアに金や武器を提供していたとか、戦後日英同盟は更新されたけど、最初の日本に優しい同盟が更新後は日本に冷たい同盟になっていた、などという話も書いてあります。

明治憲法ができた時の喜びもしっかり書いてあります。この杉山茂丸の勤王思想というのは、ちょっと独特なものですから、読んでみる価値があります。その立派な憲法を、藩閥政府も民権派の政府も一度も実施しようとしない、と言って、怒ってもいます。

あの天皇機関説事件についてもできればこの杉山茂丸の意見を聞きたい所ですが、昭和10年、ちょうど天皇機関説事件の真っ最中に杉山茂丸は亡くなってしまいますので、これは叶いません。

杉山茂丸の経済論も非常にユニークで現実的なもので、この本の中でも折に触れて出てきます。これも熟読玩味する価値があります。これが西洋流の経済学のどれに該当するものなのかも考えてみようと思います。

『戦国策』というのは大昔の中国の戦国時代に関する本ですが、この本は明治維新後の日本政界の戦国時代について杉山茂丸が知っていること、杉山茂丸だけが知っていることを講談あるいは漫談調で書いています。古い本なのでなかなか手に入らないかも知れませんが、是非読んでもらいたい本です。お勧めです。