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ケインズ・・・12回目

金曜日, 5月 3rd, 2013

さてこれまでで「消費」は限界消費性向により、所得から導き出すことができる。「投資」は資本の限界効率(投資に対する見込み利回り)と金利の大小で決まるということになりましたが、それでは次に「金利」はどのように決まるのかというのがテーマになります。

これに関してケインズの答は「流動性選好」というものです。すなわち手元にあるお金はいつでも自由に使うことができるけれど、それを投資のために貸し付けてしまうとそれが返ってくるまでは使うことができない、ということになります。この「しばらく自由にできない不便の対価が金利だ」ということになります。

これは言われてみれば至極もっともで、むしろ「何を今更」という気がしますが、ケインズによればこの考え方はケインズの前の古典派とはまるで違う考え方だということになります。

それではその古典派はどう考えていたのかということになりますが、ケインズによるとこうなります。すなわちお金を持っている人がいて、金利が低ければそのお金を貸そうという気持はあまりないけれど、金利が高くなればなるほどいくらでもお金を貸そうとする。一方でお金を借りて投資したい人がいて、金利が高いとあまり借りられないけれど、金利が低くなればなるほどいくらでもお金を借りたがる。そのお金に対する需要と供給で金利が決まる、ということのようです。
お金を遊ばせておいても何にもならないんだからとりあえず使わないお金はちょっとでも金利を稼ぐために貸し付ける、貸し付けないお金は消費に回してしまう、ということです。

これはこれで確かに理屈に合いますが、だからと言って金利が低ければいくらでも借り手がいるとか、金利が高ければいくらでも貸したい人が出てくるなんてこともなさそうで、古典派というのは本当にそんなことを考えていたのかなと思ってしまいます。

私が学者だったり研究者だったりすると、ケインズが言ってるように古典派の先生方はホントにこんなことを言ってたんだろうかと、それを確かめるために古典派の本かなんか読まなきゃいけないんですが、こちらは単に興味本位で本を読んでいるだけのヤジウマです。ケインズがこう言っているというのは、単に「ケインズはこう言っている」としておけば良いので、気楽なものです。ケインズも「古典派がこう言っているというのをはっきり示す文章はないけれど・・・」なんて言って、何となくそれらしいことを言ってそうな部分をいろんな本から引用するだけなので、本当にその意味かどうかはその引用されてる部分の前後をじっくり読んでみないとわからないな、という位なものです。

で、面白いことにこの「第14章 古典派の利子率理論」の中に「新古典派」という言葉が登場しています。「一般理論」のはじめの方に、「古典派のあとの人もひっくるめて古典派と言う」と言ってたのはどうしちゃったんだろう、と思ったりしました。

で、この章の中にこの「一般理論」の本の唯一の図が出てきます。ところがこの図は古典派の考え方を説明するための図で、「これこれこのように古典派の考え方は役に立たないんだ」と説明するためのものです。ということで、ケインズの考えを説明するための図は「一般理論」の中には一つもない、という何とも情けない話です。

この章の最後にケインズの考え方と(ケインズの言う)古典派の考え方の比較が書いてあります。
私流にまとめると
古典派 : 
「消費が減少すると→利子率が低下して→投資が増える」
ケインズ : 
「消費が減少すると→雇用が減少し→所得が減少して→投資が減少する」
となるんですが、スタートが同じで最終結果がまるで逆です。
さて、どっちが正しいと思いますか?

ちょっと寄り道-SNA

金曜日, 5月 3rd, 2013

ケインズの「一般理論」をしっくり読みながら、例の『所得=消費+投資』のあたりで、何となくどこかでこんなことを読んだような気がしていました。

しばらくしてこれはSNA(System of National Accounts)― 日本では通常【国民経済計算】という訳になっていますが、内容を正しく表現しようとしたら、【国民会計システム】と言ったほうが良さそうです。例のGDPを計算するシステムのことです。― のことじゃないかと思いあたり、それを確認するためSNA関係の本を調べていました。

結論から言うと、まさにその通りというか、SNA自体ケインズの「一般理論」の延長線上というか、ケインズの「一般理論」がマクロ経済学のスタートであれば、そのマクロ経済を具体的に計算する仕組がSNAというような関係になっています。

ケインズの「一般理論」ではまだ企業と消費者しか登場していないのですがこれに、政府だとか銀行だとかいろんなものが追加的に登場して、いずれにしても現実の国の経済の全体を数字できちんと計算するのですから、かなりいろいろ修正とか調整がなされているのですが、本質は「一般理論」と同じです。にもかかわらず、この「同じだ」ということを確認するのにえらく時間がかかってしまったのには、それなりの訳があります。

企業の会計では売上高にしても売上総利益、純利益にしても具体的なイメージがあります。
これに対してSNAでは「産出」「生産」から始まって、「所得」・「消費」・「投資」・「貯蓄」が出てきます。このスタートとなる産出・生産と売上高等との関係をきちんと説明してくれれば、それで何の問題もないのですが、SNAの教科書や解説書ではそこの所がイマイチはっきりしません。『産出』とか『生産』とか言えば、それだけで充分意味が明らかだ、とでも言うような書き方がしてあります。

結局何冊もの教科書・解説書を読んではっきりしたのは、【一定の期間内の企業の生産活動の結果の全体を『産出』という】ということになります。その産出のうち多くのものは期中に販売され売上になっていますが、そうでないものは製品の在庫・仕掛品の在庫・原材料の在庫となり、あるいは将来の生産活動のための設備投資となっています。このうち期始における在庫や設備投資は前期までの生産活動の結果ですから、これを除くことにすれば
 産出=売上高+在庫の増+設備投資の増
ということになります。これさえはっきりすれば後はすんなりわかります。

A社の商品をB社が購入して生産活動に使用し、その結果のB社の商品をC社が購入して生産活動に使用すると、C社の産出にはA社の産出活動の結果・B社の生産活動の結果が重複して加算されていることになります。そのためその重複を除いて、産出のうちから他の企業の生産活動の結果を除いたものを『生産』といい、
 生産=産出-産出のために他の企業から購入したもの
ということにします。
この『産出のために他の企業から購入したもの』のことを「中間投入」とよびます。
それで
 産出=売上高+在庫の増+設備投資の増
 生産=産出-中間投入
ということになります。

さて、企業が産出したものはその後どうなるか、というと、一部は他の企業に購入されて、その企業の生産活動に使われ、一部は消費者に購入され使用され、残りはその企業に残り在庫あるいは設備投資になりますから
 産出=他の企業に購入される分+消費者に購入され使用される分+在庫の増+設備投資の増

ここで「他の企業に購入される分」を『中間消費』とよび、「消費者に購入され使用される分」を『最終消費』とよんで
 産出=中間消費+最終消費+在庫の増+設備投資の増
となります。

ここで中間投入と中間消費は、購入する企業の側から見ると中間投入となるものが、販売する企業の方から見ると中間消費になりますから、社会全体で見ると、額は等しくなります。
そこで
 生産=産出-中間投入
    =産出-中間消費=最終消費+在庫の増+設備投資の増
 在庫の増+設備投資の増を『投資』とよぶと、
 生産=最終消費+投資
ということになります。

一方、生産活動の対価はどうなるかと言うと、中間投入に対してはそれを供給してくれる企業に代金を払います。また生産活動で働いてくれる人には雇用者報酬を払います。残りは企業の利益になりますから、
 産出=中間投入に対する支払+雇用者報酬の支払+企業利益
 生産=産出-中間投入=雇用者報酬+企業利益=所得
ということになります。まとめると、

 生産=産出-中間投入
    =最終消費+投資
    =雇用者報酬+企業利益=所得
ということになります。

これだけのことなんですが、困ったことに経済学の先生方は

  • 産出と生産をはっきり区別しないで、混合して使うことがある。
  • 中間投入と中間消費は社会全体で額は同じになるけれどまったく別物なのに、ごっちゃにして使われることがよくある。

ということで、さらには
生産の定義は『産出-中間投入』で、それが額として最終消費+投資に等しくなるだけなのに、日本ではこっちの計算式でも理論的には同じ額になるし、こっちの方が信頼性が高い値になる、ということで、
 生産=最終消費+投資
の式で計算しているようです。その結果いつのまにかこれが定義であるかのような説明になってしまっているので、『産出』は一体何なのか、<生産=最終消費+投資>は定義なのか等式なのか、はっきりしない、というような状況になってしまっています。

中間消費と中間投入は額は同じだけれど、まるで別のものです。たとえばお金の貸し借りで考えれば、貸した方から見れば貸付金、借りた方から見れば借入金ですから、社会全体で見れば額として【貸付金=借入金】になるのですが、だからと言って「貸付金と借入金は同じもの」だなんて言ったらとんでもないことになってしまいます。

ということで改めて、「経済学者の言葉の使い方はかなりいい加減なので要注意!」で、いずれにしてもSNAとケインズの一般理論が同じものだとわかってメデタシメデタシです。

ケインズの一般理論の方は概念的・理論的な話だけなのですが、SNAの方は具体的な膨大な数の数字の体系が何十年分もたまっています。それこそ本当に宝の山みたいなものです。この数字をあれこれ眺めてみるのも新しい楽しみです。

ケインズ・・・11回目

月曜日, 4月 22nd, 2013

前回紹介した第12章ですが、もう少し紹介します。

この章の第4節に、
 『我々は実際には市場の現在の評価は、それがどのような経緯でそうなったにせよ、投資利益に影響を及ぼす事実についての手持ちの知識との関係で見れば一意に正しく、そしてこの知識が変化する場合に限り、評価もまたそれに応じて変化すると想定している。』
という言葉があります。マーケットがどう動こうとニュース番組では、解説者がきちんとこれこれこういう理由でこうなった、と話してくれます。「こんなマーケットの動きはおかしい」なんて話は滅多に出てきません。これが上の文章の『一意に正しい・・・と想定している』ということです。ですから最初から「マーケットは正しい」と想定しての後づけの議論ですから、あまりあてにはなりません。その時その時でマーケットを正当化する議論を考え出さなきゃいけないので、解説者も大変だなと思いますが。

またこのように想定することにより、「ある投資物件の本当の価値を評価するなんてことはとてもできそうもないけれど、何かあったらどっちの方向にどれ位動きそうか・・くらいだったら俺でも評価できると思う」という人達がどんどんマーケットに参加してくるんですね。

ですから、ある投資物件が本当の所どのような価値を持つのかなんてことはどうでも良いことになってしまいます。今の価格が正しいと無条件に想定して、あとはそれが状況の変化に対してどのように変化するかということだけを考えるだけのことですから、
 『人がある投資物件はその期待収益から見て30の価値を持つと信じていても、同時に市場は3月先にそれを20に評価するだろうと彼が信じているのなら、その物件に25の支払をするのはどうかしているからである』
ということになります。

このような観察からケインズは、『賭博場は公共の利益のためには近づきにくく高価につくのが良い』と言って、『イギリスの市場がウォール街に比べて近づきにくく極めて高くついているからまだ罪が軽い』と言っているのですが、今ではロンドンも東京もニューヨークも同じようなものになっているのかも知れません。

ケインズはロンドンのマーケットの「場内仲買人の利ざやの高さ、売買手数料の高さ、移転税の重いこと」を非常に評価しているんですが、その後の現実はケインズの思いとは逆の方向に極端に進行して現在に至っており、デイトレーダーがコストの安さでいくらでも勝負をかけられる賭博場になってしまっているということなんでしょうね。

ここの所、ケインズはわざわざ(注)をつけて
 『ウォール街が活況を呈している時には、投資物件の売買の少なくとも半分は投機家が同じ日に反対取引を行なう意図で遂行されると言われている。』
なんて言っています。今のように一回の間に何回となく反対取引を繰り返すような状況を見たら、何と言ったんでしょうね。

建築施工管理の本

月曜日, 4月 15th, 2013

久しぶりにケインズ以外の本を紹介します。
「現場に学ぶ建築施工管理の実戦ノウハウ」という、堀俊夫/著・オーム社/刊の本です。
これも図書館の新着書コーナーにあった本で、面白そうなので借りてみました。

仮設工事・躯体工事・仕上工事・解体工事と、建築工事の様々な場面でどのような工事が行なわれ、施工管理者は何をしなければならないかが書いてあります。

著者は竹中工務店で様々な工事の建築管理をした人で、日本だけでなく海外の工事もいくつも経験しているとのことで、実際の成功例・失敗例を具体的に紹介しながら施工管理のやり方について解説しています。

私は別に建築にかかわったわけでも勉強したわけでもなく、単にビルの解体工事や新築工事を見ていて面白そうだなと思っているだけの素人ですが、この本を読んで解体工事や新築工事の現場で何が行なわれているのか、その時現場の管理者は何を考え、何をしているのかが、(何となく)わかりました。

様々な分野の異なる専門の職人さんが入れ代りやって来て、協力して丁寧な仕事を効率的に行なって立派な建物を作り上げる、その総合コーディネーターとしての建築管理責任者。発注元や設計者の相次ぐ設計変更に対応しつつ工期を管理し、追加工事費の取りっぱぐれを防ぐ、ゼネコンの代表としての現場管理者。天候の変化に対応し、事故に対応する現場の安全管理・リスク管理の責任者。仕入れた原材料が想定と違っていた時のリカバリーの仕方、国によって異なる商習慣や自然環境の違いにどう対処したか、等々。まさにすごい仕事をしてるんだなと感激しました。

私もそれなりにイッチョマエに仕事をしているつもりですが、この建築施工管理の現場責任者の仕事というのはとてつもないもんだなとあきれ果てました。

こんな本が突然目の前に出現するというのも、図書館で本を借りる楽しみの一つです。

ケインズ・・・10回目

金曜日, 4月 12th, 2013

さて前回書いた資本の限界効率、すなわち投資の利回り見込みですが、ケインズは金利とその見込みを比較して、金利の方が低ければその投資が行なわれ、それより低い金利がなくなるまで投資が増える、といっています。

ケインズの言う「金利」というのは、預金者にとっての金利ではなく、企業にとって投資資金を借りるための金利ということになります。

もちろん金利といっても期間の長短、借り手の信用状況、貸し手の資金状況によって様々ですが、この様々な全体を金利といっています。資本の限界効率、すなわち投資の利回り見込みについても、何に対して投資するか、将来の収益見通しに対する投資家の期待(見込み)によって様々になります。その様々な投資の利回り見込みと様々な金利の全体をぶつけると、金利の方は低い方から、投資の方は利回り見込みが高い方から次々に借入れと投資が組み合わされていき、投資の利回り見込みの最も高いものより一番低い金利の方が大きくなるまでそれが続く、というわけです。

貸し手・借り手がそれぞれ自分勝手に設定する金利・投資利回りが集まって実際の投資が行なわれるというわけですから、非常にダイナミックな具体的なイメージで、経済学の教科書という雰囲気はありません。

またこのような事情ですから、企業家の心理がちょっと変化するだけで投資利回り見込みが変化し、投資の全体量が大きく変化するということになります。

ケインズはこの投資家の利回り見込みについて、短期と長期に分けて議論します。「短期の見込み」というのは、今から製品を作って、それがいつ・いくらで売れるだろうかという見込みです。「長期の見込み」というのは、今から設備投資をして、それを使って将来製品を作って、それがいつ・いくらでどれ位売れるだろうかという見込みです。

この長期について第12章「長期期待の状態」という章をまるまる使っているのですが、これが何とも面白い章です。ケインズ流のウォールストリート型金融市場論ですが、この章だけは他の章とは別に独立して読める内容になっています。今ではウォールストリートだけじゃなく、全世界的に投機主体の投資市場が至る所にあって、そのすべてに当てはまる話です。

有名な美人コンテストの話も出てくるのですが、それ以上に、たとえば株式投資とかその他のあぶなっかしい投資市場についての基本原理が説明されています。ここで述べられていることは今でもそのまま通用する原理になっています。

投資する物や会社の価値をきちんと評価して投資しようとする人が必ず失敗する理由とか、価値をきちんと評価できない人が平気で投資できるのはなぜかとか、
「型を破って成功するより型通りのことを行なって失敗した方が、まだしも評判を失うことが少ない」とか
「我々の積極的活動の大部分は、道徳的なものであれ快楽的なものであれ、あるいは経済的なものであれ、とにかく数学的期待値のごときに依存するよりは、むしろおのずと湧き上がる楽観に左右される」とか
「企業活動が将来利得の正確な計算に基くものでないのは南極探検の場合と大差ない」(南極がまだ未知の大陸だった頃の話です)とか
「将来に影響を及ぼす人間の決定は、それが個人的な決定であれ政治的・経済的な決定であれ、厳密な数学的期待値に依拠することはあり得ない」とか
「個人の企業心が本領を発揮するのは合理的な計算が血気によって補完・支援され、その結果開拓者をしばしば襲う、すべてが水泡に帰すのではないかという想念が、ちょうど健康な人が死の想念を振り払うように振り払われる場合だけである」
とか、その他示唆に富む言葉がテンコ盛りです。

証券アナリストの必読テキストにしたい位ですが、そんなことをしたら証券アナリストになろうとする人が激減してしまうかも知れません。

この章(文庫本で27ページ)だけでも読んでみることをお勧めします。

ケインズ・・・9回目

木曜日, 4月 11th, 2013

さて続く第4編では、投資で所得を増やすためにどうやったら投資を増やすことができるか、そもそも投資が増えたり減ったりする要因は何かについて議論します。

最初に出てくるのが「資本の限界効率」という言葉です。何のこっちゃと思って読むと、これは投資した額に対してその投資の結果得られる収益の利回り、投資の世界で言う内部収益率(IRR)とよばれるものです。

ケインズの時代はともかく、今となってはもうこんな資本の限界効率なんて言葉をやめにして収益率にすれば良いのにと思うのですが、経済学の世界では未だにケインズに敬意を示してこの言葉を使い続けているようです。

で、この言葉の定義ですが、投資のために使うお金を「供給価格」と言い、その投資から得られる将来の収益を「期待収益」と言い、その期待収益の割引現在価値が供給価格と等しくなるような利率を、その投資に使った資本の「限界効率」ということになっています。

ケインズは結構細かい所までちゃんと考える人にようで、『一般理論』の全体を通じて将来のことは確定しているわけじゃないという意味で、全て「期待」という言葉を使っています。

この「期待」という言葉、日本語として本来の意味は、たとえば「今度のオリンピックがんばって下さいね。金メダル、期待してます」なんて使い方なんですが、英語ではexpectationという単語が使われています。このexpectationの方は「何とか予選は勝ち抜いてくださいね」とか「もしかすると1回戦で負けちゃうかも知れないね」とかも全てexpectationです。ですから日本語にするのであれば「期待」というより「見込み」とか「見通し」とか「見積り」と言ったほうがしっくりくるかも知れないのですが、勿論時には「期待」という意味で使ったりもします。

そこで英文を日本語に訳すときに訳者は悩むのですが、expectationをその場面場面でそれぞれ適切な日本語にしていくと元々原文で同じ言葉を使っていたということがわからなくなってしまい、一つの言葉を何通りにも違った言葉に変えてしまうことになります。それはまずいというので、一つの原文の単語はできるだけ一つの訳語に統一しようとすると、日本語としてちょっと意味が違ってきてしまいます。

『一般理論』の正式名称「雇用、利子および貨幣の一般理論」の最初にある「雇用」という言葉も同様です。原文ではemployment(動詞ではemploy)という言葉で、確かに「雇用」という意味ではあるのですが、それだけじゃなく、この原料を使ってこの設備を使ってこの製品を作ります・・・なんて時の「使って」というのも時としてemployという言葉で表現されます。この原料を雇用してこの設備を雇用してこの製品を作ります・・・なんて訳すと何とも奇妙な日本語になるのですが、原文では同じemployという言葉だと意識して使っているのを、ある時は「雇用」、ある時は「使って」とか「利用して」とか訳すというのも抵抗があるようです。

とまあそんなわけで、この一般理論で「期待」と言う言葉は基本的にexpectationという言葉ですから、「こうなると良いな」「こうなってもらいたいな」という意味ではなく、「こうなるかもしれないな」「こうならないと良いな」「こうなると困るな」という意味も含んだ言葉だと理解する必要がありそうです。

ですから「資本の限界効率」というのも、「投資の利回りの見込み、見通し、見積り」くらいの訳が一番正確なのかなと思います。

ここでケインズがすごいのは「供給価格というのは市場価格とは違うよ」といって、きちんと定義している所です。

ケインズの定義は、それを購入した時、製造業者が一個売れたんだからその分もう一個作ろうと思うような価格だということです。これは製造業者が「一個売れたんだからこれは儲かりそうだから、もっとたくさん作ろう」と考えたとすると、その値段は高過ぎるということだし、「たまたま売れ残りがあったからこの値段で売ったけど、もうこれ以上この値段で売るんじゃ儲からないから新規に作るのはやめておこう」と考えたとすると、その値段は「安過ぎる」ということになります。

そのどちらでもない、「高過ぎも安過ぎもしない値段で買ったとした時の利回りの見込みのことを資本の限界効率と言う」と、ケインズは定義しています。ここまでちゃんと考えるというのは大したもんだと感心します。

このexpectationですが、誰が期待するのか見積もるのかということですが、ケインズは明確に消費者や企業や投資家、すなわち実際に消費したり投資したりする人々がそれぞれ自分勝手に期待し見積もるのがexpectationだと言っています。誰か頭の良い人が皆の代わりに考えるのじゃなく、皆がそれぞれ自分勝手に希望や悲観を交えながら見込むてんでんばらばらのその全体のことを、この本では「期待」という言葉で表しています。

ケインズ 8回目

火曜日, 4月 9th, 2013

さてこの第3編のタイトルとなっているこの『消費性向』という言葉ですが、ケインズが使っているのは普通のこの言葉の意味とはちょっと違います。『消費性向』という言葉をネットで調べたりすると『可処分所得のうちどれ位の割合が消費に回るかという率』くらいの意味が出てきます。ケインズが言っているのは『所得と消費は関係している。どっちかが変化すればもう一方も変化する。その関係あるいは関数を、消費性向と言う』ということです。

で比率の方はというと、『限界消費性向』と言う言葉と『平均消費性向』という言葉と二つ追加的に用意して、これは比率です。所得がちょっと増減した時に消費もちょっと増減する。その両方の増減の比を限界消費性向といい、全体の所得に対する全体の消費の割合を平均消費性向と言います。

ただしケインズの所得というのは企業の利益と消費者の所得の合計のことですから、注意して読む必要があります。「普通、所得が増えれば消費も増える。だけど所得が増えた分まるまる消費が増えるのじゃなく、その一部でしかない。」というのがケインズの言っていることです。

ここで所得というのが消費者の所得のことであれば何となくそんな気もしますが、ケインズ流に所得というのは『企業の利益と消費者の所得の合計だ』となると、ほんとにそうかな?と思ってしまいます。

企業はちょっと儲かったけれど将来の見通しがまだはっきりしないので賃上げには応じないし、雇用も増やさない。消費者の所得は変わらないけれど、企業はちょっと利益が増えた。そんな時、その合計の全体の所得が増えたからといって消費者が消費を増やすだろうか、というのはごく自然な疑問です。

このようなことは我々がバブルがはじけた後の日本の状況を知っているから言えることで、ケインズが考えていたのは多分、全体の所得が増える時は企業の利益も労働者の所得も両方増える(もちろん増える比率は違っていたとしても)。全体が減る時はそれぞれも減る、という普通の状況を前提としていた、と考えれば納得できます。

で、この限界消費性向を使って『消費あるいは投資を増やした時、所得も増える』という話をします。その付録として『投資の増え分に対して所得の増え分が何倍になるか』という、いわゆる『乗数』というものを持ってきます。

この乗数については、Aさんの所得が増えるとそれが消費にまわってBさんの所得が増える。するとその一部が消費に回ってCさんの所得が増える・・・と、『風が吹けば桶屋が儲かる』式に次々と芋づる式に少しずつ利益が増え、その全体を合計すると乗数倍になる、なんて具合の説明があります。

話としては面白いのですが、ケインズの乗数はこんな話ではありません。このぐるぐる回りの説明はサミュエルソンの経済学の中で使われていて、そのため皆がこれをケインズの乗数の理論だと思いこんでしまったようですが、実はケインズが一般理論を書いたすぐ後にもこのぐるぐる回りの説明をした人がいました。

『一般理論』の中ではケインズは明確に『これとは違う』と書いているにもかかわらず、このぐるぐる回りの説明をした友人に対して『確かにそれが私の乗数と同じです』というようなことをケインズ自身言ってしまっているようです。それでその人は自信を持って『これがケインズの言っていることだ』と説明し、その後サムエルソンの経済学が大ベストセラーになってネコも杓子も知っている話になっているようです。

どうもケインズというのはこういう所ちょっといい加減な人のようで、それも『一般理論は難解だ』ということになっている一因のようです。

ケインズの乗数はこんなに回りくどいぐるぐる回りの話ではなく、単純明確です。
所得を(Y)・消費を(C)・投資を(I)と書くと
  Y=C+I
という式はいつでもどこでも常に瞬間的に成立ちます。
そこで△Y・△C・△Iをその増分とすれば
  △Y=△C+△I
もいつでもすぐに成立ちます。そこでその比をとって
  △C/△Y
を限界消費性向と言う、ということになっています。

このような重要なものは、物理や化学だったらすぐにでも共通の記号を誰かが決めるんですが、経済学では『限界消費性向』という言葉は共通に使うのに、それをあらわす記号が決まっていないようです。で、仕方なくこれをαとします。
  △C/△Y=α ですから、
  △C=α・△Y
  △I=△Y-△C=△Y-α・△Y=(1-α)・△Y
  △Y=[1/(1-α)]・△I
ですから、K=1/(1-α)とすると
  △Y=K・△I
すなわち、投資が△I増えると所得はそのK倍増える。
そのK を乗数と言う。

これがケインズの乗数(投資乗数)です。
  K=1/(1-α)ですから、逆に解けば
  α=1-1/K
となります。αでもKでも一方が決まればもう一方も自動的に決まります。
ケインズは数学が得意な人ですから、1/(1-α)倍と言えば良いのにわざわざK倍と言いたいなんてことは考えません。一応乗数という言葉を使った友人の顔を立ててこの言葉は使ったけれど、大事なのは限界消費性向の方で、乗数に言い換えることにはあまり関心がなかったように思えます。

さて、この限界消費性向のα=△C/△Y、あるいは△C=α・△Yですが、このままでは単なる割算で何の意味もありません。ケインズが言いたいのは△Yや△C、△Iが小さい時(すなわちあんまり大きな変化がないうち)はこのαがあまり変化しないということです。

単なる割算なら、α=△C/△Y、△C=(△C /△Y)・△Y というだけで何の面白いこともないのですが、αがあまり変化がないということであれば、そのあまり変化がない間についてはαが一定だと考えても良いことになります。

そうすると、
  △C=α・△Y
  △I=(1-α)・△Y
ということになります。

すなわち、皆がちょっと節約して貯金しようとして消費を△Cだけ減らすと、社会全体の所得が(1/α)・△Cだけ減ってしまう。貯蓄は(1-α)/α・△Cだけ減ってしまう。すなわち貯金しようとして消費を減らすと貯蓄も減っちゃうよというお話になります。

逆にいえば、消費や投資を増やすとそれ以上に所得を増やすことができる、ということです。
αはふつう、0と1の間の数で、1の方に近い数だ、という経験から、(1-α)は0に近い数になり、1/(1-α)は大きな数になります。すなわち、ちょっと投資を増やすとその何倍も所得が増えるよ、ということです。

この投資を増やす手段として、ケインズはいろんな例を挙げています。
ピラミッドの建設、地震、戦争を挙げた後、よく知られている紙幣を瓶に詰めて廃坑に埋め、その穴を地表まで埋めた後で採掘権を入札に掛ける、というアイデアを出します。
そして最後に、『古代エジプトは貴金属の探索とピラミッドの建設という二つの活動を持った点で二重に幸運だった。』『それが消費されることによって人間の用に供するというものではなかったため、潤沢のあまり価値を減じることがなかったからである。』『中世には大聖堂が建立され、ミサ曲がうたわれた。』『二つのピラミッド、死者のための二つのミサ曲は、一つのピラミッド、一つのミサ曲に比べれば良きこと二倍であるがロンドン-ヨーク間の二本の鉄道についてはそうはいかない』『子孫のために彼らの住む家を建てよう、そのためには彼らに余分の「財政」負担をしてもらわなければならない、そう決断すればいいものを、その前にあれこれ余計なことを考えてしまう。だから我々は失業という苦境から簡単には抜け出すことができないのである。』など、味わい深い文章がたくさんあります。
『ありがたいものだけれど何の役にも立たないもので、作るのに大金がかかって使いべりしないもの』というのは今だったらどんなものだろう、と考えてしまいます。

ケインズ 7回目

木曜日, 4月 4th, 2013

さて
  所得=消費+投資
  貯蓄=所得-消費
  貯蓄=投資
という形で式の数は3つ。変数の数は4つですから、これだけでは一般に式を解くことはできません。さらに3番目の式は1番目の式と2番目の式から導くことができるので、実質的に式の数は2つ、変数の数は4つで、数学的に言うと自由度が2となります。

これだけでは式を解くことはできないのですが、しかし、所得・消費・投資・貯蓄が勝手に動くわけには行かず、常にこれらの式を満たしていなければならないという制約下にあるということです。

この関係式を道具として、ケインズはいよいよ経済活動の実態に切り込んでいくことになります。

ケインズにとって経済活動の目的は「消費」ですから、どうすれば消費を伸ばすことができるか、というのが当面の課題です。

ケインズがこの本を書いたのは、アメリカの大恐慌の後、世界中に失業者が満ち溢れていた時代です。山ほど失業者がいる時に「消費を増やそう」と言っても、そのためには労働者の所得が増えなければどうにもなりません。そこでケインズは消費を増やすために、まずは「所得を増やすこと」、そのために「雇用を増やすこと」に目標を変更します。

ケインズによると古典派の経済学では失業(非自発的失業すなわち働きたくても仕事がないということ)はあり得ず、失業者は皆給料が低いのを我慢すれば仕事が手に入るのに、もっと高い給料を要求して失業しているということになるようですが、その当時現実にどんなに給料が低くても良いからと言っても仕事にありつけない失業者が山のようにいたわけで、そこでどうして失業が生じるのか、失業を減らす雇用を増やすためには何をどうすればいいのかというのが、ケインズが古典派を裏切って一般理論を書いた理由ということのようです。

企業や消費者の経済活動のうち、自分で自由に意思決定できるのは消費と投資です。消費者は消費するかそれをあきらめる、あるいは先送りするか、自由に決めることができます。企業は投資するかしないか、自由に決めることができます。所得の方は、労働者は雇ってくれる企業がなければ所得を得ることができません。企業は製品・商品・サービスを買ってくれる企業や消費者がいないと所得を増やすことができません。

そこで企業や消費者が自分で意思決定できる投資や消費を増やしたり減らしたりしたら、その結果として所得はどうなるか、という分析が大きなテーマとなります。

ケインズはまず第3編「消費性向」という所で、消費(や投資)を増減させることによって所得がどう変化するか、検討します。続く第4編「投資誘引」という所で、今度は投資を増減させる原因は何か検討し、その中で金利(利子率)がどのような役割を果たしているか、金利(利子率)はどのように決まるのかを検討します。

『アジア独立と東京五輪』

火曜日, 3月 19th, 2013

私の友人の浦辺さんの4冊目の本、『アジア独立と東京五輪』を読みました。

1964年の東京オリンピックにインドネシアのスカルノ大統領が送った選手団が、政治的な理由によりオリンピックに参加することができずそのまま帰国したというエピソードを締めくくりに、それまでの日本とオランダ・インドネシアの3国の関係を解説しています。

2020年のオリンピック東京招致が今話題ですが、「オリンピックがいかに政治的な催しなのか」ということを考えるヒントになるかも知れません。

私も浦辺さんと一緒に昔オランダ資本のING生命で働いたことがあり、私にとってはオランダは昔から興味の対象の一つです。
そのオランダが植民地として支配していたインドネシアは、太平洋戦争が始まると日本が占領してオランダ人を排除し、日本が戦争に負けたあとオランダが再度植民地としようとした時、インドネシアの独立戦争に日本の兵士達が多数参加して活躍したとか、あるいは江戸時代の鎖国の日本が貿易を続けていた唯一の西洋の国オランダにとって、アジア貿易で大半の利益を稼いでいたのが対日貿易で、その拠点だったのが植民地インドネシアだった話とか、あるいは三浦按針や八重洲通りの名前の元となったヤン・ヨーステンを乗せたオランダの貿易船リーフデ号が日本に流れ着き、その乗組員が関が原の戦に参加した話とか、長崎の出島の話とか、面白い話がたくさん入っています。

歴史に興味がある方にはお勧めの一冊です。

ケインズ・・・6回目

金曜日, 3月 15th, 2013

3回目の記事でケインズの所得=消費+投資について会計の方からのアプローチで確認したという話をしましたが、ケインズのアプローチはこれとはちょっと違っています。そしてケインズはその結果としての等式もさることながら、そのアプローチ自体についてもかなり重視していたようなので、これについて書いてみます。

通常会計では、企業の所得、すなわち利益について
  利益=売上-売上原価-経費
という形で計算するのですが、ケインズ流のやり方は
  利益=売上-使用費用-要素費用
という形で表されます。

使用費用にしても要素費用にしても何ともわかりにくい言葉なんですが、文章をちゃんと読めばはっきりわかるように書いてあります。

「要素費用」というのは「生産要素費用」ということで、企業が利益を上げるために他に払った費用のうち、他の企業に払ったものを除くものというくらいの意味で、その払った相手のことを「生産要素」とよび、その生産要素に払った費用という意味で「要素費用」というようです。ちゃんと「生産要素費用」と言ってくれると、確かに2文字余分にかかりますが、はるかにわかりやすくなるように思います。

今考えているのは労働者と企業だけなので、結局要素費用というのは労働者に払う労賃、あるいは人件費のことになります。

もう一方の使用費用というのは、設備・在庫の使用費用ということになります。ここでも使用費用だけじゃあ何のことかわかりませんが、設備・在庫使用費用、と言ってくれレはそのままなんとなくわかるような気がします。

企業が労働者に支払うお金と起業に払うお金と、利益との関係はどうなっているかというと、
  期始の設備・在庫+労働者に払うお金+企業に払うお金
     =期末の設備・在庫+期中に使った設備・在庫(売上原価)+経費
ですから、
  売上原価+経費=労働者に払うお金+企業に払うお金+設備・在庫の減
  利益=売上-売上原価-経費
     =売上-労働者に払うお金-企業に払うお金-設備・在庫の減
となり、労働者に払うお金=要素費用ですから、
  使用費用=企業に払うお金+設備・在庫の減
ということになります。

すなわち、企業が売上で利益を上げるために労働者にいくら払った、他の企業にいくら払った、設備・在庫をいくら使った、この3つを売上から差引けば良いということです。
  企業の利益=売上-労働者に払ったお金-企業に払ったお金-設備・在庫の減
ですから、これを社会全体で合計するんですが、ここで企業に払ったお金の部分は受取った企業の売上ですから、それを相殺すると
  企業の利益=売上-労働者に払ったお金-企業に対する売上-設備・在庫の減
          =消費者に対する売上-労働者に払ったお金-設備・在庫の減
          =消費-労働者の所得+設備・在庫の増
で、
  企業の利益+個人の所得=社会全体の所得=消費+投資の増
となって、めでたしめでたしです。

ここで使用費用として、【企業の払ったお金+設備・在庫の減】としているのは、別にむりやり合計しないで別々にしたままでも良さそうな気もしますが、ケインズはたとえば財・サービスの売り手の企業と買手の企業が合体してしまった時のことを考え、そうなると企業に払ったお金というのは消えちゃうし、設備・在庫も一方の企業で減った分、もう一方の企業で増えるということで、この二つを合計したものをまとめて【使用費用】と言っているようです。

会計の立場からは、労働者に払ったお金・企業に払ったお金がどのように原価になり、どのように経費になるかという細かい所が気になりますが、マクロ経済学の立場からすると、もっと遠くから全体の流れを見て、企業が売上を上げるのに労働者や企業にいくらのお金を払い、また設備・在庫が結果としていくら増減したかということだけ見れば良いということのようです。細かいことは全て設備・在庫の残高の計算に任せてしまえば、これでも充分だということですね。

こんな見方はじめてなので、ちょっと感動ものですね。

でも、よく考えてみれば、【利益=売上-売上原価-経費】というのは、損益計算書の見方ですが、【利益=売上-労働者に払ったお金-企業に払ったお金-投資の減】というのは貸借対照表の見方ということもできます。

売上による資産の増から、労働者に払ったお金・企業に払ったお金による資産の減・投資の減による資産の減を差引いたものが利益だ、というわけです。

このように考えれば通常、損益計算書と貸借対照表とでは整合性が取れていますから、損益計算書の利益と貸借対照表の利益とは等しくなり、両方の式がどちらも正しい、ということになります。

この使用費用・要素費用という言葉はいろんな所に使われています。要素費用の方は、要するに労賃と考えていれば良いのですが、使用費用の方は、時にこれで企業から他の企業に対する支払いを意味したり、設備投資のことだったり、その減価償却費のことだったり在庫投資のことだったりしますから、その都度その意味を確認しながら読む必要がありそうです。