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マルクスの『資本論』と『経済学批判』-その2

水曜日, 6月 22nd, 2011

前回「止揚」と言う言葉が出てきた話をしましたが、そのちょっと前に(文庫本「経済的批判」42頁)

『商品は、小麦、リンネル、ダイヤモンド、機械、等々の使用価値であるが、それと同時に、商品としては、それは使用価値ではない。』

という文章があります。
これだけでは理解不能な文章ですが、これは日本語訳の問題ではなく、英訳でもこれと同じように書かれています。

一見すると禅問答みたいな訳の分らない内容ですが、これは単にマルクスが論理的な文章を書くことができなかった、というだけのことで、マルクスが禅問答をしているわけではありません。

この文章の中味をきちんと書くと

商品には小麦、リンネル、ダイヤモンド、機械、等々のようにそれぞれに使用価値がありますが、と同時に(商品を売買するという視点から見ると)それは(使用価値のために売買されるのではなく交換価値のために売買されるのですから)使用価値(だけ)ではない(ということになります)。

ということになります。()は私が追加した部分です。

我々はごく普通に日本語を使いこなしているので、言葉を論理的に使うのはごく当たり前のことだと思いがちですが、実は日本語というのは世界でも珍しく論理的な使い方のできる言葉のようです。

日本語には「和語」と「漢語」という区別があり、言葉の使い分けができます。明治維新のとき、西洋文明を一気に輸入するため、大量の言葉を漢字の熟語として発明しました。中国語にはない言葉を漢字の組合せにより新しい言葉として発明し、日本語で表現できる範囲を一気に広げることができたわけです。そしてその際、和語と漢語の使い分けにより具体性の高い表現と抽象性の高い表現を使い分けることに成功したということです。

おなじようなことは英語でもあって、元となるゲルマン語にフランス語やラテン語の単語を導入し、元のゲルマン語の部分を具体性の高い言葉とし、フランス語やラテン語由来の言葉を抽象性の高い言葉として使い分けることにより、英語の表現力を拡大したということのようです。

もちろん輸入された中国語・フランス語・ラテン語が抽象性が高いということではなく、それぞれの国語では具体性の高い言葉なのが、輸入される過程で、抽象性の高い言葉に変化させられたということです。

ラテン語でもローマが発展する時にすでに先に進んでいたギリシャ語を輸入する過程で、同じような言葉の使い分けに成功して、論理的な表現ができる言葉になったようです。

その点英語に比べてドイツ語はよその言葉の輸入があまりうまく行かなかったのか、論理的表現が難しいのかもしれません。

私は大学で数学を専攻しました。数学というのは世間では論理的な学問だと誤解されていますが、実はそれ自体はそれほど論理的、というわけでもありません。ただし数学というのは「論理的な表現」にはトコトンこだわる学問です。数学の教科書や論文が論理的に書かれてないと、それだけで最初から問題にされない、というものです。
研究の途中経過では必ずしも論理的、というわけでもありませんが、出来上がったものを発表するときは論理的に表現しなければならない、ということです。
ですから論理的な表現にはそれなりにこだわりがありますので、論理的な表現に直すなんてことも苦手ではありません。

でもいきなりこんな「商品は・・・使用価値であるが・・・使用価値ではない。」などという文章を見せられると意味がわからなくて、その「わからない所がありがたい」という信仰の対象にするか「何を寝言言ってるんだ」と放りだしてしまうか、どちらかですよね。

このように、わけのわからないこんな文章も、マルクスが言おうとして言えなかった部分を補いながら読んでいます。

「論理的な表現」といった所で、別に特別なものではありません。重要なのは同じ言葉を違う意味で使わないようにすることと、同じことを違う言葉で表さないようにすることです。同じことを違う言葉で表さないという方は、それに反しても単にめんどくさくなるだけでそれほど害はありませんが、同じ言葉を違う意味で使う方は、これをやるとあっという間にわけがわからない文章が出来上がります。

とはいえ現実には辞書を見れば一つの言葉が①,②,③・・・といろんな意味を持っているわけですから、実際には一つの言葉の意味を一つだけ、とするのは難しいことです。だからと言って、その都度①、②、③・・・を付けて「商品(意味その①)は・・・であって、商品(意味その②)は・・・でない」なんて書くわけにはいかないので、現実的な対応策としては、ある言葉を使う時それがどの意味で使われているのかはっきりわかるように書く、ということです。
上の私流の書き直しはそれをもう少しわかりやすく書きなおしたものです。

この本では矛盾と言う言葉もどうも我々が「矛盾」という言葉で思っている意味だけで使われているわけではないようです。多分せいぜい「二面性」くらいの意味で使われているようです。

我々は「矛盾」というのは「二律背反」というように理解しています。「二面性」は普通、「矛盾」とは言いません。で、英訳はどうかな?と思うと、これは「contradiction」となっているようです。
英語の「contradiction」が日本語の「矛盾」という意味なのか、それとも「二面性」という意味もあるのか調べてみる必要があるかも知れません。
多分、英語の「contradiction」は本来的に「矛盾」という意味なのだけれど、マルクスの原文がこの「contradiction」と同じ意味のドイツ語の言葉を使っているので、英訳する場合も「contradiction」とせざるを得なくなって、結果としてこの英訳の文章でだけ「contradiction」が「二面性」という意味に使われることになってしまったのかなと思います。

もうひとつ、この本では「対立」という言葉も良く出てきます。この言葉も我々が普段使っているのとは違った意味で使われているようです。英訳の方で見てみると、「対比してみてみる」というのも「対立」となっていますし、さらに「差異」あるいは「違い」という言葉もたとえば「AとBの違いについて・・・」が「AとBの対立について・・・」となっています。

これもわかってしまえばそれなりにそのように読めば良いだけのことですが、知らないと何が何だかわからなくなくってしまいます。
いろんな言葉を普通に我々が使うのと違う意味で使っています。これも、そのように説明してくれればいいのですが、基本的に言葉の意味の説明、というのはありませんから、その言葉の出てきた前後を読んで、どんな意味なのか推測する、ということになります。
たいていそれではわからないので、英訳を見てその言葉がどんな英語の言葉で訳されているか調べます。英語の言葉がわかれば、その日本語の言葉がどんな意味で使われているか、大体わかります。

そういえば何十年か前、学生運動華やかなりし頃、真面目な学生さん達は何かというと教授会と対立したり大学当局と対立したり、社会全般と対立したりしていましたが、もしかするとそれもこんな日本語に振り回されていたのかも知れないな、とちょっと懐かしい思い出です。
私は対立が好きじゃないので、根性なしのノンポリで通していたのですが。