Archive for 6月 29th, 2011

マルクスの『資本論』と『経済学批判』-その4

水曜日, 6月 29th, 2011

いよいよ「経済学批判」が終わって、「資本論」に戻ってきました。また始めから読み直しです。

「経済学批判」も本文が終わった所でそのあと山程の付録があるのですが、とりあえずそれは無視です。

目次を見ると「資本論」の文庫本1冊目は「経済学批判」とほぼ同じ内容になっています。「経済学批判」のあと、マルクスが大英博物館の図書室にこもって勉強した成果が「資本論」にどのように反映されているかも楽しみです。

ここでは「経済学批判」の最後の方の部分について、コメントします。

前回のコメントから、内容はマルクスの貨幣論になっているんですが、貨幣論については未だに「これだ!」という納得できる理論が見当たりませんから、マルクスの貨幣論にそれほど期待しているわけではありません。
むしろこの難問に対して、マルクスがどのように四苦八苦しているか見てみたいというのが興味の対象です。

読んでいて、途中で「支払手段」という言葉が出てきました。その前に出てきている「流通手段」という言葉に対して使われているようです。その内容は商品を買うのにお金と引き換えに買うような場合、そのお金のことを商品を流通させる手段だということで、「流通手段」と言っているようです。

商売が発達してくると、商品の売買は必ずしも商品とお金の交換ということではなく、商品の引渡しと代金の支払いが別々になっていきます。この段階で、商品の引渡しとは独立した「代金の支払いのために使われるお金」のことを「支払手段」と言っているようです。

代金を「前払いしたり後払いにしたり」というのはごく当たり前の話なので、わざわざ区別しないでもと思うのですが、理論的(あるいは哲学的)には、このように区別した方が扱やすいんでしょうね。

アダムスミスの「国富論」は、どちらかと言うとイギリスを中心とした経済が発展している国の、実際の経済活動を考察しているという内容なんですが、マルクスは経済活動がまだ発展していないドイツの人で、なかなか実際の経済活動を見ることができないので、その代りたくさんの経済学の本を読んで、その本の内容を哲学的に分析し、批判するというのがこの「経済学批判」ということなんだろうなと思います。その対象となる本はイギリス、フランスだけじゃなく、ギリシャ・ローマ時代の本まで入っていますので、大変です。私には哲学的な議論より実際の経済活動の方が面白いので、「国富論」の方が好きです。

この「経済学批判」もそうですが、「資本論」も最後に山ほどの索引が出ています。それも「事項索引」「人名索引」「文献索引」に分れていて、「資本論」の文庫本9冊目はその半分が索引になっています。

大英博物館にこもって本を読みまくった効果か、「経済学批判」に比べて「資本論」の方の文献の数は本当に膨大なものです。
仮に引用するために引用している部分だけを読むとしても、とてつもない時間がかかるだろうなと思わせるような文献の数です。

で、その引用文献の著者の中に、『マルティン・ルター博士』という人が出てきました。あれっ?と思ったのですが、年代その他から、これはやはりあの宗教改革のルターのようです。普通日本ではルターと呼び捨てで、博士なんてタイトルをつけることがないので、なおさらちょっと不思議な気がします。同じドイツの人ということなのでしょうが、私は今までマルクスとルターという組合せについては全く知らなかったので、新しい発見です。

ルターは「経済学批判」では何ヵ所か登場するだけですが、「資本論」の方ではかなりの回数登場してるのが、索引を見るとわかります。

「世界貨幣」という部分で、各国の貨幣は国境を超えては通用しないので、貨幣は金または銀の地金に変えて通用させなければならない。金や銀だけが世界貨幣なんだ・・・なんてことが書いてあります。
今のように、ドル・ユーロ・ポンド・円・元など世界各国のペーパーマネーがそのままで各国で通用する時代を見たら、マルクスは何て言うんでしょうね。

本文の最後の(注)に、

『貨幣の資本への転化は、第3章すなわちこの第1篇の終わりをなす章で考察されるであろう。』

となっているんですが、この本にはその第3章がありません。その代り「資本論」の方にはこの「貨幣の資本への転化」が第2篇となって、文庫本の1冊目にはちょうどそこまでが入っています。

まずは「資本論」文庫本1冊目、「経済学批判」と読み比べてみましょう。楽しみですね。

斑目さんの『人災』発言

水曜日, 6月 29th, 2011

原子力安全委員会の斑目さんが今回の原発事故について、「人災だ」と言っていることが取上げられています。
これもいかにも学者らしい発言ですね。

斑目さんは事故が起きてからの現場の対応を「人災」と言っているわけではなく、事故が起きる前のルール作りとか事前準備とかについて「人災」と言っているようです。だとすると自分が委員長をしている原子力安全委員会も人災のうちです。

ビジネスの世界では責任を認めた途端「金を払え、職を辞せ」となるのは当然の話なのですが、斑目さんは自分の全財産を差し出して身を引くなんてことを考えているわけでもなさそうですし、この「人災」発言を聞いている議員さんもマスコミもそのことを要求しようともしていないようです。

仮に誰かがこの「人災」発言を受けて、斑目さんに「それじゃあ全財産を賠償のために差し出せ」と言ったとすれば、斑目さんが「全財産差し出します。」と発言したとしても「自分個人の財産は差し出しません」と答えたとしてもニュースになって当然だと思うのですが、そのあたりについて何のニュースにもなっていないことからすると、そんな問いかけをする議員さんもマスコミもいないということでしょうか。

斑目さんは学者ですから、自分の財産を投げ出すなんてことは考えてなくて、単に今までのやり方を反省し、これからもっと厳しいルール作りを自ら率先してやりたいと考えているんでしょう。

このように自分の発言の重さについて無感覚だというのは学者には良くある話ですが、マスコミもだらしがないですね。

このように無邪気にいろいろ反省する人の発言がマスコミで取上げられるのを見ると、がっかりですね。

小林秀雄が敗戦後、戦時中に文化人として戦争に協力したことについて「頭の良い人はたんと反省するがいい。僕は馬鹿だから反省しない」と啖呵を切ったのが懐かしいですね。

東電の株主総会

水曜日, 6月 29th, 2011

東京電力の株主総会があったようですね。

テレビやネットのニュースでは、大混乱とか怒号だとか脱原発が否決されたとか新役員がそのまま選任されたとかの話ばかりですが、私が知りたいのは一つだけ。
今回の事故に関して、東電が賠償責任を何故認めるのかという質問があったかどうか。あったとしたら、東電はどう答えたのかということです。

もしかするとこんな質問はないかもしれないし、あってもマスコミは無視して報道しないで、しばらく後の週刊誌でもみなきゃならないかなと思っていたんですが、さすが新聞にはちゃんと載ってました。

私は日経新聞しか見ないので、他の新聞にも報道されたかどうかはわかりませんが、今朝の日経新聞では3ページの記事の終わりの方にちゃんと出てました。

「原子力損害賠償法に基づき、免責を訴えても良いのではないか」という質問が出たが、勝俣会長が「免責の結論を得るには時間がかかる。被災者を救済できない上に当社も資金不足に陥る」と、法的な可能性を探るより現実問題への対処を優先する現状を説明した。

確かに現在の集団ヒステリーのような東電いじめの状況では、東電が「賠償責任はない」と主張したら東電に金を貸してくれる人はいなくなってしまうでしょう。
仮に賠償責任が免責となったとしても、原発事故自体の後始末の費用は東電が負担しなくてはなりませんから、外部からのお金がストップしたら東電は立ち往生せざるを得ないでしょう。
電力料金を上げようとしても、賠償責任はないと主張する東電の料金引き上げを認める勇気のあるお役人も政治家もいないでしょう。
いずれにしてもその間、被災者に対する賠償は進まないでしょう。

だとすると法的正義の主張より企業存続と被災者救済、サービスの継続の方を優先する東電経営陣の判断は納得できます。なかなか見事なものですね。