『歴史認識』という言葉は本来的に、過去のある時代が現実にどのようなものだったのかについて、どのように認識するか、という言葉だと思うのですが、中国や韓国が日本を攻撃する時はこの言葉を『過去のある時代はどうあるべきだったのか、どうあってはならなかったのか』という、あるべき姿をどう認識するかという意味に使っているようです。そのため言葉の意味がすれ違い議論がすれ違って、お互いにフラストレーションばかり溜まってしまうのですが、今回はこの言葉の本来の意味での私の歴史認識が丸っきりひっくり返されてしまった話をします。
読んだのは、田中圭一さんの『日本の江戸時代』『百姓の江戸時代』『村から見た日本史』の三冊の本です。
江戸時代、その前の太閤検地から始まる検地で農民は土地にしばりつけられ、検地にもとづく農地の収穫の見込みにもとづいてぎりぎりまで年貢を取られ、さらに豊作・凶作による年貢の不安定さを除くため、年々の収穫量にもとづいて年貢を決める検見法から、農地の生産能力にもとづく定免法に変更されてさらに農民の生活は困窮を極め、五公五民とか六公四民とか言って収穫の半ば以上が年貢で取られ、生活に困った農民は土地を失って小作農になったり都市に逃げたりし、あるいは苦しまぎれに一揆を起こしたりした、というのが一般的に説明される江戸時代の姿です。
しかしこれがこの著者の田中さんにかかるとまるで違ってきます。
まず『検地』は農民の土地所有権を確立させる手続きで、これによって土地の所有権を確定した農民は、年貢を納めることを条件にその土地を自由に使うことができるようになり、年貢という負債付きで土地を自由に売買することができるようになった、ということです。そのため検地はむしろ農民の方から領主に要求して行われ、それによって多くの独立した農民が生まれたということです。
年貢の定免法というのも、収穫高によって年貢が上下する検見法と違い、一定額の年貢を払うことを条件にどのように土地を使っても構わないということになり、できるだけ収穫が多いできるだけ換金価値の高い作物を作れば、あらかじめ決まった額の年貢を払った残りは全部自分のもの、という意味で農民に対するインセンチブになるということです。
五公五民というのは、収穫を領主と農民との間でどう分けるかという話ではなく、地主と小作との分け前の話で、一般的に小作人は収穫の1/2を地主に納めれば、残りの1/2は全て自分のものにできた。地主は小作が納めた収穫の1/2分から農地に対するすべての年貢(だいたい全収穫の2割程度)を納め、諸経費を差し引いてもだいたい2割くらいが自分の所に残ったということのようです。
全体の1/2の地主の取り分から年貢を払うことができるんですから、年貢は1/2を超えることはめったになかったということになります。小作人は収穫の1/2を地主に納めてしまえば、残りの1/2の自分の取り分には税金も何もかからないんですから、これもかなり良い条件です。
土地を売る農民、土地のない農民というのは農業以外の仕事で食べていくことができる農民が、たとえば新しい事業(酒造・醤油・運送業その他)を始める資本として土地を売って資金を作ったとか、農業以外の仕事(商店に奉公・武家に奉公・大工・医者・役人・武士、その他)に従事するために土地は不要になったとかいうことで、それだけ世の中が豊かになったということのようです。
農民の一揆というのも食うに困ってヤブレカブレで、というよりむしろ役人の契約違反に対して不公平・不公正を糺すために立ち上がったもので、通常は一揆を起こす前に、今であれば裁判所に行くように、役人の不正をお上に訴えに行こうとして、それができない時に(あるいはそれがうまく行かない時に)はじめて一揆になるとか、食えないから米を寄こせというよりむしろ不正役人をやめさせろという要求がほとんどだとか、幕府から出される法令はいろいろしかつめらしい理屈づけがされているけれど、実態はそれらは後付けの理屈であり、実際は現実を後追いで法令にしているものが多く、農民からの要望により法制化しているものも多いとか、農民を絞り取ろうとするお触れとして有名な『慶安のお触書』は、一国全体幕府の領地だった佐渡ではどこにも見当たらないとか、びっくりする話ばかりです。
著者の田中さんは大学を出て佐渡で高校の先生をやりながら佐渡の村々に残る古文書を一つ一つ読んでいき、江戸時代の人々の現実の生活を掘り起こしていき、その範囲も佐渡から新潟、関東各地と拡がっていったもののようです。
江戸時代というのは、もはや完全に商品経済の時代になっていて、農民の作るものも自給自足のための食糧ではなく商品としての作物だったとか、さまざまな産業がすでに資本主義体制になっていたとか、各地域・各藩が重商主義的な政策を取っていたとか、言われてみればまったく納得できる話が具体的な資料で明確に証明されていて、本当に面白い本です。日本の江戸時代は、もうすでにアダムスミスの国富論の時代になっていたんだということが良くわかります。
私が最初に読んだのは『百姓の江戸時代』ですが、これはその前に出た『日本の江戸時代』を新書用に一般向けに読みやすくしたもののようで、具体的な個々の資料については専門書的な『日本の江戸時代』の方が詳しく書いてあります。また『村から見た日本史』は視野を時代的にも地域的にももう少し広げて、個々のテーマよりむしろ村から見た、あるいは建前じゃない現実の江戸時代の全体像を書こうとしたもののようです。具体的な古文書や、いろいろな統計データそれ自体に興味がある人は『日本の江戸時代』を、それほど細かい話はスキップしてまずは全体像を知りたい人は、新書版の『百姓の江戸時代』『村から見た日本史』の方が良いかも知れません。
どの本から始めるにしても、お勧めします。