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『一般理論』 再読-その7

日曜日, 3月 15th, 2015

さて『一般理論』、いよいよ『第三章 有効需要の原理』に入ります。ここからケインズの世界が始まります。

しかしこの章はそれ以降の『第四章 単位の選定』『第五章 産出量と雇用の決定因としての期待』『第六章 所得・貯蓄および投資の定義』『付論 使用費用について』『第七章 貯蓄と投資の意味』-続論』の全体のまとめの形でケインズの雇用理論を展開しています。そのためこれらの第四章から第七章の話を先取りしているため、そこの所の話が分からないときちんと理解できないようになっています。

で、『一般理論』とは順番が違ってきますが、この第三章から第七章までをまとめて話します。
とはいえ、第四章と第五章は前置きのような話で、それを受ける第六章、その付論、第七章と第三章が一体の話になっています。

『第四章 単位の選定』では経済活動の量を現す単位をどのように選定するか、要するにお金の単位を何にするか、という話をします。古典派の経済学ではどうも金額というのは実体のないものと考えているようです。すなわち全ての物価が二倍になり、お金の額も二倍になったとしたら、金額の呼び名は変わるけれど、経済の実態は何も変わらないじゃないかということで、いわゆる『名目値は意味がない』、『実質値だけが意味がある』、というように考えているようです。

この名目とか実質とかというのは、名目GDPとか実質GDPとか言うときの名目・実質のことで、名目というのはお金の単位そのままのもの、実質というのはお金の価値がインフレやデフレで変動するのを修正したもの(名目値を物価水準・インフレ率あるいはデフレ率で修正したもの)です。

で、古典派の経済学では『実質値が実際の価値を表す』ということなので、正しいインフレ率あるいはデフレ率というものがある、というように考えます。現実の世界では『消費者物価指数』とか『卸売物価指数』とか『GDPデータ』とか『インフレ率(デフレ率)』を示す指数が何種類もあります。何が正しいものかということも簡単には決められません。

ケインズの立場はそのような状況を踏まえ、まず『様々な物価指数があるけれど、そのほとんどが確固とした根拠がない』と言い、『ただ一つ有効な物価指数は労働力あるいは労賃の指数』だと主張します。そして古典派のように名目値を全く否定するのでなく、名目値と賃金指数で実質化した実質値とその2本建てで議論する、と言っています。

このケインズの賃金指数は、客観的で公正なものだという議論も、私にはそれほど説得力のあるものとは思えません。私はやはり名目値だけで議論するのが正しいやり方だと思うんですが、ケインズとしては名目値を全否定して実質値だけを正しいとした古典派を否定するのに、実質値を全否定して名目値だけを正しいとする、というのはやはり大変過ぎることだったのかも知れません。『全ての経済価値の源泉は労働だ』、という労働価値説もなかなか捨てきれない話のようですから。

次の『第五章の 産出量と雇用の決定因としての期待』、これでケインズは決定的に古典派とは別の世界を作り出します。古典派の世界では人々が利益をもっともっと・・・とトコトンまで追求し、その結果市場での様々の売買が需要・供給の法則により価格・数量ともに決まってしまい、それを市場参加者の全員が知っていて、あとはそれぞれがそのように決まった価格・数量でひたすら売り、あるいは買いをする、というだけのあんまり面白くない世界です。

これに対してケインズは、『物事はそう簡単には決まらない』と言って、【期待】という言葉を導入します。企業がどれだけ生産しいくらで売るか(供給)、というのはそれぞれの企業が企業自体の期待にもとづいて決めます。それと同時にその物がどれだけ・いくらで売れるか(需要)というのも、その企業が【期待】にもとづいて決めます。

企業としては『できるだけ儲けたい』と考えているので、供給と需要がマッチするような方向で企業の行動を決めます。しかしケインズは古典派のように供給と需要が一瞬のうちにマッチしてしまうというようには考えません。価格も数量も、それを生産するために必要な労働者の雇用数も、少しずつしか変わりません。すなわち今日は昨日とほぼ同じだし、明日は今日とほぼ同じだ、というわけです。もっと売るためにもっと生産しようと思ってもすぐには労働者を増やすことができないし、雇った所ですぐに一人前に使いものになるとも考えません。増産のための設備投資もすぐにはできないし、全ては少しずつ変化する将来に向けて企業のかじ取りをしていく、ということです。

ここで【期待】というのはexpectationの訳語です。このexpectationという言葉には『こうなったらいいな』という希望のようなニュアンスも含みますし、『多分こうなるだろうな』という予想とか予測とかのニュアンスもありますし、『こうなるに決まってる、こうなってもらわないと困る』という願望あるいは必然みたいなニュアンスもあります。

日本語は漢字が使えるのでこのようにいくつもの言葉を使い分けることができるのですが、ケインズはイギリス人なので、expectation一本やりです。で、翻訳者は仕方がないので、この言葉を【期待】という言葉に一律に変換します。ですから『一般理論』で【期待】という言葉は上記の様々な意味を含んでいるということを常に意識しておくことが必要です。すなわち、ある時は希望とか願望とかの意味で期待と言い、ある時は冷静で客観的な予測という意味で期待と言う、という塩梅です。

で、各企業がそれぞれの自分の期待にもとづいて需要と供給を想定し、それにもとづいて生産し販売するわけですが、その期待が正しいという保証はどこにもありません。やってみて間違ったら修正するという過程を日々繰り返す。作り過ぎて売れ残りが発生することもあり、いくらでも買い手はいるのに生産が間に合わないということもある、という非常に現実的で生々しいダイナミックな世界です。これがケインズの考える世界です。

ケインズはこの期待を二つに分けます。すなわち『短期の期待』というのは、どれだけ生産して売るか、あるいはどこまで売れるか、という比較的近い将来に関する期待です。

これに対して『長期の期待』というのは、将来的に十分売れそうだからもっと生産するために設備を拡充しておこうか、というようなタイプの期待です。短期の期待は、明日は今日とあまり変わらないのであまり間違えることもありません。長期の期待はあたる保証はどこにもありません。しかし明日の生産量を決めるためには今日までの生産でどれくらい売れ残りがあるかとか、過去の長期の期待の結果としての設備が今、どれ位あるかとか、使える労働者が何人いるかとかが需要な要因となります。

このようにケインズは経済学の世界を、誰かが全て決めてしまって人々はその通りに一生けん命働くだけという世界から、誰もが自分の判断に従って決断し、うまく行ったり失敗したりするというイキイキとした(あるいはナマナマしい)世界に変えてしまったわけです。

ケインズがアメリカに紹介されてから何十年かたってようやくアメリカでも『期待』の重要性に皆が気がつくようになった時、『ケインズの経済学には【期待】が入っていない』と批判された、という有名な話がありますが、どうしてこんな重要な点を見落として、というか除外して、ケインズをアメリカに紹介してしまったんだろうと思います。

次は、第6章で、ケインズの需要と供給を説明するのですが、その事前準備として、『所得』・『消費』・『貯蓄』・『投資』という言葉の説明(あるいは定義)をします。