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国体と『憲法』

金曜日, 7月 31st, 2015

2.26事件や天皇機関説事件に関する本を読みながら、今の『安保法案』を巡る議論を見ていると、何とも良く似ているな、という感を禁じ得ません。

昭和10年の天皇機関説事件の際、憲法(その当時ですからもちろん『大日本帝国憲法』(以下、『帝国憲法』と略します)ですが)そのものの解釈について議論すると、大学者である天皇機関説の美濃部さんに太刀打ちできる人はいません。そこで天皇主義者(天皇を至高の存在として考え、天皇主権説を主張し、天皇機関説を排撃する人達を仮にこう言うことにします)達は、憲法の議論に『国体』を持込みました。

現在の『日本国憲法』に『憲法に反する法律の規定は無効とする』旨の規定があるのですが、これと同様に、『国体に反する憲法の規定は無効とする』と主張して、天皇機関説を否定しようというわけです。

天皇機関説に反対する人達は国会議員であったり軍人であったりするわけですが、その存在というか地位というかの基礎となっているのは『帝国憲法』です。この帝国憲法を丸ごと否定してしまうと、国の運営ができなくなってしまいますし、また自分達の、国会議員であるとか陸軍大将であるとかの存在自体を否定することになってしまいます。そこで帝国憲法のうち都合の悪いものだけを無効にする、良いとこ取りの憲法解釈をしようというわけです。

で、この憲法の有効・無効を判断する拠り所の『国体』とは何かということになると、これはいろんな所に断片的に書いてある物の寄せ集めということです。いろんな物というのは、『教育勅語(教育に関する勅語)』『軍人勅諭(陸海軍軍人に賜はりたる勅諭)』『五箇条のご誓文』から始まり、『古事記』『日本書紀』までさかのぼる様々なもので、この中の国体を表していると考えられるものを細切れに拾い集めて、これこそ『国体』を示している文章だ、ということにしているものです。

天皇機関説事件の時、『国体明徴の声明』というものが2回にわたり政府から発表されています。これを読めば国体がわかるか、と思って読んでみると、この宣言の中味は『天皇主権説が正しくて、天皇機関説は国体に違反している』と書いてあるだけで、ではその『国体とは何か』ということは何も書いてありません。

国会での天皇機関説の議論も、議論に参加している全員が国体をきちんと理解しているという前提で行なわれていて(もちろん『国体なんて良く分からない』なんて正直に言ったら相手にされなくなってしまうわけですから当然のことなんですが)、皆が国体がどうのこうのと言っているんですが、正式に『国体とは何か』というのを明確にしたのは、その2年後、昭和12年に『国体の本義』という教科書を文部省が発行した時です。

2.26事件は昭和11年ですが、反乱軍の青年将校達の要求事項の中に、『国体の真姿顕現』という項目があり、要するに現実の国の姿を国体にもとづく、あるべき姿の通りに変えろ、ということですが『国体の本義』の発行は、2.26事件の翌年です。

このようにして天皇主義者たちは『国体』をお御輿のご神体に祀り上げ、自分達で勝手にそれを振り回して現実の憲法や政治を動かしたわけです。

で、戦争が終わり帝国憲法が日本国憲法に変わり、天皇は天皇主権説の天皇でも天皇機関説の天皇でもなくなり、象徴天皇になりました。

これでもう『国体』などという訳の分からないものに振り回されることはなくなったのかと思うと、今度は立憲主義の憲法学者達が『国体』に代わって『憲法』というものを持ち込んだようです。この『 』で囲んでいるのは、現実の憲法とは別に『憲法』という新たなご神体を持ってきている、そのご神体というくらいの意味です。

そして前と同様、『憲法』に反する憲法の規定は無効だ、とやり出したわけです。もちろん『憲法』の中味は?と聞いた所で、ちゃんとした答が返ってくるわけではなく、意味不明な言葉が返ってくるだけです。彼らの頭の中でこれは『憲法』に合っているか違っているか勝手に考えるだけなのですが、その『憲法』の中に、たとえば『憲法の規定は変えてはいけない』ということが入っていると、現実の憲法にいくら憲法の改正手続きが書いてあっても『憲法は変えてはいけない』ということになるわけです。これが彼らの言う『立憲主義』ということになるわけです。

現実の憲法は実体がありますから、そう勝手に自分達の都合の良いように使い回すことはできませんが、ご神体の『憲法』であれば中味が不明なものですから(あるいは中味がからっぽなのかもしれません)、自分達の都合に合わせてどのようにでも言い張ることができます。誰か不信心な不敬な者がいて、そのご神体を見たいなんて言ったとすると、『罰あたりめ、お前らなんかのような不信心者に神様が見えるわけがあるか』なんて訳の分からないことを言って、ごまかすことができます。

このようにして、天皇機関説事件の時の天皇機関説排撃側のやり方と、今の立憲主義の憲法学者達の訳の分からない言い分と良く似てるな、という話です。

憲法学者は『憲法』と憲法を、どちらもケンポーと言って、その時々の都合に合わせて『憲法』と憲法を使い分けているわけですから意味を理解しようとしても理解不能な、支離滅裂な議論になります。

国体であれば同じようにわけのわからないことでも少なくとも憲法と国体と、言葉を分けているだけまだましですが、ケンポーとケンポーを使いまわしていると、多分自分でも訳が分からなくなるんでしようね。