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『ロシアを決して信じるな』―中村逸郎

木曜日, 8月 3rd, 2023

この本の著者の中村逸郎さんという人はロシアの専門家として、特にウクライナ戦争が始まってからテレビで引っ張りだこの人気者で、ネットのYouTubeでも人気の人です。

ネットの番組では、登場するコメンテーターが『新刊が出ます』とか『出ました』とか言って自著を宣伝することが良くあるのですが、この中村さんの場合『絶賛在庫中です』なんて言っていたので読んでみたのがこの本です。

まあ2021年の著書ですから『新刊』というわけにいかないとしても、それほど古い本ではありません。

で、読んでみると、次から次へと信じられないようなエピソードだらけです。ですが基本的に全て著者自身が経験し、あるいはロシア人から直接聞いた話ばかりです。

これらの話を読んで呆然としてしまいました。今までいろんな国、いろんな時代の人の話を読んできましたが、このロシアとロシア人というのは全く理解不能な国、および人々じゃないかと思いました。

で、図書館で検索してこの人の本を借りて読んでみることにしました。今度は年代順に
1)東京発モスクワ秘密文書
2)ロシア市民 ― 体制転換を生きる
3)帝政民主主義国家ロシア
4)虚栄の帝国ロシア
5)ロシアはどこへ行くのか
6)ろくでなしのロシア
7)シベリア最深紀行
の7冊です
最初に読んだ『ロシアを決して信じるな』はこれらの本の総集編のようなものです。

この中村さんという人のアプローチは非常にユニークで、個別具体的に一人一人のロシアの住人に話を聞いて、人々がどのように生活し、どのような問題を抱え、どのように考えているか、という話を次々に紹介してくれています。話を聞くために相手との信頼関係を作り上げる為、十分な時間をかけているようです。

最初の『東京発モスクワ秘密文書』は、ソ連の崩壊前のモスクワで、共産党が全てを仕切っていて、全ては国有で住民は国営企業で働いている、という時代です。

住民はアパートに住んでいますが、一家族で70~80㎡くらいの3Kくらいの部屋に住んでいたり、あるいはそののような部屋の各室にそれぞれ別々の家族が住んでいて、台所とバス・トイレは共有になっている、なんていう具合です。場合によると自分の家族の部屋に行くために他人の家族の部屋を通らなければならない、なんてこともあります。そのアパートも第二次大戦後すぐ、あるいはロシア革命後すぐに作られて、いずれにしてももう十分年数の経った建物が、殆どまともな修繕工事をしないまま使い続けられているものです。いくらでも不具合が生じてきます。

国有財産のアパートに不具合が生じても、住民は勝手に修理するわけにはいきません。国営の修繕工事会社に修理を依頼するのですが、住民が連絡したからってすぐに来てくれるわけではありません。

法律も裁判所もあるにはあるのですが、法律があるからと言って自動的に誰かが動いてくれるわけではなく、裁判で判決が出てもそれで誰かが動いてくれるわけでもありません。

で、住民は区役所に行っても修繕会社に直接言っても、裁判所に行ってもどうにもならないので、結局共産党の地区委員会に相談に行きます。共産党の地区委員会の決定があれば、区役所も修繕会社も動いてくれます。

著者は最初共産党がどのように機能しているのか、クレムリンに見に行くことはできないので共産党の末端の地区組織の書類を見ればその中に党中央からの極秘指令のようなものもみつかるかも知れないと期待していたけれど、著者が苦労して集めた309文書5000ページの資料にはそのようなものは皆無で、資料の中身は全て住民の苦情相談の内容と、その解決方針だけだったということです。これが極秘資料だ、というのも共産党の秘密情報が入っているから、というより、苦情処理の案件で、関係住人の個人情報が満載だからだ、ということのようです。

著者は途方に暮れ、たまたま同じホテルにいた高名な学者に相談した所、著者の手に入れた資料こそ重要なものだと教えられたということです。同様の文書はソ連時代はいくらでもあったと思われるものの、ソ連が崩壊し共産党がなくなって、もはやどこにも残っていないだろうということでした。

次の『ロシア市民 ― 体制転換を生きる』というのは、ソ連が崩壊し共産党がなくなった、混乱の時代の話です。

ソ連がなくなって私有財産が認められるようになり、国有財産だった土地が市の所有になったり、アパートの所有権も一部住民のものになったりしてきたものの、住民の暮らしは苦しくなる一方で、一部新興の財閥企業や進出してきた外資系企業に関わることができた人々はバブルを謳歌したりしていますが、その他の人々はそれまでより苦しい生活を余儀なくされています。国有だった土地がいつの間にか新興財閥の物になり、その不動産開発のために周辺のアパートが倒れそうになるとか、新しくできたアパートが周りに鉄柵を張り巡らしたことにより他の住民は通り抜けができなくなったり、その中に囲われてしまった公園を使うことができなくなってしまったり、アパートの水道が勝手に途中で止められたり、スチームの暖房が途中までしか来ないで、何年も暖房なしでモスクワの冬を過ごさなければならないとかの話が次々と紹介されます。前のように苦情相談窓口の共産党地区委員会もなくなってしまっているので、何とも大変な話です。

次の『帝政民主主義国家ロシア』でいよいよプーチンの登場です。

ゴルバチョフ・エリツィンの混乱の時代をこえ、エリツィンの指名を受けてプーチンが大統領になります。とは言え、選挙では公約は一切発表しない、という選挙です。大統領になったプーチンは政治的経験も後ろ盾になる勢力も皆無という状況で、出身のサンクトペテルブルグの人脈を使って権力基盤を作っていき、それと同時に国民からの直接の支持を獲得するため『慈父のような皇帝プーチン』というイメージ戦略を採用します。

全国に皇帝プーチンに対する直訴を受け付ける機関を作り、だれでも自分の意見・悩み・困っている事を皇帝プーチンに直接ぶつけることができるようにしたわけです。とは言え実際にプーチンが話を聞くわけではなく、一人30分まで、という範囲内でお役人が話を聞いて、それをプーチンに届けるということですが、悩みを抱える住民にとってみればたった30分でも自分の話をお役人が聞いてくれ、それが直接プーチンに届くかも知れないということは、それだけで大いに期待できることのようです。

で、ここで著者は何とその直訴の受付をする窓口の役所に入り込み、直訴する順番を待っている人、お役人に話をし終わって出てきた人、直訴を受付け話を聞いたお役人等々から直接話を聞くというとんでもない事をします。

ロシア人は自分ではどうにもならない問題を抱え、いつか慈父のような公明正大な皇帝があらわれ、社会の不公正を正し、自分の抱える問題を解決してくれるに違いないという希望に向かって生きているようです。

次の『虚栄の帝国ロシア - 闇に消える「黒い」外国人たち』というのは、ロシアにおける黒人問題です。黒人と言ってもアフリカ系の黒人の話ではなく、ロシア人に比べると肌の色が多少とも黒い、中央アジアやカフカスからの不法出稼ぎ労働者の話です。ソ連が崩壊し、旧ソ連のロシア周辺諸国はとんでもなく悲惨な状況に陥り、それでもロシア自体は外資系企業の進出、ソ連時代の国有財産をかすめ取った新興財閥、石油や天然ガス等の資源開発で部分的にバブル経済になっていて、それを狙って周辺諸国から不法出稼ぎ労働者が大挙して押しかけているという話です。『不法』というのは、正規の手続きを踏もうとするととてつもなくお金と時間がかかるので、否応なく不法にならざるを得ない。不法であるため鉄道に乗るにもロシアで働くにも、方々で警官や駅の職員やお役人のピンハネの対象となり、それで本来の報酬の1割くらいしか手許に残らないとしても国に残って働くより何倍もの報酬が得られる、という事で、自国で校長先生をしていたような人まで出稼ぎで建築労働者として働いている、なんて話です。ロシアでは、いかにもロシア人を雇っているかのようなふりをして実際はほとんど不法出稼ぎ労働者を働かせ、コストを浮かすと同時に名義貸しをしてもらっている友人・知人のロシア人に不労所得を分け与えていて、それもロシアのバブルの一部になっている、なんて話です。

次の『ロシアはどこへ行くのか』は、プーチンの2期の大統領の任期が終わり、プーチンはメドヴェージェフを後継の大統領にし、自分はメドヴェージェフの指名を受けて首相になる時の話です。

プーチンは大統領を下りるにあたって自分の政党『統一ロシア』を作り、選挙で圧倒的な第一党になり、その第一党のオーナーになるけれど、自分は党員にはならない。その議会選挙の次の大統領選挙では自分の後任のメドヴェージェフに圧倒的な勝利を得させる。その二つの選挙の不正工作について実際にかかわった市役所の職員の話を紹介しています。大統領選の時は不正をやり過ぎてあまりにもメドヴェージェフが勝ってしまったので不正工作を少し戻した、なんて話もあります。いずれにしても役所と選挙管理委員会ぐるみの不正選挙の話が詳しく紹介されます。

次の『ろくでなしのロシア』というのは、ロシア正教会の話です。プーチンは憲法改正を終え、無事、大統領に返り咲いています。これまでの話でロシアという国のろくでなさにトコトン呆れ果ててしまった著者は、ロシアの中でも真っ当な部分を求めてロシア正教会を訪れます。そこで著者が目にしたのは何と正面に飾られた聖人プーチンの肖像画だったという話です。

ロシア正教会は帝政ロシアの国教として、ロシア全土の3分の1を所有するような存在だったのが、ロシア革命により殆ど全ての財産を国有化されていたのが、プーチンによってまずは国有化されていた土地は全て返すことになり(とはいえ国有化から100年近くも経っており、ソ連が潰れてからも何年も経っているわけで、すでに他の企業に売却済みだったり工場が建ってしまっていたりしてそう簡単には元に戻れないようですが)、また様々な税法上の優遇措置を受けて一気にロシア最大の財閥となっており、プーチンは議会・政府に続いて正教会まで手に入れてしまったという事です。ロシア正教会は聖職者たちももはやビジネスマンとなってしまっているという話です。

ろくでなしのロシアがここまで浸透している事に呆れ果て、著者はついにロシアの心のふるさとシベリアに赴きます。ロシア正教会の聖地となっている村、イスラム教の村、トナカイの群れを追って日本の半分位の距離を毎年南北に行き来している遊牧民の村、シャーマンがまだまだ健在の村、第二のエルサレムと言われるロシア正教会の教会とイスラム教のモスクとユダヤ教のシナゴーグがすぐ近くに建っていて聖職者同士、仲良くしている村、ドイツ・ポーランドあたりから逃げてきたプロテスタントの村で、カトリックの神父に来てもらって、ポーランド語のカトリックの祈祷書を読み、カトリック教会の讃美歌をポーランド語で歌い、終わった後でみんなでロシア語で民謡を歌うなんて話や、イスラム教徒の村で住人のイスラム教徒のタタール人が、村にモスクがないので普段はロシア正教会の教会に行く、なんて話や、ロシア正教会で宗教改革があった時、それを受け入れずに奥地に逃げ込んだ人たちの村で、ロシア人になるのを拒否するためにロシア正教会に入るのを拒否する人達、その村のさらに奥地で誰とも交流せず一人で暮らし、ついにはロシア語すら忘れてしまった人の小屋も訪ねます。

ろくでなしのロシアとは全く違うロシアの原風景に心癒された著者ですが、ここで不思議な体験をします。シャーマンの村を訪ねた時、シャーマンの小屋で何枚も写真を撮っていたら、いきなりボタンが効かなくなり写真を撮る事ができなくなります。このシャーマンの威力は日本に帰ってからも続き、著者がこの部分の原稿を編集者に送った所、そのメールがどういうわけか未送信とみなされて2時間おきに繰り返し送信され、回復するのに2週間ほどかかり、いったんそれが収まった後、試しにもう一度シャーマンに関する簡単なメモを送ったらこれも2時間おきに繰り返し送信され、直るのにまた2週間かかった。これに懲りて最終的な原稿はUSBメモリーに入れて郵送したところ、編集者が写真のうちのいくつかを涙を飲んで削除したら削除してない文章の方が全部削除されてしまった、なんて不思議な話も付いています。

これで最後が私が最初に読んだ『ロシアを決して信じるな』になるのですが、何ともすさまじいロシアです。

最後にこれらの話に登場するロシア人の言葉を紹介します。
『ロシアは予見できない国です。予想だにしなかった不思議なことが突然起こり、時には他人の悪意による行いで生活が歪められたりします。思い通りに行かないことばかりで、他人への期待はいとも簡単に裏切られてしまいます。だからロシアではあなたはびっくりしたり失望したりすることばかりに見舞われます。そのために逆に言えば人間の倫理や善意を問う文学や哲学思想が多くなるのです。』
『私達が予想不可能な国に住むことになってしまったのは、過去から何かを学び、それを将来に生かしたり未来を予測したりしなかったからです。悪意・絶望・怒り・幻滅・恥辱という人間の感情により歴史が歪められてきました。』
『結局私達ロシア人のいない所が良い場所なのです。』
『こんな悲惨な状況はそう長く続くわけはない、もっと悪くなるだけだ。』
『モスクワ市内の狭い裏通りをロシア人の男性が運転するロシア製の無骨なデザインの車が走っていました。前方を二台の自動車が快走しており、それぞれの車の運転手は神と悪魔だったらしい。その道の先は行き止まりになっていました。神は急に右折して大きな通りに向かいましたが、悪魔はその手前を左折し路地に迷い込みました。あとを追うロシア人はこの2台の車の動きを見定めてからどちらに曲がるべきか迷うことはありませんでした。神を追うかのように右方向にウィンカーを出しておいて、実際には悪魔の方に左折しました。神に敬意を払う素振りを見せておきながら本音では悪魔に魅了されているからです。』

というものです。

西ヨーロッパの近代社会というのは、絶対王政の下で市民社会が発展し、絶対王政の崩壊と共にそれが国民国家になる、というプロセスを通して出来上がっています。ロシアの場合、ロシア帝国の下で市民社会が出来上がりつつあった時にロシア革命がおこり、共産党により市民社会が潰されてしまい、そのまま現在に至っているということだと思います。
とすると、社会の近代化を経験できない国というのは多少ともこのような面があるのかな、と思います

私は若い時ドストイエフスキーの作品をいくつも楽しんで読んだことがあります。この中村さんの8冊を読んで、その当時の私はまるっきり読み違えていたのではないか、と思わずにいられません。
この感想文を書いて、しばらくほとぼりをさました後で改めてこの8冊をゆっくり読み直し、その後ドストイエフスキーの本を読み直してみようと思います。ドストイエフスキーの本はどれも長いものが多いのですが、少なくとも比較的短い『罪と罰』くらいは読み直し、どれ位違った世界が見えるか確かめてみたいと思います。

ということで、この8冊、おすすめです。8冊すべてだと多すぎる、という場合はこの最新の『ロシアを決して信じるな』だけでも、おすすめです。