Archive for the ‘本を読む楽しみ’ Category

マルクスの『資本論』と『経済学批判』-その3

月曜日, 6月 27th, 2011

「経済学批判」、その後何とか読み進んでいます。

とりあえず【第1章 商品】を読み終えました。第1章の終わりに「A 商品分析のための史的考察」という部分があり、いろんな人の説を紹介し、批判しています。
その最後にリカアドを引き合いに出して、経済学の主要なテーマをまとめています。そしてそれらのテーマについて「賃労働の理論」「資本の考察」「競争の理論」「地代の理論」で解決されると言っています。
これはマルクスがこの「経済学批判」をこのようなテーマにまで拡大発展させる予定だったということでしょうか。それは「経済学批判」の中には入っていませんが、「資本論」にはどの程度入っているのか楽しみです。

で、次の第2章は「貨幣または単純流通」という章で、貨幣論が展開されています。
それなりに面白いのですが、とにかく哲学的なクドクドシイ議論が延々と続くので、ちょっと辟易です。

ヨーロッパでは当たり前のことでしょうが、金あるいは銀をそのまま、あるいは金貨あるいは銀貨にして貨幣にしているのというのが当然のことだという書きぶりで、所々ヨーロッパ諸国で行なわれていることが、理論的にそれしかないという調子で書かれています。

日本では江戸時代、金貨・銀貨・銭貨(銅貨)の同時並行の三通貨、変動相場制というとてつもない制度を経験しており、武士も商人もそれを平然とこなしていたという歴史があります。
その目で見るとマルクスの記述は何とも視野が狭いなという気もしますが、マルクスがこの本を書いたのは幕末、明治維新の直前です。日本の貨幣制度はヨーロッパには知られていなかったでしょうから、どんなに頭の中でいろいろ考えても、知らないことについては手も足も出ないんだなと思います。
マルクスが江戸時代のことを知っていたら、どんなように思っただろう(あるいは理解できただろうか)とも思います。それほど江戸時代の商業は高度に発展した体制だったといえます。

文庫本 84頁に

『仮に金の価値が1000%下落したとしても、12オンスの金は従来通り1オンスより12倍大きい価値を持つことであろう。』

という文章があります。この【1000%下落】というのは、一体何なんでしょうね。英訳でも同様に1000%下落となっています。1000%下落するとマイナスになってしまいますから、数学的にはおかしな表現ですが、もしかするとマルクスは数学は苦手だったのかも知れません。あるいは【1000%下落】には何か特別な意味があるのでしょうか。知ってる人がいたら教えて下さい。

「商品の流通」という言葉に対して、「貨幣の通流」という言葉が登場します(文庫本123頁以下)。
「流通」というのは良く見る言葉ですが、「通流」というのは見たことがないなと思って英訳を見ると、流通も通流も「circulation」という言葉が使われています。
少なくとも英語では同じ「circulation」という言葉を商品の場合「流通」と日本語訳し、貨幣の方は商品の流れとは逆向きの流れになるので順番を逆に「通流」とした、訳者の工夫なのでしょうか。
こういう人工的な言葉を使うというのも、マルクスが神格化されて「わけがわかないけれど何となく有難い」という印象を与える効果につながっているのかも知れません。

で、「貨幣の通流」という言葉が出てきてしばらくすると、いきなり「流通手段」という言葉が出てきます(文庫本133頁)。これは何だろうと見てみると、何のことはない「貨幣」という言葉の言い換えでしかありません。

『流通する商品の総額が騰貴しても、その騰貴の割合が貨幣通流の速度の増大よりも小さければ、流通手段の総量は減少するであろう。』

とあります。英訳ではこの「流通手段の総量」の部分は「volume of money in circulation」です。「流通しているお金の量」と書いてあるわけです。
こんなのをいきなり断りもなく「流通手段」なんて言われちゃあ困ったもんだなと思います。

というわけで「経済学批判」あともう少しで終ります。今の所、何とか続いています。

マルクスの『資本論』と『経済学批判』-その2

水曜日, 6月 22nd, 2011

前回「止揚」と言う言葉が出てきた話をしましたが、そのちょっと前に(文庫本「経済的批判」42頁)

『商品は、小麦、リンネル、ダイヤモンド、機械、等々の使用価値であるが、それと同時に、商品としては、それは使用価値ではない。』

という文章があります。
これだけでは理解不能な文章ですが、これは日本語訳の問題ではなく、英訳でもこれと同じように書かれています。

一見すると禅問答みたいな訳の分らない内容ですが、これは単にマルクスが論理的な文章を書くことができなかった、というだけのことで、マルクスが禅問答をしているわけではありません。

この文章の中味をきちんと書くと

商品には小麦、リンネル、ダイヤモンド、機械、等々のようにそれぞれに使用価値がありますが、と同時に(商品を売買するという視点から見ると)それは(使用価値のために売買されるのではなく交換価値のために売買されるのですから)使用価値(だけ)ではない(ということになります)。

ということになります。()は私が追加した部分です。

我々はごく普通に日本語を使いこなしているので、言葉を論理的に使うのはごく当たり前のことだと思いがちですが、実は日本語というのは世界でも珍しく論理的な使い方のできる言葉のようです。

日本語には「和語」と「漢語」という区別があり、言葉の使い分けができます。明治維新のとき、西洋文明を一気に輸入するため、大量の言葉を漢字の熟語として発明しました。中国語にはない言葉を漢字の組合せにより新しい言葉として発明し、日本語で表現できる範囲を一気に広げることができたわけです。そしてその際、和語と漢語の使い分けにより具体性の高い表現と抽象性の高い表現を使い分けることに成功したということです。

おなじようなことは英語でもあって、元となるゲルマン語にフランス語やラテン語の単語を導入し、元のゲルマン語の部分を具体性の高い言葉とし、フランス語やラテン語由来の言葉を抽象性の高い言葉として使い分けることにより、英語の表現力を拡大したということのようです。

もちろん輸入された中国語・フランス語・ラテン語が抽象性が高いということではなく、それぞれの国語では具体性の高い言葉なのが、輸入される過程で、抽象性の高い言葉に変化させられたということです。

ラテン語でもローマが発展する時にすでに先に進んでいたギリシャ語を輸入する過程で、同じような言葉の使い分けに成功して、論理的な表現ができる言葉になったようです。

その点英語に比べてドイツ語はよその言葉の輸入があまりうまく行かなかったのか、論理的表現が難しいのかもしれません。

私は大学で数学を専攻しました。数学というのは世間では論理的な学問だと誤解されていますが、実はそれ自体はそれほど論理的、というわけでもありません。ただし数学というのは「論理的な表現」にはトコトンこだわる学問です。数学の教科書や論文が論理的に書かれてないと、それだけで最初から問題にされない、というものです。
研究の途中経過では必ずしも論理的、というわけでもありませんが、出来上がったものを発表するときは論理的に表現しなければならない、ということです。
ですから論理的な表現にはそれなりにこだわりがありますので、論理的な表現に直すなんてことも苦手ではありません。

でもいきなりこんな「商品は・・・使用価値であるが・・・使用価値ではない。」などという文章を見せられると意味がわからなくて、その「わからない所がありがたい」という信仰の対象にするか「何を寝言言ってるんだ」と放りだしてしまうか、どちらかですよね。

このように、わけのわからないこんな文章も、マルクスが言おうとして言えなかった部分を補いながら読んでいます。

「論理的な表現」といった所で、別に特別なものではありません。重要なのは同じ言葉を違う意味で使わないようにすることと、同じことを違う言葉で表さないようにすることです。同じことを違う言葉で表さないという方は、それに反しても単にめんどくさくなるだけでそれほど害はありませんが、同じ言葉を違う意味で使う方は、これをやるとあっという間にわけがわからない文章が出来上がります。

とはいえ現実には辞書を見れば一つの言葉が①,②,③・・・といろんな意味を持っているわけですから、実際には一つの言葉の意味を一つだけ、とするのは難しいことです。だからと言って、その都度①、②、③・・・を付けて「商品(意味その①)は・・・であって、商品(意味その②)は・・・でない」なんて書くわけにはいかないので、現実的な対応策としては、ある言葉を使う時それがどの意味で使われているのかはっきりわかるように書く、ということです。
上の私流の書き直しはそれをもう少しわかりやすく書きなおしたものです。

この本では矛盾と言う言葉もどうも我々が「矛盾」という言葉で思っている意味だけで使われているわけではないようです。多分せいぜい「二面性」くらいの意味で使われているようです。

我々は「矛盾」というのは「二律背反」というように理解しています。「二面性」は普通、「矛盾」とは言いません。で、英訳はどうかな?と思うと、これは「contradiction」となっているようです。
英語の「contradiction」が日本語の「矛盾」という意味なのか、それとも「二面性」という意味もあるのか調べてみる必要があるかも知れません。
多分、英語の「contradiction」は本来的に「矛盾」という意味なのだけれど、マルクスの原文がこの「contradiction」と同じ意味のドイツ語の言葉を使っているので、英訳する場合も「contradiction」とせざるを得なくなって、結果としてこの英訳の文章でだけ「contradiction」が「二面性」という意味に使われることになってしまったのかなと思います。

もうひとつ、この本では「対立」という言葉も良く出てきます。この言葉も我々が普段使っているのとは違った意味で使われているようです。英訳の方で見てみると、「対比してみてみる」というのも「対立」となっていますし、さらに「差異」あるいは「違い」という言葉もたとえば「AとBの違いについて・・・」が「AとBの対立について・・・」となっています。

これもわかってしまえばそれなりにそのように読めば良いだけのことですが、知らないと何が何だかわからなくなくってしまいます。
いろんな言葉を普通に我々が使うのと違う意味で使っています。これも、そのように説明してくれればいいのですが、基本的に言葉の意味の説明、というのはありませんから、その言葉の出てきた前後を読んで、どんな意味なのか推測する、ということになります。
たいていそれではわからないので、英訳を見てその言葉がどんな英語の言葉で訳されているか調べます。英語の言葉がわかれば、その日本語の言葉がどんな意味で使われているか、大体わかります。

そういえば何十年か前、学生運動華やかなりし頃、真面目な学生さん達は何かというと教授会と対立したり大学当局と対立したり、社会全般と対立したりしていましたが、もしかするとそれもこんな日本語に振り回されていたのかも知れないな、とちょっと懐かしい思い出です。
私は対立が好きじゃないので、根性なしのノンポリで通していたのですが。

マルクスの『資本論』と『経済学批判』

火曜日, 6月 21st, 2011

アダムスミスの「国富論」がとても面白かったので、その続きとしてマルクスの「資本論」を読んでみようかと思いました。

ちょっと見てみたのですが、今度は「国富論」の時のように、絵がたくさん入った本がみつかりません。そして翻訳はいろいろあるけれど、基本的にどの訳も岩波から出てる向坂逸郎(サキサカイツロウ)さんの訳を参考にしているとのことです。
であれば、その向坂訳を読んでみようと思いました。岩波文庫版で全部で9冊になります。

国富論のときは一冊目をちょっと読んだだけで、残りの2冊目・3冊目を買ってしまったのですが、今度は9冊読める自信がないので1冊だけ買いました。で、読んでみたのですが、まるで読めません。

序文がとにかく50ページもあるのですが、これはまず後回しにしておいて本文に行くと、こんな調子です(文庫本67頁)。

『資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積」として現われ、個々の商品はこの富の成素形態として現われる。したがってわれわれの研究は商品の分析をもって始まる。』

これ位であれば「成素形態」などという意味不明な言葉を除けば、何とか読むことはできます。しかし読み進むと次第にわけがわからなくなります。
「わけがわからない日本語を無理して読むことはない」と言ってしまえばそれまでなんですが、せっかく読み始めたのにと思っていたら、インターネットの記事で「英訳はわかりやすいよ」という記事がありました。

さすがにインターネットの時代、ネット上に英訳がいくつも公開されています。適当にみつくろって読んでみました。さっきの初めの所、その英訳を私が訳すと

【資本主義的な生産が広く行き渡っている社会では、富は「商品の巨大な集積」として表れます。その構成要素が一つ一つの商品です。そのため我々の検討は商品の分析から始めなければなりません。】

という具合になります。
これならわかりやすいので、日本語がわからなくなったら英訳を見ながら読んでみようと思いました。私もそれほど英語に強くはないので、最初から全部英語で読む覚悟はありません。

そうしていたら10ページほど進んだところで(文庫本78頁)、

『商品に含まれている労働の二面的な性質は、私がはじめて批判的に証明したのである。』

といって、「経済学批判」の中でその証明がなされた、と(注)に書いてあります。

この証明の所、英訳では

【この、商品に含まれる労働の二面性を最初に指摘し、批判的に検討したのは私です。】

となっています。「証明した」というのと「指摘した」というのは大分意味が違うような気もします。ともかく、そうであれば、ちゃんと理解するには「経済学批判」の方をまず読まなくちゃなりません。
そういえばチラッと眺めた「資本論」の最初の序文にも(なにしろこの本には6個もの序文があります)、

『この著作は、1859年に公けにした私の著書「経済学批判」の続きであって・・・。右の旧著の内容は、この第1巻の第1章に要約されている。・・・』

とあります。であれば、そんな要約ではなく元々のものを読んでみようと思って、「経済学批判」のほうも買いました。これも岩波文庫から出ていて、これは1冊だけですから、これくらいは何とか読めそうです。

この本は面白いことに第1部・第1編・第1章と第2章だけで、あとは付録です。第2編もなければ第2部もないのに、第1編とか第1部となっているという不思議なものです。
実は、「資本論」という本、正式なタイトルは、「資本論:経済学批判」というものですから、実は、「経済学批判」はもともとは「資本論」の内容が全部入るはずだったのかもしれません。それで、第2部、第3部、あるいは第2編、第3編が追加されるはずだったのが、途中でストップしたのかもしれません。

この本もやはり日本語はかなり理解不能なので、これもインターネットで英訳をみつけて、それを参考に読んでいます。

昔、英語の勉強のために原文を読む時に日本語訳を参考にしながら読んだという経験がありますが、日本語を理解するのに英訳を参考にするというのは面白いことです。でも先日書いたように、漢文や古文の参考書でも日本語の説明をするのに英語を使っているんですから、これも特に不思議なことでもないのかも知れません。

で、この「経済学批判」の書き出しですが(文庫本21頁)

『一見するところブルジョア的富は、ひとつの巨大は商品集積としてあらわれ、個々の商品はこの富の原基的定在としてあらわれる。しかもおのおのの商品は、使用価値と交換価値という二重の視点のもとに自己をあらわしている。』

となっています。「資本論」の書き出しに似ています。ここでも『原基的定在』とか『自己を現している』とか、良くわかりませんが、私が使った英訳によると、

【ブルジョア社会の富は、一見したところ、商品の巨大な集積として姿を現します。その集積の構成要素は個々の商品です。それぞれの商品にはしかしながら使用価値と交換価値という二つの側面があります。】

となっています。これなら何の問題もなく、良くわかります。

で、20ページほど行った所で、こんな文章が出てきました(文庫本43頁の終わりの部分)。

『それゆえ、商品が使用価値になることによってうける唯一の形態転換は、その所有者にとっては非使用価値で、非所有者にとっては使用価値であったというその形態上の定在の止揚である。』

この『定在』という言葉、この訳者は好きなようで良く使われるのですが、イマイチ意味は良くわかりません。それよりこの『止揚(しよう)』という言葉、懐かしい言葉です。ドイツ語の「アウフヘーベン」という言葉の訳で、哲学的な呪文のようなものです。その昔、高校や大学でマルクスかぶれの連中が「止揚だ」「アウフヘーベンだ」とうわ言のようなことを言っていたのを思い出します。

その言葉の意味は何度聞いてもちっともわからなかったのですが、今度こそ分るかもしれないと思って、英訳の方を見てみます。この部分、英訳では

【それゆえ商品が使用価値になる過程で経験する唯一の変形は、それがそれまでその所有者だった者にとっては使用価値でなかった、として所有者でないなかった者にとっては使用価値であった、という形式的な存在の仕方が、そうでなくなるというだけのものです。】

となっています。
すなわちここでは使用価値でなかったものが使用価値になる、使用価値だったものが使用価値でなくなる、という、「でなくなる」が止揚という言葉の意味のようです。

なあんだ、てなもんです。

そんなわけで、とてものんびり読み進んでいます。まずは「経済的批判」。それが終わってまた「資本論」に戻るつもりです。9冊目にたどりつけるのはいつになることやら。

でも学生時代にこの本を教科書として読むことにならなくて本当に良かったと思います。「定在」だ「止揚」だなどという言葉に振り回されないですむんですから。

『霊園から見た近代日本』

木曜日, 6月 9th, 2011

友人が二冊目の本を出しました。浦辺登著「霊園から見た近代日本」という本で、弦書房という所から出ています。

多分震災の直後に出たはずですが、その後バタバタしていてようやく読み上げました。

「霊園」というのは「青山霊園」とか「谷中霊園(墓地)」、泉岳寺その他のお寺のお墓のことで、お墓めぐりをしながら近代日本の歴史に登場する人々に思いを馳せるという構成の本です。登場人物は主に明治維新の生き残りの人々から始まって、太平洋戦争に入るまでの人々です。

歴史小説などではフィクションの合間のスケッチとして描かれるような話を、著者の思い入れで書かれていますが、もちろんフィクションではありません。その登場人物のお墓が東京周辺の霊園にあるのをお参りしながら、その人の生涯に思いを馳せるという内容の本です。

著者は福岡の出身なので、福岡藩のことや福岡発の玄洋社のことなどもかなり思い入れたっぷりで書いてあります。

本のスタートは朝鮮の独立運動のために日本の応援を求め、結局中国と朝鮮に騙されて殺された金玉均から始まります。
明治維新から太平洋戦争までの歴史を復習するのに格好な読み物です。

福岡人だけあってアジアへの視点もしっかりしていて、孫文その他中国建国運動、朝鮮独立のために伊藤博文を暗殺した安重根、その他インドやフィリピンの独立運動の戦士達も登場します。

この著者の前著は「太宰府天満宮の定遠館」という本で、こちらは大宰府という場所を固定した上で、万葉集の時代から日清戦争のあとまでの様々なトピックスを綴っています。

どちらも小説ではないので、フィクションはありません。とはいえ、学問的な専門書ではありませんから、気楽に読むことができます。
歴史や歴史小説が好きな人にはお勧めです。

この記事を投稿するため、新たに「本を読む楽しみ」というカテゴリーを新設しました。もしよかったら、このカテゴリーの他の記事もみてみて下さい。

漢文と古文の参考書

月曜日, 6月 6th, 2011

私は子供の頃から結構いろんな本を読んでいましたから、本を読むのは得意だと思っているんですが、国語の成績は5段階評価で「2」がせいぜいです。

これも小学校の時に「先生と自分は意見が違う」ということをはっきり認識していますから、別に成績が悪いことは気になりません。「できない」んじゃなくて「意見が違う」だけなんですから。

で、国語の教科書や参考書はほとんど読まないんですが、いろんな本を読む中で古文や漢文を読むことは結構あります。
それでしばらく前から本屋さんの文庫本コーナーに行くたび気になっていた本を、ついに買って読んでみました。講談社学術文庫の二畳庵主人著、「漢文法基礎」という本です。もともと大学受験の参考書としてZ会から出ていたものを文庫にしたもののようです。

これがとにかく面白い。なにしろ学校で中間試験や期末試験を受けるわけでもなく、大学の入学試験を受けるわけでもなく、楽しみで読むわけですから、こんなに面白い本はありません。

これに味を占め、もう一冊気になっていた、ちくま学芸文庫の小西 甚一著「古文の読解」も買って読みました。こちらの方はもう少し受験参考書っぽい本ですが、これも試験と関係ない立場で読むと本当に面白く読めます。

この二冊を読んでいて面白かったのは、漢文にしろ古文にしろ意味をはっきりさせようとして、英語を使った説明が良く使われるということです。

漢文や古文のいくつかの言葉の違いを、日本語で説明するより英語に直して違いをはっきりさせた方がわかりやすい、というのは面白いですね。でもそうだとすると、まずは英語の言葉の違いがはっきりとわかっていないと、説明が説明じゃなくなってしまいます。やはり私の高校時代の英語の力(これは5段階評価で、そこそこ授業に出てれば「1」をつけることはないという方針の学校で「2」の評価です)では良くわからなかったかも知れません。

今になって受験勉強とは何の関係もなくなって受験参考書を読むというのも(もちろん、それが名著だからということもありますが)、楽しいものです。

図書館

金曜日, 1月 21st, 2011

私が普段利用しているのは、自宅から歩って20分くらいの市立図書館です。以前は「与野市立中央図書館」といって、中央図書館ですからかなり蔵書は充実していたのですが、その後浦和・大宮と合併して、「さいたま市立与野図書館」となっています。

同じ市の私立図書館の間では他の図書館の蔵書でも自由に取り寄せてくれるので、さいたま市になってから利用できる蔵書が一気に増えて、大抵の場合にはこれで間に合います。
これで不十分なときはオフィスの近く、歩って7分くらいのところにある「千代田区立神田まちかど図書館」を利用します。
こちらの図書館は小学校・幼稚園と一緒になった建物の一部に入っている図書館で、小学校の図書館も兼ねているのでなかなか面白い図書館(小学生用の小さな机・椅子があったりします)ですが、蔵書の数はあまり多くありません。ここでも千代田区立の図書館の本は何でも取寄せることができます。同じ区の図書館の本は、オンラインで予約、取寄せすることができるのですが、東京都の他の区や市の区立(市立)図書館の本や、都立図書館の本も取寄せすることができます。
今はインターネットですべて検索することができるので、それでみつけておいて、神田の図書館で予約・取寄せの手続きをすると、1~3ヵ月くらいでその本を借りることができるようになります。
私が借りるのは他の人が滅多に見たりしないような本も多いので、神田の図書館で借りる本の殆どは、他の区や市の図書館の蔵書だったり都立図書館の蔵書だったりです。
通常貸出し期間は2週間。それで読み終わらない場合には延長してもう2週間というのが標準的な取扱いのようで、これだけあれば大抵読み終わることができます。
読み終わらない場合は、改めてしばらくたってほとぼりがさめてから借り直すこともできますし。

今はインターネットの検索でみたい本をみつけることが簡単になりましたが、大昔はそんなことができませんでした。
学生時代、通学に使っていたJR総武線沿いに、地元の習志野市立の図書館・船橋市立の西船橋の図書館・市川市立の本八幡の図書館・江戸川区立の小岩の図書館等をはしごして、書棚の前をウロウロしながら本をみつけていた時代もなかなか楽しかった思い出です。

国富論

金曜日, 12月 10th, 2010

「国富論」を読みました。

感激のあまり感想文を書いてここに載せようと思ったのですが、勢い余って何と3ページにもなってしまいました。
そのままここの載せるわけにもいかないので、別ファイル
==>『国富論の感想文』
にしました。

もし良かったら見てみて下さい。
感想文の方はともかく、この本自体本当におススメです。

小室直樹さんの本

木曜日, 10月 7th, 2010

小室さんの本、読み終わりました。やはり非常に面白い本でした。
小村さんの本の特徴を思い出しました。中身は非常に緻密な事実とデータの積上げと論説的な考察が続くのですが、反面、文章は正に講談調、扇子をバチバチ叩きながら血湧き肉踊るような口調で話が進みますから、いつのまにかつりこまれてしまいます。
学者にあり勝ちのどっちつかずの曖昧な表現は見当たらず、すべて断定的な言い方で議論が進みますので読んでいても気持が良いです。
読み終わってから「本当にそうかな?」と思い返すことをしないと、本当に言いなりになってしまいそうな書きぶりです。
まだ小室さんの本を読んだことのない人がいたら、一度試してみてはいかがでしょうか。

外交音痴

月曜日, 10月 4th, 2010

金曜日に小室直樹さんの本をまた読んでみようかなと書いて、書いた以上早速その手配にかかりました。

普段読む本を入手するのは住んでいるさいたま市の市立図書館で、土曜日に借りに行くことになっています。さいたま市の市立図書館は全部で24箇所もあり、普段は前もって予約の手続きをして近くの与野図書館に送っておいてもらうのですが、金曜日の土曜日ということで時間的には間に合いそうもありません。与野図書館にある本を借りることにしました。

さいたま市の図書館全体だと、小室直樹さんの本は58冊(58種類 同じ本がいろんな図書館に何冊もありますので、その総冊数はこの何倍にもなります)ですが、与野図書館にあるのは8冊だけ。
このうち面白そうなのを1冊だけ予約しました。

「大東亜戦争ここに甦る-戦争と軍隊、そして国運の大研究」という本です。土曜日に借りてきて読み始めた所です。まえ書きの最後に「平成7年8月15日 戦争50年目の夏」と書いてありましたから、今から15年ほど前の本です。

まだ読み終わっていないのですが、先にあと書きをのぞいてみると、その最後に
「戦争に無知な平和主義者が結局戦争を起こすというのが「歴史の鉄則」なのである。だが外交音痴の日本人は、戦前も戦後もこの鉄則を一向にわきまえない。」
と書いてあります。

今の尖閣諸島の騒ぎを見ながら、まさにその通りだなと感じた所です。

小室直樹さん

金曜日, 10月 1st, 2010

小室直樹さんが亡くなったというニュースがありました。
なかなか面白い本を色々書いていたので、楽しんで読んだ覚えがあります。

経済や政治や社会問題等、幅広い分野にわたって、さらに幅広い視野に立って解説したり意見を言ったりするのですが、トコトン論理的な議論の進め方と、所々にはさまる地口(じぐち)のような強烈な洒落が面白いと思っていました。人によってはそのトコトン論理的な議論の進め方に抵抗があるかも知れません。

もともと数学専攻だったのが、興味の赴くままテリトリーを広げていった結果のようです。私も大学では数学専攻だったので、興味があったのかもしれません。

数学者、というのは人にわかるような話をするのが苦手の人が多いのですが、小室さんは論理的で説得力のある話をわかりやすく書くことのできるめずらしい数学者だったと思います。

私なんかだと興味の赴くまま「素人」としてテリトリーを広げるんですが、この人は興味の赴くまま「専門家として」テリトリーを広げ、いろんな分野で専門の学者になってしまうんですから、とんでもない人です。

またこの人の本を読み返してみようかなと思います。面白くわかりやすく書いてあるんですが、と同時にページ数の多い本が多いので、ちょっと分厚いのが面倒ですが。