Archive for the ‘本を読む楽しみ’ Category

『橋本大佐の手記』 中野雅夫

月曜日, 8月 15th, 2016

この本はいわゆる昭和維新の、陸軍青年将校の集まり『桜会』の創立者(の一人)であり、昭和6年の三月事件・満州事変・十月事件に深く関わり、戦後東京裁判で終身刑となった橋下欣五郎の『昭和歴史の源泉』と題する手記に、著者の中野雅夫が注釈およびコメントを付けたものです。

この手記自体、橋本欣五郎が手書きのカーボンコピーで5部作製し、それが全て消滅した後、昭和36年になって元の手記の筆写コピーが見つかったと著者が発表したものです。

で、この筆写コピーの一冊しか残っていないのですが、内容からすると多分これは橋本欣五郎の書いたものに違いなさそうです。

この手記の中で橋本欣五郎は上記の三月事件・満州事変・十月事件について、その中心人物の一人として当事者以外には分からないことをいろいろ書いているのですが、だからと言ってそれが真実だ、ということではなく、『橋本欣五郎が思っていた限りの真実』だということになりそうです。

三月事件というのは、陸軍中枢部が東京に騒ぎを起こし、時の内閣を倒して陸軍の宇垣大将を首班とする内閣を作ろうとした事件で、実行の直前になって、騒ぎを起こさなくても内閣が倒れて自分の所に総理大臣が回ってきそうだと考えた宇垣が降りてしまったので、そのまま中止になった事件です。

陸軍の中枢部(陸軍次官・軍務局長・参謀次長・第二部長)という陸軍大臣と参謀本部長に次ぐ人達が事件を起こそうとした張本人の事件ですから、誰が誰を処罰するということもなく、すべては曖昧なまま終わってしまったようです。

次の満州事変については関東軍が事件を起こし、日本国内では陸軍省・参謀本部とも事件の拡大を止めるため次々に命令を出した時、参謀本部のロシア課にいた橋本欣五郎はその都度、その命令は建前上のもので本音は事件の拡大・満州の制圧だからどんどんやれという意味の暗号電報を送り事件を拡大した、という事件です。その後、満州は独立して満州帝国となり、昭和10年には満州帝国皇帝溥儀が来日しているのですが、その最大の功労者である橋本は、その功績が正当に評価されていない、と不満に思っていたようです。これが手記を書いた理由なのかもしれません。

次の十月事件は、当初国外で事を起こす前に国内の体制を整える方が先だと考えていたのに、満州事件の方が先になってしまったので、急遽国内体制を整備するために国内でクーダターを起こし、陸軍主導の政治体制を作ることを目的としたものですが、実行の数日前に計画が明るみに出て、橋下ら首謀者が旅館に軟禁され事件の実行に至らなかった、というものです。

この事件では2.26事件と同様に閣僚や政財界人を殺害し、警察や新聞社を襲撃し、クーデター内閣を作る計画で、そのために飛行機や爆弾、毒ガスまで用意したというものですから、なかなか本格的です。

この一連の事件が翌昭和7年の5.15事件、昭和10年の天皇機関説事件、相澤中佐の永野軍務局長惨殺事件、昭和11年の2.26事件につながっていくわけで、このあたりの歴史を理解するのに貴重な本です。

また、この手記には杉山茂丸や頭山満なども登場しているので、その面からも面白いと思います。

著者の中野雅夫という人のコメントもなかなか面白いです。この人はこのあたりの戦前の昭和史研究を行ったジャーナリストで、何冊もの本を書いています。

この橋本欣五郎の手記によると、10月事件の時のクーデター計画は2.26事件のクーデターもどきよりはるかに徹底していたもののようですが、実現性については疑問です。

全ては橋本欣五郎その他ごく少数の人だけが知っていて、現場の将校達は橋本欣五郎の命令でごく当たり前のように部下の兵士たちを動かして重臣たちを殺害することが前提となっているようですから。
橋本大佐というのは参謀本部にいた人なので、自分が作戦を立てて命令すれば現場の将校はそれに従って行動する、と何の疑問もなく思っていたんでしょうね。

しかしこの昭和6年の一連の動きが2.26事件につながり太平洋戦争につながってしまったことを思うと、この手記およびそれに対する著者のコメントは一読の価値があります。

このあたり、陸軍や青年将校や昭和維新などに興味がある人にはお勧めです。

お勧めしない本

月曜日, 8月 1st, 2016

今まで『本を読む楽しみ』では、お勧めの本の紹介をしていました。

最近読んだ本のうち3冊が、逆に『お勧めしない本」だったので、紹介します。
それでも読んでみよう!という方は、ご自由にお読みください。

1冊目は林 千勝著『日米開戦 陸軍の勝算』という本です。この本では太平洋戦争は日本が勝つ確実なシナリオが出来上がっていたのに、海軍の山本五十六が真珠湾攻撃などシナリオに反することをしたので、必勝のシナリオが崩れて日本が敗けたんだ、と言っている本です。

戦前は陸軍と海軍が互いに悪口を言い合って、戦後も戦争に負けたのも陸軍のせいだ、海軍のせいだという議論があったのは知っていますが、この著者は1961年生まれの人です。こんな人までその議論が引き継がれているのか、とビックリしました。

この本の主旨は、日米開戦に先立って陸軍では『戦争経済研究班』を作り、完全にアメリカに勝てるシナリオを作っていた。にもかかわらずそのシナリオを壊すようなことを海軍がやったものだから、結局日本は戦争に負けた、という話です。

元々日米の国力差から、陸軍ではどうやってもアメリカには勝てないというシナリオをいくつも作っていたのですが、天皇の『どうせやっても勝てない戦争をすべきじゃないんじゃないか』との意向に逆らっても、戦争をするために無理やり作りあげたのがこの『戦争経済研究班』のシナリオのようなんですが、著者はこのシナリオこそ完璧で、完全に正しいシナリオだ、という前提でこれに反する事実を次々に否定していきます。

で、真珠湾攻撃ですが、これをやったことによって、アメリカが本気になって生産力をアップしたら、結果この『戦争経済研究班』のシナリオで想定していた生産力より大きくなってしまったということです。

ここで普通ならそのシナリオの想定が間違っていたんだ、と考える所ですが、著者は山本五十六が真珠湾攻撃などしたからシナリオが狂ってしまったんだ、というわけです。

シナリオではまずイギリスをやっつけるために太平洋は放ぽっておいて、インド洋に出てイギリスとインドの間の流通をストップすることになっているのに、実際はインド洋に出ていく代わりにフィリピンからニューギニア・太平洋諸島に出て行ったのが間違いだったなど、陸軍主導で起こったこともシナリオと違うことは全て海軍のせいにしています。

ある一つの資料がみつかった(と言ってもそのごく一部でしかないんですが)からといって、それが全く正しくて、それ以外の物事がたとえそれが現実であっても全て間違っていると考えられる、その観点で本まで書いてしまうというのは面白いですね。

ということで、この本を読んでみても殆ど役に立ちそうもありませんが、それでもこんな本も読んでみよう、という人はご自由にどうぞ。

2冊目は『アインシュタイン 双子のパラドックスの終焉』という千代島雅という人の書いたものです。

見るからにいかがわしそうな本なのですが、図書館のお持ち帰りコーナーに置いてあったので、どのようにいかがわしいのか読んでみよう、と思って貰ってきました。

読んでみると案の定いかがわしい本だったのですが、そのいかがわしい本を書いているのが大学の助教授だ(書いた当時)というので、さらにヘェーといったところです。

本人は科学者ではなく哲学者だ、ということになっているんですが、物理学をテーマにした本でさんざん物理学者の悪口を言って、いかにも自分の方が分かっているというふりをしている人です。

このテーマの『双子のパラドックス」というのは、アインシュタインの特殊相対性理論に関わる有名な『パラドックス』なんですが、これも世間一般に『パラドックス』と言われているだけの話で、物理学者にとってはパラドックスでも何でもない話です。

本の最後の部分で、これが最終的なパラドックスの解決だと言って、解決にも何にもなってない的外れの議論をしているのにはア然とするしかありません。

で、このパラドックスをめぐって、ニュートンだとかライプニッツだとかの名前を出し、ギリシャ時代のゼノンという哲学者の『ゼノンのパラドックス』の話を出し、自分は哲学者で物理学者ではないけれど、自分の方がよっぽども物理学をちゃんと理解している、物理学者は自分の頭で考えようとしないので何も分かっていないなどと、分かっていないのは本人の方なのにまるで見当違いの非難をすると、中味がまるで何もない本なのにいかにもまともそうな本になって出版される、というのも面白いものです。

中味のまるでない本ですが、いかに中味のない本か確かめたいというもの好きの人には面白いかも知れません。

最後の3冊目は、孫﨑亨さんの『日米開戦の正体』という本です。

この本の著者は外務省で局長をやったりイランの大使をやったりした、それなりの大物の元外交官です。

で、この本ですが、私は今までかなりの数の本を読んでいると思いますが、読んでいて気持ちが悪くなって吐き気がした、というのはこの本が初めての体験です。

と言っても別に気味の悪い話とか怖い話とかが書いてあるわけではありません。太平洋戦争の日米開戦に至る経緯を、いろんな本からの引用で紹介しているだけの本です。

著者は、自分が書いた文章では信用してもらえないだろうから、その当時の人が書いた本から引用するんだと言って、それこそ山ほどの本から数行あるいは10数行ずつ引用して、その引用の間を自分の文章で続けるという形のものですが、その引用されている部分がどのような文脈でどのような意図で書かれているかなどということはまるっきり無関係に、『その当時の人がこう言っているんだからこれが真実だ』という具合に論理を展開していく、そのやり方に何ページか読んだところで吐き気を催してしまった、というわけです。

このようなやり方で文書を切り貼りしていけば、どんな筋書きでも『これが真実だ』というものができるんだろうな、そのために山ほどの文献に目を通し、自分に都合の良い所だけ切り取っていくという大変な作業が必要なんだろうな、そうした所で歴史の現実にはまるで関係ない自分の見たい物しか見えないんだろうな、と思います。

よくもまぁこんなやり方で500ページもの本を書いたものだなと感心します。

で、このようなやり方で主張しようとしているのは、
今の日本が原発の再稼働・TPPへの参加・消費税増税・集団的自衛権・特定秘密保護法などにより75年前の愚かな真珠湾攻撃への道と同じような道を進んでいる。
それは
・本質論が論議されないこと
・詭弁・嘘で重要政策がどんどん進められること
・本質論を説き、邪魔な人間とみなされる人はどんどん排除されていくこと
だ、ということです。

そのように思いたい人にとってはそのように見えるのかな、と思います。
そんな人に付き合いたいとは思いませんが。

真面目に読むと吐き気が続きそうなので、適当にチラチラ眺めながら読むことにしました。この気持ち悪さ・吐き気は他の人も同じ反応になるかどうか分かりませんが、それでも試してみたいと思う人はトライしてみて下さい。

お勧めはしませんが。

『近代イスラームの挑戦』 山内昌之著

火曜日, 6月 21st, 2016

これは中央公論社の『世界の歴史』の20巻目です。
ここに辿り着くまで、最初はプライムニュースの番組で元外務省の佐藤優さんとイスラーム研究者というか歴史学者というかの山内昌之さんが登場した回を見たことから始まります。

この回の話は非常に面白く、その番組の中でこの二人がその少し前に対談して本を出した、と言っていました。その本を探して読んだのが『第三次世界大戦の罠』という本です。

この本は読み応えタップリの本で、イスラーム世界の全体構造をIS(イスラム国)が活躍するイラク・シリア、それを取り巻くイスラム世界の基本構造としてのイランとサウジアラビアの対立、その周辺のトルコとエジプト、サウジアラビアの周辺のアラブ諸国、さらにそれを取り巻くロシア・中国・ギリシャ・ヨーロッパ諸国が歴史的・地勢学的にどのような立場でどのように考えているか・・・ということが見事に描かれています。

しかし対談というのはあまり詳しい説明は期待できず、対談している二人が共通して良く知っているようなことは当り前のこととしてちょっと触れるだけで終わってしまいます。もう少しじっくり知りたいと思って次に読んだのが『民族と国家-イスラム史の視点から』という山内さんの書いた、岩波新書です。

この本も素晴らしい本でしたが、やはり新書ということでちょっと物足りない気がして、3冊目に読んだのがこの本です。

この本は『世界の歴史』の中の1冊ということで、イスラム世界全体の歴史、というより秀吉の頃から第一次大戦が終わるまでの時代のイスラム世界をオスマン帝国を中心に、日本との関係、すなわち日本がイスラム世界をどのように知ったのか、また明治時代以降は日本をイスラム世界がどのように見ていたかを中心に解説してあります。

秀吉は天下人となった直後、朝鮮を攻める前にまずはフィリピンのルソンに書簡を送って臣従を求めたけれど、その少し前フィリピンはスペインに占領され植民地になってしまっていた、という話から始まります。

もし秀吉がフィリピンを臣従させていたとしたら、多くの原住民は素直に従っただろうけれど、一部イスラム教徒の住民だけは最後まで抵抗したかも知れない、という話です。

その後江戸時代になると、長崎の出島のオランダ商館長が新しい情報が入るたびに幕府に『オランダ風説書』という報告書を提出します。それによって日本人はヨーロッパを中心とする世界の情勢を知ることになるのですが、イスラム世界の動きもその中に記載されています。

で、この本はその『オランダ風説書』のイスラム世界の動きについての記述が狂言回しとなって、オスマン帝国とその周辺の出来事について解説されていきます。

幕末から明治になると、日本から多数の使節・調査団・留学生がヨーロッパを訪れます。彼らはエジプトのスエズを経由するので、その途中でエジプト見物をしたりあるいはオスマン帝国の各地訪ねたりして、その見聞録だったり日誌だったりが、次に狂言回しの役割を果たします。

日清・日露の戦争のあたりになると、今度はこの日本が、中国に勝った、ロシアに勝った、ということをイスラム世界がどのように感じ、どのように報じたかということがもう一つのテーマになります。中国はともかくロシアにはイスラム世界はひどい目に遭ってきた相手であり、またイギリス・フランスを含めた白人諸国全体としてもイスラム世界はひどい目にあってきて、そのロシアを極東の非白人の日本がやっつけた、ということで熱狂的な騒ぎになったあたりがきちんと解説されています。

この本では江戸時代のちょっと前から第一次大戦の終わるあたりまでの時代を扱っています。私は、現在の中東のイラク・シリア・レバノン・ヨルダン・イスラエル・サウジアラビアなどの国がどのようにできたかきちんと知りたいと以前から思っていたのですが、残念ながらその直前で本が終わってしまいました。(この部分については図書館で見つくろって、今度は講談社の世界の歴史の第22巻『アラブの覚醒』というのを読みました。この本ではドンピシャリ、これらの中東の国々がどのようにできたか、が詳しく書いてあります)。

『近代イスラームの挑戦』の方は、オスマン帝国の本体である、トルコの部分とオスマン帝国の一部であり、独立して国になろうとしたエジプトがある意味主人公のようになっていますが、中国とトルコ、日本とエジプトを対比して何が同じで何が違うのかという視点からも書かれています。この視点からこの本を読むと考える所がたくさんあります。

地勢学というのがこれらの本のベースとなっている見方なんですが、つくづく日本というのは地勢学的にラッキーな国だな、と思います。トルコやエジプトの地勢学的な不利は、まず第一に、野蛮で凶暴なヨーロッパのすぐ隣に位置して、その影響を直接うけ、避けることができない、ということだと思います。その点、中国も日本もヨーロッパからかなり遠いのでラッキーだなと思います。

次にオスマン帝国が弱体化してヨーロッパのイギリスやフランス、そしてロシアが軍事的に優位に立ったとき、イギリスやフランスはすでにアジアに植民地ができており、ヨーロッパからアジアにアフリカ周りの航路は既に確立されていたものの、エジプトのスエズから紅海経由、あるいはシリア・イラクからペルシャ湾経由の方が経済的にはるかに有利であり、そのルートを使うためにはエジプトあるいはトルコをヨーロッパの思うように扱う必要があった、ということです。中国も日本もそのような通せんぼの位置にはなく、邪魔者になることはなかったので、その意味でヨーロッパ各国の攻撃対象にならないで済んだ、ということだと思います。

さらに日本は中国のすぐ近くにあり、中国に比べるとはるかに小さい国だったので、ヨーロッパからの侵略者達の目は中国に向かって、日本は放っておかれた、というのも地勢学的に有利な点だと思います。

以上、一連の本を通してイスラム世界・中東各国について、かなり見通しが良くなったように思います。

もし興味がある方がいたら、お勧めします。

『昭和維新-日本改造を目指した“草莽”たちの軌跡』

火曜日, 6月 14th, 2016

この本は、昭和初期から第二次大戦の前後までの期間、明治維新に続く(あるいはその完成を目指した)昭和維新という名の一連のテロリズム事件についてまとめて書かれているものです。本部500ページ強のちょっと大部な本です。

著者は“維新の志士”という言葉を使っていることからも分かるように、心情的にはどちらかと言うとこのテロリスト達の側に立っていますが、このテロリスト達に対する思い入れが強過ぎるということではなく、またテロの対象となった人達についても『悪者だ』と決めつける書き方でもなく、淡々と事件の経緯を記述しているので、テロリスト達に共感しない人にもあまり困難なく読めると思います。

この一覧のテロリズムのピークとなるのは、5・15事件、そして2・26事件であったりするのですが、その前後の未遂に終わったテロ計画等についても書いてあり、また登場人物も同じ人物が入れ替わり立ち代わり現れたりして全体像をつかむのに便利な本です。

例えば2・26事件について言えば、真崎教育総監更迭問題・永田鉄山斬殺事件・その犯人の相澤中佐の公判闘争、そして2・26事件そのもの、そのあとの東條英機暗殺計画と、7章にわたって書かれています。

個々の事件の内容についてはそれほど突っ込んで詳細に書かれているわけではありませんが、例えば相澤中佐の裁判と2・26事件がどのように密接に関連していたのかなどが良くわかるようになっています。

期間的には昭和5年から20年位、今から85年前から70年前位の間の出来事です。日本でもこのようにちょっと前までテロリズムが日常的だった時代がある、ということを思い起こすのにも良いと思います。
お勧めします。

今ではたとえば『アベシネ』とか『日本死ね』とかでも、デモで叫んだりネットで言い散らしたりすることはあっても現実にテロを企てて人殺しするようなことはほとんどなくなっています。日本も本当に豊かで良い国になったなと思います。

『公教要理』

木曜日, 4月 28th, 2016

私は今となっては『小説を読む』ということでは、朝刊の連載小説を読むくらいのものですが、若いころはかなり色々と読みました。中には欧米の小説の翻訳もいろいろありました。

そのような翻訳小説を読んでいると、時々出てくるのがこの「公教要理」というものです。

これはキリスト教(カトリック)の教えを子供でも分かるようにまとめたもので、子供達はこれを暗記することが宿題となり、友達どうしで問題を出し合って勉強した、なんてことが書いてあります。それでこれは一体どんなものなんだろう、一度見てみたいものだなと考えていました。今から数えると半世紀近く昔の話です。

近ごろ友人が「お母さんの使っていたものだから」と言って、聖書だとかその他何冊かキリスト教関係の本を持ってきてくれました。その中にこの『公教要理』が入っていました。

戦後すぐの昭和28年の出版のものなので、いわゆる歴史的仮名遣いではなくなっているものの、拗音(小さいや・ゆ・よ)や促音(小さいつ)などは大きいままの活字で、漢字も旧字体で、振り仮名など部分的に飛んでいるような印刷ですが、それなりになかなか味があって面白く読めます。

本といっても大きさはだいたいスマホと同じ位の、手の中に入ってしまうくらいのものです。この中に200頁ちょっとの中に541個のQ&Aがぎっしり詰まっています。1ページあたり3個のQ&Aですから、QもAも1行、せいぜい2行のものがほとんどです。
これでは子供達が暗記するのにぴったりです。

そのQ&Aの書き方も、たとえば
Q : ○○は何ですか?
A : ○○は△△です。
Q : △△とはどういうことですか?
A : △△とは□□□□のことです。
という具合に続きます。

最初のQ&Aで△△という言葉を覚え、次のQ&Aでその言葉の意味を理解する、というような具合です。

なるほどキリスト教国では子供の頃からこのようなQ&Aに慣れているのか、と思います。
今、私達が普段目にするQ&Aは、たとえば1つのQに対して1ページから数ページにわたってAが書いてあるようなものです。これではとても暗記するわけにはいきません。Q&Aも1,2行というのが何とも素晴らしい工夫です。さすがにカトリック教会だと思いました。

子供たち同士で問題を出し合うにしても、QもAも500個もあれば、全体を理解してから問題を作るなんて手間をかける必要はありません。500個の中から頁を開いて出てきたQをそのまま問題にすれば良いし、答もAと一字一句違ってなければ正解、ちょっとでも違っていたら不正解と、簡単明瞭なものです。

で、まずは一番やっかいな『三位一体』がどのように説明してあるんだろうと思って見てみました。
Q : 三位一体のわけはこれを悟ることができますか。
A : 三位一体のわけは、人間の知恵では悟ることができません。
     天主のお示しであるからこれを信ずるのであります。
Q : 悟り得なくとも信ずべきことを何と申しますか。
A : 悟り得なくとも信ずべきことを、玄義(げんぎ)と申します。
Q : 天主が御一体であって三位なる玄義を何と申しますか。
A : 天主が御一体であって三位なる玄義を、三位一体の玄義と申します。
という具合です。
これは見事だなあと感じ入りました。
いい加減な説明をして子供を混乱させるより、はじめから『人間には理解できないことだから信じなさい』と言い切ってしまう方がよほど分かりやすい説明です。

人が死んで天国に行ったり地獄に行ったりというのも実は2回あって、死んだ時にすぐに審判を受けて肉体は地上に残して霊魂だけ天国や地獄や煉獄に行くというのと、世界の終りに死んだ人が全員復活してまた霊魂と肉体が一体となり、最後の審判を受けて今度は肉体も一緒に天国や地獄に行く、という構成になっているということは初めて知りました。

キリスト教では結婚ということが非常に重要視されていて「婚姻の秘跡」と言い、この中でたとえば
Q : 婚姻の目的に背く甚だしい大罪は何でありますか。
A : 婚姻の第一の目的は、天主の御定により子を挙げることでありますから、避妊を
   計るような行為は婚姻の目的に背く甚だしい大罪であります。
とか、
Q : 夫婦の務(つとめ)とは何でありますか。
A : 夫婦の務とは、互いに相愛し、欠点を忍び、貞操を守り、公教(カトリック)の教え
   に従って子供を育てることであります。
などというQ&Aもあります。

それぞれのQ&Aには、聖書の中の参照すべき個所が書いてあります。その参照されている部分をすべて確認すると、それだけでも聖書をかなり読むことになります。

キリスト教というのはどういうものか知りたい人にも、キリスト教徒、特に欧米のキリスト教国の普通の人達がふだんどのように思っているのか知りたい人にもお勧めです。

ためしに図書館の蔵書を検索してみたら、さすがに東京都立図書館にはありましたが、埼玉県では県立図書館にも市町村立の図書館にも蔵書がありませんでした。
とはいえ、今はインターネットの時代です。ネットで検索すればテキスト全文が載っているサイトがみつかります。

とはいえ私は紙の本の方が好きなので、この本を持ってきてくれた友人とそのお母さんには感謝です。

『神経とシナプスの科学』 杉 晴夫著 ブルーバックス

水曜日, 4月 6th, 2016

この本は神経の情報伝達の仕組みを丁寧に解説したものです。
ふつう、この分野の解説書では
 『神経線維はシュワン細胞という細胞でグルグル巻きにされているけれど、2ミリおきにそれが途切れて裸になっている所があります。神経の情報はその途切れ目を次々に電気が飛びながら流れることで伝わります。』

という具合に説明されるんですが、この本はその仕組みを一つひとつ具体的に立証するために色々な学者が何を考え、どのように道具立てをし、どのような実験をしたか、というプロセスを一つひとつ説明しています。

人類にとって生体の電気と電池は、どちらもカエルの足の筋肉に異なる二つの金属を接触させて、それをつないだら筋肉がピクンと縮んだという実験からスタートしている、とのことです。1790年頃のことです。

電気の方はその後これを真似て、二つの金属を電解質(イオンが解けている水)の中に入れて電池を作り、その金属電極を金属の線でつなぐと電流が発生し、それが磁石を動かし、逆に磁石を動かすと電流が発生し、・・・という具合でついにマクスウェルの電磁気学にまとめあげられる、という具合に発展するのですが、生体の電気の方はとっかかりがなく長く発展しなかったようです。その後電磁気学の発展により、まず検流計の発明により電流を測ることができたことでちょっと進み、次にオシロスコープの発明で、一瞬のごくちょっとの電圧の変化を目にみえる形で記録できるようになったことによりさらに進み始めます。この本ではオシロスコープの仕組みまで丁寧に説明してあります。

次の発明がガラス管を直径0.5μm(1万分の5mm)まで細くして、それを電極にして神経細胞に刺し、電流をはかることで神経の情報伝達の仕組みを解き明かすことができるようになった、というわけです。

この話の中で『イオンチャネル』という、イオンが細胞に入ったり出たりする出入口が細胞膜に付いているということが、最初は説明のための仮説だったのが、その後実際にそれが見つかった、どうやってみつけたのかの説明も付いています。

電気というのは電子が動いたりイオンが動いたりして流れるわけですが、この本では丁寧な図が付いていて、電子がどのように流れ、電気がどのように流れるか、いろいろ矢印で説明しています。

普通の本では電子が流れると電気はその反対だから、と矢印は片方を省略してしまうのですが、この本では省略しないでちゃんと書いていてくれます。とにかく絵が豊富で分かりやすく書かれています。さらに登場人物が生き生きと書かれ、様々なエピソードも取り上げられています。

教科書のたった1行か2行の記述の裏にいかに多くの学者の努力と思考錯誤とエピソードがあるか、考えさせてくれる本です。

お勧めです。

『一般理論』 再読 その12

火曜日, 2月 16th, 2016

一般理論、いよいよ消費性向の話になるのですが、その前に、この前までの所、宮崎さん・伊東さんの本、宇沢さんの本がどんなことを書いているのか、紹介しましょう。

宮崎さん・伊東さんの本は何ともあきれ果てた内容です。
まず最初に、『利子費用はなぜ要素費用に入らないのか』なんてことを議論しています。そもそもこの問題の立て方自体、宮崎さん・伊東さんが一般理論をまともに読んでいないことを明らかに示しています。

私の理解では、利子収入を所得にするのであれば利子の支払いは費用になるけれど、利子収入が所得にならないのであれば利子の支払いは費用にならない、というだけの話です。

一般理論、ここまでの所登場するのは企業と労働者・消費者だけで、金利生活者・年金生活者はまだ登場していませんから、所得の方でも費用の方でも金利が登場しない、というだけの話です。これをケインズが利子についてちゃんと扱っていないと非難するのは、まるで筋違いの話です。

その次は、総供給曲線が右肩上がりの増加曲線になるのですが、その上がり方が上に凸なのか下に凸なのか、などという、どうでも良い話を延々としています。そのために訳のわからない式を立て、式を変形し、といろいろやってます。あげくの果てに『ケインズの誤り』などと見出しを付けて、『ケインズが総供給曲線は直線だと言っているのは間違いだ』などと言って得々としています。

ケインズが総供給曲線は直線だと言っているのはその通りなのですが、それは本文の中ではなく、注の文章の中で、『これこれの場合、これこれだと仮定すると総供給曲線は直線になる』と総供給曲線の性格を説明している部分です。

宮崎さん・伊東さんはその部分の結論だけ取り出して、『ケインズは収穫逓減を認めていたはずだからそれと矛盾するので誤りだ』などと主張しています。ケインズは別に収穫逓減を積極的に主張しているわけではなく、単に明確に否定しないというだけのことなのにそれを無視し、さらにはいくつもの前提条件を全く無視して『ケインズの誤りを見つけた』などと喜んでいるというのは、もう読むには堪えない話です。

また費用の説明をするのに、企業の費用(というか支出)を具体的に原料費とか給料とか原価償却費とかに分け、どれが使用費用でどれが要素費用かなどという区分をしています。ところが一番重要な売上原価の計算あるいは原価計算の部分が反映されていないために、まるで訳の分からない説明になっています。要するに、支出と費用の違いが分かっていない、ということです。困ったことにはこの説明図がそのまま間宮さんの訳の訳者注に引用されているので、この訳の分からない説明が訳の分からないまま拡散されてしまっています。このような本を参考にケインズの一般理論を理解しようとするのは難しいな、と思います。

どうも宮崎さんも伊東さんも、古典派の経済学の立場に立って一般理論を批判することを目的としているようで、一般理論の理解もケインズのいう事を聞こうとするより古典派の立場からの解釈を主張し、その解釈でケインズ批判をしているようです。ケインズの理解には役に立ちそうもありません。

一方宇沢さんの方は、ケインズの【貯蓄=投資】を、所得のうち消費されない分は金融資産の購入という形で貯蓄される、と考えます。その金融資産の購入ということで投資につながる、という風に考えるようです。

また(あるいはそれだから、でしょうか)、ケインズの【貯蓄=投資】というのはいつでも成り立つ関係なのですが、宇沢さんはどういうわけかこれは『均衡状態の下では』【貯蓄=投資】となる、と考え、均衡状態の下でのみこの式が成り立つと考えているようです。
これも古典派の経済学の名残りなんでしょうか。

宇沢さんの本も、宮崎さん・伊東さんの本ほどではありませんが、かなりいろんな式を使って説明しようとしています。

やはり古典派の経済学を勉強してしまうとケインズの本を素直に読むのが難しく、すぐに式に書き直して理解したくなってしまうのかも知れません。しかし式を書くことによってケインズの言葉から離れて式が勝手に動き出し、訳の分からない議論が展開されてしまうようです。

こうなった原因の一部は、ケインズが余計なことをいろいろ書いて読者を混乱させている、ということもあるのですが、困ったことです。

いずれにしても、宮崎さん・伊東さん・宇沢さんの悪口ばかり言っていても仕方ないので、『一般理論』、先に進むことにします。

講談社ブルーバックス『地盤の科学』

水曜日, 1月 20th, 2016

この本を読んでみようと思ったきっかけは、例のマンションのくい打ちの不正の件です。

考えてみれば、建物の基礎工事のことなんか何も知らないなと思って、ちょっと読んでみようと思いました。

で、読んでみると、何とも盛りだくさんの面白い本です。
350頁位の本なんですが、最初の250頁くらいまでは建築の基礎工事の話なんかは何もなく、地殻の話・プレートテクトニクスの話・海面が上がったり下がったりして日本列島ができる話・街道は近くの断層を走る話・地中からの出土品を保存する技術の話・古墳の作りかた・地球の歴史・ゴミの話・地下水の話・地震のメカニズム・液状化の話・神戸地震その他の地震の話・地滑りの話・火砕流、土石流の話・地盤沈下の話・大阪や東京の地下の地層の話・堤防の話・土の固さをどう測るか、地中を探るための人工地震・CTやMRIと同様な方法・身体検査の超音波検査と同様の方法、鉱山跡の陥没の話・人工衛星で空から地中を探る方法、と盛りだくさんです。

その後ようやく地盤の話になるかと思えば、建物の基礎だけでなく橋の基礎をどうするかとか、ダムをどうやって作るかとか、海上の人工島の作り方とかトンネルの掘り方・地下鉄の作り方・地下ダムの作り方・地下に居住空間を作る話など、さらに盛りだくさんです。

で、読んでいて面白かったのは、普通の一戸建ての場合敷地面積当たりの建物の重さは1平方メートルあたり2トンで、これは大人が立った時の足の裏にかかる体重の荷重と同じ位だという話とか、土や砂や粘土やコンクリートの重さは1立法メートルあたりだいたい2トンくらいだ(水は1立法メートルで1トンですから、水の2倍の重さ)ということです(砂が2トン、粘土が1.6トン。良く締め固めた土で2.2トン、コンクリートで2.4トン)。

とにかく話題盛りだくさんで、ふんだんに楽しめます。
いろんなことに興味のある人におススメします。

『一般理論』 再読 その11

木曜日, 1月 14th, 2016

さて久しぶりに『一般理論』の続きです。
昨年は途中まで行った所で、例の安保法制の大騒ぎで憲法学者があまりにも支離滅裂な話をするのでアキレハテてコメントしていたら、いつのまにかピケティの本を借りる順番が来てしまい、そっちの方を優先してしまいました。

結局思った通りピケティは読むほどの意味はなかったのですが、600頁もの本を2週間で読むというのはそれなりにシンドイ作業で、終わった後はこんな変な本を読んだ口直しに真っ当な経済学の本を読みたくなりました。

ちょっとだけ『共産党宣言』に寄り道しましたが、『一般理論』に戻って、やはりこの本は本物だ、と再確認しました。

で、前回までどこまでコメントしたのか読み直してみると、所得・消費・貯蓄・投資の関係式と、有効需要の話の所で、一般理論の最初の山の所でした。

で、この話のまとめの所から『一般理論』のコメントを再開します。

とりあえず当面登場するのは、企業と労働者+消費者の二つだけです。
企業は他の企業からの仕入れと労働者を使って生産活動をし、他の企業には代金を払い、労働者には労賃を払い、できた製品を他の企業あるいは消費者に販売し、売上げを上げます。

労働者は企業で働いて労賃を得ます。これが労働者の所得です。労働者はその所得の中から買い物をすると、それが消費です。所得から消費を差引いたものが貯蓄です。

企業は売上げから費用を引くと企業の利益となります。これをもう少し詳しく言うと、売上げに設備投資・在庫投資の増分を加えて、労働者に対する支払い・その他企業に対する支払いを差引いたものが企業の利益・企業の所得になります。

設備投資・在庫投資の増分を投資と言います。また企業の所得は企業の貯蓄となります。企業には消費はありません。

このように所得・消費・投資・貯蓄を定義すると、
経済社会全体の合計の所得・消費・投資・貯蓄について
  所得=消費+投資
  貯蓄=所得-消費
  投資=貯蓄
となる、ということがわります。

ここで、
貯蓄=所得-消費
は定義のようなものですから、経済社会全体でなくても個々の経済主体すなわち一人の労働者、一つの企業でも成立するのですが、それ以外の
  所得=消費+投資
  投資=貯蓄
は経済社会全体の合計について成立つ式で、個々の経済主体では成立しないし、労働者全体でも企業全体でも成立しないものです。

で、この式の簡単な例として
ある消費者が100円の消費をした場合、経済社会全体では
所得=30円、消費=100円、貯蓄=-70円、投資=-70円
となる、とか
ある企業が100円の投資をした場合、経済社会全体では
所得=50円、消費=0円、貯蓄=50円、投資=50円
となる、という例を紹介しました。

このような例で説明すると、上記の所得・消費・貯蓄・投資の式もかなり良く分かると思うのですが、経済学ではこのような説明はあまり(あるいは全く)ないようです。

会計の方ではこのような簡単な例で説明するというのは良くある話なのですが、経済学では例の代わりに訳の分からない式を作って訳の分からない議論をすることになっているようです。その結果として自他共に訳の分からない議論をする、ということのようです。

また上記の『貯蓄』というのは定義通り【所得-消費】ということですから、銀行預金とか国債や社債など債券を買うとかとは全く関係のない話です。宇沢弘文さん、宮崎義一さん、伊東光晴さんの本を読むと、どうもここの所、消費者が所得の一部を消費しないでとっておくと、それが銀行預金や債券の購入を通じて企業に流れていって、企業の投資になる。それが【投資=貯蓄】の意味だ、と思っているようです。

これではまるで話が違ってしまいます。ケインズの世界(あるいは現実の世界)では消費者が余ったお金をタンス預金にしてもカメの中に入れて庭に埋めておいても、話は変わりません。また企業の方も余ったお金をすぐに投資に使わないで、そのまま現金で持っていても話は変わりません。それらの場合でも【投資=貯蓄】は成立ちます。

確かに古典派の世界では労働者も企業もトコトン利益を追求するので、せっかく持っているお金を全く活用しないで寝かせておくというのはあり得ない話なんですが、もちろん現実は全く活用しないで寝かせておくお金というのは、労働者・消費者でも企業でもごく当たり前に良くある話です。

で、ケインズは私が【売上げ総所得】と呼ぶことにした、各企業についてはその企業の所得(利益)とその企業に雇われている労働者の所得(労賃)の合計、経済社会全体ではその中の全企業の売上げ総所得の合計、即ち全企業の所得と全労働者の所得の合計、即ち全ての所得の合計を中心に議論を進めようとしています。

企業はその企業の所得(利益)を増やすことだけを考えます。するとその企業の売上げ総所得(企業の利益とその企業に雇われている労働者の所得の合計)が決まった時、労働者に払う労賃を減らせば企業の利益をもっと増やせるので、その方が有利なように思えます。

しかし、そうなると労働者の所得が減ってしまい、労働者の消費が減ってしまい、結局経済社会全体の所得が減ってしまい、回り回ってその企業の所得も減ってしまう。そのため企業としては労賃を減らすことを考えるのではなく、売上げ総所得を増やすことを考えることが大事だ、と考えるわけです。

労働者の方は自分の所得を増やすことだけを目的とします。すると企業の売上げ総所得が決まった時、企業の取り分を少なくして、その分労働者の取り分を増やすことができればその方が有利のように思えます。

しかしそうすると企業の利益が減ってしまい、投資に回すお金が減って、企業は生産活動を縮小しなければならなくなり、経済社会全体の売上げ総所得が減ってしまうことになり、回り回ってその企業の売上げ総所得も減ってしまい、結局その企業の労働者の労賃も減ってしまうということになります。それより労働者としても企業の売上げ総所得、そして経済社会全体の売上げ総所得を増やす方が良いということになります。

そこで次はどうやって企業の売上げ総所得を増やすのか、あるいは経済社会全体の所得を増やすのか、という話になります。

企業が売上げ総所得を大きくしようとしても、できることは投資を増やし、生産活動を増やすことだけです。ですからまずは企業がどのように投資を決めるのか、考える必要があります。

一方消費者が経済社会全体の総得を大きくしようとしても、できることは消費を増やすことだけです。一般理論はこのため消費者はどれだけ消費するかをどのように決めるのか、企業はどれだけ投資するかをどのように決めるのか、ということをテーマとして議論します。

その前に有効需要について考えておく必要があります。
有効需要というのは『その10』で簡単にコメントしましたが、次のようなものです。

需要曲線(需要関数)を次のように考えます。
ある企業がN人の労働者を雇うとすると、その労働者の生産力で、これだけの売上げ総所得が得られるだろうという、雇用する労働者の数と売上げ総所得の関係を表す曲線(あるいは関数)。
供給曲線(供給関数)は次のように考えます。
ある企業がN人の労働者を雇うんだったら、これだけの売上げ総所得が得られないと困るよな、という、雇用する労働者の数と売上げ総所得の関係を表す曲線(あるいは関数)。

で、この需要曲線と供給曲線の交わる所で、企業の期待する売上総所得は極大になり、その点での雇用する労働者の数と売上げ総所得が決まるという具合です。
その交わった所の売上げ総所得のことをその企業の有効需要といい、全ての企業の有効需要の合計を経済社会全体の有効需要という、ということです。

この有効需要に関して、いくつか重要なポイントがあります。

  1. 有効需要というのは、生産量で量るのでもなく、売上げ高で量るのでもなく、売上げ総所得で計る。
  2. 有効需要を決める需要関数(曲線)・供給関数(曲線)は、いずれも企業あるいは供給者がそれぞれの期待(見通し・希望・見込み)にもとづいて決めたものだ。
  3. 有効需要の売上げ総所得が実現する保証はない。現実の経済社会の所得の合計が、有効需要の合計とは必ずしも一致しない。

ということで、古典派の需要供給の法則とは似ているけれどまるで別のものです。

このあたり、一番大事な確認ポイントだと思うのですが、宇沢弘文さん、宮崎義一さん、伊東光晴さんの本も、あまり明確にはこのへんを解説していません。

上記のうち特に2番目の、全ては企業の期待にもとづくものであり、有効需要とは言っても需要側の考え方も、あくまで供給側の考えを通して間接的に反映されるだけだ(すなわち、買い手の意向(需要)は売り手が、買い手はこう考えているだろう、という期待で決まってしまうということ)、というのははっきりさせておく必要があります。

また3番目についても古典派の需要供給の法則では値段と数量が明確に決まってしまって、市場の関係者全員にそれが即時にはっきりわかる、ということになるのですが、ここではそれぞれの企業がどのような期待を持っているか明確には分かりませんから、有効需要は概念的にははっきりしていますが、それがいくらになるかについては明確にはならない、という性格のものです。

もちろん何もなければ日々の企業の期待の見直し、あるいは実際の生産活動の修正の結果、現実の経済社会全体の所得の合計は有効需要の合計に近くなっていくのでしょうが、その過程で状況の変化、環境の変化でどちらも変化を余儀なくされるため、いつまでたっても不一致のままということになります(とはいえ、現実には経済社会全体の所得の合計というのも計算するのはそう簡単ではありませんし、有効需要の方はなおさら集計の方法がありませんから、一致も不一致も確認のしようがないことなんですが)。

で、このように有効需要が決まり、それと合わせて雇用される労働者の数が決まると、経済社会全体で雇用される労働者の数(の期待値)も決まります。その数が労働者の総数より小さければ必然的に失業者が出て来るというあんばいです。

何らかの形で有効需要を増やすことができれば、それに対応する雇用される労働者の数も増やすことができ、社会全体の所得も増やすことができますから、メデタシメデタシとなるわけです。

これで一般理論の議論は、この有効需要を増やすために消費者についてはどうやって消費を増やすことができるのか、そもそも消費者がどれだけ消費するかというのはどのように決めているのか。企業についてはどうやって投資を増やすことができるのか、そもそも企業がどれだけ投資するかということをどのように決めているのか、という議論になるのですが、その話をする前に、ここで説明したあたりを宮崎さん・伊東さんの本や宇沢さんの本がどんな紹介の仕方をしているのか、次回ちょっとコメントしましょう。

『共産党宣言』

火曜日, 1月 5th, 2016

ピケティの『21世紀の資本』の中でピケティは、『マルクスは若くして共産党宣言を書き、その後生涯をかけてそれを正当化するために資本論を書き続けた』と書いてあります。

マルクスの資本論は何度か読もうとしたことがありますが、あまりにも非論理的・非科学的な内容で読み続けることができなかったのですが、このピケティのコメントを読んでシメタ!と思いました。

すなわちピケティの言っていることが正しいとすれば、マルクスが資本論で正当化しようとしていた共産党宣言を読んで、その内容が間違いだと確認することができれば、それで自動的に資本論の中味が間違いだということになりますので、資本論自体を読む必要がなくなるこということですから(どんなに立派な証明でも、結論が間違っていれば自動的にその証明も間違っているということです)。

資本論は岩波文庫で9冊になり、全部で3,600頁にもなりますが、共産党宣言の方はせいぜい文庫本で50ページ位のものですから、簡単に読めます。

実は資本論を読み始めた頃、友人から『資本論というのは経済学の本というより政治的文書だ』と教えてもらったことがあり、その時はその意味があまり良くわからなかったのですが、上記のピケティの言葉でその意味が良く分かりました。

で、共産党宣言ですが、歴史に関するコメントであれ、経済に関するコメントであれ、明らかに間違っていることのオンパレードですから、ごく簡単に目的を達してしまったということです。
マルクスが最初に共産党宣言を書いたのが1848年、その後の170年の歴史の知識の蓄積やその後の世界の変化を見るだけで、この共産党宣言の間違いは明らかです。

もうこれで、いつか時間をみつけて資本論を読んでみようなんてことは考えないで済みます。その意味でピケティの600頁もの本を読んだ価値は十分にあったなと思います。

この『共産党宣言』というタイトルですが、実は直訳すると『共産主義者の集まりのマニフェスト』、1872年に再販した時のタイトルが『共産主義者のマニフェスト』というものです。マニフェストというのは例の民主党が大好きな、あのマニフェストです。このタイトルを『共産党宣言』と訳したのは確かに格調高いと言えば言えそうですが、むしろコケオドシと言った方が良いのかも知れません。

いずれにしてもこれだけ間違いだらけのちっぽけな本が歴史的にあれだけ大きな影響を与えた、ということでも一読の価値はあると思います。

たかだか文庫本50ページくらいのもので、いたるところ間違い(独断と偏見)だらけの本ですが、その間違いを数え上げるのも面白いかも知れません。

お勧めはしませんが、興味があったら読んでみてもいいかも知れません。