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ケインズ・・・18回目

火曜日, 7月 16th, 2013

さて、一般理論もあと2章残すだけです。

最後の前の章は今までの古典派批判の締めくくりとして、古典派に否定されてしまった重商主義についてこれを復活させ、またゲゼルという一風変った人の経済学の紹介、「蜂の寓話」の話、反古典派のホブソンとマムマリーの理論の紹介になっています。

古典派が登場する前、経済学は重商主義という考え方が主流でしたが、古典派により完膚なきまでに否定されてしまったということです。それをケインズは「古典派よりよっぽどまし」と言って、復活させています。ケインズの解説を読む限り、重商主義にそれほど問題があったとも思えませんし、ケインズの「重商主義者は問題の存在は察知していたが問題を解決するところまで分析を押し進めることができなかった。しかるに古典派は問題を無視した。問題の非存在を含んだ諸条件を彼らの前提に導入したからである。」という言葉を読むと、古典派というのは何の役にも立たない頭でっかちのような気がしますが、それが一世を風靡したということと何となくしっくりきませんし、いずれ機会があれば古典派の経済学とその前の重商主義についてちょっと勉強してみましょう。

古典派について最後にケインズが言っている
 【思うに古典派経済理論は影響力の点である種の宗教に似た所がある。人々の常識的なものの考え方に深遠なものを吹き込むよりは自明なものを追い払ってしまう方が、はるかに大きな観念の力を行使できるからである。】
というのは考えさせられます。

重商主義の復活の後は、古典派の世界の中で古典派に反対する立場をとった経済学(というか経済思想)を紹介しています。

まずはゲゼルという人の話があります。
 「この書物全体の目的は反マルクス主義の社会主義を打ち立てることにあると言っても良いかも知れない」とか、
 「将来、人々はマルクスよりもゲゼルの精神からより多くのものを学ぶだろう。そう私は信じている」
なんて書かれてると、ちょっと興味がわきますね。
ちなみに一般理論でマルクスが引き合いに出されているのは古典派という言葉をマルクスが言いだした、というところとこのゲゼルのところだけです。
ただしこのゲゼルというのは、ケインズは「理論が不完全だったためにアカデミズムの世界から無視されたんだろう」と言っていますが、このゲゼルの著作の日本語訳は(間宮さんの訳の文献一覧によると)なさそうなので、読むのは難しいかも知れません。日本の長期にわたるデフレ脱却の手段として時折「スタンプ付き」貨幣というアイデアが紹介されますが、このアイデアはゲゼルのもののようです。

その後、マンデヴィルの「蜂の寓話」の紹介とか、ホブソン・マムマリーの「産業の生理学」の紹介とかがあります。これは不完全ではあるけれど、古典派の欠陥をついた主張として、ケインズはあくまで古典派の攻撃にこだわっているようです。

ケインズ一般理論最後の章は「一般理論の誘う社会哲学 ― 結語的覚書」というタイトルで、総まとめの章です。冒頭、「我々が生活している経済社会の際立った欠陥は、それが完全雇用を与えることができないこと、そして富の所得の分配が恣意的で不公平なことである」と書いてあります。

この完全雇用については一般理論で論じたものですが、富と所得の分配についても、大きな不平等は問題だけれど、ある程度はあっても良いと考えているようです。
 「人間は危なっかしい性癖を持っているが、この性癖は蓄財や私的な富の機会があればこそ、比較的無害な方向に捌けさせてやることができる。」
 「人間が同胞市民に対して専制的権力を振るうよりは、彼の銀行残高に対して専制的権力を振るう方がまだましである。」
というあたり、やはりケインズはあくまで現実的に問題をとらえ、経済学の枠にとらわれない考え方のできる人です。

この章の最後にケインズは「問題を正しく分析することによって、効率性と自由を保ったまま病を治癒することもあるいは可能かも知れない。」と言ってあるべき未来についての希望を述べています。
 「このような思想を実現することは夢物語なのだろうか。」 
 「だが思想というものはもしそれが正しいとしたら、時代を超えた力を持つ、間違いなく持つと私は予言する。」
 「早晩、よくも悪くも危険になるのは既得権益ではなく、思想である。」
として、いずれ将来、一般理論により多くの問題が解決される時が来る期待を表明しています。

今の所まだそのような未来は来ていないようですが、やはりケインズは学者の枠には収まりきれない人のようです。