『共産党宣言』

1月 5th, 2016

ピケティの『21世紀の資本』の中でピケティは、『マルクスは若くして共産党宣言を書き、その後生涯をかけてそれを正当化するために資本論を書き続けた』と書いてあります。

マルクスの資本論は何度か読もうとしたことがありますが、あまりにも非論理的・非科学的な内容で読み続けることができなかったのですが、このピケティのコメントを読んでシメタ!と思いました。

すなわちピケティの言っていることが正しいとすれば、マルクスが資本論で正当化しようとしていた共産党宣言を読んで、その内容が間違いだと確認することができれば、それで自動的に資本論の中味が間違いだということになりますので、資本論自体を読む必要がなくなるこということですから(どんなに立派な証明でも、結論が間違っていれば自動的にその証明も間違っているということです)。

資本論は岩波文庫で9冊になり、全部で3,600頁にもなりますが、共産党宣言の方はせいぜい文庫本で50ページ位のものですから、簡単に読めます。

実は資本論を読み始めた頃、友人から『資本論というのは経済学の本というより政治的文書だ』と教えてもらったことがあり、その時はその意味があまり良くわからなかったのですが、上記のピケティの言葉でその意味が良く分かりました。

で、共産党宣言ですが、歴史に関するコメントであれ、経済に関するコメントであれ、明らかに間違っていることのオンパレードですから、ごく簡単に目的を達してしまったということです。
マルクスが最初に共産党宣言を書いたのが1848年、その後の170年の歴史の知識の蓄積やその後の世界の変化を見るだけで、この共産党宣言の間違いは明らかです。

もうこれで、いつか時間をみつけて資本論を読んでみようなんてことは考えないで済みます。その意味でピケティの600頁もの本を読んだ価値は十分にあったなと思います。

この『共産党宣言』というタイトルですが、実は直訳すると『共産主義者の集まりのマニフェスト』、1872年に再販した時のタイトルが『共産主義者のマニフェスト』というものです。マニフェストというのは例の民主党が大好きな、あのマニフェストです。このタイトルを『共産党宣言』と訳したのは確かに格調高いと言えば言えそうですが、むしろコケオドシと言った方が良いのかも知れません。

いずれにしてもこれだけ間違いだらけのちっぽけな本が歴史的にあれだけ大きな影響を与えた、ということでも一読の価値はあると思います。

たかだか文庫本50ページくらいのもので、いたるところ間違い(独断と偏見)だらけの本ですが、その間違いを数え上げるのも面白いかも知れません。

お勧めはしませんが、興味があったら読んでみてもいいかも知れません。

ピケティ 『21世紀の資本』

12月 18th, 2015

約1年待って、ようやく借りる順番が回ってきました。
まだ600人近く順番待ちなので、2週間で読まなくちゃなりません。
本文600頁を2週間というのは、ちょっと大変です。

このピケティさんというのは若くして優秀な経済学者でアメリカでも嘱望されていたんですが、データもなしで数式だけヒネクリ回すアメリカ流の経済学に嫌気がさして(高給取りの経済学者にも嫌気がさしていたようで、『一部の経済学者たちは自分の私的利益を擁護しつつそれが一般の利益を守る行動なのだというありえない主張を平気で行うという不幸な傾向を持っている』なんて言ってます)、フランスに戻ってきて、実際のデータにもとづく経済学をやろうとしたようです。

とはいえそう簡単にデータがあるわけではないので、まずはそのデータ作りを一大プロジェクトとしてやっているようです。

で、そのデータにもとづいて書かれているのがこの本だ、ということなんですが、データの信頼性は恐ろしく低いものです。ピケティ自身この本で『データの信頼性は高くない』と何度も繰り返しています。とはいえ信頼性が低くてもデータはデータだから、データなしで議論するよりよっぽどましだ、というのがピケティの考えのようです。(国民経済計算(いわゆるGDPの統計)ができていればそれを使うことができるのですが、それ以前では所得税と相続税の申告書くらいしかデータがなく、フランスはそのような資料が一番ちゃんとしている、と自慢していますが、いずれにしてもそれは所得税や相続税ができてからの話なので、せいぜい100年~200年くらい前までしか遡れません。)

この本は4部構成になっていて、第1部は国民所得について、第2部は資本について、第3部は所得と資本(財産)の格差について、第4部は格差の問題にどう対処するか、ということについて書いてあります。

この本、世の中であまりにも【r>g】という式が評判になっているので、この式について書いてある本なのかと思ったら、まるで違いました。この本でピケティが言いたいことは(全部挙げると大変なことになるほどいろんなことを言っているんですが、一番言いたいことは)格差の問題です。格差というのはどうやらたとえば、所得が多い人・少ない人で、必ずしも同じではない。財産も大金持ちから殆ど何も持ってない人まで様々だというバラツキ・不公平・不平等のことを言うようです。

で、たとえば所得であれば国民全体のうちの所得の多い人上位10%が国民全体の所得の50%をとっていて、下位50%が全体の10%、残りの真ん中の40%が残りの所得の40%を取っているという状態は、上位10%が30%、下位50%が20%、中間の40%が50%取る状態より格差が大きいという具合です。

で、ピケティによると収入の面でも資産の面でも現在はその格差がどんどんひどくなる構造になっているため、このままにしておくとそのうちとんでもないこと(ピケティ自身は具体的に言ってませんが、暴動とか革命とか戦争とか)が起きることになる。それを防ぐために格差を大きくしないようにする手段として、超過累進課税の相続税、超過累進課税の所得税、超過累進課税の資産税の3本建てが望ましいということです。
これが第4部の内容なんですが、そこにたどり着くまで500ページも読んでいかなければなりません。

格差が大きくなる要因は、1つには相続で膨大な相続財産を貰った人は働かなくてもその財産からの収入が使いきれないほどあり、それで財産が自動的に増加するのでどんどん金持ちになるということ。

もう一つはスーパー経営者・・・・といってもこれはスーパーマーケットの経営者ということではなく、とんでもない高給をとる経営者のこと・・・・そんな人の使いきれないくらいの所得はどんどん溜まって財産が厖大に膨らむということです。

この二つの影響をなくすためにまず超過累進課税の相続税で相続される財産を減らすこと、また超過累進課税の所得税で高額所得者はその高額部分のほとんどを税金で取られるようにして給料を高くしようという気を起こさせないこと。そのためには今の最高税率30-40%を、1940年から1980年の間にアメリカやイギリスでやっていたように80-90%に引き上げることが必要だということです。

さらにそれでも既存の財産で財産自体が大きくなることを防ぐために、超過累進課税の世界ベースの資産税を取ることを提案しています。財産は高額になるとごく簡単に国境を越えてしまうので、これは世界中に散らばっている財産を洗い出して年に一度『あなたの財産はどこにどのように・いくらいくら・全部でいくらいくらあります。その結果資産税はこれこれの額ですからこの計算に間違いがなければ納めて下さい、間違いがあったら訂正して下さい。』という形で支払いを求めるということです。

一般に所得税や相続税は申告納付なので税金の計算は納税者がしなくてはならないんですが、この資産税は財産のありかと額が全部政府にわかっていることを前提に、政府が財産のリストアップから税金の計算まで全てやってくれるので楽ちんです。実際この方式は現在でも固定資産税で使われている方法なのですが、これを国境をまたぎ、また不動産だけじゃなく全ての資産について行おうということです。

で、ここまで二重三重にしないと格差が広がってしまう理由として出てくるのが【r>g】です。【r】は資産収益率、【g】は経済成長率です。資産からの所得が大きいので、その一部を消費に使ってもまだ余りが生じ、その分資産が増え、それが何年も続くととんでもない資産が積み上がるということです。

ではどうして【r>g】になるのか、という話になると、何とピケティは一転して【r>g】になる、という理論的根拠はない、これは理論的必然ではなく歴史的事実だ、と言っています。それではこれが本当に歴史的事実なのかというと、過去2000年にわたって【r】と【g】の推移のグラフを持ち出します。もっと正確に言えば、西暦の0年から2100年までのグラフです。

前にも書きましたが、西暦の0年というのは実は存在しません。西暦1年の前の年は紀元前1年で、0年とはなりません。ただし天文学ではこれでは不便なので、1年の前が0年、その前が-1年という具合にカウントします。天文学以外では1年の前が-1年、その前が-2年ということになります。とはいえこのグラフの0年というのは、0年から1000年をまとめてその間の平均を出すだけですから、これが1年から1000年の平均でも-1年から1000年の平均でも同じようなものですが。

で、この2100年にわたるグラフでほとんどの期間【r>g】となっています。例外となるのが1913年-1950年の期間と1950年-2012年の2つの期間だけです。で、この2つの期間【r>g】にならないのは、1914年-1945年の第一次大戦から第二次大戦までの期間が(この期間だけが)異常だったからで、これを除けば常に【r>g】になると言って、そのグラフを2100年まで延長して書いているわけです。

しかしピケティが実際に使える信頼できるデータは、最近100年ないしせいぜい200年の期間です。

この100年ないし200年の間に異常な30年があっただけで、それ以外の1900年ないし2000年の間には異常な期間はなかったと言い切ってしまう、いうのも凄い度胸ですが、ピケティは絶対の自信を持ってそう断言しています。そこで【r>g】を前提として、データのない所でも【r】と【g】を計算してその推移のグラフを描き、今度はこのグラフから異常な年を除けば常に【r>g】となっている、と立証してみせているわけです。

さらに【r>g】で、【g】は経済成長率、【r】は資本収益率です。この本の第1部・第2部はマクロ経済の話で、【g】も【r】もマクロ経済学の世界の話をしています。

【r】は次のように計算します。マクロベースの国民所得をまず労働による所得と資本による所得に分けます(これは理屈の上では説明できますが、実際にやるとなるとかなり困難です)。それで資本による所得が計算できたとして、今度は分母となる資本の計算です。国の財産の計算・国富の計算としてこの資本を計算します。この計算もそう簡単にできるものではありませんが、その計算ができたところで、この資本で、先に計算した資本による所得を割ると、資本収益率【r】が計算できた、ということになります。

ところが第3部に入り格差の話になると、今度はミクロ経済の話です。国民の一人一人がどれだけの所得があり、どれだけの財産を持っているかという話です。ここでまた資産収益率【r】が登場します。ここでの【r】は実は個人の保有資産からどれだけの収益が得られたかという意味の資産収益率で、マクロレベルの上記の資産収益率とはまるで意味が違います。でも同じ言葉を使い同じ記号を使っていると、いつの間にか同じもののような気がしてきます。ピケティははなから同じものであるかのように、何の説明もなしにこの二つを混同しています。うまいものです。

で、こんなムチャクチャな非論理的なやり方にあきれ果てながら本の最初に戻って『はじめに』の部分を読み直していたら、ピケティはここでマルクスの資本論についてコメントしています。すなわちマルクスは『共産党宣言』を書き、その後の生涯をかけてこれを正当化するために『資本論』を書き続けた、ということです。これで『資本論』が論理的でなく、科学的でもない理由が納得できます。最初に結論ありきで、それを立証するためにはどんなムチャクチャな屁理屈も厭わないということです。ピケティのこの本も多分同じことなんだろうと思います。

所得の格差・資本(財産)の格差が今すでに大きく、今後さらに大きくなる。その問題を何とかするために超過累進課税の所得税・相続税・資産税の必要性を訴えるために【r>g】などという話を作り、2000年にわたる【r】と【g】の推移をデッチ上げ・・・ということなんだと思います。

いずれにしても本文600頁の本で前振りが500頁もあると、本題にたどりつくのは大変です。
多分、この本をそこまで読んだ人はあまりいないんじゃないでしょうか。私はそこまで読んで、これがこの本の主題だったのか、と気づいて唖然としました。

この本を読む前に確認ポイントを4つ設定しました。すなわち

  1. r(資本の収益率)やg(経済成長率)がこの本の中で『きちんと定義されているか』どうか。
  2. このrやgを、数百年前、あるいは2千年前から計算してグラフにしているようですが、『その計算方法がきちんと説明されているか』どうか。
  3. この『r>gとなる』ということが本当に説明されているのかどうか。
  4. r>gから格差が拡大するという結論が『どのようにして導かれるか、ちゃんと説明されているか』どうか。

これについて
1.はきちんと定義されているといえば、います。ただし定義できても計算は難しいと思います。さらに【r】については同じ言葉を2つの異なる意味で使っているので、その区分けをはっきりさせないと議論が成立しないことになります。その意味では定義していないのと同じことだと言えます。
2.はまるでダメです。何の説明もなしにグラフが出てきます。
3.は理論的に【r>g】になるわけではない、とはっきり言っています。その代わりにグラフを使って『これは歴史的事実だ』とムリヤリ主張しています。
4.については、何となく説明らしきものはできていますが、あまり説得力のある説明ではありません。

で、最後の確認ポイントとして『この本がこれほど評判になりこれほどたくさん売れたのはなぜか』ということに関しては、
多分この本は600頁にわたっていろんな事がしっかり書いてあり、最後まできちんと読んだ人はあまりいないんだろうと思います。
そして【r>g】という不思議な式がキャッチフレーズのように使われているので、何となく気になり買ってしまうということになったんだろうと思います。その際600頁という本の厚さ・6,000円という値段の高さも評判になり、ベストセラーになる原因の一つにもなっていると思います。

第3部の格差の議論のところで、人口のうち資産が多い人上位10%の持っている資産の割合はほっておけばどんどん増えて、下位50%の持っている資産の割合はほっておけばどんどん減る、という議論をしているのですが、ここのところ、上位10%の人はほとんどずっとそのまま上位10%にとどまり、下位50%の人はほとんどずっとそのまま下位50%にとどまる、というような前提があるような議論をしています。実際に年々の上位10%の人、下位50%の人が同じ人だ、という保証はありません。
われわれ日本人にとっては『驕る平家は久しからず』で、上がったり下がったりは当たり前の話だと思っているんですが、フランスなどヨーロッパの階級社会ではあまり上下の入れ替えはないのかもしれません。
現実に日本では明治維新、第1次世界大戦、第2次世界大戦と、上位10%と下位50%が入れ替わる話はいくらでもありそうです。上下の入れ替えが常時おこる、という前提を入れるとピケティの格差の議論もかなり変わってくるような気がします。

私など、アメリカやイギリスについては何となくわかっているような気がしますが、フランスの、フランス革命以降の社会・経済の歴史についてはほとんどよく知りません(例えば、1945年から1975年までの高度成長を『栄光の30年』と呼び、その後の30年から40年を『みじめな時代』と呼んでいることなど)。そのあたりを知るには参考になる本かもしれません。とはいえ、そのために600ページも読む、というのはちょっと考えものですが。

ということで、いろんな意味でなかなか面白い本でしたが、お勧めはしません。

2015年7-9月期 GDP第2次速報値

12月 11th, 2015

7~9月期のGDP速報の、第二次速報値が出て、ちょっと話題になっています。

というのも、年率換算の実質GDP伸び率が第一次速報値がマイナス0.8%だったのが、第二次速報値でプラスの1%になったということで、差し引き約2%も変わってしまったからです。

私の方は例によって季節調節なしの名目値で見ているのですが、第一次でも第二次でも順調に伸びています。

季節調整なしの名目値で見ようとするとやはり四半期GDPには季節要因の変動がありますから、それを除いて見るには1年前の前年同期と比べて見るという見方と、もうひとつはその四半期までの4四半期合計の1年分の数値を見比べるという見方があります。どちらで見ても、GDPは順調に上昇中です。

で、今回の第一次速報値から第二次速報値への変化ですが、大きな所としては『民間企業設備投資』と『民間在庫品増加』の所と、『政府最終消費支出』と『公的固定資本形成』の所とが変わっています。この変更は2013年の1-3月期にさかのぼって、各四半期の数字が変わります。

民間企業設備投資は、ここ2年間位の各四半期の数字がだいたい2-3千億円程度の下方修正、民間在庫品増加は2-5千億円程度の上方修正なのですが、これらの合計ではだいたい1-2千億円程度の上方修正になっています。しかしこの7-9月期については、この二つを合わせて1兆円の上方修正になっています。

四半期GDPはだいたい120兆円くらいのものですから、そこで速報とはいえ1兆円も修正が入るとなると、チョット問題かも知れません。

政府最終消費支出と公的固定資本形成の方は、だいたい4-6千億円程度の下方修正になっています。

で、全体のGDPは2013年1-3月期からほぼ毎四半期2-5千億円下方修正になっているんですがその中で、2014年1-3月期に1,700億円の上方修正、2015年7-9月期に1,300億円の上方修正になっています。

直近4四半期の合計は496兆円で、この4四半期合計の数字は四半期ごとに7-11兆円ずつ増加しています。ですからこのままいけば、この10-12月期には500兆円になり、あと10四半期(2年半)位で600兆円になるのはごく普通のトレンドです。

政府の方ではGDPの計算方法を変更しようとしていて、それでさらに何十兆円かGDPが増えるようです。その時、上記のような1兆円規模の修正が入らないような変更もついでに行うのかも知れません。

『イスラームから考える』 師岡カリーマ・エルサムニー著

12月 9th, 2015

この本も、例のイモヅル式に読むことになった本なんですが、面白かったので紹介します。

テレビで海外のニュースなどを見ていると、アルジャジーラのニュースなど、画面の下の方に例のミミズののたくったようなアラビア文字が猛烈な勢いで左から右に流れています。こんなもん、どうやって読んでいるんだろうと、いつも不思議に思っています。

一方中東の国々の都市の様子の写真などを見ると、いろんな看板がアラビア語で書いてあるんですが、何とも不思議な形をしていて、あのミミズののたくったような形ともちょっと違います。

そんなこんなでアラビア文字の読み方や書き方に興味を持って何度かトライしているんですが、最近もまたトライして、できるだけ簡単な本を借りてみました。そのうちの1冊がこの本の著者のカリーマさんの本でした。

なかなか面白かったのでさらにもう1冊読んでみようと思って、図書館の著者の索引で他の本を探したら、アラビア語の入門書何冊かとこの『イスラームから考える』という本がみつかりました。

この本はアラビア語やアラビア文字の本ではなく、むしろ著者がエジプト人の父と日本人の母との間に生まれ、エジプトで大学を出て日本で生活している、日本語も不自由なくこなせ、アラビア語も分かるイスラム教徒の女性だということで、ごく普通のイスラム教徒がどのように考え、感じているかを日本人に良く分かるように書いてある読み物です。

イスラム教徒が別に特殊な人達ではなく、ごく普通の人達で、イスラム教というのもそれほど極端な宗教ではなく、むしろかなり柔軟な宗教だ、ということが良く分かります。

イスラム教の女性がベールをかぶることも別にイスラム教の指導によるものではなく、これがどのような意味を持つのかということも、一般に考えられていることとまるで違うということも良く分かります。

イスラム教のモハメットが女性を尊重していたことも、その他コーランの中には通常何となく思っていることとまるで違ったことも書いてあることも良く分かります。

普通のアラブ人、イスラム教徒の本当の姿が分かると思います。

お勧めです。

井上ひさし、樋口陽一『「日本国憲法」を読み直す』

12月 4th, 2015

前回『「日本国憲法」まっとうに議論するために』という本を紹介しました。この著者の樋口陽一さんが面白かったのでついでに他の本も読んでみようと思って、図書館で借りてきました。

そのうちの一番読みやすそうな『「日本国憲法」を読み直す』という本を読みました。この本は小説家、劇作家、放送作家の井上ひさしさんとの対談で、憲法について話をするというものです。

井上ひさしさんと樋口陽一さんは、昔仙台一高の同期生だ、ということで、なかなか楽しい対談になっています。

ところがその内容はというと、樋口さんの発言が何とそこらの立憲主義の憲法学者の発言と同じになっています。

ちなみにこの『立憲主義』という言葉、調べてみると憲法を”the Constitution”というのに対する“constitutionalism”という言葉のようです。直訳すると『憲法主義』です。

“constitution”という言葉も『仕組み』とか『構成』とか言う位の普通の言葉で、これに定冠詞の“the”を付けると『憲法』になるというもので、これも直訳するのであれば司馬遼太郎さんの言葉でいう『(国の)かたち』という位の意味です。

ですから『立憲主義』というのは、言い直せば『(国の)かたち主義』ということになります。

これだけじゃ何のことか分からなくなってしまうので、いろいろ意味づけをしていくことになるのですが、それにしても立憲主義などと言う言葉の代りに憲法主義あるいは(国の)かたち主義という言葉を使うようにするだけで、いわゆる立憲主義の憲法学者の先生方の頭の固さがかなり緩和されるんじゃないか、と思います。

日本語は漢字を使って漢語を作ることができるので、いろんな言葉が作れます。それだけ言葉が豊かだというのは素晴らしいことなんですが、一方厄介なことにもつながります。

たとえば『ナショナリズム』という言葉、もともとの意味は『国民主義』という位の意味なのですが、これが『民族主義』とか『国家主義』『愛国主義』『国粋主義』とかいう言葉に翻訳されると、それだけでそれぞれ別々の意味を持ってしまいます。

英語を使っている人は”nationalism”という一つの言葉で議論しているのに、日本語を使う人はそれを訳した『民族主義』とか『国家主義』とか『国粋主義』とかいう言葉で議論するんですから、議論がおかしくなってしまうのも不思議じゃありません。

このあたり、外国語を翻訳した言葉を使うときは要注意です。

で、本題に戻ってこの本に登場する樋口さんの発言が、前に読んだ『「日本国憲法」まっとうに議論するために』の話とあまりにも違うので、その理由は何だろうと考え、次の3つの仮説を立ててみました。

  1. 『「日本国憲法」まっとうに議論するために』を読んだ時の私の読み方が間違っていて、実は樋口さんはずっとそこらのいわゆる立憲主義の憲法学者と同じ考えの人なんだ。
  2. この対談をした時、古くからの友人である井上ひさしさんを立てるために(井上ひさしさんというのは、いわゆる赤旗文化人の代表みたいな人ですから)井上さんが喜ぶように、樋口さんはいわゆる立憲主義の憲法学者のような発言をした。
  3. この対談をした時、樋口さんはまだ60歳になる前の若年で(この本は1993年の対談を本にしたもので、樋口さんはまだ60歳にもなっていません。私も65歳になると60歳位の人を若者よばわりしてしまいます)、その当時はいわゆる立憲主義の憲法学者と同じように考えていたんだけれど、その後20年も経って80歳を超えると、樋口さんもようやく本質がわかってきて、まっとうな憲法学者になった。

仮説1.が正しいとすると、私の本の読み方は何だったんだということになります。私としては仮説3.が正しくて、いわゆる立憲主義の憲法学者もその後勉強を続けていけばいつかは考えを改めて真っ当な憲法学者になるかも知れない、というふうに思いたいのですが、どうなるでしょうか。
そのように考えると何か希望が持てそうな気がしませんか。

うまく答にたどり着けるかどうか分かりませんが、もうしばらくいろいろこの人の本を読んでみるつもりです。

イルミネーションと節電

11月 25th, 2015

私はさいたま市の『さいたま新都心』という駅を通勤に使っているのですが、駅の改札口からちょっと左に行って、そのあとスーパーアリーナに向かって右に曲がる角の所にちょっとしたイルミネーションがついています。

私にとってはすごく派手なイルミネーションだなと思っていたのですが、娘にとってはまるで逆のようで、何ともショボいということのようです。

他のいろんな場所のイルミネーションと比べると確かにそのようで、いろんな所のイルミネーションはかなり大規模に作られているようです。

私の感覚は、3.11の2011年の暮にはそれまでにもあったイルミネーションが中止になったとか、その後もかなり小規模だったものが、今年はかなり派手になったなということです。まあ実施する側からすると、イルミネーションもLEDになっているので消費電力は少なくなっているということかも知れませんが、多分そうだとしてもLEDの製造の所でかなり電気を使っているんじゃないかなと思ってしまいます。

気がついて見ればJRの電車の車内の電灯も震災後ずっと半分点灯しないで節電していたのが、いつの間にか全部点灯しています。まあ電車の中を読書スペースとしている私にとっては有難い話なのですが。

で、いずれにしても震災も昔の話になりつつあるようですね。

「日本国憲法」まっとうに議論するために

11月 25th, 2015

この本は樋口陽一さんという、本物の憲法学者が書いたものです。2006年に出版された本を、今年の安保法制に関連する憲法ブームに乗って大幅に書き足して、2015年9月に改訂新版として出版されたものです。

この本の内容は、神がかり的な憲法学者の書いたものと違って、真っ当なものだと思います。普通の憲法学者の言うことにはどうしても悪口を言いたくなりますが、この本に関しては意見は異なりますが、悪口を言うような所は見当たりません。

今年の安保法制をきっかけとする憲法ブームで新版を出しているように、著者は基本的に安保法制反対の立場で、自民党の改憲案にも閣議決定による憲法解釈の変更も反対なのですが、にもかかわらず、憲法の本質を勉強するには良い本だと思います。

司法試験や公務員試験のために憲法を勉強するということであれば、芦部さんの憲法あたりを勉強するしかないんでしょうが、そんな試験とは無関係に憲法について勉強してみたい、考えてみたいという人には、是非ともお勧めの本です。

憲法の本質を説明するために、イギリス・フランス・アメリカ・ドイツ・スイス等いくつもの国の歴史と実例をもとに憲法の基本的な考え方をきちんと説明してくれるので、とても良く分かります。

今回の安保法制でも、立憲主義の憲法学者や反対派の政治家などは、立憲主義の憲法というのは権力、すなわち政府に勝手なことをさせないためのものだ、という主張をしていますが、この本では違います。この本の立場は国民主権の憲法では主権者である国民に勝手なことをさせないのが立憲主義の憲法だ、ということです。

国民主権の憲法の主権者としての国民の責任を明確にしています。『自分のことは自分で決める』という生き方は『そんな面倒なことはご免だ、誰かに決めてもらった生き方に合わせてやっていく方が気楽だ』という生き方に比べて、はるかにしんどいものです。そして国民が皆様々な組織から切り離され『個人』という存在になるというのは、その個人となった淋しさに耐えることを強制することになります。この主権者としての辛さと、人権を保障される個人としての淋しさについてちゃんと書いている本は、私はこの本が初めてです。

明治憲法についても、5.15事件・2.26事件のあとの軍主導体制下だけを見た天皇主権憲法というそこらの憲法の教科書の記述と違って、明治憲法のできる前の伊藤博文と森有礼との人権に関する議論や、できたあと天皇機関説の話、それが天皇機関説事件でまるっきり別物に変えられてしまい、それが日本国憲法により復活したというあたりまできちんと説明してあります。

この本では『4つの89年』ということを言っていて、1689年『権利章典』、1789年フランス革命の『人権宣言』、1889年『大日本国帝国憲法』、1989年『旧ソ連・東欧諸国の共産党一党支配の崩壊』を並べています。ここでも憲法の流れの中で明治憲法の重要性を説明しています。

立憲主義の学者はとにかく『憲法を変えてはいけない』一点張りですが、憲法改正についても憲法改正限界論と憲法改正無限論について説明しています。『憲法改正限界論』というのは、憲法を改正する場合にも限界があり、『変えてはいけない』と書いてなくても、どうしても変えてはいけないものがあるんだ、という立場です。

『憲法改正無限論』というのは憲法改正には制限がなく、仮に憲法にこれこれは変えてはいけないと書いてあったとしても、その変えてはいけないとう部分を変えることにより何でも変えることができるという立場です。

この本ではどっちが正しいと言って一方の議論を押し付けるのではなく、二つの説を紹介して読者自身が考えるようにしています。

1973年に改正される前のスイスの憲法には『出血前に麻痺させることなく動物を殺すことは、一切の屠殺方法および一切の種類の家畜について例外なくこれを禁止する』という規定があり、動物愛護の規定のように見えるけれど、実はこの規定はユダヤ教徒の宗教上の慣行を禁止するために設けられ、信教の自由を阻害するためのものだったという話とか、憲法改正の国民投票は国民が一時の熱狂で暴走してしまう恐れがあり、ナチスの経験を踏まえてドイツの憲法の憲法改正の規定では意識的に国民投票を除いているなどという、私は聞いたことのない、なかなか面白い話も盛りだくさんに入っています。

本のサイズはB6版の小さな本で、本文が160頁位で日本国憲法の全文が後ろの方についています。5回に分けた講義形式になっているので読みやすい本です。簡単に読めます。

お勧めです。

マイナンバー通知カード

11月 25th, 2015

マイナンバーの通知カード、ついに来ました。
ここに公開しても良いんですが、別に公開するほどのものでもないのでやめておきます。

私のことだけで判断するのもなんなんですが、この土日月の3日間でかなり通知カードの配達も進んだのかなと思います。

うちは家族3人なので3人分のカードが届きました。
番号を見てみると3つともそれぞれテンデンバラバラになっており、なかなか見事なものです。

で、この通知カードの送付の封筒には『個人番号カード交付申請のご案内』というものも同封されています。

私はこの通知カードが来たら無条件でこのマイナンバーカードの申し込みをしようと思っていたのですが、この案内を見てみるとなかなか面白いものです。

このマイナンバーカードの申請には顔写真を付けるのが必要なので、それをどうしようか・・と考えていました。紙の申請書を使うのであればそれに貼り付ける写真をどう用意しようか、ということです。スマホで申請するのであれば、スマホで写真を撮ってそれを送れば良いということは分かっていますが、私のガラケーではどうなのかなと思います。パソコンで申請するのに誰かスマホを持っている人に写真を撮って貰って、それをパソコンに送って貰ってそれを使おうかなとも思っています。

そう思って案内を見ていたら、何と町中の証明写真の機械から申請ができるんだ、と書いてあるのを見てビックリしました。確かに証明写真のボックスにインターネットをつないで、そこで撮った写真でそのまま申請できるというのは便利かも知れません。

なかなか良いアイデアですね(とはいえ、このやり方は利用の多い場所から順次対応していく予定ということですから、それができる写真ボックスを探す必要があるかも知れません)。

で、このマイナンバーカード、住所・氏名・性別・生年月日と有効期限が記載されています。また臓器提供意思表示カードにもなっているようです。まあ身分証明書として使うんですから当然と言えば当然なんですが、だとすると住所を変更した場合に作り直す必要があるんでしょうか。また有効期限が来た時も作り直す必要があるんでしょうか。

とりあえず最初はただでマイナンバーカードを作ってもらえるようですが、転居や期限切れなんかの時の再作成の場合、どれ位のお金がかかるのかなぁと思ってしまいました。

また1年以内にカードを作らないと有料になるというのも、どれ位のお金がかかるのかなと思います。

まあ通知カードがほぼ行き渡った所で、今度はマイナンバーカードに関する情報がどんどん出てくるでしょうから、あせる必要はないことなので、しばらく様子見です。

パソコンで申請する場合、家族の分を同一のメールアドレスから申請できるのかどうかも確認する必要があるんだろうと思います。

カードを受け取る時に暗証番号を登録することになっていますが、用途ごとに4つの暗証番号がが必要なようです。英数6~16字のもの1つ、数字4桁のもの3つです。まあ数字4桁のものは同じものにしても良いようですが、いずれにしても暗証番号を登録するとなったら、今度はそれをどうやって覚えておこうかという問題にぶち当たります。

しばらくは色々楽しめそうです。

ファインマンの物理学

11月 17th, 2015

学生の頃(多分高校生の頃)から夢だったファインマンの物理学、ついにこの9月に入手し、読んでいます。ちょっと高い本ですが、この年になればこの程度の贅沢は許してもらえるかな、と考えて、amazonの古本を1冊ずつ買うことにしています。

とりあえず第1巻『力学』の本文を読み終わった所でちょっと報告です。
本文を読み終わったとはいえ、このあと巻末に演習問題がなんと145問もあり、しかもその最初の部分に『優秀な学生でもこれをすっかり解くことができるとは思われない。』なんて書いてありますからこれを終えてから次に進もうなんて考えていると第2巻に進むのがいつになるか分かりません。次の第2巻にかかってしまって、同時並行的にじっくり時間をかけて問題を解いて行こうと思います。

読んでみて改めて良くわかったのですが、これは決して標準的な教科書ではなく、これを勉強したからと言って物理学の全体を勉強したということにならないだろうな、ということと、とはいえこれは素晴らしい本で、物理学の本質的な所を勉強するには良い本だなということです。

物理学の問題に対して本物の物理学者がどのようにアプローチするのかという、ふつう物理学の教科書には書いていないことが書いてあるので、楽しんで読めます。

第1巻はいわゆる『力学』なのですが、ごく当然の話のように特殊相対性理論を中心に話をし、ニュートン力学の世界はその特殊なケースという位置づけで話をしています。

この本は大学の新入生向けの教科書という位置づけなので、物理学で使う数学(ベクトル、ベクトルの内積・外積)も必要になる都度解説してあります。

で、この本で一番驚いたのが、第22章になるのですが、『代数』というタイトルの章で、複素数と対数の話をしているんですが、(この時代ですから筆算だと思いますが)数の平方根の計算はできるものとして、まずは対数の底を10とする常用対数を具体的にどのように計算するかという話をしていたかと思うと、いつのまにか自然対数の話になり、次には自然対数の底を(e)、べき乗を(^)、虚数√-1を(i)で表して、例の
e^(iθ)=cosθ+i・sinθ
という式があれよあれよという間に説明(証明)されてしまいます。

それも数学の教科書ではまず決してお目にかかれないような、いかにも物理学者というか物理屋さん(それも数学が得意な物理屋さん)らしい話の展開です。これをたったの15ページかそこらでやってしまうんですから何ともアッケに取られてしまいます。

第2巻は、『光・熱・波動』がタイトルになっています。
日本語版は全5巻ですから、まだまだ当分楽しめそうです。演習問題まで含めると何年がかりの読書になるか、楽しみです。

ミャンマーの総選挙

11月 13th, 2015

ミャンマーの総選挙、スーチーさんの野党側の圧勝で決着がついたようです。現職の大統領も敗けを認めたようですから、確定なんでしょうね。

で、勝ったスーチーさん、これから大変です。
今までは『民主化』とだけ言っていればよかったのですが、政権を取ってしまったらそうはいきません。実際に政府を動かして行政をしなければならないわけですから。政権が民主化されたら行政がうまく行く、なんて保証もありません。

今まで軍政にいじめられていたスーチー派の人達は、せっかく勝ったんだから少しは良い思いをしても良いだろうと思う人がいるかも知れません。本人がそう思わなくても、その人の親戚とか友人とかがそう思うかも知れません。となると、スーチー派の閣僚なり幹部なりの職権乱用とか汚職とかのスキャンダルが出てきます。

それに対して厳しく対処しようとすれば、昔からの仲間は裏切られたように思うかも知れません。厳しく対処しなければ、今度はスーチーさんに期待して投票した国民が裏切られたように思うかも知れません。いずれにしてもミャンマーの人達はまだ民主的な政治にまるで慣れていないはずですから、民主主義を使いこなすのにかなり年数がかかるような気がします。

現実の政治の世界では誰もが喜ぶような話はありません。誰かが喜ぶ話は他の誰かが嬉しくない話です。今までスーチーさんはそのような生々しい政治の現場の経験はあまりなく、『民主化、民主化』と言ってきただけのような気がします。

ミャンマーの憲法上、スーチーさんは大統領にはならないことになっているようで、それが分かっているので自分は大統領にはならないけれど全て大統領に自分が指示する(日本語の表現では、いわゆる院政、というやつです。)、と言っているようです。そんなやり方がいつまでもうまく行くとも思えません。また、この言葉自体、憲法違反だとか民主的でないとか批判も出てきているようです。

『勝者の呪い』という言葉があります。勝負に勝った方が、勝ったことによりかえって不利な立場に置かれてしまうという意味です。

軍の方もとりあえずは一歩引いて様子見、ということでしょうが、いざとなったらいつでも実力行使に出るつもりでいるでしょう。国民も、スーチーさんによって本当にいい国が実現するのか見つめているんでしょう。

ミャンマーの民主化がどのように進展するのか、今後当分注目です。