ケインズ・・・6回目

3月 15th, 2013

3回目の記事でケインズの所得=消費+投資について会計の方からのアプローチで確認したという話をしましたが、ケインズのアプローチはこれとはちょっと違っています。そしてケインズはその結果としての等式もさることながら、そのアプローチ自体についてもかなり重視していたようなので、これについて書いてみます。

通常会計では、企業の所得、すなわち利益について
  利益=売上-売上原価-経費
という形で計算するのですが、ケインズ流のやり方は
  利益=売上-使用費用-要素費用
という形で表されます。

使用費用にしても要素費用にしても何ともわかりにくい言葉なんですが、文章をちゃんと読めばはっきりわかるように書いてあります。

「要素費用」というのは「生産要素費用」ということで、企業が利益を上げるために他に払った費用のうち、他の企業に払ったものを除くものというくらいの意味で、その払った相手のことを「生産要素」とよび、その生産要素に払った費用という意味で「要素費用」というようです。ちゃんと「生産要素費用」と言ってくれると、確かに2文字余分にかかりますが、はるかにわかりやすくなるように思います。

今考えているのは労働者と企業だけなので、結局要素費用というのは労働者に払う労賃、あるいは人件費のことになります。

もう一方の使用費用というのは、設備・在庫の使用費用ということになります。ここでも使用費用だけじゃあ何のことかわかりませんが、設備・在庫使用費用、と言ってくれレはそのままなんとなくわかるような気がします。

企業が労働者に支払うお金と起業に払うお金と、利益との関係はどうなっているかというと、
  期始の設備・在庫+労働者に払うお金+企業に払うお金
     =期末の設備・在庫+期中に使った設備・在庫(売上原価)+経費
ですから、
  売上原価+経費=労働者に払うお金+企業に払うお金+設備・在庫の減
  利益=売上-売上原価-経費
     =売上-労働者に払うお金-企業に払うお金-設備・在庫の減
となり、労働者に払うお金=要素費用ですから、
  使用費用=企業に払うお金+設備・在庫の減
ということになります。

すなわち、企業が売上で利益を上げるために労働者にいくら払った、他の企業にいくら払った、設備・在庫をいくら使った、この3つを売上から差引けば良いということです。
  企業の利益=売上-労働者に払ったお金-企業に払ったお金-設備・在庫の減
ですから、これを社会全体で合計するんですが、ここで企業に払ったお金の部分は受取った企業の売上ですから、それを相殺すると
  企業の利益=売上-労働者に払ったお金-企業に対する売上-設備・在庫の減
          =消費者に対する売上-労働者に払ったお金-設備・在庫の減
          =消費-労働者の所得+設備・在庫の増
で、
  企業の利益+個人の所得=社会全体の所得=消費+投資の増
となって、めでたしめでたしです。

ここで使用費用として、【企業の払ったお金+設備・在庫の減】としているのは、別にむりやり合計しないで別々にしたままでも良さそうな気もしますが、ケインズはたとえば財・サービスの売り手の企業と買手の企業が合体してしまった時のことを考え、そうなると企業に払ったお金というのは消えちゃうし、設備・在庫も一方の企業で減った分、もう一方の企業で増えるということで、この二つを合計したものをまとめて【使用費用】と言っているようです。

会計の立場からは、労働者に払ったお金・企業に払ったお金がどのように原価になり、どのように経費になるかという細かい所が気になりますが、マクロ経済学の立場からすると、もっと遠くから全体の流れを見て、企業が売上を上げるのに労働者や企業にいくらのお金を払い、また設備・在庫が結果としていくら増減したかということだけ見れば良いということのようです。細かいことは全て設備・在庫の残高の計算に任せてしまえば、これでも充分だということですね。

こんな見方はじめてなので、ちょっと感動ものですね。

でも、よく考えてみれば、【利益=売上-売上原価-経費】というのは、損益計算書の見方ですが、【利益=売上-労働者に払ったお金-企業に払ったお金-投資の減】というのは貸借対照表の見方ということもできます。

売上による資産の増から、労働者に払ったお金・企業に払ったお金による資産の減・投資の減による資産の減を差引いたものが利益だ、というわけです。

このように考えれば通常、損益計算書と貸借対照表とでは整合性が取れていますから、損益計算書の利益と貸借対照表の利益とは等しくなり、両方の式がどちらも正しい、ということになります。

この使用費用・要素費用という言葉はいろんな所に使われています。要素費用の方は、要するに労賃と考えていれば良いのですが、使用費用の方は、時にこれで企業から他の企業に対する支払いを意味したり、設備投資のことだったり、その減価償却費のことだったり在庫投資のことだったりしますから、その都度その意味を確認しながら読む必要がありそうです。

いろいろ

3月 15th, 2013

3月11日の前後はテレビも新聞も大震災特集で大変でしたね。
これで満2年、三回忌が終わったことになり、いわゆる3年の喪に服する期間も終わったことになります。自民党政権に戻ったこともあって、今後復興工事も急速に進むのではないでしょうか。

春闘も次々に賃上げとかボーナス増額とかの明るい話題ばかりです。給料が上がれば景気は良くなるに決まっていますから、これから世の中明るくなるでしょうね。

今読んでるケインズの経済学によれば、給料が上がればその何割かが消費に回ります。これが消費性向というやつですが、次に消費が増えた分の何倍かが社会全体の所得の増になる、というのが「乗数の理論」というやつです。これで値上げした分より企業の利益が増えるようなら、なお一層給料が上がるとか、景気が良くなるんでしょうね。

それにしても安倍さんというのは幸運の持ち主ですね。お父さんは総理大臣になれずになくなってしまいましたが、日米安保のお祖父さんの岸さんとその弟の日本の高度成長のシンボルのような佐藤さんのように、ちょうど良い時にそこに居合わせる、運が良い人なのかも知れません。だとすると日本もこれからかなり本格的な好景気になるのかも知れません。

北朝鮮はどこからも相手にされないので、何とかして注目を集めようとして口先だけ威勢の良いことを言っていますが、韓国を攻めると言ってもソウルから最も遠い黄海の中の小島をどう攻めるかなんてことを指揮している、という報道からすると、やはり本気で戦争するつもりはなさそうです。

もし仮に戦争になったとしたらすぐにケリがつくでしょうし、そうなったらついでに朝鮮特需で、より一層景気が良くなるのかも知れません。

ケインズ・・・5回目

3月 4th, 2013

ケインズが「一般理論」を書いたのは1936年ですが、その5年くらい前に「貨幣論」を書いています。
これは古典派の考えに従って書かれたもので、当時ケインズは「古典派の旗手」のような位置にあったようです。その5年後に、今度は「一般理論」で古典派をケチョンケチョンにするわけですから大変です。古典派からすればケインズは、大変な「裏切り者」ということになります。

このように思想・考え方を変えるのを「転向」と言いますが、その昔キリシタンが転向してキリシタンをやめると、『踏み絵』でキリストやマリヤの絵を踏みつけなければなりませんでした。戦前、共産主義思想に心酔していた学生さん達が特高警察にいじめられて共産党をやめる時は「転向宣言」をして、多くは右翼とか国粋主義とかに変身しました。

そんな意味でこの「一般理論」というのは「転向宣言」の本なんですね。だから必然的に、ケインズはこの本で古典派をケチョンケチョンにしなければならなかったということのようです。

つい何年か前まで古典派の代表的な論客だったケインズですから、ケチョンケチョンにするのは難しくはなさそうですが、ケインズの言葉によるとこの古典派の経済学というのが何とも大変なもののようです。言葉を明確に定義しない、理論の大前提になる『これは間違いなく正しいよね』という考え方も明確に示さない、そしていきなりもっともらしい結論が出てくる、というようなものだったようです。

そのためこれをやっつけようとすると
「古典派ではこれこれと言っている。このように言うということは、これこれのことを大前提にしているということになる。それではその大前提は正しいかというと、これこれの理由で間違っている。あるいはこれこれの、現実にはまず起こりっこないような特殊な場合だけしか、その理論は成立しない。」
というような議論にならざるを得ないということのようです。

「一般理論」の最初に書いてあるのですが、『この本は「転向宣言」のための本なので、一般の読者に自分の考えをわかってもらおうとして書いた本ではなく、経済学者(特に古典派の経済学者)に向けて(古典派をケチョンケチョンにやっつけるために)書いた本だ)』、ということになっています。

ですからお互い古典派の細かい所まで知っている者同士が重箱の隅をつつくような議論も時には必要になり、それもあって「一般理論は難解だ」ということになってしまっているようです。

そんなわけで、古典派の理論とは無関係にケインズの考えをそのまま出しているようなところは読んでいても気持ちがいいくらいにわかりやすいです。

この「古典派」という言葉、私なんかは何となく「古典」という位だから皆が尊敬する昔の考え方ということかなと思ってしまうんですが、まるで大違いです。マルクスが『資本論』を書くにあたって自分以外の当時主流の経済学のことを『自分だけは先に行っているけれど、残りの連中はまだ古臭い考え方のままだ』ということで『古典派』という言葉を使い始め、その後何十年もたったケインズの時代でもまだその古典派が当時主流の経済学だったものを、ケインズが転向宣言で再び古典派と言ったということのようです。

ですからマルクスにとってもケインズにとっても、古典派の経済学というのはごく新しい(だけど自分の考えからすれば古臭い)考え方ということのようです。

「一般理論」の最後の方には「重商主義」についてのコメントがあります。「重商主義」というのは古典派の前に主流だった経済学なんですけれど、ケインズによれば、『重商主義者は問題の存在は察知していたが、問題を解決するところまで分析を押し進めることができなかった。しかるに古典派は問題を無視した。』ということで、十分な分析をするだけの理論がなかったので、問題を無視し、誤った前提に立って精緻な(?)理論を組み立てた古典派によって完膚なきまで叩きつぶされてしまった、ということのようです。

その重商主義についてケインズは、
「確かに重商主義には理論はなかったが、現実をしっかり踏まえていた。古典派は理論はあったが、それは間違った前提にもとづいた間違った理論だから、何の役にも立たない。古典派にやっつけられてしまった重商主義の方がはるかに真っ当で正しい考え方だ。」
という具合に、さらに古典派に追い討ちをかけてやっつけ、重商主義を復活させています。

ケインズ・・・4回目

3月 1st, 2013

3回目で書いた
 所得=投資+消費
 貯蓄=投資
について、もうちょっと書きます。

経済学ではよくグラフを書いて、たとえば縦軸に価格、横軸に数量を取り、供給曲線は値段が高ければ供給が増え、安ければ供給が減る右上がりの線。需要曲線は、値段が高ければ需要が減り、安ければ需要が増える右下がりの線。こんな線を引き、その二つの曲線の交わったところで価格と数量が決まるなんてことを言います。

これは、供給曲線・需要曲線とも概念的な大体のもので、二つの曲線が交わると言ってもしばらくたてばこの交わった所のあたりで落着く、というくらいのものです。

しかし、この
 所得=投資+消費
 貯蓄=投資
は、会計上の話ですからそんないい加減な話ではなく、いつでもどこでも即時にピッタリ等しくなる、という性格のものです。経済学者の先生方は会計のことをあまりよくわかっていないのか、このあたりを明確に説明している人はあまりいないようです。

前回書いた原価30円の100円の缶コーヒーで言えば、私がこの缶コーヒーを買ったとして、買った途端に社会全体の所得の総額が70円増える、ということ。あるいは買った途端に社会全体の投資の総額が30円減ってしまうという意味になります。こんな具合に社会全体の所得の総額、投資の総額を誰でもがいつでも勝手に変えることができる、というのは面白いですね。

ケインズの戦略は、このいつでもどこでも即時にピッタリ成立する等式を武器に、社会全体の所得や貯蓄や消費がどのように動くか考えようというものです。

一般理論の第8章に
「消費は、(わかりきったことを繰り返すなら)、あらゆる経済活動の唯一の目的であり、目標である。」
と書いてあります。

これは「言われてみればもっとも」と納得できるのですが、普通の経済学の教科書にはこんなことは書いてありません。このようにケインズにとって目的・目標が明確ですから、あとは何をどうすれば消費を増やすことができるかということになります。

ケインズはこの視点から、「古典派の主張ではその目的を達成することができない」と言って、古典派の主張を攻撃することになります。

ケインズ・・・3回目

2月 25th, 2013

ケインズの一般理論、まずは有名な「投資=貯蓄」の所です。

ここの所、ケインズの本の説明だけでは良くわからないので、会計の方からのアプローチで自分流にやってみました。

これは数学の本を読むときなどよくやる手で、本に書いてある定理の証明がしっくりこないで良くわからない時など、その本の証明を無視して自分なりに直接その定理を証明して、うまく証明できればその定理が正しいことが確認できたので先に進むというやり方です。

ケインズの言っているのは
 所得=投資+消費
 貯蓄=所得-消費
だから、自動的に貯蓄=投資、となる。

ということで、そのために所得・投資・消費・貯蓄のそれぞれについて、きちんと定義しようとしています。

でも基本的にこれは会計の言葉として解釈できますし、会計というのは経済活動を記録するための道具ですから、会計の言葉で表現した方が話がわかりやすくなります。

ケインズは社会全体で上の式が成立つと言っています。

経済的に閉じている社会で、任意の一定の期間についてこの式が成立つのであれば、経済活動を個々の会計取引に分解しておいて、一つの会計取引だけが発生した一瞬についてもこの式が成立つはずです。そして一つ一つの会計取引でこの式が成立つことがわかれば、一定期間の会計取引の参加者全員を含む社会で考えれば、その社会全体でもこの式が成立つことになります。

こう考えて一つ一つの経済活動についてこの式が成立つことを確認したのですが、その過程で所得・投資・消費・貯蓄の言葉の定義も明確になりました。

まず社会を「企業」と「消費者」に分けます。企業というのは物を仕入れて売ったり原料を買って製品を作って売ったりして、儲ける人です。消費者というのは働いて給料を稼ぎ、そのお金で何か物やサービスを買って消費する人です。政府とか銀行とか金利生活者なんてのは後から出て来ますが、とりあえずは企業と消費者だけで考えます。

その企業、原文では「entrepreneur」という単語を使っていて、今なら「起業家」となる言葉ですが、意味としては「起業家」・「事業家」となります。で、いろんな翻訳でもこれらの言葉を使っているのですが、でもケインズの時代と違って今のように法人資本主義の世界では、むしろ「企業」とした方が正しい解釈だと思います。

まず「所得」ですが、これは企業の場合はその期間の儲け、「利益」です。消費者の場合はその期間の稼ぎ、労賃とか給与とかの「収入」です。これはごく普通の意味ですから、特に問題はありません。これを社会全体の企業と消費者について合計したのがケインズの言う「所得」です。

次に「投資」ですが、これは株に投資する・ベンチャーに投資する、という投資ではありません。企業の活動でいう在庫投資や設備投資、すなわち商品を仕入れたり、製品にするために原料を買ったり労賃を使ったり製品を作ったり、、あるいは製品を作るために工場を作ったり機械を買ったり、という意味の投資です。それで一定期間の所得と対比させるわけですから、その投資の残高のことではなく、その増減の額のことです。

「消費」というのは消費者が物やサービスを買って、お金を使うことです。その使ってしまったお金が消費です。

企業の場合は物やサービスを買ってお金を使っても、それが費用となる場合はマイナスの所得ということになるので、消費にはなりません。費用とならないで資産となる場合には、それは在庫投資になるか設備投資になるか、いずれにしても投資になります。そんなわけで、企業の方には消費は発生しません。売れ残りが発生しても、それが売れ残っている限り在庫投資として「投資」になります。見切りをつけて廃棄したら、廃棄損で所得のマイナスです。

「貯蓄」というのはケインズが「所得-消費」と定義しています。ですからこれも貯蓄の残高じゃあなくて、貯蓄の増減の額ですね。

「消費」は企業にはないので、企業では「貯蓄=所得」ですね。その期間の稼ぎのうち一部は投資に回っていて、一部はまだ使わずに現金のままかも知れませんが、それをひっくるめて「貯蓄」というわけです。

消費者の方は「貯蓄=所得-消費」ですから、その期間の稼ぎから使っちゃった額を差引いた残り、ということで、まさに貯蓄の意味そのものですね。まだ使ってないお金が財布の中に入ってようとへそくりで本棚に隠してあろうと銀行に預金しようと株を買おうと、みんな「貯蓄」ということになります。

このように言葉の定義をはっきりさせておいて、たとえばある消費者がある企業から100円の品物(たとえば缶コーヒー)を買って、その企業の売上原価が30円だというケースを考えてみます。

この取引だけについて、所得・投資・消費・貯著を計算すると
企業の方は
  所得=売上-売上原価=100-30=  70
  投資=在庫が30円少なくなったから= -30
  消費=   0
  貯蓄=所得=  70
消費者の方は
  所得=    0
  投資=    0
  消費=  100
  貯蓄=所得-消費= -100
合計すると
  所得=70+0=      70
  投資=-30+0= -30
  消費=0+100=  100
  貯蓄=70-100= -30
となり、
  所得=投資+消費
  貯蓄=投資
となっています。メデタシメデタシ。

ここで、貯蓄=投資について、
  貯蓄=70-100
  投資=-30+0
と、貯蓄と投資はその発生する場所で額が異なるけれど、合計すると額が等しくなる、というのがミソです。

こんな具合に他のケースについても計算してやると、全てのケースでケインズの式はOKです。

私がやってみたのは、
 ・企業が消費者に給料を払って、それは企業の費用になった。
 ・企業が消費者に給料を払って、それは製品の原価として投資になった。
 ・企業が企業から何かを買って、在庫にした。
 ・企業が企業から何かを買って、設備投資にした。
 ・企業が企業から何かを買って、経費にした。
 ・消費者が企業から何かを買った(上のケース)。
 ・消費者が消費者に何かをしてもらって謝礼を払った。
というくらいのケースです。

企業や消費者間の取引は分解してしまえばこんなものの組合せですから、これでケインズの言っているのが正しいということがわかります。

ケインズ・・・2回目

2月 25th, 2013

ケインズの一般理論、読み終わりました。
何とも面白かったですね。

全体の議論の内容や主なキーワードもだいたいわかったところで、また2回目の読みに入りました。読み終わった途端にもう一度読む、というのは久しぶりです。

ケインズがこれを書いたのは第一次大戦が終わってアメリカの大恐慌が起こった後の時期ですが、これを戦後の日本の、戦後の復興から高度経済成長を経験し、1980年代後半のバブルからバブルがはじけて失われた10年・20年という経験に照らして読んでみると、よくもまぁここまで書けたな、ケインズというのはもしかすると予言者なんじゃないか、なんて思えてくるのも面白いです。

1回目には面倒くさい所はところどころ読み飛ばしてしまった部分もあるので、2回目はもう少しゆっくり一つ一つの議論を吟味しながら読んでみようかなと思います。

私が一人で面白がっても勿体ないので、これからしばらくこの読書感想文というか読書レポートが続くと思います。

もし良かったら、読んでみて下さい。

ケインズ

1月 31st, 2013

このブログにも時々登場する(私が勝手に登場させているだけですが)慶應大学の権丈先生、学者としてもすごい先生ですが教師としても素晴らしい先生のようで、ゼミの学生さんにいろんな本を読ませています。

時々その感想文の一部が先生のホームページに引用されるのですが、それを見てその本を読んでみたくなりました。どうも岩波新書の伊東光晴「現代に生きるケインズ」という本のようです(権丈先生はあまり親切じゃなく、どの本を読んだ感想文だということを書いてありません。感想文の一つにこの本の名前が出ていたので、多分そうだろうと思った次第です)。

で、読んでみたのですが、ビックリです。
私なんかそれほどまともにケインズの勉強なんかしていないので、「近代経済学というのはケインズに始まり、ケインズ以降ケインズを受け入れて支持する人と反対する人がいるけれど、どちらも殆どの人がケインズの影響下にある」という位の理解だったのですが、とんでもない話でした。

ケインズを受け入れて支持し、「これこそケインズの考えだ」と言っている有名な経済学者もたくさんいるんだけれど、ケインズの考えと違うケインジアンというのがたくさんいて、それぞれ意見が違う。さらにそのような混乱を生じさせた原因はケインズ自身にあり、ケインズの考え方とは違う考え方に対してケインズが「それは私の考えと同じです」なんてことを言ったので、言われた方は自信を持って「これこそケインズ理論だ」なんてことになっている、というような状況のようです。

誰が何と言ったかなんてことをいちいち覚えながら読んではいないので、Wikipediaで「マクロ経済学」という記事を見て整理してみようとしたのですが、何とこのマクロ経済学が時系列的に並べると
 古典派
 新古典派
 ケインズとカレツキ
 ケインジアン
 サプライサイダー
 マネタリスト
 合理的期待学派
 ポストケインジアニズム
 新しい古典派
 ニュークインジアニズム
となっているそうです。
「古典派」とか「新古典派」という言葉は聞いたことがありますが、古典派というのはケインズの前、新古典派というのはケインズのあとで、また古典派が復活したものかと思っていたら、新古典派というのはケインズの前なんですね(やっかいなことに、ケインズ自身はこの古典派と新古典派合わせて古典派と呼んでいるようです)。

で、このケインジアンもポストケインジアニズムもニューケイジニアズムも、ケインズの考えとは違うというんですから何ともならないし、新古典派と新しい古典派が別ものもだなんてわかるわけがありません。日本語では「新」と「新しい」で区別し、英語では”neo”と”new”で区別しているようですが、こんなの区別になるんでしょうか。

「新古典派総合」というのもあるのですが、どうもこれは新古典派とケインジアンを一緒にしたもののようです。いずれにしても経済学者の語彙の貧弱さを表しているように思います。もう少しわかりやすい名前を付けることができないんでしょうか。

こんなことになったのは、ケインズ経済学の中心である「一般理論」(正式には「雇用・利子および貨幣の一般理論」という名前の本のことです)が難解で難しいということのようですが、経済学者だって頭の悪い人ばかりではないでしょうからちゃんと理解している人がいるんだろうし、もしそうでなければ元々の「一般理論」がどうしようもないひどい本なんだろう。ちゃんと読者にわかるように書けないということは、基本的に著者の方に問題があると思うのですが、それにしても何十年にわたり未だに山ほどの経済学者を振りまわしているのであれば、それなりに「一般理論」というのは中味があるのかも知れないと考え、仕方がないので読んでみることにしました。

この「現代に生きるケインズ」の本の中にも「一般理論は難解だ」ということと「ケインズは名文家だ」ということと両方書いてあり、「名文で難解」というのは何のこっちゃという気もします。

前に読もうとしていたマルクスの「資本論」の方は、あまりにも非論理的な文章で読んでいられなくなって放り出したままですから、その代わりです。分量も岩波文庫で2冊、計500ページくらいのものです。ただし以前読んだ「国富論」は訳者のお陰で山ほど挿絵が入っていて楽しめたのですが、この「一般理論」は全体で図が1つしかない、ということでも有名な本です。

一般の経済学の教科書では山ほど図が入っていて、【左下から右上に向かう線と、左上から右下に向かう線が交わった所で何か(価格だとか利子率だとか生産量だとか)が決まる】という説明がされています。その元となった「一般理論」に図が1つだけというのも面白いですが、何とか我慢して読んでみようと思います。

ざっと眺めたところこの「一般理論」の難解さは、もしかすると数学的な所にあるのかも知れないなと思いました。今は経済学をやる人は数学が得意な人が多く、「一番数学ができる人が経済学部に行く」というのがあたり前のようですが、ケインズの頃には必ずしもそうではなかったようです。

昔はユークリッドの幾何学をちゃんと勉強し、まずいろんな言葉を正確に定義し、疑いようのない公理・公準を前提としてあとは論理のみでいろんな定理を証明していくという、ユークリッドの「原論」が学問の理想形と考えられていました。
そこで万有引力の法則について書いたニュートンの「プリンキピア」という本も同じような構成になっているんですが、ケインズも若い時数学を勉強したようで(大学の学位は数学で取ったということです)、このような公準とか定義とかをちゃんとするのに慣れていたようです。
このようなやり方に慣れていない人には、もしかすると難解に思えるのかも知れません。

「一般論」には図は一つしかないのですが、その代わり式は所々に出てきます。当たり前のように微分の式が登場したり関数の記号にギリシャ文字を使ったりしているので、そんな式は見るだけで気持悪くなるという人にとっては読む気にならない本なのかも知れません。

『アクチュアリーの練習帳』

1月 25th, 2013

このホームページ、今では私の勝手なタワゴトを書くブログがメインになってしまっていますが、もともと『アクチュアリーの練習帳』という、昔懐かしい掲示板が中心となっていました。

今ではほとんどその掲示板が使われることもなくなっていたんですが、最近珍しくその掲示板に書き込みがありました。

よかったらちょっと見てみてください。
その書き込みは
http://www.acalax.info/bbs/wforum.cgi?no=3541&reno=no&oya=3541&mode=msg_view&page=0

掲示板自体は
http://www.acalax.info/bbs/wforum.cgi
を見てください。

アルジェリアの人質事件

1月 25th, 2013

連日アルジェリアの人質事件について、大量のニュースが流れていますね。
これでちょっと違和感があるのが「戦争」という言葉が全く出てこないことです。

アルジェリアの軍が警備する施設に武装勢力が攻撃をかけ人質を取って立てこもったのに対して、アルジェリアの軍隊が攻撃して制圧したということで、双方使っているのも兵器ですから、これは明らかに軍隊同士の戦争です。
警察と暴力団の撃ち合いとは話が違います。

戦争ということがはっきりすれば、たとえばアルジェリア軍の攻撃の前に事前の連絡がなかったとか、遺族が現場に行こうとしても行かせてもらえない、なんてのも納得できます。
戦争あるいは軍事行動というのは国権の発動の最たるものですから、いろいろ外国の意向を確認してから戦争を開始するなんてこともないでしょうし、テロリスト側が制圧されたとは言ってもその場所は戦場ですから、遺族だからと言って戦場に自由に立ち入らせるわけにはいかないでしょう。

マスコミが「戦争」という言葉を使わないのは、何か規制がかかっているんでしょうか。あるいは日本のマスコミの辞書には「戦争」という言葉がなくなってしまったんでしょうか。

今の時代、このような形でいつどこで戦争に巻き込まれるかわからないわけですから、これを機会にこんな時どうするか考えてみるのも良いかも知れません。

外国で日本人がいきなり戦争に巻き込まれ殺されるかも知れない時に、政府は何をすべきなのか、何をすることができるのか。自衛隊を行かせることができるのかどうか。

憲法9条の戦争放棄の規定は
「戦争と武力による威嚇または武力の行使は国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する」
と書いてありますが、人質になった日本人を救出するための武力行使は許されるのでしょうか。

話題の、自民党の憲法改正案の国防軍の規定では「国民の安全を確保するため」という言葉があります。
これを現行の憲法の規定と見比べると、現行の憲法には「(日本)国は国民の安全を確保する(しなければならない)」という文言がないんですね。書くまでもなく当たり前のことだ、ということでしょうか。

自民党の改正案では国民の安全を確保するのは国の責任だ、と認めているようです。
憲法9条改正(改悪)反対論者はこのあたり、どう考えるんでしょうね。自分の安全を国に守ってもらいたくなんかない、ということでしょうか。

年頭所感-いろいろ

1月 9th, 2013

皆様 明けましておめでとうございます。
地域によっては大雪で大変な所もあったようですが、私の住む所は暖かで穏やかな良いお正月で、今年も良い年となりそうです。

『年頭所感』なんていうとちょっと偉そうですが、『年頭にあたり、色々思うこと』を短くまとめるとこうなってしまうようです。

いよいよシリアの状勢はアサドさんの政府軍の負けがはっきりしたようです。あとは負け方ですが、生物・化学兵器を使ってトコトンじたばたしたあげくに負けるのか、そこまで行く前に負けを認めるか、ちょっと心配です。欧米が軍事介入すると言えば簡単に決着しそうですが、ユーロ危機とアメリカの財政の崖で、欧米も動きが取れないようで、結果的にいつまでたってもシリアの決着がつかないという状況です。

北朝鮮は何とか新年を迎えたようですが、年始の演説の金正恩がテレビの画像に出てきました。どれ位長い演説だったのかわかりませんが、その内容はともかく金正恩がその間まっすぐ立っていられなくて、上半身をあっちに傾けたりこっちに傾けたりしていたのは驚きました。まっすぐ立って力強い演説をすることもできない独裁者というのは、初めてみました。

さて『(元)未来』の嘉田さん、いよいよ党首も降りるようですね。選挙が終わって『元生活』のメンバーでない、嘉田さんと『元社民』の阿部さんが追い出され、結局また元の『生活』に戻ってしまったようです。

根っからの小沢さんのファンにとってはごく当たり前のことかも知れませんが、小沢さんは嫌いだけれど嘉田さんに期待して投票したという人達はガッカリしているでしょうね。その人達の投票の結果、政党助成金として国民の税金から8億円が小沢さんのポケットに入ってしまうということですから。まあ小沢さんにしてみればはした金なんでしょうが。

結局『未来』は1ヵ月しかもたなかったわけですが、未来改め元の『生活』の方も夏の参議院選に向かっていつまでもつんでしょうか。
『維新』や『みんな』や『民主党』はいろいろ合従連衡を模索しているようです。『生活』の方も海江田さんの民主党に色目を使っているようですが、8億円の荒稼ぎを目のあたりにすると、こんな小沢さんに声をかけようとする党はなかなかないでしょうしね。

ユーロ危機もあまり目立ったニュースはありませんが、いつまでたっても解決しないという状況は変わりません。スーパーマリオがやめてイタリアがどうなるのか。フランスもいよいよ危なっかしくなってきたようです。今年中にはまた大騒ぎが起きそうです。

アメリカは年末にようやく財政の崖の先送りを決めたようですが、たった2ヵ月の先送りでは何の解決にもなりません。

日本だけは久しぶりの自民党政権で安倍さんはじめ元首相・元総裁も含めたオールスター体制で、明るい話題が多いですね。
民主党政権が決めたことを平然と次々にひっくり返していくというのも、その昔小選挙区制を導入して2党が政権交代する体勢を作ろうと考えていた人達にとっては理想としたことなんでしょうが、その人達は今、どんなふうに感じているんでしょうね。

ということで、今年もとりとめのないよしなしごとを書き綴っていくことになります。
もし宜しかったら、ときどき見てみて下さい。