Archive for the ‘本を読む楽しみ’ Category

「実証・仮設住宅-東日本大震災の現場から」

火曜日, 11月 5th, 2013

また図書館の新しく出た本のコーナーで、面白い本を二つも見つけてしまいました。

その一つが「実証・仮設住宅-東日本大震災の現場から」という、学芸出版社から出ている本です。
大震災の時、岩手県の建築住宅課総括課長という立場で、岩手県の仮設住宅の建築全般を指揮した大水敏弘さんの書いたものです。

もともとこの人は建設省のお役人のようで、大震災時たまたま岩手県の課長だったので仮設工事を担当し、震災の1年後に国土交通省に戻って本省で復興事業の担当官となり、その1年後に今度は大槌町に副町長として赴任していて、自分が建てた仮設住宅に自ら住みながら大槌町の復興のために仕事をしているという人です。

実際に住んでみて、間仕切りのアコーディオンカーテンの下の隙間から冷気が入ってくるので毛布を丸めて置いてあるとか、壁の色が灰色なのがせめてアイボリーだったらとか、それでも空気が綺麗で満天の星だとか、楽しみながら大変な仕事をしているようです。

お役人らしく様々な法律をきちんと確認し、時には必要に応じてその法律を無視したり、意識的に法律違反をしたりしながらできるだけ早く仮設住宅を必要な数準備して避難所にいる人達に落着く場所を用意しようという、大車輪で動きまわった経緯を淡々と詳細に書いています。

大量の仮設住宅を早期に建てるために、プレハブ建築の協会に頼んで建ててもらうのですが、仮設住宅を用意する災害救助法の所轄は厚生労働省なのに建てる方の所轄は国土交通省だったり、本来的には市町村が建てる責任者なのにそんな余裕もないので、県が県内の仮設住宅の建築や国交省、建築業者との交渉の窓口になるとか、県と市町村の役割分担の話とか、プレハブ建築に限定しないで地場の建築業者にできるだけ建築を依頼するとか、普通、県で発注する建築は請負契約なのに仮設住宅はリース契約あるいは買取の契約なので仕事のやり方がまるで違うとか、仮設住宅の新設が難しいので民間の賃貸住宅をみなし仮設住宅とすることにより何とか2011年中には仮設住宅の工事は一段落したとか、仮設住宅には家電6点セットが日本赤十字から提供されたが、当初それがうまくタイミングが合わずせっかくできた住宅に入居ができなかったとか、みなし仮設住宅は県が一括して借り上げたものを入居者に割り振っていくならまだ良いんだけれど、実際は入居者が直接みつけて借りたものをあとから県が借りる形で契約をし直すので、6万戸のみなし仮設住宅に対して個々に家主と契約しなければならないので大変だったとか、当初2年の予定だった仮設住宅の期間を3年にしたので、また個別に更新の手続きをしなければいけないとか、普段公営住宅の家賃を収納するのは慣れているけれど家賃を払うのは慣れてないので、何と1‐2ヵ月の家賃の不払いを発生させてしまったとか、手間を考えれば、みなし仮設住宅として県が賃貸契約をする代わりに家賃分現金給付する方が面倒がないんだけれど、災害救助法では現物給付が原則なのでそれができないとか、言われてみればもっともだけれど言われないとなかなか気がつかない話が満載です。

普段、県のお役人というのは何をやっているのか良くわからないんですが、国全体の方向性を決める国のお役人、住民と直接向き合う市町村のお役人の陰で、都道府県のお役人もいろんな仕事をしっかりやっているんだ、ということが何となくわかってきます。

大震災の復興工事の一部であっても、具体的に知るには格好の一冊です。お勧めします。

芦部さんの憲法 その10

金曜日, 10月 18th, 2013

いよいよ憲法も基本的人権に入ります。

この「基本的人権」は「日本国憲法」では全103条中、10条から40条までの31条。全体の3割を占め、芦部さんの教科書でも本分389ページのうち73ページから274ページまでの202ページ、半分強を占めています。

で、この基本的人権、「人類共通の」とか言うわりには実は必ずしも共通ではないように思います。たとえば日本では基本的人権のうちの生存権にもとづいて健康保険制度が国民全体に適用されるのに対して、アメリカでは自由権にもとづいて国民皆保険に反対する意見がまだかなり強いようですし、日本では誰も自衛のために銃を持とうとはしないのに、アメリカでは自衛のために銃を持つことは基本的人権の一つだ、という考えのようです。

で、議論を始めると際限がなさそうなので簡単に済ませようと思ったのですが、芦部さんの教科書を読むとちょっとそういうわけにはいかなそうです。基本的人権の本筋から離れる話も多いのですが、ちょっとコメントします。

まず基本的人権をいろいろ分類している中で、「社会権」というものが登場します。これは社会的・経済的弱者が人間に値する生活を営むことができるように、国家の積極的な配慮を求めることができる権利だ、と言うんですが、これについて【憲法の規定だけを根拠として権利の実現を裁判所に請求することのできる具体的権利ではない(即ち、その為の法律がないとその権利を求めて裁判することができない、ということ)】(84ページ)と、この部分、わざわざ傍点までつけて書いてあるのですが、その次のページには何と【社会権にも具体的権利制が認められる】などという文章があり、こんなんで勉強する人は大変だなと思ってしまいます。

また「制度的保障」という言葉が登場します。これは何かというと、たとえば言論の自由を守るため大学という制度に保護を加え、その制度を守ることによって基本的人権である言論の自由を守る、というようなことのようです。この芦部さんの本では(多分他の法律の本でもそうだろうと思うのですが)「保障」という言葉を「保護する」という意味で使っているようです。

そんなわけでこの制度的保障というのは、制度を保障(保護)すること、という意味のようです。「的」と言う言葉を「を」の代わりに使うというのは、普通の日本語にはないと思います。中国語では「的」というのは日本語の「の」のように使います。私の本とかあなたの恋人とかの「の」です。その意味で制度を保障(保護)することを制度の保障と言い換えて、これを制度的保障と言うのかも知れませんが、このような「的」の使い方は中国語の話であって、日本語の話じゃないと思います。

また、「前国家的」とか「前憲法的」とかの言葉が登場します。これは一体何だろうと思って読んでいくと、どうやらこれらは「国家ができる前からの」とか「憲法ができる前からの」という意味のようです。「前」という言葉は「前近代的」のように「○○になる前(から)の」という意味で使うのはよく見ますが、「○○ができる前(から)の」という意味で使うのは今まで見たことがありません。多分、勝手に自分流の日本語を作ったんじゃないかなと思います。

このように言葉のことを問題視するのは、言葉の正しい使い方というのは論理的思考のそもそもの前提となるものだと思うからです。私は日本語というのは、少なくとも私の知っている範囲では、世界で最も論理的な表現・思考ができる言語だと思っています。にもかかわらずこのようないい加減な言葉の使い方をすると、論理的思考ができるわけがないと思うからです。

一般には(憲法を含めて)法律というのは論理的に書かれていて、法律家というのは論理的に考えていると思われているんだと思いますが、このような事情を見るとガッカリしてしまいますね。

さて、基本的人権にはいろんなものがありますから、複数の基本的人権がお互いにぶつかり合った時にどうするか、というのが大きな問題になります。

まず最初に個別の人権ではなく社会全体との関係では、「公共の福祉に反しない限り」という限定付で基本的人権が認められるのが普通です。自民党の改正草案ではこの「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」と言い換えているんですが、その言い換えをケシカラン反対している意見があるようです。私には「公共の福祉」などというわけのわからない言葉よりよっぽど良いと思うのですが。

反対する人達は「益」とか「秩序」が嫌なんでしょうか。民法では憲法の「公共の福祉」を「公序良俗」という言葉で表しています。この三つの言葉を並べて比べてみると、「公益及び公の秩序」が一番わかりやすいと思うのですが、どうでしょう。

次に、今度は具体的にある基本的人権と、もう一つの基本的人権がぶつかった時にどうするか、ということになります。これにはいくつかの考え方があるようです。

まず最初に出てくるのが「比較衡量論」というもので、「それを制限することによってもたらされる利益」と「それを制限しない場合に維持される利益」を比較して、制限した時の利益の方が大きい時はその基本的人権を制限しても良い、という考え方です。誰がその「利益」を評価するのかという点を含め、こんなんでいいのかな、こんなんで「侵すことのできない永久の権利」(第11条)と言えるのかな、と思ってしまいます。要するに、基本的人権であってもそれを制限する方が利益が大きいのであれば制限することができる、ということですから。

次に出てくるのが「二重の基準論」というものです。二重の基準と言うと何のことか良くわかりませんが、英語で書くと良くわかります。すなわちdouble standard、ダブルスタンダードのことです。

ダブルスタンダードというのは、普通はそういうことじゃ駄目じゃないか、と非難される対象となるのですが、憲法の議論ではダブルスタンダードにすべきだ、という話になっています。

普通のダブルスタンダードというのは、あっちにはああ言い、こっちにはこう言うというような、相手によって話を変えることなのですが、この憲法のダブルスタンダードというのは、憲法の中のいろんな基本的人権は横並びで皆同じ重みがあるのでなく、重要なものと比較的重要でないものがあって、その重要性の度合いを付けることによって、たとえば二つの基本的人権がぶつかった時、どっちの基本的人権をもう一方の基本的人権より優先するか決める、というような話です。

とは言え、あらかじめ全ての基本的人権に順位を付けるなんて話じゃなくて、実際に基本的人権のぶつかり合いが起こったときに「さてどっちを優先しようか」と考えるというような話ですから、その時その時の都合でどうにでもなるような話でもあります。

こんなんで本当に基本的人権を「人類普遍の原理であり」「侵すことのできない永久の権利」なんて言えるんだろうか、と思ってしまいます。

沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史

木曜日, 10月 10th, 2013

きっかけは何だったか覚えていないのですが、インターネットでたまたま沖縄県人の奄美大島出身者に対するひどい差別の話を読みました。かなり長い記事だったのですが、読み終わった最後に、これが佐野眞一著「沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史」という本の一部だということがわかりました。

で、さっそくその本を借りて読みました。
2011年に文庫になったもので、上下それぞれ500ページ弱のかなりのボリュームのある本です。

これが面白く、一気に読んでしまいました。
沖縄の戦後史を構成する多数の人(数十人あるいは3桁になる人数)を取上げ、その人がどのように沖縄の戦後を生きたかを書くため、さらに多数の人に取材して書かれたものです。

はじめに出てくるのは警察官とヤクザで、沖縄の暴力団がどのように生まれ、成長し、数次にわたる殺し合いを経験したかを書いています。次に経済界の大物や女性実業家達、そして沖縄出身のアイドル達とそれを育てた人達が登場し、その間に知事の仲井眞さんが登場したり、また琉球王朝の尚氏の、明治維新で琉球が併合されてから、戦後貴族でもなくなり財宝も多く行方不明になってしまった話とか、尖閣諸島がどのようにして個人の所有となり、その後どのように所有者が変ったかなんてことも書いてあります。

それら登場人物が皆精一杯イキイキと生きて、またその後生き残ったり死んだり殺されたり、そういう話がたっぷり入っています。

沖縄というと、とかくありがちな青い空・青い海というような話でもなく、また本土の犠牲となった沖縄に対してスミマセンなどという余計な思い入れもなく、単刀直入に著者が遠慮なしの質問をし、質問された方はあっけらかんと素直に回答する。そのようなインタビューと、その他取材によって集めた材料で登場人物を生き生きと描き出していますが、これだけで何十本ものテレビドラマや映画ができても不思議ではないような気がする、そんな読み物です。

もともと『月間プレイボーイ』に『沖縄コンフィデンシャル』というタイトルで連載していたものを編集し直し、加筆修正して単行本にしたものに、文庫版にするにあたりさらに大幅に書き足し、鳩山さんの『最低でも県外』発言とその後の3.11の大震災なども取り入れて本にしているものです。最近の尖閣諸島国有化までは入っていません。

著者の思い入れは、タイトルの『だれにも書かれたくなかった』の部分に現れているようで、沖縄は一方的に本土から差別されるだけでなく、奄美大島出身者に対する差別する側としての沖縄もしっかり書いてますし、また都道府県別平均所得が一番低く、若者の失業率が日本一高い沖縄がそれでも豊かに見えるのはやはり米軍基地があるためではないか(沖縄の暴力団のルーツの一つは米国基地からの軍需物資の窃盗団だったということも含めて)とか、軍用地主の一番大きな人は地代だけで年間20億円もの収入になり、どうやっても会ってもらえなかったとか、面白い話満載です。

青い空・青い海の沖縄というイメージや、明治以来(あるいはその前薩摩藩に征服されて以来)常に本土の犠牲になって、特に太平洋戦争の沖縄戦でも多くの犠牲を出し、戦後日本とは切り離されて米軍の軍政下で多大な苦労をさせられてきた沖縄に対して申し訳ない、というような定番の沖縄にうんざりしている人にお勧めです。

芦部さんの憲法 その9

木曜日, 10月 10th, 2013

さて憲法、天皇の次は「戦争放棄」です。第一章「天皇」は条が8つもあるのに、第二章「戦争の放棄」は、9条1つだけです。

この9条、第1項が戦争放棄、第2項が戦力を保持しない、交戦権を認めないということを書いてあります。日本国憲法の最大の特徴である平和主義が全103条のうち、たった1条だけなので、この9条1つについては山ほど議論がなされています。

まず第1項の戦争放棄ですが、単に「戦争放棄」と書けば良いのに、いろいろ条件を付けるのでわからなくなってしまいます。すなわち
 【(国権の発動たる)戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は(国際紛争を解決する手段としては)永久にこれを放棄する。】
という具合です。こうなると何が放棄されている戦争で、何が放棄されていない戦争か、ということになります。

次の第2項は短いけれど、さらにやっかいです。すなわち
 【(前項の目的を達するため)陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。】
となっているんですが、この「前項の目的を達するため」というのは、何を意味するのか、またこれは『軍その他の戦力を保持しない」だけにかかるのか、『交戦権』の方にもかかるのかというのがさらに面倒な議論になります。

さらにこの第1項と第2項が憲法案作成の際、途中で順番が逆になり、それがまた元に戻ったなんて事情があるので、なおさらいろんな議論が可能になっています。

1項と2項が逆になっていると、まず最初に「軍隊は持たない」と言って、その結果として戦争を放棄するという、わかりやすい話になるのですが、今のような順番であるため、どのような軍隊は良くてどのような軍隊は駄目なのかという議論になってしまいます。

更にこのような憲法ができた時代背景が、もう一つ重要なファクターとなっているようです。

第二次世界大戦は、連合国側(アメリカ・イギリスなど)と枢軸国側(イタリア・ドイツ・日本など)が戦ったのですが、戦争が終わり、連合国は国連となり(日本語ではまるで違う言葉ですが、英語ではどちらもUnited Nationsのままです)、その頃第一次大戦・第二次大戦であまりにも多くの兵士、非戦闘員が死んだことを踏まえ、世界的に戦争をやめさせるために、軍隊を持つのは今の国連安保理の常任理事国の5ヵ国だけにし、その5カ国の軍隊で国連軍(あるいは連合国軍)を構成し、それ以外の国は全て(第二次大戦に負けた国は当然のこととして、その他の戦争に参加しなかった国も含めて)軍隊を持たないようにしようという崇高な理想があったようです。もちろんその考えは米ソの対立と常任理事国になれなかった国の反対ですぐに撤回されてしまったのですが、日本の平和憲法はその時の理想の名残りが9条にそのまま残っているということのようです。

もちろん日本占領軍のトップとして憲法改正を指示したマッカーサーも最初は完全な戦争放棄を考えていたようですが、日本を離れる時は既に朝鮮戦争を背景に、日本が軍隊を保持することは当然のことだ、という解釈に変わっていたようです。

以前「憲法の法源」という話をしました。憲法は「日本国憲法」というタイトルの文書だけでなく、その他多くの法律・規則・条約等もその憲法の一部をなしているということです。その中には軍隊を保持して必要な場合には戦争することを当然の前提としている国連憲章や、日米安保条約も入っています(国連憲章というのは軍事同盟であった連合国を引き継いで国際連合(国連)としていますから、何かあったら皆で協力して軍事行動しようという、基本的に「軍事同盟」ですし、日米安保条約も日本の近くを対象として限定しているものの、日米の軍事同盟であることは明らかです)。さらに憲法慣習も(憲法規範に明らかに違反する慣習であっても)憲法の一部をなす、ということになっています。

こうなると、国の組織として自衛隊という軍隊が存在する。それももう半世紀上にわたって存在し続けているという事実自体がこの憲法慣習になっている、ということになりそうです。国連に加盟し、日米安保条約を結んで二つの軍事同盟に参加している、ということも同様です。

このような状況では「日本国憲法」の条文からすると自衛隊の存在は違憲であるように判断でき、また自衛隊が半世紀以上存在し続けていることからすると、「日本国憲法」の条文が違憲であるように判断できるということになります。

こんな状況は困るじゃないか、と普通は思うはずなのですが、憲法学者は平気なようです。憲法の中味が相互に矛盾していてもそのままで、矛盾を解消するために憲法を改正しようとは考えないようです。『憲法を改正しない』という重大な目標に比べれば憲法の不備や矛盾なんかどうでも良い、ということのようです。

もちろん憲法の中には、憲法の規定が矛盾している時にそれをどのように調整し、どのように解釈するか、なんてことは書いてありません。ですからAという規定あるいは事象と、Bという規定あるいは事象とが矛盾している時、ある人はAという規定あるいは事象があるのだからBは憲法違反だと主張し、またある人はBという規定あるいは事象があるんだからAは憲法違反だと主張することができるわけです。

さらに憲法学者には「憲法の変遷」という奥の手があって、憲法の文言は変化がないのに解釈が変ることによってその意味が変る、ということを平然と主張します。すなわち「言葉の上ではそう書いてあるけれど、その意味はそうじゃないんだよ」と言うことです。

言ってみれば『ここには鹿って書いてあるけど実はこれは馬のことなんだから、そう読んでね』みたいなものです。ヤレヤレ・・・

なお蛇足ですが、この憲法についての勉強でポツダム宣言を読んだついでに、ミズーリ号で調印された日本の連合国に対する降伏文書を読みました。そこで「大本営」というのがJapanese Imperial General Headquartersと書いてあるのを知ってびっくりしました。

GHQというのは戦後アメリカ占領軍の司令部としてマッカーサーの下に組織されたもので、正式にはGeneral Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers(連合国最高司令官総司令部)の頭の部分から来ているのですが、日本の大本営もJapanese Imperial General Headquarters(大日本帝国総司令部)ということになり、これもGHQなんだ!!というわけです。

私はこれまでGHQは日本に命令する占領軍のもの、大本営は第日本帝国陸海軍を指揮するためのもの、とまるで別に考えていたのですが、大本営もGHQなんだ、GHQは占領軍の大本営なんだ、となったら、これは改めて考え直す必要があるかも知れません。

もちろん吉田(茂)さんをはじめ英語に堪能な人たちは大本営はGHQだというのはわかっていたのでしょうが、一般の人はどうだったんでしょう。改めて戦中・戦後のいろんな話を読み返す必要があるかも知れません。

いずれにしても憲法9条はいくらでも議論のあるところですから、私のコメントもこれくらいにしておきます。

芦部さんの憲法 その8

月曜日, 9月 30th, 2013

さて日本国憲法、いよいよ本文に入りますが、前回書いたように本文には「国民主権」の規定がありませんので、まずは「天皇」から始まります。

この天皇については、憲法の本など読むずっと以前から一つ疑問がありました。それは「天皇は日本国民なんだろうか」「日本国民じゃないんだろうか」、ということです。

芦部さんは基本的人権の所の最初に、いとも簡単に「天皇も皇族も日本国民だ」と書いていますが、もちろん何を根拠にこういう結論が出るのかなんてことは書いてありません。

私には、天皇には基本的人権がないと思われるので、日本国民全員に与えられているはずの基本的人権が与えられていない以上、それは日本国民じゃないということじゃないかと考えていたわけです。

「基本的人権がない」というのは、たとえば天皇には選挙権も被選挙権もなさそうです。もし被選挙権があるとすれば、是非立候補してくれと頼みに来る政党はいくらでもありそうです。選挙権があるなら、投票日になって「天皇陛下も投票に行きました」なんてニュースが流れないわけありません。まぁこれについては憲法4条に「天皇はこの憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」という所に関連するのかも知れません。
天皇には言論の自由も思想・信条の自由もなさそうです。巨人軍が好きか嫌いかとか相撲の贔屓の力士は誰か、なんてことも言ってはいけないことになっているようです。

天皇が日本国民だとして、その天皇の基本的人権が侵害されているのは憲法違反だ、なんてことにもなりそうもありません。日本では実際その人権侵害されている人が裁判を起こさない限り、裁判所は違憲判決を出さないことになっているようですし、天皇が自ら自分は日本国憲法で保障されているはずの基本的人権を侵害されている、なんて裁判を起こすとも思えません。結果的に天皇の基本的人権が侵害されているのは憲法違反だ、などという判決が出る気遣いはありません。

憲法では第10条で「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」と規定しています。でその法律に「天皇も皇族も日本国民である」なんて書いていてくれると嬉しいんですが、そうはなっていません。どうもその法律というのは「国籍法」という法律のようで、第1条に「日本国民たる要件は、この法律の定める所による。」と、憲法の規定と同じようになっています。

この法律は面白い法律で、第2条で日本国民の子として生まれたら日本国民だ、という規定があるのですが、第3条以下では日本国民という言葉がなくなってしまいます。代りに日本国籍を取得するとか、日本国籍を失うという言葉になってしまいます。日本国籍を取得した者が日本国民で、日本国籍を失った者が日本国民でなくなる、と言おうとしているんでしょうが、一番肝心なその規定はどこにもありません。まあ、このような非論理的ないい加減な書き方の方が法律家にはしっくりくるんでしょうが。

日本国民ということでなく日本国籍ということで考えれば、天皇や皇族に日本以外の国の国籍をもたせるわけにもいかないし、無国籍というわけにもいかないので、日本国籍とするしかないんでしょうが、だからといって日本国籍であれば日本国民だということにはならないような気がします。天皇・皇族以外の日本国籍の人が日本国民だ、としたとしても何の矛盾も生じなさそうですから。

この憲法の勉強の一番最初に読んだ「終戦の詔書」という本には、昭和20年8月15日の終戦の詔書・昭和16年12月8日の開戦の詔書・昭和21年1月1日の年頭の詔書(いわゆる「天皇の人間宣言」と言われているものです)が入っているのですが、これらの詔書で天皇が国民に対して語りかけているその言葉が、開戦の詔書では「汝有衆(ナンジユウシュウ)」(衆は正確には別の字体の字『眾』のようです)、終戦の詔書では「爾臣民(ナンジシンミン)」、年頭の詔書では「爾等國民(ナンジラコクミン)」となっています。全て天皇主権の体制で、天皇から国民に対する呼びかけの言葉です。これがいつの間に天皇も国民のうちということになってしまったのか、何とも不思議です。

憲法の天皇に関しては「象徴というわけのわからない言葉の意味」とか「天皇制の是非」とか、他にも山ほどの議論があるようですが、そんな話は当面どうでも良い話なので(なんて言うと右からも左からも山ほど文句を言われそうですが)、天皇についてはここまでとします。

北越雪譜

金曜日, 9月 27th, 2013

先日高校時代からの友人に誘われて、越後湯沢の、川端康成が「雪国」を書いた宿に泊まってきました。

900年続く宿で、今のおかみさんは53代目ということでへぇ~と思ったのですが、集まったのは高校時代からの友人4人(私を含めて)と奥さん2人。翌日は新潟在の友人の案内で「味噌舐めたかの関興寺」「北越雪譜の牧之記念館」「土踏んだかの雲洞庵」を見物しました。

「味噌舐めたか」は臨済宗のお寺、「土踏んだか」は曹洞宗のお寺で、どちらも見事なものでしたが、鈴木牧之記念館も非常に面白く、そういえば「北越雪譜」はまだちゃんと読んでなかったなと思い、早速図書館で借りてきました。

「北越雪譜」というのは江戸時代の鈴木牧之(スズキボクシ)という人の書いた随筆集のようなもので、雪の結晶の絵が描いてあるので有名です。で、私はてっきりその雪の結晶の絵は牧之が自分で見て描いたものだと思い込んでいたんですが、何とそうではなく他の人の本からその一部を書き写したものだと書いてあり、唖然としてしまいました。

北越雪譜というのはその名の通り牧之の住む越後の国、魚沼郡塩沢のあたりの雪の季節のあれこれを書いた本で、非常に面白い本でした。

越後縮みの話や熊を獲る話、雪崩・吹雪の話・鮭の話等盛りだくさんで、たとえば鹿を獲る時、大雪の中では鹿より人の方が歩くのが早いので追いかけて行けば簡単に捕まえられるとか、羽根つきは子供の遊びではなく、大の大人が雪かき用のシャベルのようなもので力一杯打ち上げ合う遊びだとか、雪の中で時として雪のために洪水が起きて逃げ場がなくて大変だとかいろんな話があるんですが、中に狐を獲る話があり、これが落語に出てくる鴨を獲る話に良く似ているのでちょっと紹介しましょう。

落語の話というのは、寒い国では鴨は田んぼで刈り取って捕まえることができるという話で、餌をあさるために鴨が田んぼに降りている時寒風が吹くと田の水が凍りついてしまい、その氷で鴨の足は動かせなくなってしまうので、そこで稲刈りの鎌で鴨の足を刈っていけば簡単に鴨が何羽でも手に入る、という話です。

「北越雪譜」に出ている狐を捕まえる話は、こんな具合です。
雪が深く積もっている時、杵で(といっても普通良く見る金槌の大きいような棒の柄の付いているものでなく、多分まん中がちょっと細くなっている長い棒のタイプだろうと思いますが)雪の中に適当な大きさ・深さの穴を開けておきます。その近くに狐の好きな油粕を撒いておき、ついでにその穴の中にも撒いておきます。夜になってそこへやって来た狐は雪の上の油粕を食べ、調子に乗って穴の中に入っている油粕も食べようとして穴にもぐり込みます。穴は冬の寒さで凍っているので、ちょっとやそっとでは崩れません。穴はそれ程大きくないので、頭から突っ込んだ狐は身動きができなくなります。夜が明けてから見に来た人は、穴の上から狐の尻尾が動いているので、狐がかかっているのがわかります。そこで水を汲んできて穴の中に入れると、雪が凍っているのでそうすぐには水がもれてはしまいません。狐が溺れて死ぬ最後におならをするので、それをかぶらないように少し離れた所で見ていて、尻尾が動かなくなったら狐は溺れ死んだということなので、あとは大根を抜くように尻尾を持って引っ張れば簡単に狐が手に入るという按配です。

本当かな、という気もしますが、牧之は真面目な話としてこれを書いているようなので本当のことかも知れません。あまり詮索しない方が楽しそうな話です。

これ以外にも雪国ならではの楽しみ・苦労が淡々と書かれています。

江戸時代の漢文調の文語体の文章ですが、それほど難しくもないので、原文でも充分楽しめます。
出版に至るまでの経緯には、十返舎一九だとか山東京伝とかそうそうたる名前が出てくるのも興味深いです。

雪国の宿への小旅行の思いがけないお土産でした。

芦部さんの憲法 その7

木曜日, 9月 19th, 2013

芦部さんの憲法、いよいよ日本国憲法の中味に入ります。

日本国憲法は
前文
第一章 天皇
第二章 戦争の放棄
第三章 国民の権利及び義務
第四章 国会
第五章 内閣
第六章 司法
第七章 財政
第八章 地方自治
第九章 改正
第十章 最高法規
第十一章 補則
という構成になっているので、芦部さんの憲法もこの順に従ってひとつひとつ解説しています。

まずは前文から。

改めて前文をしっかり読んでみると、ビックリすることだらけです。

日本国憲法は、国民主権・平和主義・基本的人権の尊重が三本柱だ、と良く言われます。前文というのは総まとめみたいなものなので、その一番大事な事だけ書いてあるのかな、と思っていたら、何と国民主権については書いてあるけれど、平和主義と基本的人権については前文に書いてありません。その代り平和主義については本文『第二章 戦争放棄』の所に書いてあり、基本的人権については本文『第三章 国民の権利及び義務』の所にしっかり書いてあります。逆に国民主権については前文には書いてあるものの、本文には書いてありません。

この、本文に書いてないということを確認しようと思ってネットで調べたら、1条に書いてあるとか、96条がそれだ、とかいう解説がみつかりました。

1条というのは、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」という文章です。確かに「主権の存する日本国民」という言葉があるので、国民主権を言っているとも言えなくもないですが、この条は天皇についての規定で、その中でついでに国民主権を言っているだけのことです。国民主権が重要なら、こんなついでに言うんじゃなく、正面からきちんと言ってもらいたいものです。

あるいはこの条は、「天皇が象徴だ」と言うことによって「天皇主権でない」と言っているのであって、天皇主権でなければ国民主権に決まっているから、天皇主権を否定することによって国民主権と言っているんだ、という話もあります。
主権者が天皇と国民と二者択一だというならその理屈も成立ちますが、主権者となりうるものは他にもいくらでもいますので、この理屈は成立ちません。

96条は憲法改正の規定で、ここに憲法改正には国民投票が必要だと書いてあるので国民主権なんだ、という話です。でもこの96条で言っているのは、憲法改正の手続きは衆参両院での2/3以上の賛成、さらに国民投票での過半数の賛成ということで、これだけのことで国民主権のことを言っているんだというのは、ちょっと無理があるような気がします。

そもそも前文に書くのと本文に書くのと、どれ位の違いがあるかというと、芦部さんは
【前文は憲法の一部をなし、本文と同じ法的性質を持つと解される。】
と言っています。と同時にその3行先には
【しかしながら、これは前文に裁判規範としての性格まで認められることを意味しない。】
と言っています。
何ともはや不可解な文章です。
「裁判規範としての性格」は法的性質ではないと言っているんでしょうか。この「性格」と「性質」の言葉を使い分けている意味もよくわかりません。こんなわけのわからない教科書を一生懸命勉強していたら、法律の専門家が論理的思考が不得意になるのも理解できる気がします。

で、平和主義と基本的人権については、前文にはちょっとそれを匂わせているような文言はあるのですがきちんと書いてはないので、上では「前文には書いてない」と書きました。

ここで平和主義というのは「戦争放棄」という意味で使っています。単に平和が望ましいというだけでは、三本柱になるほどのものではないでしょうから。

前文はじっくり読んでみるとなかなか面白く、2番目のパラグラフには
【われらは、平和を維持し、専制と隷従(レイジュウ)、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。】
という文があります。そんな国際社会がどこにあるんだろう、と思ってしまいます。現時点で見ればまるで見当違いの国際社会に対する理解の仕方なのですが、その当時日本国憲法を作ろうとしていた日本側担当者・アメリカの担当者の目には、多分すぐにでもそのような国際社会が実現するだろうという、希望というか期待というか夢というかがあって、そのために9条の戦争放棄がすんなり入ってきた、ということのようですね。

現時点でこんな絵空事のような国際社会に対する認識を憲法に残しているというのは、戦後の憲法改正時の雰囲気を後世に伝えるためなんでしょうか。まさか嫌味で残している、ということでもないでしょうが。

基本的人権については
【われらは全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。】
と言って、日本国民だけじゃなく全世界の国民についての権利を謳っています。これは、シリアの内戦で殺されている市民や、北朝鮮で苦しんでいる人民の生存権をどう考えるのかなあと思ってしまいます。

で、国民主権ですが、明治憲法では天皇主権だったので「天皇」の所で天皇主権を書けば良かったのですが、それを日本国憲法にする時、「天皇」の前に国民主権を定める条を1つ、たとえば「日本国の主権者は国民である」とか入れておけば良かったのに、それをしないで「天皇」の所で「天皇は主権者でない」としただけなので、憲法の本文の中で主権者が誰だか書いてないということになってしまったわけです。

国民主権ということについては今となっては特に反対する人もいなさそうなので、この際その条を追加する憲法改正だけでもすれば良いのにと思うのですが、憲法・法律の専門家はあくまで憲法を改正すること自体が嫌なようです。

自民党の憲法改正案にもこの国民主権の条立てはないのですが、産経新聞の改正案にはこの条が入っています。

で、この国民主権が本文に入っていないことが理由、というわけでもないのでしょうが、どうもこの国民主権という認識は日本では一般的にあまりないようで、どちらかと言うと政権与党が主権者であるとか、政府が主権者であるとか、場合によっては最高裁判所が主権者であるという理解の方が一般的のようです。

そのため何かある度に与党に文句を言ったりおねだりしたり、政府の悪口を言ったり頼んだり、最高裁の判決に一喜一憂したり、基本的に他人依存で、自分で何とかしようという意識が少ないようです。

まあ国民主権といっても、アメリカやフランスのように国民が血を流して死にもの狂いで獲得したものでないから、ということなのかも知れませんが、終戦後半世紀以上経って、もうそろそろ意識改革が必要なのかも知れません。

そのためにも憲法を法律家の玩具にしておかないで、一度自分達の手で何でも良いから憲法改正をしてみれば良いと思うのですが、法律家は憲法が国民のものになってしまうと自分達が自由にいじくりまわすことができなくなってしまうので、嫌がるんでしょうね。

婚外子の相続分の違憲判決

水曜日, 9月 11th, 2013

先日、婚外子の相続分を嫡出子の1/2とする民法の規定が憲法違反だという最高裁の決定が出ました。
「芦部さんの憲法」の番外編として、この裁判についてコメントしてみたいと思います。

ちなみに「決定」というのは「判決」と同じようなものですが、口頭弁論を必ずしも必要としないものを言うようです。
でも決定というと何となく一般的な意味での決定のような気がするので、厳密にはちょっと違いますが、以下この決定のことを「判決」と言うことにします。

でこの判決文は、最高裁のホームページから、
トップ → 最近の裁判例 → 最高裁判所判例集
最高裁判所判例 平成24(ク)984遺産分割審判に対する抗告棄却決定に対する特別抗告事件
の所にあります。あるいはhttp://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20130904154932.pdf で、pdfファイルが取れます。

この事件は、死亡したAさんの遺産について嫡出子側が婚外子側に遺産の分割を求めて審判の申立てをした事件のようです。
で争点は、民法900条4号ただし書にある、嫡出でない子の相続分を、嫡出子の1/2とする規定が合憲かどうかということになったようです。東京高裁ではこれを憲法14条1項に違反しないと判断し、その規定によって遺産の分割を命じたのですが、最高裁ではその決定(判決)をくつ返し、この民法900条4号ただし書は憲法14条1項に違反しているから無効であるとし、その上でもう一度裁判をやり直すように東京高裁に差し戻すというものです。

ここで憲法14条1項というのは、「法の下の平等」という規定です。すなわち今回の判決が言っているのは、民法900条4号ただし書が、合理的な根拠のない差別的取扱にあたるので、法の下の平等を定めた憲法に違反する。そのためこの規定は無効だ、ということです。

民法900条4号ただし書というのは大昔からある規定ですから、これが憲法違反で無効だということになったら、どうして無効なのか、いつから無効なのかということに当然なります。それについてこの決定では、家族制度・相続制度・諸外国の変化・国連の勧告等、また住民票・戸籍・国籍法の取扱の変化をあげて、最終的にこれらの変化のどれか一つを取って民法900条4号ただし書が不合理だと言うことはできないけれど、全体としての変化からこのAさんが死亡した平成13年7月頃には、もう民法900条4号ただし書は不合理なものになっていたんだ、と言っています。
「いつから」に対しては明確な答えを出さずに、「遅くともAさんが死んだ時には」ということです。

で、こうなると少なくともその平成13年7月以降に死んだ人の相続については全て民法900条4号ただし書が無効になるのかということになるのですが、この決定では、既に決着がついてしまっている相続についてこれをひっくり返してはならず、まだ争いが続いているものについてだけ、民法900条4号ただし書を無効として考え直せと言っています。

言い換えれば、民法900条4号ただし書を法律だからと尊重して相続に決着をつけた婚外子の人は損をして、法律にさからって争いを続けていた婚外子の人は得をするということになったわけです。
これはそれこそ憲法14条1項に定める法の下の平等に違反するということになるのですが、そこの所この判決では「法的安定性の確保」という言葉を持ち出し、既に決着のついたことをひっくり返すと混乱が生じてしまうので、それを避けるために既に決着がついたことを蒸し返さない、ということのようです。

法の下の平等を実現しようとして、かえって新たな法の下の不平等を作り出してしまったということになります。

もちろんこの「法的安定性の確保」というのは憲法にもとづくものでも何でもありません。これを憲法の基本的人権の尊重より重視するというのはどうなんでしょうね。

この判決文には、最後に3人の裁判官による補足意見がついています。このうち最初の金築誠志さんという裁判官の補足意見がなかなか面白いもので、日本の裁判制度について参考になります。そこでは「付随的違憲審査制」という言葉と「個別的効力説」という言葉を使って意見を言っています。

「付随的違憲審査制」というのは、日本には憲法裁判所という制度がなく、法律そのものが違憲がどうかを判断するという制度がなく、あるのは具体的な事件があって、その裁判の中でその個別的事件に関連して法律が違憲かどうかの判断をするだけだということです。
「個別的効力説」というのは、裁判で違憲判決が出たからといってその法律が常に違憲で無効になるわけではなく、あくまで「個別事件についてだけ違憲だ」ということです。もちろん違憲判決は先例としての拘束力は持つけれど、あくまで先例であって、別の事件で同じ法律が違憲かどうかは個々の事件ごとに判断しなければならない、ということです。

とはいえ先例は先例ですから、違憲判決が出れば、通常は同様の裁判では同様の判断がなされることになるので、当然過去にさかのぼって違憲の判断がなされることになります。

今回の判決では過去にさかのぼっての違憲の判断により、既に決着している話をひっくり返してはいけないと言っているのですが、裁判所にそんなことを決めることができるのか、という話になってきます。
特定の日時を決めて、いついつまではこのように取扱う、いつ・いつからはこれとは別にこのように取扱う、というような規定は法律ではごく当たり前の話ですが、憲法や裁判ではそのような決めは普通しません。にも拘わらず今回の判決で、すでに決着している話はひっくり返さないと言っているのは、裁判で法律を作ってしまっていることになります。これは憲法41条 国会の立法権を侵害していることになります。

この金築裁判官の補足意見はそのあたりを意識して、今回の判決は、憲法違反になるかも知れないけれど、とはいえそれを言わないで、決着済みの話が次々にひっくり返されて混乱が起きるのがわかっていながらそれを放置して、単に違憲の判断を出すだけではいけないのではないか、という観点からなされたものだ、と言っています。

いずれにしても今回の違憲判決はあくまで個別事件に関してのものなので、今後どのような形で関連する紛争が生ずるか予測しきれない、とも言っています。確かに違憲判決を出す判決が違憲なんですから、どんな争いが発生しても不思議じゃないですね。

以前、生命保険の死亡保険金の年金受取に対する課税が二重課税にあたって違法だ、という最高裁の判決があり、それに対して私はその判決は憲法違反だという意見を書いたことがあります。その判決では所得税法の規定を違法だと言うだけで、既に決着済みの話も含めて、その税法の規定ができた時から違法だ、という判決だったので、過去何十年にもわたって違法な徴税が行なわれたことになってしまいました。

仕方がないので国税庁は急遽「所得税法施行令」を改正し、過去にさかのぼって税金を取り戻すために、いつまで過去にさかのぼれるか、取り戻せる税金はどのように計算するか、どのように手続きしたら良いかを規定しました。

すなわちこの時は、最高裁の判決は、法律ができた時から違法だから、決着がついたことでも全てひっくり返せということになったわけですが、今回の判決では、民法の規定はいつのまにか違憲になったので、この件については民法の規定を無効として裁判をやり直すけれど、既に決着のついた話は蒸し返さないと言っているわけです。

前回の所得税法の話は、最高裁の三人の裁判官による判決で、たった三人で憲法違反の判決が出せるんだ!と言ったのですが、今回の判決は大法廷の判決ですから、最高裁の裁判官全員(この判決では14人)による憲法違反の判決です。

最高裁の裁判官がたった三人で憲法違反できるというのと、裁判官全員で憲法違反するというのと、どっちが問題が大きいか良くわかりませんが、いずれにしてもビックリですね。

芦部さんの憲法 その6

木曜日, 9月 5th, 2013

ここでいよいよ日本国憲法に入るところですが、その前にもう少しこの日本国憲法ができた時の話をします。

GHQがやってきて日本の憲法を国民主権の立憲主義の憲法に変えるようにと言ったとき、あの天皇機関説で有名な美濃部達吉という憲法学者は、『明治憲法を一言一句変える必要はない。そのままで国民主権の立憲主義の憲法になる』と言ったようです。これは明治憲法を変えたくないということではなく、明治憲法の解釈次第で、その中味は自由に変えられるということを言ったようです。

前回、八月革命説の所でも書きましたが、この説では実際明治憲法を一言一句変えることなく、その中味が国民主権の立憲主義の憲法に変ったんだと主張しているわけです。美濃部さんの天皇機関説が戦前大きな問題となり、貴族院から追い出されてしまったのも、見るからに立憲君主制の立憲主義とは思えないような明治憲法を、解釈によって立憲主義の憲法にしようとして、それが神権主義的な明治憲法を守ろうとする人達に攻撃されたということのようです。

この解釈というのは非常に強力で、文言としては書いてないことまで「言外に書いてあるんだ。それがわからないのは勉強が足りないからだ」なんて言い方もできるし、明らかに書いてあることでも「これはこう書いてあるけれど、書いてある通りの意味ではない」と言って、憲法の文面に書いてあることまで否定してしまうなんてこともできてしまうんです。

もちろん単にそんな主張をしただけじゃぁ皆を納得させることができないので、あーでもない、こーでもない、そーでもない、どーでもない、と山程の言葉を使い、あっちではこう言ってる、こっちではあー言ってると、憲法自体の文章を読まないで他の文献を山程引用する。そしてそのあげく「だからここはこうでなければならない」などと結論らしきものを持ち出せば、その前後に論理的な関係が存在しなくとも、何となく論理的に立証されたかのように聞く人は思ってしまうようです。

ですから憲法の本を読むときは、見たことのないような言葉が出てきたりいつも使っている言葉をいつもと違う意味で使ったりしていたら、これは怪しいなと思って眉に唾を付けながら読んでいかなければ、簡単に足をすくわれてしまいそうです。

で、芦部さんの本、日本国憲法ができる所の章の最後に「法源」という言葉が出てきます。『法源とは多義的な概念であるが、』と書いてありますが、これは私なんかは「法源というのは非常に曖昧な言葉なので、使い様によっては(相手を言いくるめたりする時に)非常に便利に使える」という風に読んでしまいます。
で、先の言葉の後に芦部さんは続けて『ここに法源とは最も一般的に用いられる「法の存在形式」という意味の法源を言う』と言っています。
「法の存在形式」なんて言っても何のことかわかりませんが、とりあえずそれはそれとして先を読んでみると、法源には成文法源と不文法源があって、日本国憲法の成文法源は「日本憲法」の他「皇室典範」「国籍法」「生活保護法」「国会法」等かなりたくさんの法律が列挙してあり、さらに「議員規則」「最高裁判所規則」などの規則、「日米安保条約」「国連憲章」などのいくつもの条約・公安条例等の条例までが書いてあります。要するにこれらは形式的には法律だったり規則だったり条約だったり条例だったりするんだけれど、その中味は憲法だ、ということです。

こうなると『日本国憲法は』と言ったとき、それは日本国憲法と表題がついて、前文から103条まで規定されている日本国憲法のことを示しているのか、それ以外のこれらの法律・規則・条約等も含んだ日本国憲法のことを言っているのかはっきりしなくなります。
もちろん通常は「どっちの意味で言っているのか」なんてことはいちいち書いてありません。その分、議論が次第にいい加減になってくるわけです。

さてここまでは成文法源なのですが、これ以外にさらに不文法源というものがあります。これについては芦部さんは
『有権解釈(国会・内閣など最高の権威を有する機関が行なった解釈)によって現に国民を拘束している憲法制度から不文法源が形成され、成文法源を補充する役割を果たす。広く憲法慣習または憲法慣習法と呼ばれるものが、それである。』
と書いてあります。

ここでまた意味不明の「憲法制度」という言葉が出てきていますが、何やら憲法制度というものがあって、それが国民を拘束していて、その拘束の根拠となるのが国会や内閣などが行なった解釈だということのようです。

そのような国会や内閣による解釈が行なわれることによって不文法源ができる。すなわちそのような解釈が不文法源として憲法の一部になる、ということです。
言い換えれば国会や内閣(ここには書いてありませんが、多分最高裁判所も)が、そのような解釈をすることによって、正式の憲法改正の手続きを経ることなく憲法を作るあるいは変えることができる、ということです。

で、『このような解釈によって憲法の一部になるものを憲法慣習と言う』ということですが、芦部さんはそれには3つの類型があると言います。
すなわち
① 憲法に基きその本来の意味を発展させる慣習
② 憲法上の明文の規定が存在しない場合にその空白を埋める慣習
③ 憲法規範に明らかに違反する慣習
の3つです。
芦部さん、さすがですね。ちゃんと③の、憲法規範に明らかに違反する慣習というのもしっかり不文法源として憲法の一部となる、としているわけです。

となると、憲法の中に憲法規範の中に書いてある規範と、それに明らかに違反する憲法慣習としての規範が併存するということになります。
芦部さんはその両者の関係について
  『③は憲法習律としての法的性格を認めることはできるが、それ以上の、慣習と矛盾する憲法規範を改廃する法的効力を求めることは、硬性憲法の原則に反し、許されないと解すべきであろう。』
としています。
すなわち③の憲法慣習によって既存の憲法の規定が変更されたり廃止されたりすると、憲法改正の手続きによらないで憲法を変えることができることになり、硬性憲法の「できるだけ憲法改正をしにくくする」という考え方に反してしまうので、既存の憲法の規定は変更されたり廃止されたりしないでそのまま残る、ということです。
その結果、一つの憲法の中に相矛盾する規定が並存するということになります。

素晴らしい論理的な解決法ですね(言うまでもなく、これは反語です。「論理的とは正反対だ」と言っているんです。反語の表現をわざわざ反語と言うというのも味気ない話ですが、前回の麻生さんのワイマール憲法の話を、反語を反語としないで解釈して大騒ぎした人達が多かったので、わざわざ「反語だ」と書いてみました。もっとも私が何を書いても大騒ぎする人もいないでしょうが)。

論理学では、矛盾する二つの命題を前提とすれば、どのような命題でも証明することができる、ということが明らかになっています。すなわち矛盾する規範を併存させることにより、法律家はどんな主張も正しいと論証することができるわけです。もちろんその主張の反対も同様に正しいと論証することができるわけで、こうなったら論理的もへったくれもなくなってしまいます。

何ともあきれた話です。まぁそこがまた良いのかも知れませんが。結局、法律家というのは論理によってではなく自分の信仰あるいは信念に従って、自分が正しいと思っている(あるいは正しいとしたいと思っている)結論だけを、いかにも論理的に当然の結論であるかのように主張したい人たちなんですから。

両班(ヤンバン) の話-尹学準の本

水曜日, 9月 4th, 2013

先日、中公新書の「両班(ヤンバン) – 李朝社会の特権階層」という本を読んだ話を書きました。

その本を読みながら何となくその昔中公新書で別の両班の本を読んだような気がしていて、図書館でみつけて借りてきました。それが尹学準著「オンドル夜話-現代両班考」という本です。多分昔読んだのは確かだと思いながらほとんど全く覚えてなくて、新しい本を読むように楽しめました。多分以前読んだときは機が熟していなかったということでしょうね。

で、この本があまりに面白かったので、ついでに同じ著者の本をさらに3冊借りて読みました。(ちなみにこの著者の尹学準さん、日本語の音読みではインガクジュン、韓国語のカタカナ表記ではユンハクジュンとなるようです。)

この人は今の韓国のいなか(だけど周り中に両班がいくらでもいる地域)で生まれ育った人で、太平洋戦争の時韓国で国民学校に通い(その当時、韓国は日本ですから日本と同じく国民学校です)、終戦の翌年に中学に進学し、大学に入学した年に朝鮮戦争が始まり、南北両軍にはさまれて右往左往して何度も殺されそうになり、朝鮮戦争が終わるころ徴兵令状が来たのを無視して韓国を密出国し日本に密入国。別の名前の外国人登録証を手に入れて日本で暮らし、法政大学を卒業し、共産主義革命を夢見て朝鮮総連系の組織で働いたけれど北朝鮮の言いなりにならないで勝手なことを言っていたので総連から追い出され、いろんな仕事を転々とし、いろんな大学で語学の教師などしながらいろいろな書き物をしていた人です。

その人が韓国の両班の現実の姿について、自分の幼児からの実体験をベースに語っているのがこの「オンドル夜話-現代両班考」という本です。

彼は一級の両班の家系の宗孫に生まれ、子供の頃から両班とはどのようなものか、どのような生活をするか、身をもって経験しています。にもかかわらず、厳密に言えば自分は両班とは言えない、なんてことを平気で言ってしまう人です。

宗孫というのは何代か前の祖先から長男の長男の長男の・・・という形の子孫のことを言い、一族を率いてその祖先の祭祀をする立場にあるので、両班の中でも特別な存在です。で、その宗孫として子供の頃からある意味特別扱いで育ってきた人で、子供の頃から漢文を読まされて、日本の素読とはちょっと違うやり方を説明してくれたり、両班が大騒ぎする風水の話とか、両班同士の格の上下を巡る壮烈な争いの話とか、韓国のお墓は土葬で一人一基だから山の上はお墓だらけになる話とか、とにかく面白い話満載です。

この人は日本に密入国してから日本で結婚し子供もできて、この本を書くまで30年も日本で生活していますから、韓国の話、両班の話をするにも日本人がわかりやすいように書いてくれます。国民学校で勉強しているので、日本語も子供の頃からしゃべれたようです。

読んだ本は

オンドル夜話 現代両班考 中公新書 尹 学準/著 中央公論社
歴史まみれの韓国 現代両班紀行 尹 学準/著 亜紀書房
タヒャンサリの歌 わたしの中の日韓歳時記 丸善ライブラリー 尹 学準/著 丸善
韓国両班騒動記 ”血統主義”が巻き起こす悲喜劇 尹 学準/著 亜紀書房

の4冊です。
そのうち「オンドル夜話-現代両班考」と「歴史まみれの韓国 現代両班紀行」が韓国でも話題になり、日本語の読める人はコピーを回し読みしているけれど日本語を読めない若い人から頼まれてそれを韓国語に直して出版しようとした所大騒ぎになり、出版を差し止めるため両班の大物がやってきたり親友から絶縁状が送られてきたりという顛末を第1章に書いて、第2章以降に「オンドル夜話-現代両班考」を手直しして含めているのが「韓国両班騒動記 ”血統主義”が巻き起こす悲喜劇」です。
「タヒャンサリの歌 わたしの中の日韓歳時記」は、歳時記ということで前半はそれこそ春や秋の様々な話題について書きながら(歳時記という以上四季折々をバランスよく書く必要があるんでしょうが、この人はバランスよく書くことができないようで春の話題ばかり続いて、気を取り直していきなり秋の話題に飛んだかと思うといつの間にかまた春の話題になってしまう、という具合です)、最後の方はいつのまにか太平洋戦争が終わって(日本では終戦ですが、韓国では開放というようです)国民が左翼と右翼に分かれて血みどろで争う時代が始まり、それが終わってちょっと落着いたと思ったら朝鮮戦争が始まり、北の勢力と南の勢力の間で振り回されながらこの人もムチャクチャをやり、最後は日本に逃げるため命がけで釜山の近くの港まで行くまでの波乱万丈の顛末が書いてあります。

太平洋戦争が終わった時、両班の村は左翼側につき常民の村は反共の右翼になったとか、その前、戦時中に日帝を倒して独立し、韓国を立て直すには共産主義革命をして一気に先進国にキャッチアップするしかない、と両班の若者が革命運動に夢中になったとか、そのような歴史は北朝鮮によって全く抹殺され、反日独立運動、革命運動は全て金日成の祖先がリードしたなどと歴史が書き変えられたとかの話もありました。

これらの本を読んでようやくわかってきたのは、歴史的事実の書き換え、というのは韓国の両班の文化のようなものだということと、家(一族)の格を上げるため(相手の家系より自分の方が格が上だとするため)には、一銭にもならないことで本気になって命がけで争う、そのためには歴史的事実の書き換えも辞さない、ということです。

そういう観点から、最近の歴史的認識の議論を振り返ってみると、新しい発見がありました(とはいえ私が「そうだったのか!」と思った、というだけのことで確認したわけではないのですが)。すなわち従軍慰安婦の問題や日韓併合の話などで韓国は日本に対して常にギクシャクした関係にあるのですが、本当はそれとは違う所に問題があるのではないか。韓国人にとって日本人は未開の野蛮人だったのを、千年二千年にわたって継続的に進歩した中国の文明・韓国の文明を供給し続けてあげた相手で、そのお陰で日本はようやく文明国になることができたにも拘わらず、それに対して一言の感謝の挨拶もなく、自分で勝手に文明国になったような顔をして、日本は明治維新で西洋化にもちょっと早くスタートしただけなのに、スタートに遅れた韓国を併合したりして、それは日本の敗戦で終わったけれど、日本人はアメリカに負けたのは認めたけれど韓国の反日独立運動に負けたなんて考えてもいない、その後の朝鮮戦争では韓国は戦争で全国土が破壊されたのに、日本は朝鮮特需で大儲けしてその後の経済の高度成長の足がかりとしたりして、韓国の犠牲の上に経済発展を享受しており、とにかく日本は韓国よりはるかに格下の国であるにも拘わらずそのことに気付こうともしないでエバリくさっている・・・というような話ではないでしょうか。

とはいえ、千年二千年昔の話を持ち出してみてもヨーロッパやアメリカの人には理解してもらえそうもないので最近の具体的な従軍慰安婦の問題を持ち出している、ということではないでしょうか。

日本が韓国の千年二千年にわたる文明の指導役としての役割に感謝し、日本が韓国よりはるかに格下であることを素直に認めれば、韓国人の気持も少しは柔らぐんでしょうが、日本人というのは忘れっぽい人種ですから、『今更千年二千年前の話をされてもなぁ』てなもんで、韓国の期待するような反応は期待できそうもありません。韓国とくらべて格が上だの下だの、という意識もあまりなさそうです。

従軍慰安婦のことだったら、たかだか70年位前の話ですからもう100年もすれば解決は可能かと思っていたのですが、これが千年二千年の恨み、ということになると、解決にもう少し時間がかかるかも知れませんね。