「古代ローマ人の24時間」―アルベルト・アンジェラ

9月 16th, 2022

以前紹介した「古代中国の日常生活(原題は古代中国の24時間)」の続きで、図書館で検索したら古代中国の他にエジプトとローマがヒットしました。

エジプトの「古代エジプト人の24時間」は中国の「古代中国の日常生活」と同じ24時間シリーズの中の1冊で、時代は3500年前ということなので、年代的にはかなりさかのぼりますが、「古代中国の日常生活」と同様、1日24時間の1時間ごとに別々の人物を登場させ、その人が何を考え・何を悩みながらどんな仕事をしているか、紹介しています。「古代中国の日常生活」と違って、このエジプト編では前の方の話で登場した人物が後の方で主人公として登場したり、あるいは前の方の話で主人公だった人物が後の方で登場人物となったりしています。

同じ古代といってもかなり年代が違っているはずなのに、墓盗人が登場したり、墓作りが登場したり、また王妃やその使用人が登場したりして、エジプトと中国は良く似ています。

これに対してこのローマの方の話はこの24時間シリーズの本ではなく、「古代ローマの一日―その日常生活、謎、魅力」という原題の翻訳のようで、とはいえ時代設定が西暦115年ということで、24時間シリーズの中国の分とほぼ同じです。

本の内容は24時間シリーズと同様、ある1日の朝から夜までの1日を描写しているのですが、24時間シリーズでは1時間ごとに様々な仕事・立場の別々の人を主人公として、その人が何を考え・何を悩みながら仕事をしているかを書いているのですが、この「ローマ人、、、」の方はむしろローマという都市の様々な場所に注目し、その場所でその時何が行われているかを描写しています。

著者はタイムトラベラーとなって西暦115年のローマに行き、そこで丸1日街のいろんな所に行き、いろんな生活を見物します。

夜明け前ローマの街中を歩き、防火隊の夜回りを見たあと、次に金持ちの大邸宅を見て奴隷たちが働き始めるのを見、主人達家族が朝の身支度をするのを見物します。ローマ式の服の着方や女性のヘアスタイルなども説明してくれます。朝食のあと、朝の表敬訪問で多くの人々が邸宅を訪ねてくる様子を見せてくれます。ここで著者は急に上空に舞い上がり、空の上から明けていくローマを見渡します。雲の中から七つの丘が浮かび上がり、次第に光が届き始め、大きな建物が現れ、街が見えてきます。ローマという街の地理的成り立ちが説明され、その後また街に降り立ち街歩きを始めます。著者は多くのテレビ番組の制作をしていた人のようで、視点の取り方がいかにもテレビのドキュメントのようです。

大邸宅のあと、著者は理髪店を通り過ぎて集合住宅に移ります。一階は商店、二階は邸宅を構えるほどではないとしても金持ちが住んでいますが、三階以上は違法建築のような好き勝手に建て増し増築を繰り返し、また貸しにまた貸しを繰り返した、文字通りスラムになっていて、一階には汚物入れの桶が置いてあり、上の階から毎朝トイレ用の桶をそこまで運んで中身を捨てるようになっているにも関わらず、そこまで運ぶのが面倒くさくなると上の階の窓から中身を通りにブチまけるという、花の都パリと同じようなことをやっていたようです。

次に著者は市場に行き、家畜市場から奴隷市場、路上の学校・神殿・書店・裁判所・元老院、コロッセウムでの公開処刑・剣闘士の対決などなどを見た後、夜になって大邸宅の宴会に紛れ込みます。ここで皆で寝そべって飲食をするローマ流の宴会のやり方の説明があります。最後は真夜中、人通りのなくなった通りを歩きながら、人々がどこでどのように寝ているかという所で1日が終わります。公衆トイレ・公衆浴場・商店・飲食店(バール)にも立ち寄り、人々が何をしているのか説明があります。

商店の所ではローマでは両手の指で4桁の数字をすべて表すことができたということで、図入りの説明があります。いくら何でもそんな事無理だろうと思っていたのですが、図を見て納得です。左手の中指・薬指・小指で1の桁の9個の数字を表し、親指と人差し指で十の桁の9個の数字を表し、右手の中指・薬指・小指で百の桁の9個の数字を表し、親指と人差し指で千の桁の9個の数字を表す。このようにして両手の10本の指で4桁9999までの数字を表すことができるというあんばいです。

公衆トイレの構造や用を足したあとの始末の仕方(ある意味、実質的に水洗トイレになっています)、公衆浴場の構造や入り方、コロセウムでの競技の様子など、さすがにテレビに携わる人ですから非常に具体的に説明してくれます。

前のエジプトや中国の24時間シリーズの本と違うのは、ローマはやはり世界的帝国で帝国の外や周辺の多くの国・地域から人や物を集めることによって成り立っている国で、道を歩く人も人種・民族、その他多種多様で、それがローマという大して広くもない都市に集中してごった返しているという姿です。

このような姿は塩野七海さんの「ローマ人の物語」や他のローマの解説書ではなかなかお目にかかれないものです。

それほど多くはないのですが、所々にいくつもの絵も付いていて、なかなか楽しめます。

文庫本で、本文だけで540頁とちょっと大部な本ですが、興味のある人にはお勧めです。

PC移行

8月 23rd, 2022

私が今メインで使っているPCはWindows8.3のPCなんですが、近頃『Windows8.3のサポート期間終了のお知らせ』というメッセージが出るようになりました。とはいえ終了は来年の1月ですからまだ十分時間的余裕があるというか、そろそろ準備を始めなければというか、微妙なタイミングです。

今の所お金を貰ってコンサルティングをしている以上新しいPCを買うかな、としたらどんなものにしようかな、と思ってフト気が付いたら、2年前、会社を閉めるとき、こんなこともあろうかと思って、新しいPCを会社のお金で買って用意していたことを思い出しました。

その新しいPCはMacのPCでその上でWindowsを走らせる事ができるようにしてあるもので、これを使ってMacPCの経験もすることができるしWindowsの移行もできると思っていました。

その後会社を閉める作業と大宮にオフィスを用意して引っ越しをする作業に予想以上に手間取り、それが一段落した1年前から、ようやく暇を持て余すようになったので新しいPCで遊んでみようかと思っていたら、足の骨折と個人事業の確定申告・修正申告・経理システム作りに手間がかかって、新しいPCはe-Taxの申告書作りと虎ノ門ニュース視聴専用のようになってしまい、それ以外はこれまで使っていたWindows8.3のPCをもっぱら使っていました。

で、Windows8.3が使えなくなるということになると、ほぼ自動的に新しいPCを用意してそこにWindowsの10あるいは11を入れて、その他のソフトも新しいPCに移行して、と考えていたのですが、新しいPCが既にあるということになると、じゃあそのPCに今のPCから必要なものを全て移行しようかと思って、その作業のリストアップを始めました。

インターネットのブラウザとメールは当然移さなければならないんですが、他にもファイル転送のffftpとかdelphiの開発環境や、今いろいろいじくって遊んでいるPython関係などいろいろあるな、まあ時間がかかるけど1つ1つ移していけば何とかなるか、と思っていました。

ブラウザは、以前はFirefoxを使っていたのですが、いつのまにか試しに使ってみたgoogle chromeの方で殆ど作業しているのでそれを移そうかと思ったのですが、移行に必要な設定ファイルを見てみたらとてつもないボリュームのファイルとなっていて、chromeは一体何をやっているんだろうと思い、この際昔使っていたFirefoxに戻すことにしました。

メールは以前からThunderbirdを使っていて、新しいPCにも試しにいくつかのアカウントを設定してのですが、これに今使っている他のメールアドレスのアカウントを追加することにしました。この機会に今は殆ど使っていないアカウントは新しいPCには入れないことにしました。

ffftpは新しいPCには同じソフトの最新のバージョンをインストールして使うことにしたんですが、新しいPCでアカウントを設定する所でそれぞれのアカウントのパスワードを再確認して改めて入力しなければなりません。と思ったら、こちらも設定ファイルをコピーするだけで一発で移行作業が終わりました。

ブログの更新はブラウザ上で行っているので、特に移行作業は不要です。

で、他のソフト等ですが、良く考えてみたら別に新しいPCに移さなくても今までのPCで作業ができないわけじゃないし、入出力で必要な場合は新しいPCと今のPCでUSBメモリーでファイルをコピーして受け渡しすれば良いじゃあないかと思いついて、これで行くことにしました。これで今まで溜め込んでた有象無象のデータはそのまま今のPCとその外付けハードディスクに残して、必要に応じて新しいPCにコピーすれば良いし、最後に仕事を辞める時が来たらPCごと全て消去すれば良いと思いつきました。PCを使ったいろんな作業でdelphiを使っているものは今まで通り今のPCでやれば良いし、これでかなり気が楽になりました。

勿論このやり方は一時しのぎの時間稼ぎの先延しでしかないのは分かっていますが、私自身いつまで今のまま仕事を続けるか、続けることができるのかも分かりませんので、ここはこれが正解かなと思っています。一時しのぎでしのぎきれなくなったらその時はその時です。

まあその時にはPCの移行なんてしんどい作業をする気力はもう残っていないでしょうから、その時は全て捨てるということになるんでしょうね。そう思ったら何やらその日が待ち遠しいような気になりますね。

『孔子画伝』加地伸行

8月 16th, 2022

孔子が死に、司馬遷が史記を書いて孔子の伝記を記述し、それを元にその伝記の様々な場面を絵にするということが始まり、断片的な絵ではなく、孔子の生涯を通した絵による伝記、すなわち『絵伝』が作られるようになり、それが『聖蹟図』と呼ばれるようになったようです。種々様々な聖蹟図が作られたようですが、その一つに何延瑞(カテイズイ)という人の作ったものがその後マネされて流布したようです。絹の布にカラーで描かれたものですが、それを元に1500年代に薩摩の島津家久が日本の画家にカラーで描かせたものもあるようです。

これは現物は見つかっていないけれど、それの白黒写真を日本で出版した物が残っているようです。また、なくなったと思われた『何延瑞本』を元にした絹本が孔府で見つかったということです。

で、この本ではこのカラー版の何延瑞本と白黒の家久本の図像に加地さんが解説を加え、適宜その他の聖蹟図からの画像も加えています。

2ページ見開きでカラーの何延瑞本の画を写し、次の2ページで家久本の画とその他の画、そして加地さんの解説という4頁1単位の構成です。

この本は加地さんの『孔子』でも文庫版あとがきで、『この「孔子画伝」を本書と併せて読んで頂ければ幸いである。』と紹介しています。

画伝は基本的に史記の孔子伝によっていて、他に様々なものから題材を取っていて、ほとんどが今までの孔子関係の本で既に読んだものですが、初めて見るものに一つ、『丘陵の歌』というものがありました。流浪の果て、最後に魯国に帰る時に、孔子が生涯を顧みてこの歌を作ったという事ですが、孔子が作った歌というものは初めて見ました。

4字×16句(あるいは(4字+4字)×8句)といった形のもので、孔叢子(クゾウシ)という本に載っているもののようです。長年がんばってきたけれど、なかなかうまく行かなかったなあ、というようななかなか味わい深い歌です。

全体の構成は
 第1画 孔子の母親が尼山に向かって子供ができるよう祈る
 第2画 母親のところに麒麟がやってきて、生まれて来る子は王になる、と
     お告げを告げる
 第3画 誕生日には5人の神仙と2匹の龍が現れる

から始まって

 第35画 孔子の死後、弟子達は墓の近くで3年(実質2年)の喪に服し、子
      貢だけはその倍の6年(実質4年)の喪に服した。
 第36画 その後、戦国時代を経て秦が天下を統一し、始皇帝の死後、項羽と
      劉邦が秦を倒し、最終的に劉邦が勝って漢帝国をつくり、その初
      代皇帝高祖(劉邦)が旅の途中孔子の廟に立ち寄って羊・牛・豚
      を一頭ずつ捧げて盛大に祀った、
という場面で終わっています。

第2画、第3画はキリスト教の、マリアへの受胎告知・イエスの誕生日に東方から三人の博士がやって来て礼拝した、という話と何やら似た話ですね。

何延瑞本のカラーの絵と家久本と、基本的に同じ構図の絵なんですが、日本で日本の画家、等林が描いたというだけで、微妙に違っているのも見所です。この等林という画家がどのような人なのか、というも良くわかっていない人のようです。

私は基本的に絵(がたくさん入っている)本が好きで、国富論の訳を選ぶ時も挿し絵がたくさんあるものを選んだり、一遍上人の絵伝『一遍聖絵(イッペンヒジリエ)』を読んだり(見たり)しているんですが、この『孔子画伝』も面白く読めました。

絵がたくさん入っている本が好きな人にお勧めです。

『古代中国の日常生活』-荘奕傑

8月 15th, 2022

一連の孔子関係の本を読んで、その頃の中国というのは、人々はどういう生活をしていたんだろう、と思っていたら、お誂え向きに図書館の『新しく入った本』コーナーにこの本が入ってました。

元の題は『24 Hours in Ancient CHINA』 という本で、このCHINAの所が、Athens, Rome, Egyptになる本と合わせて4冊のシリーズ本のようです。CHINA以外の本も翻訳されているかどうかはわかりませんが、とりあえずはCHINAだけあればOKです。(ネット調べたらローマとエジプトについては訳があるようです。と思って図書館で借りてみたら、エジプトの方はこのシリーズの本の訳ですが、ローマの方は別の本の訳が似たような題になったもののようです。)

著者は荘奕傑(ソウエキケツ)という人で、ケンブリッジ大学で考古学の博士号を取り、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの考古学研究所で中国考古学の准教授をしている人で、中国・東南アジアの古代史の専門家のようです。

舞台にしているのは紀元17年、前漢と後漢の間にはさまれた新という、王莽(オウモウ)の時代ですから、孔子の時代よりはかなり後になりますが、まだ古代ではあります。司馬遷の時代より100年位後になります。

この年のある日の24時間に、様々な仕事をしている人々が何を考え何をしていたかを1時間単位に24人登場させて、その社会を表現しています。

登場人物は、医者・墓泥棒・産婆・馬丁・主婦・青銅器職人・運河労働者・教師・織り子・墓の彫刻師・製塩職人・祭官・烽火台長・穀物貯蔵庫の管理人・伝書使・農夫・労役刑徒・レンガ職人・料理長・后付きの女官・史官・舞人・王女付き女官・兵士と、普通なかなか歴史の本には出てこない人達です。
とはいえ山ほどの資料の中から少しずつ情報を集めれば、それなりに当時の様々な人々の日常生活を描き出すことができるようです。

これらの人々が何を心配し、何に不満を持ちながらそれぞれの役割を果たしていたかを、活き活きと書いてあります。

孔子の時代はこれより数百年前の時代ですが、それでも孔子の時代を思い浮かべるのがかなりやりやすくなります。

この時代、まだ基本的には農業の時代で殆どの人は農民だったわけですが、それでもこれだけ様々な役割の人がいたということは改めて大変なことです。

ということで、孔子や論語を読む参考資料としてお勧めします。

不動産の登記

8月 3rd, 2022

クライアントの決算の作業が一段落して、懸案の不動産の登記をしました。

今住んでいるマンションを買って住宅金融公庫のローンを組んで、その後営々と返済を続けていたのが返済が終わって、取扱をしていた銀行からは抵当権をはずす登記が必要だ、という通知が来ています。

このローンは都合により2本に分かれており(固定金利の部分と変動金利の部分)、返済完了の時期も違っています。そのためそれぞれに返済の都度、銀行からは通知が来ています。普通はそのまま銀行に手続きをしてもらうなり、自分で司法書士を探して手続きをしてもらうなり、ということになるようですが、私としては不動産の登記というのはこんな事でもないとなかなか経験できないし、抵当権設定の登記は当面そのままにしておいても、マンションを売るとか新たに抵当に入れて金を借りるとか、そんな事がなければ別に差支えはないので、そのうち暇になったら自分で手続きをしてみようと思ってそのままにしていました。とはいえ、私が覚えている間にけりをつけておかないと面倒なことになります。

会社の解散・清算の手続きが終わり、そろそろこれに取り掛かろうかと思っていた時に、骨折やらなにやらでなかなか手につかなかったのですが、クライアントの3月決算の作業も一段落してようやくこれに取り掛かる事にしました。

まずは現状の登記の内容を確認するために法務局に行って全部事項証明書(いわゆる登記簿謄本)を取って見てみました。幸い自転車で数分の所にさいたま地方法務局があるので、すぐに取ることができます

また住宅ローンを完済した事を証明するための書類も銀行に頼んで送ってもらう必要があります。あとはネットでこの抵当権の登記の抹消の登記申請をするための書式と手続きについて調べました。

まずは2本のローンをまとめて一度に処理することができるかという事から分かりません。また所有者の私の住所が、住み始めてから今まで何度か変わっていて、登記簿の記載とは違ってしまっています。と言っても引っ越ししたわけではなく住居表示が変わっただけですが・・・。

登記は現住所で手続きしなければならないのに、登記簿には昔の住居表示で表示されています。で、銀行から必要書類が届いた所で財務局の相談窓口に電話して教えて貰うことになりました。この相談窓口もコロナ以降、対面の相談はなくなって、全て電話相談になっています。

まず2本のローンをまとめて一度に処理するというのはすぐにダメと言われ、それぞれのローンについて別々に登記申請書を作らなければならない、ということでした。ということは、登記費用も倍かかる、ということになります。

住所の問題は、まず区役所に行って、昔の住居表示が今の住居表示になった証明書を出してもらって、その住居表示の変更の登記申請書を作って、これを抵当権抹消の登記申請書と一緒に出すことが必要だ、ということでした。

区役所に行ってその証明書を出してもらったら、何と書類が3つも出てきました。
単にこれこれの住居表示が今ではこれこれの住居表示になっている、という証明書ではなく、

1. 与野市大字上落合〇〇番地を与野市上落合△△番地とする、という住居表示変更証明
2. 市の合併に伴い、与野市をさいたま市にするという証明書
3. 行政区を設置して、さいたま市上落合をさいたま市中央区上落合にするという行政区設置証明書

の3枚でした。

こうなると住所変更の登記の方も1枚で良いのか3枚必要なのか、ということになり、また電話相談で、登記申請書は1枚で証明書は3枚付ければいい、という確認をしました。

銀行から送られてきた書類には委任状が入っていて、私が住宅金融公庫改め独立行政法人住宅金融支援機構の委任を受けて登記の手続きをする、その私の住所氏名を書き加えよ、ということになっています。

またローン返済が終わった「抵当権解除証書」というのがあり、これこれのローンの返済が終わったということは書いてあるのですが、その抵当権を設定している不動産の表記の所は現状の登記簿の記載と合わないといけないので、自分で登記簿を見ながら書くように、と指示があります。

とは言え、登記簿の内容を全て書き写すわけにはいかないので、これについても電話相談で何をどう書けば良いか教えて貰います。

実は登記簿には不動産番号というのが付いていて、抵当権抹消の登記申請書などではこの13桁の番号を書けばほぼOKなので、これを使えるかと思ったら、この番号は登記関係でしか使うことができないので、抵当権解除証書では使うことができないので、登記簿からこれこれを書き移すように、と6個の項目を指定してもらいました。

2つのローンそれぞれに対する抵当権解除証書にこの項目を書き移し、必要書類を封筒に入れたり、登記申請書にホチキス止めをしたりして印鑑を押し、捨て印を押して、法務局に提出しました。8月2日に登記申請して、問題なければ8月18日に完了する予定です。

とりあえずこれが終わってヤレヤレです。

個人の戸籍関係の書類や会社の登記簿等の書類はこれまでも何度も見てきましたが、不動産関係の登記書類をちゃんと見るのは初めてのことなので、なかなか面白い経験ができました。

『孔子』-加地伸行 『孔子伝』-白川静 

7月 26th, 2022

この前書いた駒田さんの本が面白かったので、更に孔子の伝記の本を2冊読んでしまいました。
加地伸行さんの『孔子』と白川静さんの『孔子伝』です。

駒田さんの本が孔子の伝記というより、法家思想との関係・老壮思想との関係・エセ君子との関係というテーマ毎に書かれているので、全体を通じた孔子の生涯を読んでみたい、と思ったわけです。

加地さんの本は加地さんが大学を出る時に書いた卒業論文に対して、恩師の吉川幸次郎から与えられた3つの宿題の一つについて答案として書かれたものだということで、孔子が死についてどう考えていたが、ということがテーマになっています。

孔子の生涯を全て把握した上で、論語の言葉をどこで、どの時、どのような状況で、誰に対して語った言葉かを一つ一つ確認し、その上で孔子の生涯を描いています。若く血気盛んだった時の言葉と年老いてもう政治の第一線に立つことはないだろうと思ってからの言葉、自分の跡を託すつもりだった人々に次々に先立たれ、自らの生の終わりもすぐそこに見えるようになって語った言葉、それぞれに味わいがあります。

白川さんというのはあの『白川漢字学』の白川さんです。その白川さんの本は、その漢字の研究を通して中国の古代社会を明確に見すえ、その社会に生きた人物としての孔子の生涯を描いています。

この本、しょっぱなに次のような文章が出てきます。
『孔子の人格はその一生によって完結したものではない。それは死後も発展する。孔子像は次第に書き改められ、やがて聖人の像にふさわしい粉飾が加えられる。司馬遷がその仕上げ者であった。』
また『司馬遷は「史記」に「孔子世家」を書いている。孔子の最も古く、また詳しい伝記であり「史記」中の最大傑作と推奨してやまない人もあるが、この一篇は「史記」のうちで最も杜撰なもので、他の世家や列伝・年表などとも、年代記的なことや事実関係で一致しない所が非常に多い。』とも書いています。

孔子の生きた中国古代社会を明確に描くことにより、孔子の行動も語った言葉もまた味わいが違ってきます。周の封建制が終末に向かい、封建各国で下剋上で家臣が君主の権力を奪い取るいわゆる春秋の時代、国の枠をこえて集団で動いた盗(これは、『盗人』のことではなく、『政治亡命者』という意味のようです。)、あるいは群不逞の徒と呼ばれる集団、その例としての儒侠とか墨侠の集団の話(孔子軍団も墨子軍団もどちらもある意味大規模な任侠団体だった、ということ)。孔子の死後孔子の教えを継いだ荘子・孟子・荀子等の話。様々な流派の学者を斉の稷(ショク)門の近くに集め議論させた『稷下の学」の話。孔子の死後どのように論語ができたか、その過程で孔子の言葉がどのように広められ追加されたか、封建各国が互いに戦い合って国を大きくし合い、ついには秦による天下統一に至るいわゆる戦国の時代、韓非子の法家を指導原理とする秦帝国が亡びて前漢の武帝が儒教を国教としたことによって儒教の権威が確立されます。

孔子が周の周公を理想として立てたのに対して、墨家がその前に禹を立て、孟子がさらにその前に堯舜を立て、さらに道家がその前に黄帝を立てる、という『加上』の説の話も面白いものです。だとすると孔子にとって周公というのはいったい何だったんだろう、というのが今後論語を読むときの一つのテーマになります。

その後、辛亥革命による中華民国成立により儒教は過去の遺物のようなことになりますが、郭末若(カクマツジャク)により再評価され、それが中国共産党のいわゆる文革により自己批判をさせられ、その後いわゆる三人組の文革派が淘汰されて復活し、さらには天安門広場での共産党権による学生・市民の虐殺まで、この本はかなり幅広い時代を取り扱っています。

本文はさすがに学者の論文(純粋の論文ではないけれど、論文のような書き方です。)という形でなかなか歯ごたえがありますが、文庫本にはついている著者による『文庫本あとがき』(7ページ)、その後に付いている加地伸行さんによる『解説』(11頁)だけでも十分読む価値があります。

私は昔から悪い癖で、本を読み終わってから買うというのがあります。最近では本はもっぱら図書館で借りて読むことにして買う事は殆どないのですが、今回の一連の孔子関係の読書で結局4冊も買う事になってしまいました。と言っても全て文庫本の古本ですから大した費用ではありませんが。駒田さんの本、今回紹介した2冊は3つ共読み終わってから買う事になりました。加地さんの論語はまだ読み終わっていないで買った本です。いずれも再度再々度じっくり読んで楽しみたいと思います。

ということで、どちらもお勧めします。

『論語』 

7月 12th, 2022

前々回、孔子に関する駒田さんの本を紹介しましたが、この本を読んで、『論語』の読み方について専門の儒学者達がいかに好き勝手あるいはいい加減に論語を読んでいるか知り、これなら自分も自分勝手に読んでみようか、と思うようになりました。

『論語』については解説書や断片的な本はこれまでも色々読んでいますが、全体を読んだことはありません。で、『論語』全体を読んでみようか、と思い至りました。

となるとどの本を読むかですが、基本的に原文・読み下し文・現代語訳という3点構成になっているのは共通で、著名な中国語学者・中国文学者・中国哲学者による全訳はいくつも出ています。

この前の本の流れで、できれば駒田信二さんの本があれば良いのですが、どうもそのようなものはなさそうです。

となると次の候補は加地伸行さんの本です。
加地伸行さんというのは儒学者であり、仏教の専門家であり中国語学者であり、予備校で漢文の人気講師でもあった人で、儒教に関する解説書もいくつも書いている人です。

この人の『論語 - 全訳注』というのが講談社学術文庫から出ています。
文庫本542頁で、うち100頁弱が索引になっています。
漢字一字で検索できる『手がかり索引』26頁、良く引用される、例えば『朋(トモ)遠方より来たるあり』のような『語句索引』55頁、さらに『人名索引』5ページ。これだけ索引が付いていると有難いです。さらに本文中の注にはかなりの数の図が付いています。

で、この本を基本として読んでいこうと思うのですが、論語というのは孔子およびその弟子たちの断片的な言行録の寄せ集めですから、順番に読んでいく必要は全くありません。適当に開いてみて気にいった語句が出てきた所でその語句を紹介していこうと思います。もちろんその解釈にはいろいろ専門家の説もありますが、それはあくまで参考までということにして、自分勝手に解釈して自分勝手に気に入ったものを紹介していこうと思います。

で、その最初が『先行(まずおこなう)』という為政第二の第13節の言葉です。
節の全体は『子貢問君子。子曰、先行。其言而後従之。』で、読み下しは『子貢、君子を問う。子曰く、先ず行なう。その言や而(シカ)る後に之に従う、と。』となっています。
ここで『先行』で文を区切るのはどちらかというと少数派のようで、普通は『先行基言』で区切るようです。意味は言いたい事をまずやってみせて、その後で言葉で説明しろ、というような有言実行の主張のようですが、私の解釈は『まず動いてしまえ。説明は(言い訳は、理屈は、正当化は)後でどうにでもなる』です。こう読むことによって、聖人君子ではない行動の人、孔子の面目躍如となります。この言葉、なかなか気に入りました。

次は『無倦(うむなかれ)』です。
これは子路第十三の第1節の言葉です。節の全体は『子路問政。子曰、先之、労之。請益。曰、無倦。』で、読み下しは『子路、政を問う。子曰く、これに先んじ、これに労す、と。益さんことを請(コ)う。曰く、倦(ウ)むなかれ、と。』となります。子路が孔子に政について質問した。孔子の答は『先頭に立って行い、一生懸命やる事だ』。子路に、さらにもう一言、と言われて『あきずにやり続けろ。』と答えた、ということです。この『倦むなかれ』、なかなか味わい深い言葉です。

三つめに『父為子隠、子為父隠。(父は子のために隠し、子は父のために隠す)』という言葉で、子路第十三の第18節にあります。
葉公(ショウコウ)という殿様が孔子に向かって『自分の所には正直者がいて、父が羊を盗んだら子がそれを(父がやった、と)証言した』と自慢したのに対し、孔子は『自分の所では父が子のために隠し、子は父のために隠します。これが正直者です』と答えた、ということです。
この言葉、長い間イマイチ納得できなったのですが、最近の習近平やプーチンの行動を見ていて、ようやくなるほどそういうものか、孔子の生きていたのはそういう世界なんだ、と得心した次第です。

論語の言葉については今後とも気に入った言葉がみつかったら、随時少しずつ紹介していきたいと思います。

『太平記』

6月 30th, 2022

これは、私の読んだ新潮日本古典集成で、太平記第1巻から第40巻までが、太平記(一)から太平記(五)までの5冊にまとめられています。B6版で本文だけで2,000頁、各冊ごとについている目次・凡例・解説・付録(年表・系図・地図)を併せると2,500頁を超える大作で、とにかく大変でした。

『太平記』というと普通、いわゆる皇国史観のガチガチの物語で、後醍醐天皇という聖人君子の天皇と『七度生まれて朝敵を討つ』と言った忠臣の楠正成の物語だと思われていますが、この元々の太平記はまるで違います。

後醍醐天皇というのは確かに優秀で真面目で努力家だったのですが、一方、聖人君子気取りで実は現実がまるで見えていない人で、近くにいる人の言葉に簡単に振り回され、足利尊氏、新田義貞その他武士達のお蔭で鎌倉幕府を倒し天皇親政の体制を作った(第12巻)までは良いのですが、その体制作りに貢献した武士達に対する恩賞より、自分の近くにいる公家や女官達の縁者に対する恩賞ばかり優先させて、結局武士達の不満から足利尊氏がそのような武士を代表して後醍醐天皇と戦うことになる。これが『建武の乱』という、ということです。『建武の中興』というのは学校でも習う言葉ですが、『建武の乱』というのは初めて知りました。

楠正成というのも、湊川の戦いでいよいよ明日は討ち死にだという時に『本当はこんな事を言うのは罰当たりだけれどもそれを承知で、7回生まれ変わって朝敵の北朝方を滅ぼしたい』と言って(実はそれを言ったのは正成の弟の正季で、正成はそれに完全に同意した、ということになってますが)、念願かなって死んだあと、第六天の魔王の手下となって何度も足利尊氏の弟で、足利側のリーダーだった足利直義の夢に登場し、直義をもうちょっとで殺す所まで行ったけれど、残念ながら7回生まれ変わって・・の回数が終わってしまって念願を果たすことができなかった、ということになっています。

『第六天の魔王』というのは、比叡山の焼き討ちをしたり安土城を作って生きながら自分を神様にしてお賽銭を取ったりした織田信長の呼び名という位しか知らなかったのですが、この太平記では何度も登場し、例えば天照大神が自分の子孫を天皇にして日本を治めさせようとした時も、仏教が盛んになると日本が危うくなってしまう、と言ってそれに反抗し、結局天照大神が『自分は仏法僧の三宝には近づかないから』と約束し、それならということで第六天の魔王は天照大神の子孫をこの国の主として守っていく約束をした、なんて話もでてきます。(第16巻)

いつも武士同士の戦争の話ばかりではもたないので、間に中国の故事や日本の昔話、仏教経由のインドの説話なんかもふんだんに盛り込んでいて、日本では菅原道真が天満の天神様になる経緯なんかも詳しく解説しています。また恋物語もいくつも入っています。

話が戻りますが、後醍醐天皇というのは平気で嘘をつく人で、最初足利氏に京都を追い出された時に比叡山に逃げる振りをして、身代りを立て自分は吉野に逃げ、始めは本物だと思って熱烈に支持した比叡山の僧兵達を騙し、すぐにそれがばれて僧兵達をがっかりさせた、とか、また別の時、足利方に京を追い出されて比叡山に逃げ、味方する武士達も周りに集まっているのに、形勢不利だとなったら、味方をみんな置いてきぼりにして一人でこっそり抜け出して足利方に降参したり、という人のようです。その時も足利方のリーダーの足利直義に『まず三種の神器を渡せ』と言われて、前もって用意していた偽物を渡した、ということです。

南北朝の戦さでは南朝の天皇が北朝に降参したり、北朝の天皇が南朝に降参したりしています。その時、当然三種の神器を渡せということになるのですが、後醍醐天皇というのは頭が良いだけあってあらかじめそのような事態を想定して三種の神器の偽物をいくつも作っておいて、一組は自分の息子の一人に持たせて北陸の方に逃がし、場合によっては正当な天皇として即位させようとしたり、一組は自分が北朝に捕まった時に渡すように持っていて、さらにもう一組は捕まった後で逃げてもう一度南朝を立て直す時に自分自身の正当性の根拠として使う、なんてこともしたようで、こんな事をしたらどの三種の神器が本物かなんて誰にも分からなくなってしまいますから、結局天皇が『これこそ本物だ』と言って周りがそれを信じたらそれが本物だということになってしまいます。

三種の神器の話はやはり重大な話のようで、源平の戦いで安徳天皇と共に海に沈んだ三種の神器、鏡と玉はその後みつかったけれど見つからなかった剣が、何とこの南北朝の戦いの最中に壇ノ浦からはるばる海を渡って伊勢の海岸に流れ着いたなんて話も書いてあります。これについても本物かどうかという話になり、本物だと主張する公家と偽物だと主張する公家があり、どちらとも決められずに平野神社に預かって貰ったなんて話もあります。(第25巻)
あるいは、北朝の天皇が南朝に降参して三種の神器を渡したら、南朝の方は『こんなにせもの』と言ってそこらの家来用のものにしてしまった、なんて話もあります。

そんなこんなで最初は鎌倉幕府と後醍醐天皇の官軍との戦いだったのが、次に後醍醐天皇の官軍と足利将軍の戦いとなったわけですが、楠正成が死に(第16巻)、官軍方の代表である新田義貞が死に(第20巻)、後醍醐天皇が死に(第21巻)、足利尊氏の弟の足利直義が死に(第30巻)、足利尊氏が死(第31巻)んでしまうと、それでも全国各地で戦さは続いていくんですが、それはもはや南朝対北朝の戦いということではなく、地方の武士団同士の戦いで、その時相手が南朝方だとなったらこっちは北朝方になろう、相手が北朝方だったらこっちは南朝方だといった具合になっていき、もはや何のために南北朝が戦っているのか分からなっていきます。

最後に、後醍醐天皇の次の北朝の天皇である光厳院禅定法皇(光厳天皇)が、京を離れて伏見の奥の方に隠棲していたのですが、思い立ってお伴の僧を一人だけ連れて旅をします。
楠正成によって多数の北朝方の武士が殺された金剛山から高野山、そして南朝の天皇達が逼塞(ヒッソク)していた吉野まで訪ねて行きます。南朝の天皇方と涙の再会を果たした後、京の伏見の奥に帰りますが、そこでは宮中から使者が来たり他にも訪問して来る人も多かったのでめんどくさくなって丹波の山国という田舎に引っ込み、そこで亡くなります。遺体を京まで運ぶわけにもいかないので、天皇や上皇などがその田舎まで行って簡単に葬儀を済ませます。

これで太平記の世界は終わったようなものですが、戦はなかなか完全には終わらずもうしばらく続きます。しかしそれはもう付け足しのようなものです。

そして、二代目の足利義詮将軍も死んで三代目義満の時代になります。
南北朝の話もここで終わります。

何はともあれものすごく長い物語ですが、七五調の文語の文章はなかなかリズミカルで調子に乗ればスムースに読むことができます。

この本は『天皇ご謀反』という言葉がしょっぱなから出てきます。謀反を起こす方も、起こされる方も、これが謀反だ、天皇が時の鎌倉幕府に謀反を起こすんだ、ということを認識しているようです。
この言葉はなかなか新鮮です。

また、このような太平記がいつどのように皇国史観の話になったのか、これも興味のある話なのですが、今はまだ2000ページ読み切っておなか一杯、といったところですので、これについてはいずれ別の機会に、と思っています。

この新潮社の版は『注』の付け方も素晴らしく、楽しく読み進めることができます。

興味がある方は見てみて下さい。楽しめると思います。

『モーセと一神教』 フロイト著

5月 30th, 2022

この著者のフロイト、というのは、あの精神分析のフロイトです。フロイトがユダヤ人としてオーストリアのウィーンに住み、ナチスドイツがオーストリアを占領した年に書き始め、オーストリアを脱出してイギリスのロンドンに逃げ、その翌年癌で83歳で死亡する直前に出版した本です。

この本は
第一論文  『モーセ、一人のエジプト人』
第二論文  『もしモーセがエジプト人であったなら』
第三論文  『モーセ、その民族、一神教』
の三つの論文から成っています。

このモーセというのは旧約聖書の『出エジプト記』の、『十戒』の、あのモーセです。
ユダヤ教というのは『モーセの教え』と言われるほどのもので、ユダヤ民族のシンボルのような人ですが、この人が実はユダヤ人ではなくエジプト人で、その当時エジプトにいたユダヤ人たちを率いてエジプトを逃げ出し、文明的にまだ未開であった人々を指導し教育し、一神教を強制しユダヤ教を作り上げ、ユダヤ人を作り上げた、という話です。

ユダヤ人には『選民思想』といって、『自分達は神に選ばれた民族なんだ』という考えがあるのですが、これは実はモーセに選ばれたということで、ユダヤ教の神というのはモーセにより押し付けられた神で、実質モーセこそユダヤ教の神だったという話です。

第一論文は文庫本で約25頁、モーセが実はユダヤ人ではなくエジプト人だったんだ、という話をしているのですが、第二論文は約100ページ、さらにユダヤ教を作りユダヤ人を作ったのがこのモーセだったんだという話をし、第三論文は約200ページ、何故そのようになったのかということを、フロイト流の精神分析の考え方で解明しようとしています。

エジプトというのは多神教の世界なのですが、その歴史の中で一度、一神教だったことがあり、その時の王が死んだあとその一神教の痕跡は徹底的に抹消され、王の名前までツタンクアトン王がツタンクアメン(ツタンカーメン)王と変えてしまったくらいなのだけれど、その結果、その一神教の信者であったモーセはエジプトとにとどまることができず、自分の信じる一神教の教えを受け入れる民族を探し、まだ未開だったユダヤ人を引き連れてエジプトを出、シナイ半島に渡ったという話です。

このモーセの一神教はエジプトのものよりさらに厳格なものだったようで、さすがのユダヤ人も耐えきれなくなってついにはモーセを殺し、殺してしまってから自分たちをエジプトから連れ出し、今まで指導してくれた人を殺してしまった、というその罪に恐れおののいて、その痕跡を消し、その事実を民族の記憶からも消してしまいます。その後、残忍な火の神・火山の神であるヤハウェ神を神とする同族と一体化し、その力でカナンの地を征服しますが、その後何世代か経つ頃、忘れていたはずのモーセの記憶が預言者の言葉となってよみがえり、次第にヤハウェ神をモーセの神に変えていってユダヤ教・ユダヤ人が出来上がったという話です。

この『神殺し』の話には続きがあり、ナザレのイエスが殺された後、パウロがこのイエス殺しを『神殺し』と位置づけ、キリスト教徒はその神殺しの罪を認めたので宥されているけれど、ユダヤ人はこの神殺しの罪を認めていないので救われないんだという話、このイエスの死は実はアダムの原罪を贖うために必要だったんだということ、このイエスが殺された事により神の子イエスは父の神に代わって本当の神になった、ということ等が話されます。

この神殺し・父親殺しの話、また一旦完全に抹殺したはずのモーセ殺しがどのようにして復活したのかなどの話が、精神分析の立場から、個人の無意識が表面に出てくるプロセスを民族の集団的無意識に拡張していろいろ説明されています。

私は今まで聖書関係の本はいろいろ読んでいますが、聖書自体を全体通して読むということはしたことがなく、まとまった時間が取れるようになったら、と思って友人のお母さんの聖書をすでに譲って貰っています。これまでは単に全体を読んでみようというだけの事だったのですが、これで聖書を読むための方向性というか、一つの視点のようなものができたと思います。これでなおさら読むのが楽しみになります。

フロイトは、ユダヤ人としてナチスに殺されるのではないかという恐怖の中、この論文を発表することによりユダヤ人に殺されるかも知れないという恐怖が加わり、さらに自身の癌でいつ死ぬかも知れないということもあり、ある意味鬼気迫る書となっています。第1論文、第2論文は専門誌に寄稿したものですが、第3論文はあまりにも危険なので彼自身、発表しないでおこうかと思っていたのを、思いかけず、ナチスを逃れてロンドンに亡命してしまったので、がんで死亡する直前にこの第3論文を含めてロンドンで出版した、ということです。

とんでもない本にぶち当たってしまったな、と思います。でもこのような本に巡り合うことができて良かったなと思います。

ちょっと怖いような本なので、あえてお勧めはしませんが、紹介します。

『楽しい地層図鑑』 小白井亮一著

5月 17th, 2022

この本も図書館の『新しく入った本』コーナーで見つけた、2021年11月4日に発行された本です。
本文200頁ちょっとですが、ふんだんに写真が入っていて、それが全て著者の撮った写真だというので驚きです。

私はNHKの『ブラタモリ』というテレビ番組が好きで大抵見ているのですが、この番組では地層や岩石の話題が良く出てきます。その内容は何とか理解できる程度のものですが、一度きちんとした本で私の理解を整理していたい、と思っていたのでお誂え向きの本です。

著者紹介では『1960年東京都生まれ 1986年3月千葉大学大学院理学研究科(地学専攻)修了 国土地理院にて測量・地図作製や災害対応の業務に携わり、2021年3月退職 趣味で関心を持ち続けてきた“石の世界(地層・化石・岩石・鉱物のこと)“について興味深く分かりやすく伝える執筆活動を始める。』とある、まさにその通りの本です。

第1章では地層がどこにどのようにあるか、地層の見つけ方と、様々な地層を紹介しています。
第2章ではその地層を作る岩石がどのようにでき、地層がどのようにできたか説明があり、第3章ではその地層で化石がどのようにできたかを説明しています。

本文の説明も丁寧で分かりやすいのですが、それに加えて付いている写真や図が非常に綺麗で、この写真を見ているだけでも飽きないで読むことができます。

基本的に自分で撮った写真ですから、ちょっと分かりにくい所は『この写真の左下の部分を拡大したのがこの写真で、ここの左下に○○が良く見えます』とか、『この写真をもっと範囲を拡大するとこの写真になって、全体が良く分かります』なんてことが自由にできます。

写真の大きさの基準として、地層を見に行くときに持って行くハンマーやカメラのレンズなどを写真に写しこんだりして、画面の大きさが分かるようにしています。

第3章では地層がどのようにできるのか、その地層のできた時代の新旧をどう判断するか、時代の前後関係だけでなく、具体的に何万年、何億年前の地層だ、というのをどのように判断するか、説明があります。この中で、話題のチバニアンについても説明があります。

また著者が化石や地層に興味を持ち、とはいえ高校生までは電車に揺られて銚子まで日帰りで行くのがやっとだったのが、大学に入ってもっと長距離長期間遠征ができるようになり、北海道から沖縄まで化石や地層を探して歩き回った時のエピソードも紹介しています。

付録にはプレートテクトニクスで地球の地殻がどのようにできたのか、特に日本ではプレート同士がぶつかり合って沈み込む時、プレートの上に乗っていた陸地が削り取られてグチャッと潰されて反対側のプレートの端に付加体として追加され、それが陸地の隆起地表に現れているのですが、その時に地層がどのように変化するかというあたりも説明しています。

日本はいくつものプレートがぶつかり合ってできていて、その上に乗っている陸地が隆起して浸食を受けたり、溝の中に沈んでいろんなものが積もったり、火山灰や火山礫(レキ)が降り積もったりというようなダイナミックな姿が丁寧に説明されています。

また第3章では地層とそれができた年代の名前と、それが何万年何億年前のものなのかという年代についても、まず地層があってそれに名前がつき、それができた年代もそれに合わせて名前が付いているということも丁寧に説明されています。

著者はもともとは化石から次第に地層に関心を持ち、日本国中の地層を尋ね歩いて写真を撮り、それを整理して本にしている、その過程を本当に楽しんでいることが良くわかる本です。

単なる写真集としても十分楽しめます。
お勧めします。