『武玉川 とくとく清水』田辺聖子

10月 26th, 2022

開架式の図書館の良い所は思いもかけない本が目に飛び込んでくることで、この本はオクさんのために軽い読み物を借りていってやろうと見ていてたまたま見つけたものです。

武玉川(ムタマガワ)というのは江戸時代、川柳の柳多留(ヤナギダル)が出版される15年ほど前に、俳諧の連句の中から、前句と切り離してその句だけで味があるものを取り出した句集です。

連句というのは五七五の発句から始まって、五七五には七七の句を、七七には五七五の句を付けていき、20句とか100句とかいろいろな数の句を並べた所で、最後のあげ句に至るという言葉遊びですが、その中から面白い句を選び出しているため、五七五の句も七七の句も入っています。

その中からさらに面白そうな句を取り出し、著者の田辺聖子がコメントをつけるというか解説をしているものです。もともとの武玉川は数百の句がずらっと並んでいるだけのものなので、一つ一つじっくり読んでいくならそれも面白いんでしょうが、この田辺聖子の本はそれをされに選りすぐり、好き勝手な感想を述べているもので、読むほうも好き勝手に面白がることができます。

川柳というのはこの俳諧の連句の練習のため、選者が七七の句をお題として出し、それに付ける五七五の句を募集し、その中から面白いものを集めたものです。

武玉川は連句の中から句を抜き取っているので、それぞれの句にはそれを付ける前句があります。もともとはその前句とそれに付ける付け句の付け方の面白さを楽しむものだったのが、付け方より付けた結果の、付け句自体の面白さを楽しむということで、武玉川の句集ができたようです。そのため本来は付け句集としてそれぞれ前句も明らかにして、この前句にこの付け句、とする所、思い切って前句を端折ってしまい、付け句だけを集めて出版したということです。

五七五の世界はそれなりに面白いのですが、さらに短い七七だけでこんな句もありか、という面白さがあります。七七の句はなかなか目にしないので楽しめました。

川柳というのはそれなりにかっしりしているのに対し、この武玉川の方は七七の句も五七五の句もどちらもゆったりと余裕のある面白さでした。

新書で気軽に読めるのでお勧めです。

『イスラームの論理と倫理』中田考・飯山陽

10月 20th, 2022

前回の『イスラム教の論理』に続いて飯山さんの本をさらに3冊読みました。
2冊目は『イスラム2.0』という本、次に『イスラム教再考』、4冊目がこの『イスラームの論理と倫理』という本で、この本だけ飯山さんと中田さんの共著という形になっています。

出版の順番は4番目に読んだ『イスラームの論理と倫理』が3番目で、その後『イスラム教再考』が出版されています。

『イスラム2.0』というのは『イスラム教の論理』でも書いてあった、インターネットの世界になって誰でもコーランやハディース等の原典に直接アクセスできるようになり、またいろんなイスラム法学者の発言にも簡単にアクセスでき、信者どうしもSNSで交流することができるようになった状況をコンピュータのOSになぞらえて、『それ以前のバージョン1.0がバージョン2.0にアップグレードされたんだ』と表現し、その結果世界各地のイスラーム教国家がどのように変化しているのかという報告です。

これに引き続く『イスラームの論理と倫理』では飯山さんと日本のイスラム学界の権威とされる中田考さんの対話という形になっています。

最後の『イスラム教再考』ではこれに引き続き飯山さんが日本のイスラム学界の人々を次々にヤリ玉に上げていきます。イスラム学界の人でなくても、池上彰さんや『現代の知の巨人』の前ライフネット生命の社長・会長の出口さんまで何度も登場してヤリ玉に上がっているのもご愛敬です。

で、この『イスラームの論理と倫理』ですが、本の扉には『妥協を排した書簡による対話』となっていますが、実際のところまるで対話になっていません。

飯山さんがそれぞれのテーマについて真面目に考察し、日本として日本人としてどのように考えたら良いのか検討するのに対し、中田さんは業界の権威であるという立場から飯山さんを徹底的に見下すように自分勝手な議論を展開し、殆ど誰も知らないようなことを書き散らしていかに自分が何でも知っているかみせびらかし、飯山さんのことはあくまで『飯山さん』と言って素人扱いしています。

飯山さんはさすがに中田さんを常に『中田先生』と言ってはいますが、その代わり最後の書簡では『「往復書簡」における中田先生の文章は晦渋さと曖昧さに満ち、冗長で要を得ません』と明確に言ってのけています。念押しに『この中田さんの文章を分かったふりをする必要はありません。・・・曖昧な文章はどこまでいっても曖昧であり、それを分かることなどできないのです。』とまで言っています。

中田さんの方は最後の書簡でもその前の続きのコロナウィルスに関する話を延々と繰り返し、何とかしてそれを反日・反米に結び付けようとしています。

ということで、他に例を見ないような『対話』ですが、中田さんがいかに議論をずらし、捻じ曲げて自分を偉く見せようとしているか、イスラム世界の話をいかに反日・反米につなげるか見てみようと思う人には楽しめると思います。

飯山さんはこの本と、続く『イスラム教再考』でイスラム学界のほとんどの人をヤリ玉にあげるというとんでもない喧嘩をしている人ですから、いろんな人にからんで人気を博しているひろゆき氏がちょっとちょっかいを出したくらいじゃ相手にならないのは当たり前ですね。

あくまで論理的な飯山さんの議論と、山ほど知識はあるものの論理的な思考ができず、その知識をひけらかしながら駄弁を弄し、情緒的に反日・反米をたくらむ中田さんの対比を楽しみたい人にお勧めします。

これで飯山さんの本を4冊読み、残りは2冊。
アラブの春の下でエジプトのカイロで暮らした体験記の『エジプトの空の下』と最新刊の『中東問題再考』です。最新刊の方は順番が回ってくるのに半年以上かかりそうな塩梅ですが、『エジプトの空の下』の方はもうすぐ借りられると思います。楽しみです。

『イスラム教の論理』飯山陽

10月 12th, 2022

この本の著者の飯山陽(イイヤマアカリ)さんは、ツイッターの投稿や虎ノ門ニュースでの発言を見ていてなかなか面白いなと思っていたのですが、あの2チャンネルを作ったひろゆき氏がネット上でこの飯山さんにいちゃもんをつけ話題になっていたので、この際飯山さんの書いた本を読んでみました。

図書館で在庫のあった6冊に予約を入れ、すぐに借りられた3冊のうち最も早く出版されたのがこの本で、まずはこの本から読んでみました。

読んですぐ『こんなことを書いてしまったのか』とびっくりしました。多分イスラム教を真面目に勉強したらすぐに分かることだけれど、従来、絶対に言ってはいけないとされていたことを平然とあからさまに書いてしまった、ということです。

案の定、飯山さんはイスラム教学者や中東問題の専門家たちからはコテンパンに非難・攻撃されたようです。

専門家たちに総スカンにされて平然と反論し続けてきた人ですから、聞きかじりの知識でいちゃもんをつけてきたひろゆき氏がかなうわけがありません。簡単に反撃され、目隠しにひろゆき氏はさっさと沖縄にわたって反基地運動の座り込みと称している場所に行ってネットを炎上させ、飯山さんに負けたことから見事に逃げおおせています。

で、飯山さんの言っているのは何かというと、イスラム教の前提となるのは『人はすべて神の奴隷であり、すべて神の命じるままに行動しろ』ということで、この神の命令には『人は正否の判断をすることができないので、無条件で従うのみだ』ということです。これまで一般のイスラム教徒にははっきりと示されなかったことがインターネットの発展により、イスラム教徒がコーランやその他の情報に直接アクセスできるようになり、またアラビア語で書かれ多国語に翻訳することが禁止されているコーランを、ネット上で好きなように自国語に翻訳して読むことができ、SNS等で自分の近くにいるイスラム法学者だけでなく他の人の意見も見聞きすることができるようになり、『イスラム国』などはその状況をフルに活用して様々な情報を動画で世界中にバラ撒いているということです。

この本の題名の『イスラム教の論理』に使われている『論理』という言葉も重要です。イスラム教というのは非常に論理的な宗教で、根拠となるのはコーランとムハンマド(マホメット)の言行録であるハディースのみで、あとはすべてこれから論理的に引き出してくるものです。キリスト教のカトリックでは法皇という神の代理人がいて、判断に迷ったときは正しく判断してくれる、ということになっているんですが、イスラム教ではムハンマドが最後の預言者だということになってますから、何が正しくて何が正しくないか判定してくれる人はもはやいないということです。

もちろん『イスラム国』がやっている戦争や自爆テロや女性虐待や異教徒の虐殺など一般的にとんでもないと思われていることも、論理的には正しい、ということになります。すなわち上記の前提となる考え方から論理的に引き出されてくるものだ、ということです。

これは確かに論理的に正しいのですが、感覚的に受け入れられないことを論理的に認めることができる人があまり多くない、ということかもしれません、論理の前提となる考え方が違うだけなんですが、論理だけで考える、というのはなかなか難しいのかもしれません。

例えばこの本には『働く女性は同僚男性に5口の母乳を飲ませよ』という話があります。職場でセクハラを防ぐために擬制的に自分が同僚男性の乳母であるかのようにしてしまうことにより、コーランに従ってセクハラができないようにしてしまう、という話です。こんなところまで論理的に説明してしまうのか、とあきれてしまいます。キリスト教にも『針の上で天使は何人踊れるか』という話があります。こちらは単なる絵空事の議論ですが、イスラム教のほうは現実的な議論です。

この飯山さんの本を読みながら思い出したのが、キリスト教のプロテスタントの宗教改革と新教・旧教の宗教戦争です。

西洋のルネサンスでグーテンベルグの活版印刷の技術が普及・発展し、まず大量に出版されたのが聖書で、それまで教会に独占されていて教会で神父の説教の時に断片的に読み聞かされるだけだった聖書が、ちょっとした金持ちなら自分で買って自宅で自由に読むことができるようになったということ、それによって信者が直接神と結びつくことが可能になったこと、また宗教戦争の時はアジビラを印刷して大量にバラ撒くことが可能になり、もちろんそれほど識字率は高くなかったとしても、居酒屋で字の読める者がそのアジビラを読み上げて他の人が聞くという形で情報が急速に拡散していくことが可能になったという状況、これらは上記の、ネットの発達でイスラム教の原理主義が急速に発展した事と何やら良く似ていると思います。

キリスト教の新教・旧教の戦争ではヨーロッパ中でお互いに殺し合いが何百年か続き、お互いにくたびれ果てて殺し合いは少なくなったようですが、今回のイスラム教とそれ以外の宗教あるいは無宗教との戦いも何百年か殺し合いが続くんでしょうか。やっかいな話ですね。

ということで、イスラム教に関するきちんとした説明です。とはいえ、とことん論理的な思考、というのはなかなか抵抗があるかもしれませんね。

お薦めします。

「詐欺メール」

9月 28th, 2022

私の使っているメールアドレスには毎日100通くらいのメールが来ます。とはいえ実質的に必要なメールは数通くらいで、残りは念のための連絡メール、DM等の不要メール、そして詐欺メールです。

不要メールについては即座に削除するのですが、詐欺メールについてはそれ用のフォルダーを用意し、そこに放り込むことにしています。

ひと頃大はやりだったものは、『オマエのPCを数か月前から乗っ取っている。オマエのPCのすべてを乗っ取っている証拠にこのメールの送信者を見ろ。オマエの名前とオマエのメールアドレスになっているだろう。オマエがネットでいかがわしいサイトを見ながらいかがわしい事をしている所を画面とPCのカメラで撮影して記録を取っている。これをばらまかれたくなければ〇〇ドルをビットコインで送金しろ。何しろオマエのメールソフトも乗っ取っているから、オマエの普段メールのやり取りをしている人達のメールアドレスもこっちはちゃんと抑えてあるんだぞ。オマエが48時間以内にそれだけ送金すればすべての記録を削除し、今後迷惑をかけない。今後はPCを乗っ取られないように注意しろ。』というような内容のものです。

このタイプの詐欺メールもメール文面の日本語も今ではかなり洗練され、違和感のない日本語になっています。この送信者名や送信者のメールアドレスというのは結構簡単に好きなように書くことができるものです。このタイプの詐欺メールは、文面の日本語のおかしな所と要求している金額の変化を見ながら楽しんでいました。

このタイプのメールは近頃では殆ど来なくなり、代わりに来ているのがクレジットカードの登録内容の確認を求めるメールや、インターネットの各種サービスの登録内容の確認を求めるメールです。登録内容がおかしいとか、不正に使われた形跡があるとか、このままではサービスが使えなくなるとかいろいろ言って、文中に埋め込んであるリンクを押して相手のサイトに誘導しようとするものです。特にしつこいのが『Amazon』と『えきねっと』です。

手を変え品を変え、このままではサービスが停止されるので確認しろという文面のものがいろいろ来ます。差出人の所には『Amazon』とか『えきねっと』とか尤もらしい名前が入っています。でもそのメールアドレスを見るとたいていが最後が『.cn』になっていて、中国のアドレスになっています。どうせやるならもっとちゃんとやれよな、と思うのですが、たぶん差出人名は見てもメールアドレスを見る人はあまりいないという事でしょうか。そこまできちんと対応しているものはあまりありません。

一つ面白かったのは『えきねっと』というのは『eki-net.com』というアドレスが本物のアドレスのようなんですが、これを真似て『eki-net.com.jp』などというアドレスも使ってありました。まあ殆どは『.cn』のアドレスですが。

こちらとしては毎日100通近いメールを削除したり別フォルダーに移したり手間をかけているんだから、詐欺メールを送りつける方ももう少し真面目にちゃんとやってもらいたいと思ったりもするんですが、先方はそんな所には手間をかけてもしようがない、そんな所を気にするようなヤツはほとんどいない、という事でしょうか。

「古代ローマ人の24時間」―アルベルト・アンジェラ

9月 16th, 2022

以前紹介した「古代中国の日常生活(原題は古代中国の24時間)」の続きで、図書館で検索したら古代中国の他にエジプトとローマがヒットしました。

エジプトの「古代エジプト人の24時間」は中国の「古代中国の日常生活」と同じ24時間シリーズの中の1冊で、時代は3500年前ということなので、年代的にはかなりさかのぼりますが、「古代中国の日常生活」と同様、1日24時間の1時間ごとに別々の人物を登場させ、その人が何を考え・何を悩みながらどんな仕事をしているか、紹介しています。「古代中国の日常生活」と違って、このエジプト編では前の方の話で登場した人物が後の方で主人公として登場したり、あるいは前の方の話で主人公だった人物が後の方で登場人物となったりしています。

同じ古代といってもかなり年代が違っているはずなのに、墓盗人が登場したり、墓作りが登場したり、また王妃やその使用人が登場したりして、エジプトと中国は良く似ています。

これに対してこのローマの方の話はこの24時間シリーズの本ではなく、「古代ローマの一日―その日常生活、謎、魅力」という原題の翻訳のようで、とはいえ時代設定が西暦115年ということで、24時間シリーズの中国の分とほぼ同じです。

本の内容は24時間シリーズと同様、ある1日の朝から夜までの1日を描写しているのですが、24時間シリーズでは1時間ごとに様々な仕事・立場の別々の人を主人公として、その人が何を考え・何を悩みながら仕事をしているかを書いているのですが、この「ローマ人、、、」の方はむしろローマという都市の様々な場所に注目し、その場所でその時何が行われているかを描写しています。

著者はタイムトラベラーとなって西暦115年のローマに行き、そこで丸1日街のいろんな所に行き、いろんな生活を見物します。

夜明け前ローマの街中を歩き、防火隊の夜回りを見たあと、次に金持ちの大邸宅を見て奴隷たちが働き始めるのを見、主人達家族が朝の身支度をするのを見物します。ローマ式の服の着方や女性のヘアスタイルなども説明してくれます。朝食のあと、朝の表敬訪問で多くの人々が邸宅を訪ねてくる様子を見せてくれます。ここで著者は急に上空に舞い上がり、空の上から明けていくローマを見渡します。雲の中から七つの丘が浮かび上がり、次第に光が届き始め、大きな建物が現れ、街が見えてきます。ローマという街の地理的成り立ちが説明され、その後また街に降り立ち街歩きを始めます。著者は多くのテレビ番組の制作をしていた人のようで、視点の取り方がいかにもテレビのドキュメントのようです。

大邸宅のあと、著者は理髪店を通り過ぎて集合住宅に移ります。一階は商店、二階は邸宅を構えるほどではないとしても金持ちが住んでいますが、三階以上は違法建築のような好き勝手に建て増し増築を繰り返し、また貸しにまた貸しを繰り返した、文字通りスラムになっていて、一階には汚物入れの桶が置いてあり、上の階から毎朝トイレ用の桶をそこまで運んで中身を捨てるようになっているにも関わらず、そこまで運ぶのが面倒くさくなると上の階の窓から中身を通りにブチまけるという、花の都パリと同じようなことをやっていたようです。

次に著者は市場に行き、家畜市場から奴隷市場、路上の学校・神殿・書店・裁判所・元老院、コロッセウムでの公開処刑・剣闘士の対決などなどを見た後、夜になって大邸宅の宴会に紛れ込みます。ここで皆で寝そべって飲食をするローマ流の宴会のやり方の説明があります。最後は真夜中、人通りのなくなった通りを歩きながら、人々がどこでどのように寝ているかという所で1日が終わります。公衆トイレ・公衆浴場・商店・飲食店(バール)にも立ち寄り、人々が何をしているのか説明があります。

商店の所ではローマでは両手の指で4桁の数字をすべて表すことができたということで、図入りの説明があります。いくら何でもそんな事無理だろうと思っていたのですが、図を見て納得です。左手の中指・薬指・小指で1の桁の9個の数字を表し、親指と人差し指で十の桁の9個の数字を表し、右手の中指・薬指・小指で百の桁の9個の数字を表し、親指と人差し指で千の桁の9個の数字を表す。このようにして両手の10本の指で4桁9999までの数字を表すことができるというあんばいです。

公衆トイレの構造や用を足したあとの始末の仕方(ある意味、実質的に水洗トイレになっています)、公衆浴場の構造や入り方、コロセウムでの競技の様子など、さすがにテレビに携わる人ですから非常に具体的に説明してくれます。

前のエジプトや中国の24時間シリーズの本と違うのは、ローマはやはり世界的帝国で帝国の外や周辺の多くの国・地域から人や物を集めることによって成り立っている国で、道を歩く人も人種・民族、その他多種多様で、それがローマという大して広くもない都市に集中してごった返しているという姿です。

このような姿は塩野七海さんの「ローマ人の物語」や他のローマの解説書ではなかなかお目にかかれないものです。

それほど多くはないのですが、所々にいくつもの絵も付いていて、なかなか楽しめます。

文庫本で、本文だけで540頁とちょっと大部な本ですが、興味のある人にはお勧めです。

PC移行

8月 23rd, 2022

私が今メインで使っているPCはWindows8.3のPCなんですが、近頃『Windows8.3のサポート期間終了のお知らせ』というメッセージが出るようになりました。とはいえ終了は来年の1月ですからまだ十分時間的余裕があるというか、そろそろ準備を始めなければというか、微妙なタイミングです。

今の所お金を貰ってコンサルティングをしている以上新しいPCを買うかな、としたらどんなものにしようかな、と思ってフト気が付いたら、2年前、会社を閉めるとき、こんなこともあろうかと思って、新しいPCを会社のお金で買って用意していたことを思い出しました。

その新しいPCはMacのPCでその上でWindowsを走らせる事ができるようにしてあるもので、これを使ってMacPCの経験もすることができるしWindowsの移行もできると思っていました。

その後会社を閉める作業と大宮にオフィスを用意して引っ越しをする作業に予想以上に手間取り、それが一段落した1年前から、ようやく暇を持て余すようになったので新しいPCで遊んでみようかと思っていたら、足の骨折と個人事業の確定申告・修正申告・経理システム作りに手間がかかって、新しいPCはe-Taxの申告書作りと虎ノ門ニュース視聴専用のようになってしまい、それ以外はこれまで使っていたWindows8.3のPCをもっぱら使っていました。

で、Windows8.3が使えなくなるということになると、ほぼ自動的に新しいPCを用意してそこにWindowsの10あるいは11を入れて、その他のソフトも新しいPCに移行して、と考えていたのですが、新しいPCが既にあるということになると、じゃあそのPCに今のPCから必要なものを全て移行しようかと思って、その作業のリストアップを始めました。

インターネットのブラウザとメールは当然移さなければならないんですが、他にもファイル転送のffftpとかdelphiの開発環境や、今いろいろいじくって遊んでいるPython関係などいろいろあるな、まあ時間がかかるけど1つ1つ移していけば何とかなるか、と思っていました。

ブラウザは、以前はFirefoxを使っていたのですが、いつのまにか試しに使ってみたgoogle chromeの方で殆ど作業しているのでそれを移そうかと思ったのですが、移行に必要な設定ファイルを見てみたらとてつもないボリュームのファイルとなっていて、chromeは一体何をやっているんだろうと思い、この際昔使っていたFirefoxに戻すことにしました。

メールは以前からThunderbirdを使っていて、新しいPCにも試しにいくつかのアカウントを設定してのですが、これに今使っている他のメールアドレスのアカウントを追加することにしました。この機会に今は殆ど使っていないアカウントは新しいPCには入れないことにしました。

ffftpは新しいPCには同じソフトの最新のバージョンをインストールして使うことにしたんですが、新しいPCでアカウントを設定する所でそれぞれのアカウントのパスワードを再確認して改めて入力しなければなりません。と思ったら、こちらも設定ファイルをコピーするだけで一発で移行作業が終わりました。

ブログの更新はブラウザ上で行っているので、特に移行作業は不要です。

で、他のソフト等ですが、良く考えてみたら別に新しいPCに移さなくても今までのPCで作業ができないわけじゃないし、入出力で必要な場合は新しいPCと今のPCでUSBメモリーでファイルをコピーして受け渡しすれば良いじゃあないかと思いついて、これで行くことにしました。これで今まで溜め込んでた有象無象のデータはそのまま今のPCとその外付けハードディスクに残して、必要に応じて新しいPCにコピーすれば良いし、最後に仕事を辞める時が来たらPCごと全て消去すれば良いと思いつきました。PCを使ったいろんな作業でdelphiを使っているものは今まで通り今のPCでやれば良いし、これでかなり気が楽になりました。

勿論このやり方は一時しのぎの時間稼ぎの先延しでしかないのは分かっていますが、私自身いつまで今のまま仕事を続けるか、続けることができるのかも分かりませんので、ここはこれが正解かなと思っています。一時しのぎでしのぎきれなくなったらその時はその時です。

まあその時にはPCの移行なんてしんどい作業をする気力はもう残っていないでしょうから、その時は全て捨てるということになるんでしょうね。そう思ったら何やらその日が待ち遠しいような気になりますね。

『孔子画伝』加地伸行

8月 16th, 2022

孔子が死に、司馬遷が史記を書いて孔子の伝記を記述し、それを元にその伝記の様々な場面を絵にするということが始まり、断片的な絵ではなく、孔子の生涯を通した絵による伝記、すなわち『絵伝』が作られるようになり、それが『聖蹟図』と呼ばれるようになったようです。種々様々な聖蹟図が作られたようですが、その一つに何延瑞(カテイズイ)という人の作ったものがその後マネされて流布したようです。絹の布にカラーで描かれたものですが、それを元に1500年代に薩摩の島津家久が日本の画家にカラーで描かせたものもあるようです。

これは現物は見つかっていないけれど、それの白黒写真を日本で出版した物が残っているようです。また、なくなったと思われた『何延瑞本』を元にした絹本が孔府で見つかったということです。

で、この本ではこのカラー版の何延瑞本と白黒の家久本の図像に加地さんが解説を加え、適宜その他の聖蹟図からの画像も加えています。

2ページ見開きでカラーの何延瑞本の画を写し、次の2ページで家久本の画とその他の画、そして加地さんの解説という4頁1単位の構成です。

この本は加地さんの『孔子』でも文庫版あとがきで、『この「孔子画伝」を本書と併せて読んで頂ければ幸いである。』と紹介しています。

画伝は基本的に史記の孔子伝によっていて、他に様々なものから題材を取っていて、ほとんどが今までの孔子関係の本で既に読んだものですが、初めて見るものに一つ、『丘陵の歌』というものがありました。流浪の果て、最後に魯国に帰る時に、孔子が生涯を顧みてこの歌を作ったという事ですが、孔子が作った歌というものは初めて見ました。

4字×16句(あるいは(4字+4字)×8句)といった形のもので、孔叢子(クゾウシ)という本に載っているもののようです。長年がんばってきたけれど、なかなかうまく行かなかったなあ、というようななかなか味わい深い歌です。

全体の構成は
 第1画 孔子の母親が尼山に向かって子供ができるよう祈る
 第2画 母親のところに麒麟がやってきて、生まれて来る子は王になる、と
     お告げを告げる
 第3画 誕生日には5人の神仙と2匹の龍が現れる

から始まって

 第35画 孔子の死後、弟子達は墓の近くで3年(実質2年)の喪に服し、子
      貢だけはその倍の6年(実質4年)の喪に服した。
 第36画 その後、戦国時代を経て秦が天下を統一し、始皇帝の死後、項羽と
      劉邦が秦を倒し、最終的に劉邦が勝って漢帝国をつくり、その初
      代皇帝高祖(劉邦)が旅の途中孔子の廟に立ち寄って羊・牛・豚
      を一頭ずつ捧げて盛大に祀った、
という場面で終わっています。

第2画、第3画はキリスト教の、マリアへの受胎告知・イエスの誕生日に東方から三人の博士がやって来て礼拝した、という話と何やら似た話ですね。

何延瑞本のカラーの絵と家久本と、基本的に同じ構図の絵なんですが、日本で日本の画家、等林が描いたというだけで、微妙に違っているのも見所です。この等林という画家がどのような人なのか、というも良くわかっていない人のようです。

私は基本的に絵(がたくさん入っている)本が好きで、国富論の訳を選ぶ時も挿し絵がたくさんあるものを選んだり、一遍上人の絵伝『一遍聖絵(イッペンヒジリエ)』を読んだり(見たり)しているんですが、この『孔子画伝』も面白く読めました。

絵がたくさん入っている本が好きな人にお勧めです。

『古代中国の日常生活』-荘奕傑

8月 15th, 2022

一連の孔子関係の本を読んで、その頃の中国というのは、人々はどういう生活をしていたんだろう、と思っていたら、お誂え向きに図書館の『新しく入った本』コーナーにこの本が入ってました。

元の題は『24 Hours in Ancient CHINA』 という本で、このCHINAの所が、Athens, Rome, Egyptになる本と合わせて4冊のシリーズ本のようです。CHINA以外の本も翻訳されているかどうかはわかりませんが、とりあえずはCHINAだけあればOKです。(ネット調べたらローマとエジプトについては訳があるようです。と思って図書館で借りてみたら、エジプトの方はこのシリーズの本の訳ですが、ローマの方は別の本の訳が似たような題になったもののようです。)

著者は荘奕傑(ソウエキケツ)という人で、ケンブリッジ大学で考古学の博士号を取り、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの考古学研究所で中国考古学の准教授をしている人で、中国・東南アジアの古代史の専門家のようです。

舞台にしているのは紀元17年、前漢と後漢の間にはさまれた新という、王莽(オウモウ)の時代ですから、孔子の時代よりはかなり後になりますが、まだ古代ではあります。司馬遷の時代より100年位後になります。

この年のある日の24時間に、様々な仕事をしている人々が何を考え何をしていたかを1時間単位に24人登場させて、その社会を表現しています。

登場人物は、医者・墓泥棒・産婆・馬丁・主婦・青銅器職人・運河労働者・教師・織り子・墓の彫刻師・製塩職人・祭官・烽火台長・穀物貯蔵庫の管理人・伝書使・農夫・労役刑徒・レンガ職人・料理長・后付きの女官・史官・舞人・王女付き女官・兵士と、普通なかなか歴史の本には出てこない人達です。
とはいえ山ほどの資料の中から少しずつ情報を集めれば、それなりに当時の様々な人々の日常生活を描き出すことができるようです。

これらの人々が何を心配し、何に不満を持ちながらそれぞれの役割を果たしていたかを、活き活きと書いてあります。

孔子の時代はこれより数百年前の時代ですが、それでも孔子の時代を思い浮かべるのがかなりやりやすくなります。

この時代、まだ基本的には農業の時代で殆どの人は農民だったわけですが、それでもこれだけ様々な役割の人がいたということは改めて大変なことです。

ということで、孔子や論語を読む参考資料としてお勧めします。

不動産の登記

8月 3rd, 2022

クライアントの決算の作業が一段落して、懸案の不動産の登記をしました。

今住んでいるマンションを買って住宅金融公庫のローンを組んで、その後営々と返済を続けていたのが返済が終わって、取扱をしていた銀行からは抵当権をはずす登記が必要だ、という通知が来ています。

このローンは都合により2本に分かれており(固定金利の部分と変動金利の部分)、返済完了の時期も違っています。そのためそれぞれに返済の都度、銀行からは通知が来ています。普通はそのまま銀行に手続きをしてもらうなり、自分で司法書士を探して手続きをしてもらうなり、ということになるようですが、私としては不動産の登記というのはこんな事でもないとなかなか経験できないし、抵当権設定の登記は当面そのままにしておいても、マンションを売るとか新たに抵当に入れて金を借りるとか、そんな事がなければ別に差支えはないので、そのうち暇になったら自分で手続きをしてみようと思ってそのままにしていました。とはいえ、私が覚えている間にけりをつけておかないと面倒なことになります。

会社の解散・清算の手続きが終わり、そろそろこれに取り掛かろうかと思っていた時に、骨折やらなにやらでなかなか手につかなかったのですが、クライアントの3月決算の作業も一段落してようやくこれに取り掛かる事にしました。

まずは現状の登記の内容を確認するために法務局に行って全部事項証明書(いわゆる登記簿謄本)を取って見てみました。幸い自転車で数分の所にさいたま地方法務局があるので、すぐに取ることができます

また住宅ローンを完済した事を証明するための書類も銀行に頼んで送ってもらう必要があります。あとはネットでこの抵当権の登記の抹消の登記申請をするための書式と手続きについて調べました。

まずは2本のローンをまとめて一度に処理することができるかという事から分かりません。また所有者の私の住所が、住み始めてから今まで何度か変わっていて、登記簿の記載とは違ってしまっています。と言っても引っ越ししたわけではなく住居表示が変わっただけですが・・・。

登記は現住所で手続きしなければならないのに、登記簿には昔の住居表示で表示されています。で、銀行から必要書類が届いた所で財務局の相談窓口に電話して教えて貰うことになりました。この相談窓口もコロナ以降、対面の相談はなくなって、全て電話相談になっています。

まず2本のローンをまとめて一度に処理するというのはすぐにダメと言われ、それぞれのローンについて別々に登記申請書を作らなければならない、ということでした。ということは、登記費用も倍かかる、ということになります。

住所の問題は、まず区役所に行って、昔の住居表示が今の住居表示になった証明書を出してもらって、その住居表示の変更の登記申請書を作って、これを抵当権抹消の登記申請書と一緒に出すことが必要だ、ということでした。

区役所に行ってその証明書を出してもらったら、何と書類が3つも出てきました。
単にこれこれの住居表示が今ではこれこれの住居表示になっている、という証明書ではなく、

1. 与野市大字上落合〇〇番地を与野市上落合△△番地とする、という住居表示変更証明
2. 市の合併に伴い、与野市をさいたま市にするという証明書
3. 行政区を設置して、さいたま市上落合をさいたま市中央区上落合にするという行政区設置証明書

の3枚でした。

こうなると住所変更の登記の方も1枚で良いのか3枚必要なのか、ということになり、また電話相談で、登記申請書は1枚で証明書は3枚付ければいい、という確認をしました。

銀行から送られてきた書類には委任状が入っていて、私が住宅金融公庫改め独立行政法人住宅金融支援機構の委任を受けて登記の手続きをする、その私の住所氏名を書き加えよ、ということになっています。

またローン返済が終わった「抵当権解除証書」というのがあり、これこれのローンの返済が終わったということは書いてあるのですが、その抵当権を設定している不動産の表記の所は現状の登記簿の記載と合わないといけないので、自分で登記簿を見ながら書くように、と指示があります。

とは言え、登記簿の内容を全て書き写すわけにはいかないので、これについても電話相談で何をどう書けば良いか教えて貰います。

実は登記簿には不動産番号というのが付いていて、抵当権抹消の登記申請書などではこの13桁の番号を書けばほぼOKなので、これを使えるかと思ったら、この番号は登記関係でしか使うことができないので、抵当権解除証書では使うことができないので、登記簿からこれこれを書き移すように、と6個の項目を指定してもらいました。

2つのローンそれぞれに対する抵当権解除証書にこの項目を書き移し、必要書類を封筒に入れたり、登記申請書にホチキス止めをしたりして印鑑を押し、捨て印を押して、法務局に提出しました。8月2日に登記申請して、問題なければ8月18日に完了する予定です。

とりあえずこれが終わってヤレヤレです。

個人の戸籍関係の書類や会社の登記簿等の書類はこれまでも何度も見てきましたが、不動産関係の登記書類をちゃんと見るのは初めてのことなので、なかなか面白い経験ができました。

『孔子』-加地伸行 『孔子伝』-白川静 

7月 26th, 2022

この前書いた駒田さんの本が面白かったので、更に孔子の伝記の本を2冊読んでしまいました。
加地伸行さんの『孔子』と白川静さんの『孔子伝』です。

駒田さんの本が孔子の伝記というより、法家思想との関係・老壮思想との関係・エセ君子との関係というテーマ毎に書かれているので、全体を通じた孔子の生涯を読んでみたい、と思ったわけです。

加地さんの本は加地さんが大学を出る時に書いた卒業論文に対して、恩師の吉川幸次郎から与えられた3つの宿題の一つについて答案として書かれたものだということで、孔子が死についてどう考えていたが、ということがテーマになっています。

孔子の生涯を全て把握した上で、論語の言葉をどこで、どの時、どのような状況で、誰に対して語った言葉かを一つ一つ確認し、その上で孔子の生涯を描いています。若く血気盛んだった時の言葉と年老いてもう政治の第一線に立つことはないだろうと思ってからの言葉、自分の跡を託すつもりだった人々に次々に先立たれ、自らの生の終わりもすぐそこに見えるようになって語った言葉、それぞれに味わいがあります。

白川さんというのはあの『白川漢字学』の白川さんです。その白川さんの本は、その漢字の研究を通して中国の古代社会を明確に見すえ、その社会に生きた人物としての孔子の生涯を描いています。

この本、しょっぱなに次のような文章が出てきます。
『孔子の人格はその一生によって完結したものではない。それは死後も発展する。孔子像は次第に書き改められ、やがて聖人の像にふさわしい粉飾が加えられる。司馬遷がその仕上げ者であった。』
また『司馬遷は「史記」に「孔子世家」を書いている。孔子の最も古く、また詳しい伝記であり「史記」中の最大傑作と推奨してやまない人もあるが、この一篇は「史記」のうちで最も杜撰なもので、他の世家や列伝・年表などとも、年代記的なことや事実関係で一致しない所が非常に多い。』とも書いています。

孔子の生きた中国古代社会を明確に描くことにより、孔子の行動も語った言葉もまた味わいが違ってきます。周の封建制が終末に向かい、封建各国で下剋上で家臣が君主の権力を奪い取るいわゆる春秋の時代、国の枠をこえて集団で動いた盗(これは、『盗人』のことではなく、『政治亡命者』という意味のようです。)、あるいは群不逞の徒と呼ばれる集団、その例としての儒侠とか墨侠の集団の話(孔子軍団も墨子軍団もどちらもある意味大規模な任侠団体だった、ということ)。孔子の死後孔子の教えを継いだ荘子・孟子・荀子等の話。様々な流派の学者を斉の稷(ショク)門の近くに集め議論させた『稷下の学」の話。孔子の死後どのように論語ができたか、その過程で孔子の言葉がどのように広められ追加されたか、封建各国が互いに戦い合って国を大きくし合い、ついには秦による天下統一に至るいわゆる戦国の時代、韓非子の法家を指導原理とする秦帝国が亡びて前漢の武帝が儒教を国教としたことによって儒教の権威が確立されます。

孔子が周の周公を理想として立てたのに対して、墨家がその前に禹を立て、孟子がさらにその前に堯舜を立て、さらに道家がその前に黄帝を立てる、という『加上』の説の話も面白いものです。だとすると孔子にとって周公というのはいったい何だったんだろう、というのが今後論語を読むときの一つのテーマになります。

その後、辛亥革命による中華民国成立により儒教は過去の遺物のようなことになりますが、郭末若(カクマツジャク)により再評価され、それが中国共産党のいわゆる文革により自己批判をさせられ、その後いわゆる三人組の文革派が淘汰されて復活し、さらには天安門広場での共産党権による学生・市民の虐殺まで、この本はかなり幅広い時代を取り扱っています。

本文はさすがに学者の論文(純粋の論文ではないけれど、論文のような書き方です。)という形でなかなか歯ごたえがありますが、文庫本にはついている著者による『文庫本あとがき』(7ページ)、その後に付いている加地伸行さんによる『解説』(11頁)だけでも十分読む価値があります。

私は昔から悪い癖で、本を読み終わってから買うというのがあります。最近では本はもっぱら図書館で借りて読むことにして買う事は殆どないのですが、今回の一連の孔子関係の読書で結局4冊も買う事になってしまいました。と言っても全て文庫本の古本ですから大した費用ではありませんが。駒田さんの本、今回紹介した2冊は3つ共読み終わってから買う事になりました。加地さんの論語はまだ読み終わっていないで買った本です。いずれも再度再々度じっくり読んで楽しみたいと思います。

ということで、どちらもお勧めします。