Archive for the ‘本を読む楽しみ’ Category

『哺乳類誕生-乳の獲得と進化の謎』―酒井仙吉

月曜日, 2月 20th, 2023

植物の話が続いたので、今度は動物の哺乳類の話です。
著者は農学博士で専門は動物育種繁殖学、あるいは泌乳生理学、ホルモンによる調節機構ということで、哺乳動物の乳腺と泌乳のしくみについての部分がメインなんでしょうが、それだとあまりに専門的になってしまうからか、この本は3部構成で、第一部が進化と遺伝の話、第二部が動物が上陸してから哺乳類、人類にたどり着くまでの話。そして第三部で『進化の究極―乳腺と泌乳』で専門的な話を展開しています。

私も今まで哺乳類に関する本はいくつも読んだことがありますが、『哺乳に関する本』というのは初めて見たので面白そうだと思って借りてみました。もちろんこの本も稲垣さんの本からの芋づるの結果、たどり着いたものです。

第三部はさすがに専門家だけあって付いていくのが大変ですが、たとえば母乳は胃に入るといったん固まって、その結果赤ちゃんは満腹感を感じて眠る。そしてその固まりは少しずつ消化されるなんて話もあって面白い部分もあるのですが、むしろ第一部・第二部の方がわかりやすく楽しめました。

まず第一部、進化と遺伝の話ですが、ここで私は今までまるっきり思い違いをしていたことに気がつきました。
『進化』というのは遺伝子が突然変異してその変異が広まることによって起こるわけですが、この『突然変異』という言葉から何となく、滅多に起きない変化がある日どこかで突然起きて、それによって生物の生き様が変わってしまう、という位のイメージでした。

しかし有性生殖、というのは、メスとオスが減数分裂によって遺伝子を半分にし、その半分になった精子と卵子が接合して受精卵になるプロセスです。たとえばヒトでは遺伝子が23対46本の染色体にまとまっていて、それぞれの対は母親の卵子から来ているものと、父親の精子から来ているものが23対の何番目かという順番ごとに組み合わさったもので、減数分裂というのはそのそれぞれ何番目の対が倍になって4本の染色体になり、そこから4つに分かれて1本の染色体になり、計23本の染色体を持つ精子、23本の染色体を持つ卵子が一緒になって、23対46本の染色体の受精卵になるということです。

ここで減数分裂の際、23対の染色体のうち母親由来の方を選ぶのか、父親由来の方を選ぶかはどちらもありということです。だとすると23対の染色体から23本の染色体を選ぶ組み合わせは2の23乗、すなわち8百万通りの組合せということになります。精子の方の組合せが8百万通り、卵子の方の組合せが8百万通りですから、受精卵の方は8百万×8百万=64兆の組合わせということになります。

今地上の人類の総数が70億人とか80億人ということになっていますので、1人の父親・1人の母親から生まれる受精卵の染色体の組合せの数が64兆ということは、人類の数の1万倍ということになります。何ともビックリするような話です。もちろんこれは理論的に可能な組み合わせの数、ということで実際に64兆の受精卵ができる、という話ではありませんが。

このような話、このような数字を具体的に知ると『突然変異』というもののイメージもまるで違ってきます。即ちそれは、いつでもどこでもいたる所で起こっている変異だけれど、それがいつどこでどのような変異が起こるかは分からないという事です。

この精子・卵子の染色体の8百万通りの組合せ、受精卵の64兆通りの組合わせというのはごく正常な減数分裂と接合の結果ですから、これにさらに様々なエラー、組み替え、突然変異が加わるとさらにとんでもないことになります。

DNAというのは一般にタンパク質を作るための設計図だと説明されていますが、実はそれだけじゃなく、その設計図をいつコピーに回してタンパク質を作るかというコントロールの部分もあって、どの設計図をいつタンパク質製造に使うかによって、その生物の生き様が変わってくるということのようです。

染色体が23対あるという事は、それぞれの対の一方がちゃんと機能するのであればもう一方は突然変異で機能しなくなっていたとしても、そっちの方の設計図を使わないことにすれば生きていくのに問題ない。そのため使わない染色体の方に機能しない突然変異が次々に積み重なっても大丈夫だ。そしてある時今まで使わなかった方の設計図を使うような変異が生じた時、今までと違った生物が生まれるという話です。

さらに、遺伝子は今まで全ゲノム重複という、一度に全体が2倍になる、という変異を2回にわたって経験しており、この倍化によって付け加わった余分な遺伝子が様々に変異して様々な機能を獲得する、という話もあります。

何とも壮大な話で、それが常時いたる所で起こっているというのは、何とも呆れ果てる話です。

第二部の方は、魚類が上陸して両生類、そして爬虫類・恐竜・鳥類・哺乳類に進化していった筋書きがまとまっています。

たとえば魚類はメスが水中に卵を産んで、そこにオスが精子をかけて受精させる。両生類も基本的にそれと同じだったので水を離れることができなかった。爬虫類になると体内受精になったので、受精した後で卵に殻をかぶせて産むことにより陸上で卵を産むことができるようになった。鳥類ではさらに卵からかえったヒナに親が餌を与えることで子育てが始まった。ここまではすべて子供は生まれた時から親と同じ餌を食べていたが、哺乳類になると乳を与えることにより生まれたばかりの子が餌をみつけて食べる必要がなくなった、なんて話が出てきます。

精子というのは受精のためのDNAと卵子にたどりつくために必要最小限のエネルギーしか持っていないので、射精した後はあまり長くは生きられないと思っていましたが、それはどうも哺乳類だけの話のようで、鳥類では卵管に精子に栄養を供給する機構があって、そこまでたどり着いた精子は2週間程度生きていける。爬虫類では精子はメスの体内で1~数年生き続けられる、なんて話もあります。

とまれ生き物というのは、何ともはやいろんな仕組みで生きているものだなと思います。
この本はそのような面白い話が満載です。

このあたりの話に興味のある人にはお勧めです。

『イネという不思議な植物』―稲垣栄洋

木曜日, 2月 2nd, 2023

稲垣さんのほん、3冊目はこの本です。
この本はイネとイネ科の植物を中心にいろんな話題を紹介しています。

まずはモチ米とウルチ米の違いですが、モチ米はウルチ米の一つの遺伝子が突然変異を起こして誕生したもので、その遺伝子は劣性遺伝子なので放っておくとすぐにウルチ米になってしまうのですが、人類が丁寧にその劣性遺伝子のホモの種子を大切に保存してきたものだ、という話です。

モチ米とウルチ米の違いは、種子のうちの胚乳にあたる部分のデンプンの組織がちょっとだけ違うということで、ウルチ米にはアミロースとアミロペクチンという2種類のデンプンを含んでいるのに対し、モチ米はアミロペクチンのみだということ、この違いによりモチ米のモチモチ感が生じているということ、そのため、ウルチ米はこの2種類を含んでいるのでその割合をうまく塩梅すれば、もちもちのお米もさらっとしたお米も作り分けることができる、というわけです。

ここでモチ米のめしべにウルチ米の花粉を受精させたらどうなるのかという問題になります。

イネの種子は『胚芽』という受精卵の部分と、『胚乳』という胚芽が芽を出し発育するための栄養を蓄えた部分から成ります。私達が食べるお米はほとんどが胚乳です。胚乳がめしべと同じ親の細胞からできていれば、モチ米からウルチ米かは親と同じになります。また胚乳が胚芽と同じ細胞からできていれば、子と同じになります。

ところが実はそのどちらも違っている、というのが正解のようです。

胚芽は受精卵、卵子と精子が一緒になったものです。
胚乳の方は卵子ができる過程で減数分解した細胞が、さらに何回か(イネの場合は3回)分裂してできる8個の核のうち1個は卵子になり、残りのうち2つが合体した中心体というものと、オシベから出てくる精子のうち一方が卵子と一緒になり受精卵となり、もう一つがこの中心体と一緒になり3倍体になったものが胚乳になるということで、このように胚芽の受精と胚乳の受精があるということで、『重複受精』と呼ばれるということです。

胚芽の方は減数分裂した結果の卵子と減数分裂した精子が一緒になるので2倍体ですが、胚乳の方は中心体の方の減数分裂した結果2つ分の中心体と精子の方の1つ分が一緒になるので3倍体になる。その結果ウルチ米とモチ米が受精したものが餅のようになるかどうかは普通の遺伝の計算とは違ってくるようです。

通常胚乳が親と同じか子と同じかなんてことは考えもしないのですが、稲の場合はその胚乳を食べることになるので、それが大きな問題となるようです。

ということで、モチ米にウルチ米の花粉が付くと、できる米はウルチ米になってしまうという事です。

この重複受精、この本では『教科書で習った』と書いてあるのですが、こんな話聞いたことがあるかなと思って考えてみたら、私は高校の時大学受験は理科で受ける予定だったので、物理と化学を選択することにしたこと、生物の授業はあったけれど担当の先生が教科書無視で、その当時最先端だった分子生物学の話ばかり熱く語っていたことなど思い出しました。その結果、教科書に何が書いてあったか、ほとんど記憶がありません。お陰で今更ながらいろんな話をびっくりして楽しめています。
それにしてもこの胚乳については植物の種類によって様々のバリエーションがあって、植物ってのは何ともとんでもない生き物だなと思います。

イネ科の植物は動物に食べられないように、葉を消化しづらく、消化しても栄養が少ないようになっています。しかしながら野原の草のほとんどはイネ科の植物で、これを食べるため、牛の類は胃をいくつも用意し反芻して消化するようになっており、馬の類は盲腸を発達させて盲腸の中の微生物を使ってセルロース分解するようになっている、ということです。

また米が皮が剥きやすいので精米して粒のまま食べる。コムギは皮が剥きにくいので粉にしてから皮を取り除いて食べる。オオムギは固くて粉にすることもできないので水に漬けて発芽させてビールにする。ただしオオムギの変種のハダカムギは皮が剝きやすいので粒のまま食べる、我々が麦飯として食べているのはこれだ、なんて話もあります。

イネは雑草の一種として何が何でも種子を作るために、裸子植物から被子植物になる過程で獲得した虫媒花というやり方をやめ、改めて風媒花に進化したとか、遺伝上宜しくないので排除してきた自家受粉も平気で活用しているとかの話もあります。

この本ではイネや米を中心とする文化や歴史の話もふんだんに盛り込まれており、たとえば一人1食分の米の量が1合であり、1日3食で3合、これを作るのに必要な田んぼの面積が1坪、1年分1000合分の米を作る田んぼの面積が1反で、その米の量が一石、だから100万石というのは100万人の1年分の米がとれるということだ、とか、一石の米の値段として一両ときめたとか、体積も面積も貨幣もすべて米が基準になっているなんて話も面白いです。

15世紀のヨーロッパでは撒いたコムギの種子の3~5倍しか収穫できなかったけれど、15世紀の日本では撒いた米の20~30倍の収量が得られた。そのためヨーロッパでは小麦の不足分を家畜あるいは狩猟による肉食で賄わなければならなかったとか、イネやムギが作物となる以前はイネ科の草をまず家畜に食べさせ、それを人間が食べるため畜産業が最初に始まり、その後稲や麦が栽培できるようになって農業が始まったなど、縦横無尽に話題が広がります。

良くもまあこれだけの話題が次から次に出てくるものだなあと感心してしまいます。
お勧めします。

『雑草はなぜそこに生えているのか』ー稲垣栄洋

火曜日, 1月 31st, 2023

稲垣さんのちくまプライマリー新書の2冊目はこの雑草の本です。
この本を読んで、なるほど雑草こそ植物の進化の頂点にある存在だな、と納得しました。

著者の稲垣さんは専攻を『雑草生態学』というくらいあって『へー』と驚く話が満載です。しかもこの雑草というのがとんでもない融通無碍の生物で、普通の植物の常識を平気で覆しているという話がいくつも紹介されています。

まず雑草は大量の種子をバラ撒くことが特徴で、イギリスのコムギ畑の調査で、1平方メートルあたりの土の中に雑草の種子が75,000粒あったということで、この種子が一斉に開花するのであれば駆除するのも簡単なのですが、これがてんでんばらばらに好き勝手のタイミングで開花するので、『取っても取っても生えてくる』ということになります。

またゴルフ場に生える『スズメノカタビラ』という雑草では、ゴルフ場の芝の刈り揃える高さに応じ、その高さよりちょっと低い高さで穂を出す、という話があります。それぞれの場所で種子を取り、それを育ててみると、まわりに芝がないにも関わらず、あった芝の高さよりちょっと低い所まで育つようになっている。即ちそのように遺伝的に変異しているということです。

かと思えば、同じ植物が環境に応じて高さ数センチになったり数メートルになったり自由自在に生育する、それどころか開花時期も春のはずのものが秋に咲いたり、越年生の草が平気で一年生の草になったりしているようです。

『雑草とは何か』という定義の所で
不良環境下でも種子を残し、好適環境下では種子を多産する
というのがあるそうで、また
雑草は未だにその価値を見出されていない植物である。
というのも、イネやムギ等も、もともと雑草だったものが人の手で選択・改良されていったものだという事から良く分かります。

よく『雑草は踏まれても踏まれても立ち上がる』なんて言葉が言われたりしますが、これは間違いで、実際は雑草はそんな無駄なことはしない。立ち上がるなんて余計なことはしないで『雑草は踏まれても踏まれても必ず花を咲かせ、種子を残す』ということだという事で、納得です。

最後に著者自身による略歴が付いています。専攻は雑草生態学となっているけれど、大学を卒業するときに雑草学の研究室ができたので、せっかく決まっていた留学の話をドタキャンして大学院に進学し、大学院を出てから農林水産省・静岡県農林技術研究所等で働いて、雑草そのものの研究はしてこなかったけれど、それがすべて雑草研究に役立っているというのは面白い話です。

中高生向きに書かれていて、読みやすい本です。
お勧めします。

『植物はなぜ動かないのか』-稲垣 栄洋

火曜日, 12月 27th, 2022

この本は図書館のおすすめのコーナーにあったもので、テーマは『人間と植物』というようなものでした。

ちくまプライマリー新書の中の一冊で、主として中高生を対象として書いてあるので読みやすい本です。

名前の最初の「稲」に関係があるのか、著者は農学博士で、専門は雑草生態学ということです。とはいえ植物・動物全般について良く知っていて、わかりやすく説明してくれています。

植物は動かないということで、その前提で様々な進化をし、動物は動くという事で様々な進化をし、動物は植物をエサとしそれに合わせて進化し、植物は動物に食べられるという事を前提にそれを妨害したり利用したりする形で進化したという物語が面白く語られています。

地球が生まれて46億年、生命が生まれて38億年ですが、その後4億7千年前に植物が上陸し、魚類が上陸してその後両生類・爬虫類・恐竜・鳥類・哺乳類に進化していったのが3億6千年前、その植物・動物の上陸後お互いに影響を与えながら進化し、植物はコケ類からシダ類・裸子植物・被子植物、そして草に至り、その草の代表がイネおよびイネ科の植物だ、というような話です。

今まで生物の歴史とか動物の歴史については何度も読んでいますが、『上陸』というきっかけで『上陸後』という視点で見たことがなかったので面白かったです。

この人は多くの本を書いている人で、同じちくまプライマリー新書の中でも『雑草はなぜそこに生えているのか』『イネという不思議な植物』という本も書いています。『イネという不思議な植物』という本ではいわゆる穀物といわれる米・麦・トウモロコシがすべてイネ科の植物で、それ以来でもササ・竹・ヤシなどもイネ科の植物なんだ、馬や牛が野原で食べている草もほとんどがイネ科の植物なんだ、なんて話も書いてありました。

またファーブル昆虫記というのは有名だけれど、実はファーブル植物記というのもあって面白いというようなことも知りました。

イモヅル式読書はいつまで行っても終わりそうもありません。

『エジプトの空の下』飯山陽

水曜日, 10月 26th, 2022

飯山さんの本、5冊目が届いたので早速借りて読みました。予想にたがわず素晴らしい本でした。

これまで読んだ4冊はどちらかというと今、世界各国で起きていることの報告やイスラム教理論の紹介だったので、著者の個人的な事々は極力切り捨てて書いたものを、この本では実体験のレポートのエッセイということで、思いきり個人的な体験や感想が盛り込まれています。

著者は2011年から4年間ダンナさんの転勤の都合でエジプトのカイロに行き、一人娘が1歳から5歳になるまでを一緒にカイロ暮らしをしています。時あたかもアラブの春で、エジプトでも革命が起きムバラク政権が倒され、その後しばらくして選挙でイスラム同胞団のモルシが大統領になって、イスラム教による政治を次々に実行し、こんなはずじゃなかったというエジプト人の不満から1年後に再革命でモルシ政権が倒され、軍政が敷かれ同胞団が倒されたというところを現地エジプトで直接体験しています。

飯山さんひとりだったら始終好奇の目・セクハラの目で見られる所、娘を露払いに立てると、周り中の目が娘に集中し、我勝ちに可愛がろうとする、娘の方はちょうど言葉を覚える時にアラビア語エジプト方言(エジプト語)と英語をシャワーのように浴びて一気にトリリンガルになってしまい、著者がさんざん苦労したエジプト語特有の特殊な発音もなんなくこなし著者を悔しがらせるとか、エジプト人の運転手の友達になり一人でお泊りに行き、一杯お土産を貰って帰ってくるとか、楽しい話もたっぷり入っています。

またエジプトで比較的新鮮な野菜と魚をどうやって手にいれるか、基本的にキロ単位でしか買えない食材をどうやって保存したり分けっこしたりするとか、駐在日本人達でソフトボール大会を開き、著者の入っていたメディア関係者チームが何年かかっても一度も勝てなかったのが、著者がエジプトを去ったらその年に念願の初勝利が実現し『ファラオの呪いだ』なんて話が出ています。

一方マスコミの仕事で、武装闘争派のイスラム教の有名な指導者のテレビインタビューを行い『お前は全身が恥部だ』、『お前はカメラマンの後ろに隠れて下を向いていろ、直接私を見てはいけない』なんて言われたりしています。

アパートの目の前の木が倒れ、それを片付けるためにチェーンソーで切ったら、別の人がその下敷きになって死んだとか、道を歩いていてミシミシ音がするので走って逃げたら、今までいた所に3階のベランダが落ちてきたとか、日本では滅多にないような体験もいくつもあります。

イスラム教では聖戦(ジハード)で死んだ人だけでなく災害で死んだ人も最後の審判を待たずに即時に天国に行けるということで、災害による死というのはそれ程深刻に受け取られないというのも初めて知りました。

著者は滅多に入れないスラムにも入って住人と仲良くなり、スラムの暮らしについても報告してくれます。人口の20%がスラム暮らしで、そこから抜け出す方法がない、というのも大変なことですね。

著者のエジプト滞在は第二革命でモルシ政権が倒れる所までですが、日本では一般に『軍事クーデター』という事になっているものが、実は国民の反政府運動で政権を倒したもので、最後に軍がその革命を完成させた、という事のようです。その意味で本当に国民による革命だったようです。

我々には『イスラム過激派のテロ』というのはヨーロッパ・アメリカで多く起きているというような印象がありますが、実はそれを遥かに上回る頻度でイスラム過激派と世俗的イスラム政府との間で、アラブ・イスラム諸国で起きているんだという事も、言われてみればすぐに納得なんですが、言われるまで気が付かないということも良く分かりました。

とまれ、こんな国に1歳児の娘とダンナさんと一緒に乗り込み、何度も生命の危険にさらされ、またケチョンケチョンに貶められるという経験をした人ですから、日本でノホホンとして暮らしていた人達(ひろゆき氏や日本のイスラム教学者の先生方)が逆立ちしたって敵うわけがありません。

ということで、今まで読んだ飯山さんの本の中で一番面白い本でした。

お勧めします。

『武玉川 とくとく清水』田辺聖子

水曜日, 10月 26th, 2022

開架式の図書館の良い所は思いもかけない本が目に飛び込んでくることで、この本はオクさんのために軽い読み物を借りていってやろうと見ていてたまたま見つけたものです。

武玉川(ムタマガワ)というのは江戸時代、川柳の柳多留(ヤナギダル)が出版される15年ほど前に、俳諧の連句の中から、前句と切り離してその句だけで味があるものを取り出した句集です。

連句というのは五七五の発句から始まって、五七五には七七の句を、七七には五七五の句を付けていき、20句とか100句とかいろいろな数の句を並べた所で、最後のあげ句に至るという言葉遊びですが、その中から面白い句を選び出しているため、五七五の句も七七の句も入っています。

その中からさらに面白そうな句を取り出し、著者の田辺聖子がコメントをつけるというか解説をしているものです。もともとの武玉川は数百の句がずらっと並んでいるだけのものなので、一つ一つじっくり読んでいくならそれも面白いんでしょうが、この田辺聖子の本はそれをされに選りすぐり、好き勝手な感想を述べているもので、読むほうも好き勝手に面白がることができます。

川柳というのはこの俳諧の連句の練習のため、選者が七七の句をお題として出し、それに付ける五七五の句を募集し、その中から面白いものを集めたものです。

武玉川は連句の中から句を抜き取っているので、それぞれの句にはそれを付ける前句があります。もともとはその前句とそれに付ける付け句の付け方の面白さを楽しむものだったのが、付け方より付けた結果の、付け句自体の面白さを楽しむということで、武玉川の句集ができたようです。そのため本来は付け句集としてそれぞれ前句も明らかにして、この前句にこの付け句、とする所、思い切って前句を端折ってしまい、付け句だけを集めて出版したということです。

五七五の世界はそれなりに面白いのですが、さらに短い七七だけでこんな句もありか、という面白さがあります。七七の句はなかなか目にしないので楽しめました。

川柳というのはそれなりにかっしりしているのに対し、この武玉川の方は七七の句も五七五の句もどちらもゆったりと余裕のある面白さでした。

新書で気軽に読めるのでお勧めです。

『イスラームの論理と倫理』中田考・飯山陽

木曜日, 10月 20th, 2022

前回の『イスラム教の論理』に続いて飯山さんの本をさらに3冊読みました。
2冊目は『イスラム2.0』という本、次に『イスラム教再考』、4冊目がこの『イスラームの論理と倫理』という本で、この本だけ飯山さんと中田さんの共著という形になっています。

出版の順番は4番目に読んだ『イスラームの論理と倫理』が3番目で、その後『イスラム教再考』が出版されています。

『イスラム2.0』というのは『イスラム教の論理』でも書いてあった、インターネットの世界になって誰でもコーランやハディース等の原典に直接アクセスできるようになり、またいろんなイスラム法学者の発言にも簡単にアクセスでき、信者どうしもSNSで交流することができるようになった状況をコンピュータのOSになぞらえて、『それ以前のバージョン1.0がバージョン2.0にアップグレードされたんだ』と表現し、その結果世界各地のイスラーム教国家がどのように変化しているのかという報告です。

これに引き続く『イスラームの論理と倫理』では飯山さんと日本のイスラム学界の権威とされる中田考さんの対話という形になっています。

最後の『イスラム教再考』ではこれに引き続き飯山さんが日本のイスラム学界の人々を次々にヤリ玉に上げていきます。イスラム学界の人でなくても、池上彰さんや『現代の知の巨人』の前ライフネット生命の社長・会長の出口さんまで何度も登場してヤリ玉に上がっているのもご愛敬です。

で、この『イスラームの論理と倫理』ですが、本の扉には『妥協を排した書簡による対話』となっていますが、実際のところまるで対話になっていません。

飯山さんがそれぞれのテーマについて真面目に考察し、日本として日本人としてどのように考えたら良いのか検討するのに対し、中田さんは業界の権威であるという立場から飯山さんを徹底的に見下すように自分勝手な議論を展開し、殆ど誰も知らないようなことを書き散らしていかに自分が何でも知っているかみせびらかし、飯山さんのことはあくまで『飯山さん』と言って素人扱いしています。

飯山さんはさすがに中田さんを常に『中田先生』と言ってはいますが、その代わり最後の書簡では『「往復書簡」における中田先生の文章は晦渋さと曖昧さに満ち、冗長で要を得ません』と明確に言ってのけています。念押しに『この中田さんの文章を分かったふりをする必要はありません。・・・曖昧な文章はどこまでいっても曖昧であり、それを分かることなどできないのです。』とまで言っています。

中田さんの方は最後の書簡でもその前の続きのコロナウィルスに関する話を延々と繰り返し、何とかしてそれを反日・反米に結び付けようとしています。

ということで、他に例を見ないような『対話』ですが、中田さんがいかに議論をずらし、捻じ曲げて自分を偉く見せようとしているか、イスラム世界の話をいかに反日・反米につなげるか見てみようと思う人には楽しめると思います。

飯山さんはこの本と、続く『イスラム教再考』でイスラム学界のほとんどの人をヤリ玉にあげるというとんでもない喧嘩をしている人ですから、いろんな人にからんで人気を博しているひろゆき氏がちょっとちょっかいを出したくらいじゃ相手にならないのは当たり前ですね。

あくまで論理的な飯山さんの議論と、山ほど知識はあるものの論理的な思考ができず、その知識をひけらかしながら駄弁を弄し、情緒的に反日・反米をたくらむ中田さんの対比を楽しみたい人にお勧めします。

これで飯山さんの本を4冊読み、残りは2冊。
アラブの春の下でエジプトのカイロで暮らした体験記の『エジプトの空の下』と最新刊の『中東問題再考』です。最新刊の方は順番が回ってくるのに半年以上かかりそうな塩梅ですが、『エジプトの空の下』の方はもうすぐ借りられると思います。楽しみです。

『イスラム教の論理』飯山陽

水曜日, 10月 12th, 2022

この本の著者の飯山陽(イイヤマアカリ)さんは、ツイッターの投稿や虎ノ門ニュースでの発言を見ていてなかなか面白いなと思っていたのですが、あの2チャンネルを作ったひろゆき氏がネット上でこの飯山さんにいちゃもんをつけ話題になっていたので、この際飯山さんの書いた本を読んでみました。

図書館で在庫のあった6冊に予約を入れ、すぐに借りられた3冊のうち最も早く出版されたのがこの本で、まずはこの本から読んでみました。

読んですぐ『こんなことを書いてしまったのか』とびっくりしました。多分イスラム教を真面目に勉強したらすぐに分かることだけれど、従来、絶対に言ってはいけないとされていたことを平然とあからさまに書いてしまった、ということです。

案の定、飯山さんはイスラム教学者や中東問題の専門家たちからはコテンパンに非難・攻撃されたようです。

専門家たちに総スカンにされて平然と反論し続けてきた人ですから、聞きかじりの知識でいちゃもんをつけてきたひろゆき氏がかなうわけがありません。簡単に反撃され、目隠しにひろゆき氏はさっさと沖縄にわたって反基地運動の座り込みと称している場所に行ってネットを炎上させ、飯山さんに負けたことから見事に逃げおおせています。

で、飯山さんの言っているのは何かというと、イスラム教の前提となるのは『人はすべて神の奴隷であり、すべて神の命じるままに行動しろ』ということで、この神の命令には『人は正否の判断をすることができないので、無条件で従うのみだ』ということです。これまで一般のイスラム教徒にははっきりと示されなかったことがインターネットの発展により、イスラム教徒がコーランやその他の情報に直接アクセスできるようになり、またアラビア語で書かれ多国語に翻訳することが禁止されているコーランを、ネット上で好きなように自国語に翻訳して読むことができ、SNS等で自分の近くにいるイスラム法学者だけでなく他の人の意見も見聞きすることができるようになり、『イスラム国』などはその状況をフルに活用して様々な情報を動画で世界中にバラ撒いているということです。

この本の題名の『イスラム教の論理』に使われている『論理』という言葉も重要です。イスラム教というのは非常に論理的な宗教で、根拠となるのはコーランとムハンマド(マホメット)の言行録であるハディースのみで、あとはすべてこれから論理的に引き出してくるものです。キリスト教のカトリックでは法皇という神の代理人がいて、判断に迷ったときは正しく判断してくれる、ということになっているんですが、イスラム教ではムハンマドが最後の預言者だということになってますから、何が正しくて何が正しくないか判定してくれる人はもはやいないということです。

もちろん『イスラム国』がやっている戦争や自爆テロや女性虐待や異教徒の虐殺など一般的にとんでもないと思われていることも、論理的には正しい、ということになります。すなわち上記の前提となる考え方から論理的に引き出されてくるものだ、ということです。

これは確かに論理的に正しいのですが、感覚的に受け入れられないことを論理的に認めることができる人があまり多くない、ということかもしれません、論理の前提となる考え方が違うだけなんですが、論理だけで考える、というのはなかなか難しいのかもしれません。

例えばこの本には『働く女性は同僚男性に5口の母乳を飲ませよ』という話があります。職場でセクハラを防ぐために擬制的に自分が同僚男性の乳母であるかのようにしてしまうことにより、コーランに従ってセクハラができないようにしてしまう、という話です。こんなところまで論理的に説明してしまうのか、とあきれてしまいます。キリスト教にも『針の上で天使は何人踊れるか』という話があります。こちらは単なる絵空事の議論ですが、イスラム教のほうは現実的な議論です。

この飯山さんの本を読みながら思い出したのが、キリスト教のプロテスタントの宗教改革と新教・旧教の宗教戦争です。

西洋のルネサンスでグーテンベルグの活版印刷の技術が普及・発展し、まず大量に出版されたのが聖書で、それまで教会に独占されていて教会で神父の説教の時に断片的に読み聞かされるだけだった聖書が、ちょっとした金持ちなら自分で買って自宅で自由に読むことができるようになったということ、それによって信者が直接神と結びつくことが可能になったこと、また宗教戦争の時はアジビラを印刷して大量にバラ撒くことが可能になり、もちろんそれほど識字率は高くなかったとしても、居酒屋で字の読める者がそのアジビラを読み上げて他の人が聞くという形で情報が急速に拡散していくことが可能になったという状況、これらは上記の、ネットの発達でイスラム教の原理主義が急速に発展した事と何やら良く似ていると思います。

キリスト教の新教・旧教の戦争ではヨーロッパ中でお互いに殺し合いが何百年か続き、お互いにくたびれ果てて殺し合いは少なくなったようですが、今回のイスラム教とそれ以外の宗教あるいは無宗教との戦いも何百年か殺し合いが続くんでしょうか。やっかいな話ですね。

ということで、イスラム教に関するきちんとした説明です。とはいえ、とことん論理的な思考、というのはなかなか抵抗があるかもしれませんね。

お薦めします。

「古代ローマ人の24時間」―アルベルト・アンジェラ

金曜日, 9月 16th, 2022

以前紹介した「古代中国の日常生活(原題は古代中国の24時間)」の続きで、図書館で検索したら古代中国の他にエジプトとローマがヒットしました。

エジプトの「古代エジプト人の24時間」は中国の「古代中国の日常生活」と同じ24時間シリーズの中の1冊で、時代は3500年前ということなので、年代的にはかなりさかのぼりますが、「古代中国の日常生活」と同様、1日24時間の1時間ごとに別々の人物を登場させ、その人が何を考え・何を悩みながらどんな仕事をしているか、紹介しています。「古代中国の日常生活」と違って、このエジプト編では前の方の話で登場した人物が後の方で主人公として登場したり、あるいは前の方の話で主人公だった人物が後の方で登場人物となったりしています。

同じ古代といってもかなり年代が違っているはずなのに、墓盗人が登場したり、墓作りが登場したり、また王妃やその使用人が登場したりして、エジプトと中国は良く似ています。

これに対してこのローマの方の話はこの24時間シリーズの本ではなく、「古代ローマの一日―その日常生活、謎、魅力」という原題の翻訳のようで、とはいえ時代設定が西暦115年ということで、24時間シリーズの中国の分とほぼ同じです。

本の内容は24時間シリーズと同様、ある1日の朝から夜までの1日を描写しているのですが、24時間シリーズでは1時間ごとに様々な仕事・立場の別々の人を主人公として、その人が何を考え・何を悩みながら仕事をしているかを書いているのですが、この「ローマ人、、、」の方はむしろローマという都市の様々な場所に注目し、その場所でその時何が行われているかを描写しています。

著者はタイムトラベラーとなって西暦115年のローマに行き、そこで丸1日街のいろんな所に行き、いろんな生活を見物します。

夜明け前ローマの街中を歩き、防火隊の夜回りを見たあと、次に金持ちの大邸宅を見て奴隷たちが働き始めるのを見、主人達家族が朝の身支度をするのを見物します。ローマ式の服の着方や女性のヘアスタイルなども説明してくれます。朝食のあと、朝の表敬訪問で多くの人々が邸宅を訪ねてくる様子を見せてくれます。ここで著者は急に上空に舞い上がり、空の上から明けていくローマを見渡します。雲の中から七つの丘が浮かび上がり、次第に光が届き始め、大きな建物が現れ、街が見えてきます。ローマという街の地理的成り立ちが説明され、その後また街に降り立ち街歩きを始めます。著者は多くのテレビ番組の制作をしていた人のようで、視点の取り方がいかにもテレビのドキュメントのようです。

大邸宅のあと、著者は理髪店を通り過ぎて集合住宅に移ります。一階は商店、二階は邸宅を構えるほどではないとしても金持ちが住んでいますが、三階以上は違法建築のような好き勝手に建て増し増築を繰り返し、また貸しにまた貸しを繰り返した、文字通りスラムになっていて、一階には汚物入れの桶が置いてあり、上の階から毎朝トイレ用の桶をそこまで運んで中身を捨てるようになっているにも関わらず、そこまで運ぶのが面倒くさくなると上の階の窓から中身を通りにブチまけるという、花の都パリと同じようなことをやっていたようです。

次に著者は市場に行き、家畜市場から奴隷市場、路上の学校・神殿・書店・裁判所・元老院、コロッセウムでの公開処刑・剣闘士の対決などなどを見た後、夜になって大邸宅の宴会に紛れ込みます。ここで皆で寝そべって飲食をするローマ流の宴会のやり方の説明があります。最後は真夜中、人通りのなくなった通りを歩きながら、人々がどこでどのように寝ているかという所で1日が終わります。公衆トイレ・公衆浴場・商店・飲食店(バール)にも立ち寄り、人々が何をしているのか説明があります。

商店の所ではローマでは両手の指で4桁の数字をすべて表すことができたということで、図入りの説明があります。いくら何でもそんな事無理だろうと思っていたのですが、図を見て納得です。左手の中指・薬指・小指で1の桁の9個の数字を表し、親指と人差し指で十の桁の9個の数字を表し、右手の中指・薬指・小指で百の桁の9個の数字を表し、親指と人差し指で千の桁の9個の数字を表す。このようにして両手の10本の指で4桁9999までの数字を表すことができるというあんばいです。

公衆トイレの構造や用を足したあとの始末の仕方(ある意味、実質的に水洗トイレになっています)、公衆浴場の構造や入り方、コロセウムでの競技の様子など、さすがにテレビに携わる人ですから非常に具体的に説明してくれます。

前のエジプトや中国の24時間シリーズの本と違うのは、ローマはやはり世界的帝国で帝国の外や周辺の多くの国・地域から人や物を集めることによって成り立っている国で、道を歩く人も人種・民族、その他多種多様で、それがローマという大して広くもない都市に集中してごった返しているという姿です。

このような姿は塩野七海さんの「ローマ人の物語」や他のローマの解説書ではなかなかお目にかかれないものです。

それほど多くはないのですが、所々にいくつもの絵も付いていて、なかなか楽しめます。

文庫本で、本文だけで540頁とちょっと大部な本ですが、興味のある人にはお勧めです。

『孔子画伝』加地伸行

火曜日, 8月 16th, 2022

孔子が死に、司馬遷が史記を書いて孔子の伝記を記述し、それを元にその伝記の様々な場面を絵にするということが始まり、断片的な絵ではなく、孔子の生涯を通した絵による伝記、すなわち『絵伝』が作られるようになり、それが『聖蹟図』と呼ばれるようになったようです。種々様々な聖蹟図が作られたようですが、その一つに何延瑞(カテイズイ)という人の作ったものがその後マネされて流布したようです。絹の布にカラーで描かれたものですが、それを元に1500年代に薩摩の島津家久が日本の画家にカラーで描かせたものもあるようです。

これは現物は見つかっていないけれど、それの白黒写真を日本で出版した物が残っているようです。また、なくなったと思われた『何延瑞本』を元にした絹本が孔府で見つかったということです。

で、この本ではこのカラー版の何延瑞本と白黒の家久本の図像に加地さんが解説を加え、適宜その他の聖蹟図からの画像も加えています。

2ページ見開きでカラーの何延瑞本の画を写し、次の2ページで家久本の画とその他の画、そして加地さんの解説という4頁1単位の構成です。

この本は加地さんの『孔子』でも文庫版あとがきで、『この「孔子画伝」を本書と併せて読んで頂ければ幸いである。』と紹介しています。

画伝は基本的に史記の孔子伝によっていて、他に様々なものから題材を取っていて、ほとんどが今までの孔子関係の本で既に読んだものですが、初めて見るものに一つ、『丘陵の歌』というものがありました。流浪の果て、最後に魯国に帰る時に、孔子が生涯を顧みてこの歌を作ったという事ですが、孔子が作った歌というものは初めて見ました。

4字×16句(あるいは(4字+4字)×8句)といった形のもので、孔叢子(クゾウシ)という本に載っているもののようです。長年がんばってきたけれど、なかなかうまく行かなかったなあ、というようななかなか味わい深い歌です。

全体の構成は
 第1画 孔子の母親が尼山に向かって子供ができるよう祈る
 第2画 母親のところに麒麟がやってきて、生まれて来る子は王になる、と
     お告げを告げる
 第3画 誕生日には5人の神仙と2匹の龍が現れる

から始まって

 第35画 孔子の死後、弟子達は墓の近くで3年(実質2年)の喪に服し、子
      貢だけはその倍の6年(実質4年)の喪に服した。
 第36画 その後、戦国時代を経て秦が天下を統一し、始皇帝の死後、項羽と
      劉邦が秦を倒し、最終的に劉邦が勝って漢帝国をつくり、その初
      代皇帝高祖(劉邦)が旅の途中孔子の廟に立ち寄って羊・牛・豚
      を一頭ずつ捧げて盛大に祀った、
という場面で終わっています。

第2画、第3画はキリスト教の、マリアへの受胎告知・イエスの誕生日に東方から三人の博士がやって来て礼拝した、という話と何やら似た話ですね。

何延瑞本のカラーの絵と家久本と、基本的に同じ構図の絵なんですが、日本で日本の画家、等林が描いたというだけで、微妙に違っているのも見所です。この等林という画家がどのような人なのか、というも良くわかっていない人のようです。

私は基本的に絵(がたくさん入っている)本が好きで、国富論の訳を選ぶ時も挿し絵がたくさんあるものを選んだり、一遍上人の絵伝『一遍聖絵(イッペンヒジリエ)』を読んだり(見たり)しているんですが、この『孔子画伝』も面白く読めました。

絵がたくさん入っている本が好きな人にお勧めです。